6 奇蹟
フィル・ダ・ウーンドの村のはずれ、ネイトは岩に腰をおろしてうなだれていた。
フィル・ダ・ウーンド。長耳亜人種の古代言語で“大穴の西”という意味らしい。村にもどってきた住人たちに教えてもらった。
村の広場にできあがった屍山血河の光景を目のあたりにした村人たちはおののき、恐縮しきった様子でネイトに感謝の言葉を述べた。比較的散らかっていない家でくつろいでほしいと願ったが、ネイトは外の空気にあたっていたいからと丁寧に断り、距離をとった。
吐しゃ物と涙で顔をぐちゃぐちゃにしながらも懸命に遺体を運ぶ青年。肉片が浮かぶ血の海から伴侶の部品を集めるも頭部だけが見つからずに途方に暮れる男。喉もかれよと泣き叫びつづける女。森の深い闇夜のなか、所々に焚かれたかがり火の揺れ動く赤い光が悲劇だけを切り抜いていた。
そんな凄惨な片付け作業の只中で家に閉じこもってくつろげるはずがなかった。
「ずいぶん落ちこんでいるね」
ネイトの右肩、外套にフーギィの目と唇が浮きでていた。
「あたりまえだ。おれたちのせいでこうなったんだぞ」
「死竜が逃げたのも、この村に死の霧を吐いたのも、わたしたちの責任だというのかい。この村に起こったことは運が悪かったとしかいいようがない」
「あの人たちにおなじことをいって納得してもらえると思うのか」
「思わない。きっときみは心底恨まれる」
ネイトは切歯して肩の目玉を見た。身体の持ち主は眸に感情を映さず、他人事のようにネイトを見かえしていた。
「わたしをにらむなよ。じゃあ事実をあかして謝罪するかい。きみの懺悔を彼らが赦してくれるとでも? 無理だね。彼らは悲しみに加えて怒りまで抱えることになり、きみはさらに絶望する。だから彼らにも、きみにも、悲運ということで納得してもらうしかない」
ネイトは両手で顔を覆った。腹の底からため息をつく。フーギィの道理が正しいことはわかっていた。ネイトが罪悪感をなぐさめるために告解しても、だれも救われない。
不意に頬に鋭い痛みを感じた。手を見るとわずかに血が付着していた。
「男児の死霊憑きにひっかかれたときだね。ぎりぎりまできみに任せようと思っていたから反応が遅れたよ」
あのときに爪で切られたのか。ネイトは今の今まで気がつかなかった。
「ちょっと診せてごらんよ」
肩から数本の細長いつるがにょろにょろと生えてきた。うごめきながらネイトの顔に迫ってくる。怖気を感じてのけぞった。
「なにをするきだ」
「いいから。ちょっと痛いかもしれないけどじっとしていてよ」
つるの先端が頬に触れる。痛みはなく、羽毛の先で撫でられるようなむず痒い感覚だった。それもほんの一瞬。つるはすぐにひっこんだ。
「おわったよ」
ネイトは頬に触れた。血を拭うと、傷跡はなくなっていた。
「なにをしたんだ?」
「縫ったんだよ。髪の毛よりも細い針と、もっと細い糸を使ってね。糸はわたしの身体の一部だから抜糸も必要ない。傷がふさがるころには溶けて消える」
「そんなことまでできるのか」
なんでもできるな、という言葉は飲みこんだ。灯りを生んだり、死竜を撃退したり、衣服を作ったり、傷の治療までできる。フーギィのすごさは十二分にわかっていたが、信用のおけない未知の魔物を手ばなしで称賛するわけにはいかなかった。
ネイトはふとある考えを閃いた。
「どのぐらいの傷まで治せるんだ」
「縫合ですむ傷ならだいたい施術できるけど……。なるほどね。それできみが頭を抱える彫像でいることをやめるなら、手を貸そう」
ネイトの考えを察したらしいフーギィは愉快そうにいった。
村人には負傷者も多かった。村から逃げるときに死霊憑きに襲われたのか。あるいは森を逃走中に凶暴な野生動物に遭遇したのか。
松明を掲げた男たちが捜索のため森に這入り、生存者を連れ帰るたびに、きまって一人二人の怪我人が見うけられた。
ネイトは治療を申しでた。
「治療魔術の心得がある。手傷ぐらいなら癒せるから手伝わせてほしい。ただし人に見られていると効果を発揮しない魔術を使う。負傷者を家に集めて順番に一人ずつ這入るように。あと、施術中はかならず目隠しをするように」
