容赦のない現実と自転車事故
そこには、猫が4匹いた。仔猫で母猫がいない、産まれたばかりのように小さい。
弱く、脆く、今にも消えてしまいそうに思えた。
でも、温かい。触れると、しっかり温もりがある。
伊藤さんにお願いして、アタシが行き着いた先は市立病院の近くにある公園のベンチだった。
そこには、淳くんがいた。それと、なぜか仔猫が4匹身を寄せ合い押しくら饅頭するように固まっている。
淳くんは、少し困ったように、仔猫たちを眺めていた。
伊藤さんが声を掛ける。
「雨野、その猫は?」
仔猫たちを眺めて考えごとをしていた淳くんは、アタシたちが傍に居ることに全く気がついていなかった。
「な、なんだ!? なんで伊藤と、萌ちゃんがここにいるんだ?」
「白石さんに頼まれたんだよ。何か、話すことがあるんじゃない?」
そう言って、伊藤さんは仔猫に手を差し伸べている。
言わなきゃ。アタシには話さないといけないことがあった。
その話題は、アタシの両親からは賛同を得られなかった。
同じ話をしたら、淳くんはどんな反応をするのだろう。聞きたかった。だから、追いかけてきた。
「淳くん、あのね」
話そうとした時だった。
作業服を着た人たちがこちらに歩いて来て、声をかけてきた。
「ご協力、ありがとうございます」
言うやいなや作業服の人たちは、仔猫を手慣れた動作でゲージに入れていく。一匹ずつ。丁寧かつ素早く。
その様子を、ポカンと眺めていた。淳くんは慌てていた。
「ちょ、ちょっと待ってください。その、この子たちを、どうするんですか」
なんでそんなこと言ったのかなんて、淳自身もわかっていないようだった。ただ、聞かずにはいられなかったようだ。
「どうもしないよ。保護するだけ。市民から連絡を受けて、捨猫がここにいると聞いて来たんだ」
作業員の1人がそう答えた。
保護、ね。
その言葉には、違和感があった。なんとなくだけれど。
どうしてだろう。なぜか、命が助かるとは思えなかった。
「つれていかないでください」
その言葉に、その場にいる作業員たちが驚いている。
「君は? この子たちを育てられるの?」
ニコニコしながら問いかけてくる。その目は一切笑ってなどいない。
「おい、雨野! 何いってんだ。無理だろ」
「いや、でもさ、あの人と約束したから。なんとかしなきゃ」
なんとかって、なに。どうにかできるの?
そんなに現実は甘くない。誰にだって、わかりそうなことだった。
1匹じゃない。仔猫を、それも4匹をたった1人で。
そもそも、淳くんは猫を飼ったことがあるのだろうか。住んでるアパートで、猫の飼育許可は降りているのだろうか。それから、
淳くん、あの人って、誰のこと?
結局、仔猫たちは連れていかれてしまった。
僕らには、どうにもできなかった。
ガサガサ
ベンチ近くの草むらから何かが動く音がしている。
仔猫たちを乗せた車は走り去って、道路に出たあとだった。
そこに、1匹の猫が現れた。
物悲しそうに、仔猫たちがいた場所を眺めている。ゆっくりと近づいてきて、長い咆哮のような鳴き声を響かせた。
ニャーーーーー‥‥‥‥。
大きな白と黒のぶちネコは、それっきり姿を見せなかった。
「それって、エンジェルさんです! きっと」
仔猫たちが連れて行かれたこと、母猫らしき大きな白と黒のぶちネコが現れたことを伝えたら、その人からはそう言われた。
エンジェルって、ピーナツチョコのお菓子のフタについてくるやつの話‥‥‥では、なさそうだ。
どうやら、白黒のぶちネコの名前のようだ。
仔猫を育てる約束を果たせず、申し訳ない気持ちでいた僕は、拍子抜けしてしまった。てっきり、怒られ、責められるものとばかり思っていたからだ。
「じゅんくんは何も悪くないので気にしないでください。仔猫たちのことは、残念、ですが」
これは、自分が仔猫を助けられなかった、と伝える少しだけ前の話だ。
仔猫が連れられていったことを伝えるために、僕たちは受付で入院患者の名前を伝えて面会に行くことにした。
その時は、フルネームではなく『ちさちゃん』に会いにきたと伝えると、受付の事務員の女性は内線を使って誰かと話した後、病棟と病室の場所を教えてくれた。
この時の受付での電話のやり取りは、何やらナースさんらしき人と妙に親しげなホッコリする笑顔を浮べたものだった。
病院という空間で、そういう笑いが起こるのはあまりイメージになかった。