もちろん魔術については嘘っぱちだ。身体から生やした気味の悪いつるで傷口をつつくところを見せるわけにはいかなかった。
一軒の家を仮設救護所とし、ネイトのもとには負傷者が運ばれた。
遠慮もあり、少なからず警戒心もあったのだろう。来客は間遠だった。しかし驚くほど迅速であり、癒し手の上位魔術を使ったとしか思えないきれいな施術痕を見て、ネイトの救護所は大繁盛になった。
どう見ても内臓まで負傷している意識不明者まで担ぎこまれたが、フーギィの外科手術の手際は完璧だった。村人に用意させた砂糖を水で溶かして感染症予防の溶液を作り、それを筒状にしたつるで吸いあげて患者に点滴しながら、開腹までして傷をふさいだ。
「生物の身体は精緻で複雑。それでいて驚くほど丈夫で合理的にできている。壊れたところを切りとって痕をふさげば、あとは個人の生命力の問題だ。それで助からないならどうにもならない」
治療の合間、フーギィはネイトの耳元で語った。
「どうしてそんなに医術に詳しいんだ?」
「大陸の方々から集積した知識があるといっただろう。それにわたしは医術というよりも生物に詳しいんだ。哺乳類の身体なんて人間も動物も魔物も大差ない。きみの身体に擬態して脳に空気と血液を送っているのはわたしであるということを忘れないでくれよ」
「擬態か……」あらためていわれるといやな響きだった。
すすけたオイルランプのたよりない灯りのなか、ネイトは熟練の呉服職人のような針捌きを目で追いながら、脳裡に焼きついてはなれない幼い兄妹の死に際について言及せずにはいられなかった。
「あの女の子はどうすることもできなかったのか?」
「できなかった。齧りとられて消失した内臓を復元することはできない。手の施しようがなかった」
白々とした月が樹冠の裏へと傾き、患者の訪問が途絶えてしばらくたったころ、ネイトのもとに一人の少女が訪れた。
ネイトが河辺で死霊憑きから助けて、村の奪還を依頼した少女だった。
「魔術師様。深謝いたします。死霊から解放された同胞はきっと迷わず精霊のもとに逝けたことでしょう。さらに手厚い治療まで申しでてくれたとのこと。高名な魔術師様の御厚情をたまわり村一同、感謝にたえません」
少女は年恰好に似つかわしくない慇懃な謝礼を述べて恭しく頭をさげた。
ネイトは顔の前で手をふった。
「そんなにかしこまらないでくれ。おれは高名な魔術師じゃないんだ」
少女は大きな目を丸くしてきょとんとした。
「そうなのですか。えっと、ではなんとお呼びすれば?」
「おれはネイト。そう呼んでくれればいい」
「わかりました。ネイト様。名乗り遅れました。わたしはティナと申します。河端で助けていただいたときはまともな感謝を伝えられないまま不躾に要求までしてしまい、大変失礼いたしました」
「もういいから。感謝は聞いたし不躾ではなかったよ」ともすればこうべを垂れようとするティナにネイトは椅子をひいて促した。「座って。きみも傷だらけだろう。治すよ」
最初に目にしたときのまま、ティナの顔と四肢には細かな切り傷が無数にあった。美しい顔の瑕疵になりそうな深い傷もいくつかある。
「滅相もございません。このようなかすり傷でお手をわずらわせるわけには……」
「たのむよ。おれのためだと思って。治してあげたいんだ」
ティナは心底申し訳なさそうにしながらも素直に着座した。布切れで目隠しをして、フーギィが治療を開始する。
「少しこそばゆいかもしれないけど、我慢してね」
「すごい。まったく痛くないのですね。すでに何人もお世話になっていると思うのですが、疲れはないのですか?」
ネイトは肩から茎を生やして傷口を見つめるフーギィに目配せした。フーギィは薄く瞑目して見せた。身体があったらひょいと肩をすくめたところだろう。丸傘頭に目玉と唇しか持たない魔物の表情を読みとれるようになってきた。
「問題ないよ」
「ネイト様。恥ずかしながらわたしどもは無知でございます。それでもあなた様のような御仁がただの通りすがりの旅人でないことはわかります。そのようなおかたがどうしてこのようなところに?」
「えーっと。出身は王都なんだけど……。いろいろあってね」
「そうなのですか。なにか理由がおありなのです」ティナは素性についてそれ以上言及しようとはしなかった。「あなた様への謝礼、報酬についてですが……」
「ちょっと待ってくれ。そんなことまできみが話さなければいけないのか?」
「申し訳ありません。若輩の身で信用に足らないことは重々承知しています」
「そういうことじゃなくて。きみが背負うような仕事ではないだろう。ほかの大人、村長はいないのかい?」
ティナはわずかに顔をさげた。
「村長はわたしの祖父にあたるのですが、二十日ほど前に狼の死霊憑きに村が襲われたときに精霊のもとに召されました。祖母はすでに亡く、それからは父と母が代わりを務めていたのです」
「そうだったのか……」
ティナの両親は住民の避難に尽力し、死の霧を浴びたといっていた。死霊憑きになってティナを襲っているところをネイトとフーギィが葬った。
ティナはフィル・ダ・ウーンドの集落を統べる家系の唯一の生き残りということになる。目の前の少女が幼くして類を見ないほど気丈で殊勝なのは、村長の代役を務めなければならないという立場と重圧からなのだろう。
「それで報酬についてですが――」
「いらないよ」ネイトは恐縮しきったティナの言をさえぎった。
「え?」
「おれにもいろいろと個人的な理由があってね。報酬はもらえないんだ。だからきみはそんなことを心配しなくていい」
可能なかぎり村人たちを治療しても、ネイトの心にはいまだ罪悪感がわだかまっていた。報酬などうけとれるわけがなかった。
「でも、ここまでしてもらって、そんなわけには……」
「そこまでいうなら、今晩だけ村に泊めさせてもらってもいいかな?」
「それは、はい。もちろんでございます」
「よし、交渉成立だ。報酬の話はこれで終わり。治療も終わったよ」
ネイトはティナの背中をぽんと叩いた。しかしティナは立ちあがろうとせず、なにかに耐えるようにうつむいていた。膝のうえのこぶしがわなないている。目隠しから染みだした涙が頬を伝い落ちた。
「マジティク・ルゥ・ヒライヤー……」震える声で耳なじみのない言葉をつぶやいた。
フーギィがネイトの耳元でくつくつと笑った。
「長耳亜人の古代語だ。“奇蹟の傑士様”。この女児、きみのことを傑士だと思ったのかもね」
フーギィは亜人の古代言語にまで精通しているらしい。しかしいったいどこで憶えたのか。
人間と亜人との戦以降、亜人種の古代言語は禁じられており、亜人たちは大陸の共通言語の使用を強いられていた。
フーギィは監視と傍聴の根を伸ばしていたといっていたが、ほかとの交流がない辺境の集落にでも張りついていないかぎり古代語の習得は難しいだろう。かぎりある監視の目をわざわざそんなところに配置するだろうか。
ネイトが些末な違和感から自分の身体に取って替わった未知の魔物に不信を募らせている間も、ティナは感極まって泣いていた。
「ティナちゃん。だいじょうぶかい?」
「あの。ごめんなさい。わたし、失礼を。ごめんなさい」
うわずった声で懸命に詫びてはいたが、ティナの涙はとまらない。
矢継ぎ早に訪れる悲劇と村長としての重圧。ネイトへの報酬についても苦心していたことだろう。そんな折にひさしく触れた優しさはティナにとってまごうことなき奇蹟であり、責任感という名の檻を瓦解させたに違いなかった。
奇蹟の傑士。ネイトたちの素性と行動を考えたら、そのように敬われるべきでは断じてなかった。ネイトはいたたまれない気持ちになり、善人ぶる立場にないことを自覚しながらも、ほうっておくこともできずにティナの小さな肩に手を置いた。
「だいじょうぶ。いいんだよ。きみは泣くべきだ」
ティナは座ったまま身を翻してネイトの腰にしがみついた。しゃくりあげて泣く姿は年相応の一人の少女だった。