西棟9階935号室
入院棟と外来受診棟は主に東西で別れている。使うエレベーターも空気感もまるで別物だった。
東棟は外来患者が多く、人の出入りが多いこともあり賑やかであった。
それに対して、西棟はひっそりと静まり返っている。誰かいれば足音が響き、息遣いさえ聞こえてくるような感じがする。
面会時間が決められており、外部と遮断された空間。そこは、IDパスがないと入れない部外者立ち入り禁止の場所となっている。
患者には専用のパスが手首に巻かれており、それ無しではエレベーターより先へは降りられない。自由な外出もできない。パスを使って出ると、まるで脱走兵の如くナースさんに見つかる。無許可での外出は不可能だ。
そんな入院棟の中の、一般病棟、代謝内科がある、9階の1室へ僕たちは来ていた。
935号室はナースステーションからわりと近くの多床室で、患者は4名ネームプレートに表示されている。その名前の中に、あの人、福永千紗があった。
4つに区切られた空間の右奥が福永千紗のいる場所となっている。
カーテンが仕切られている中に、見覚えのある人がいる。福永千紗だ。
僕は、初めてこの人を見たとき、瞳の輝きに心を奪われた。
力強く、それでいて好奇心に満ちており、生き生きとしていた。
それは、僕には無いものに思えた。少なくとも、その時の僕には無かった。正の感情が伝わってきた。
直感的に惹かれた。
自分にはない良さ。それが、羨ましかった。
だから、あの時、『私、もうそんなに長くないんです』と言われた後で変なことを言ったのかもしれない。
長くないからこそ、懸命に生きている。1分1秒を無駄にせず。そう思えてならなかった。
そんなの僕とまるで違う。生きてることなんてどうでもいいって思ってた僕なんかとは、全然違うように感じた。影に隠れている自分なんかとは。
だから、この人、福永千紗というよくわからない存在が、とにかく気になった。一目惚れに近い感覚なのかもしれない。
僕はそんなに頭は良くないし、むしろ悪い方だと思う。ドジばっかりしてきた。
例えば、初めて好きになった子には素直になれず悪戯や意地悪なことばかりした。忘れ物はしょっちゅうだったし、先生から怒られることも多かったと思う。
「ちゃんと本当のこと言って怒られたらいい。バカなことやってないで」
そんな妹の言葉が降って湧いてきた。これは、何時ぞやの言葉だった。
子どもの頃、自転車で悪乗りしてとんでもないことをしたのを思い出していた。
あれは、小学4年生くらいの時だったか。籠には大量の漫画本を積んで、友だちと2人乗りで坂道を降る。
坂道の途中では、カーブが3回ある。
1度目、まだスピードがそんなに出ていない。余裕で曲がる。
ブレーキなど使わず、流れに任せる。
車輪は勢いよく回り続け、速度はガンガン増していく。
2度目のカーブはやや急だった。
ヒヤリとしながらも、どうにかこうにか曲がることができた。
この時、ブレーキを握りしめていても、自転車の勢いはもう止められなくなっていた。
ギシギシと軋む車輪。減速しようにも、坂は下りで急勾配だ。何をどうやっても無理だった。非力な小4男児がどう足掻こうとも。
そして、3度目のカーブ。僕たちは見事に事故った。
曲がりきれず、ガードレールに突っ込んだ僕たちは、宙を舞った。自転車もろとも、空中で一回転していく。
なぜだろう。こういう時、ものすごくゆっくりと時間が流れるのは。
今まで、高速で駆け抜けたのが嘘のように遅かった。
特に、強い衝撃が正面からゴンってきてからはスローモーション動画だ。
死んだ。
もう終わった。
この時、本当にそう思った。
だって、飛び上がってから意識がなくて回転したあと数分くらい全く覚えていない。
目を開けるとそこは草むらだった。
少し離れたところに自転車の下敷きになった友だちが見えた。
どうやら僕は上手く受け身を取って無傷。痛みも全く無かった。
むしろヤバそうなのは友だちの方のようだ。
慌てて駆け寄り、自転車を退かし、友だちに声をかける。
「大丈夫か? じゃねぇよ。殺す気か」
友だちは半分笑っていた。残りの半分は笑いごとじゃないって顔だった。
生きててよかった。この時は一瞬、そう思えた。
しかし、散らばった漫画本を集めて自転車を動かそうとした時にようやく気づいた。
あれ? 動かない。フレームが、主軸が曲がったから?
よくよく見ると、物凄い力が加えられた自転車の車体の主軸がひしゃげている。
どうやっても、自分では治せなかった。
自転車を道の脇に寄せて2人で途方に暮れていた時、近くを年子の妹が通りかかって言った。
僕は、その時の台詞を思い出していた。
「ちゃんと本当のこと言って怒られたらいい。バカなことやってないで」
父親に知られたら怒られることは間違いなかった。
子どもの頃、父は鬼のように恐くて敵わない存在だった。
だから、自分が自転車を壊したとバレるのが嫌だった。なんとかならないかとあれこれ考えていた時に、妹はきて、容赦のない現実を突きつけるような言葉を吐いていった。
今思えば、何時だって妹というやつは僕に厳しくシビアだった。
冷たい、でも、兄妹なんてそんなもの。そう思っていた。
それが当たり前だった。
けして不仲ではない。ケンカはするし、つまらないことで言い合いになるとはいえ、お互いを避けることはなかった。
呼び捨ての名前で呼ばれることはあっても、お兄ちゃん、なんて間違っても呼ばれたことはない。
ラノベとかの妹ってデフォルメされた可愛さがあるが、リアルはそうじゃない。
妹が可愛いとかあり得ない。
もっというなら、生意気だし、文句ばっかで図々しい。可愛げなど在りはしない。
妹信者に告ぐ。そんなものは幻想である、と。
目を覚ませ。妹が可愛いわけないぞ。
だって、傍若無人の、あの妹が‥‥‥。
「もしもし、淳? 大丈夫?」
考えごとをしていてすっかり忘れていたが、先程、妹から突然の電話があったのだった。
病院にいたため、とりあえず病室から移動して通話可能な待合室で電話していた。
妹曰く、猫なんて飼えないでしょ。現実的に考えて保護が妥当とのこと。
それから、気になることを言っていた。
「そんなことより、そっちに萌さんいるの?」
「いるけど、それがどうかした?」
「結婚するかもしれないって話、父さんから聞いてなかったの? なんかね音大の教授と関係ができてるとか」
は? 寝耳に水。そんな話は聞いていなかった。
あの萌ちゃんが、結婚!? 学生で、相手は教授だって。
どういうことだろうか。
淳が病室を抜けたあと、萌と千紗は2人だけで話をしていた。
他の人たちは病室の外で待っている。
2人で話したい、そう言ったのは千紗からだった。
「あなたは、じゅんくんをどう思っていますか?」
突然、会ったばかりの女の人からそう聞かれて戸惑う。どう?って聞かれても。
質問の答えより、アタシは他のことが気になってしまった。
この人はどういう病気なんだろうか。よっぽど重いんだろうか。どうして、淳くんは、この人を気にしているんだろうか。
よく知らない千紗のことが気になって、疑問が尽きなかった。
「私は、男の人が苦手なんです」
考えごとをし過ぎていて、言われたことの意味を最初理解できていなかった。そもそも、なんでそんなことを言ったのだろう。
「だから、心配いりませんよ。あなたが、じゅんくんをどう思っていても」
嫌味などではなかった。
澄んだ瞳。吸い込まれそうな鏡みたいに、瞳は輝いて素直な心を映し出すかのようだ。
その目を見ていると、なぜだか話したくなってしまった。
アタシ自身のことを。淳くんとのこと、そして、教授とのことも。