5 慈悲
少女の案内のもと、陽が落ちる前に村にたどり着いた。付近で十人ほどの村人と合流できた。少女が事情を説明すると男たちは村奪還の加勢を申しでたが、ネイトはすべて断った。村が見えなくなる位置までさがって隠れているように告げた。
集落と森との境界にある草むらのなかでネイトは一人、身を低くしていた。
夕陽の赤と色濃い射影に染まった暮れなずむ村。木と藁ぶきの家屋の数は十五戸ほど。中規模な集落だった。
本来であれば夕食の煮炊きの煙と香りが子供たちと野良仕事の男たちを各家にいざなう時間帯だろう。しかし今、ただよってくるのは濃密な血の臭いであり、通りを往くのは目が灰色に濁った生ける屍だけだった。
低く重い風の音が絶えず響いていた。近くに風穴でもあるのかと思ったが、違う。死霊憑きのうめき声だった。空っぽの腹に巣くった餓鬼が無限の渇きと飢えを生者の肉に求め、合唱しているようだった。
「さて、それじゃあはじめようか」フーギィは掃除をするような気安い調子でいった。
「おれが勝手にきめてしまったが、おまえはいいのか?」
「きみこそいいのかい? 王都に帰るといっていただろう」
「……だって、捨ておけるわけがないだろう」
「きみの動機が自責の念だとすれば非合理な考えだと思うけどね。まあ、不利益にならないかぎり、きみの判断を尊重するよ」
いうがはやいかネイトの両腕が伸び、枝分かれしはじめた。分岐した枝の先端は槍のように鋭い。
フーギィであればこの場から動かずとも一掃してしまうだろう。
「待ってくれ。まだ生き残りが隠れているかもしれない」
「あの様子を見るかぎり絶望的だよ。それにこれでも分別はある。無差別に殺したりはしないよ」
「でも、村のなかを見てまわったほうが……」
フーギィは茎を伸ばしてネイトを見た。一つ目でまじまじとのぞきこまれる。
「まさか、わたし一人にやらせることを後ろめたく思っているのかい?」
半分正解だった。たしかにネイトはフーギィに任せきりで自分はなにもしないことを心苦しく感じていた。ただしフーギィへの後ろめたさというよりも、村の人たちとあの少女に不義理だと思った。
黙りこむネイトを見て、フーギィはふーんとどこか愉快そうにうなった。
「きみはほんとうに難儀で不合理だな。でも、きみのがんばりを見物するのも悪くないかもね。わたしの身体をきみの脳がどこまで使えるか知っておきたい。わたしは片棒を担ぐことにしよう」
ネイトの両腕は縮み、手首から先が剣になった。ネイトが今まで見たものよりも小振りだ。短剣の長さだった。自分の感覚を有したまま手が変形、変質しているのは妙な気分だった。
「そのサイズならきみでも扱いやすいだろう。危なそうになったら援護するよ」
武器だけは貸すから自分の力でなんとかしてみろということか。
ネイトは固くなった唾をのみこみ、立ちあがった。
見える範囲にいる死霊憑きは六体。密集しているわけではなく、おぼつかない足取りでそぞろ歩いている。家のなかにもいるだろうが、一体ずつであれば対処できるはずだ。
ネイトは古参兵でなければ武芸に秀でているわけでもない。それでも傭兵団の見習いとして魔物や死霊憑きとの戦いに参加したことはある。もちろんたった一人で群れに立ちむかうことなんてなかったが、今は強力な武器とフーギィがいる。
得体の知れない魔物の援護をあてにするなど不本意このうえなかったが、たのもしく感じてしまっているのは否定できなかった。
手近には老人の死霊憑きがいた。一定の間隔で家屋の壁に己の頭を打ちつけている。なにが老人をそうさせるのか。考えるだけ無駄だった。
ネイトは中腰で家屋の裏にまわった。老人が頭を打つ律動的な音でタイミングを見計らい、角から飛びだして背後から思いきり斬りつけた。
刃は老人の肩口から袈裟斬りで沈み、なんの抵抗もなく腰まで抜けた。大量の血と腹の内容物をともなって老人の半身が地面に転がった。
「うわ」ネイトは思わず叫んだ。
斬撃は家屋の壁板にまで達しており、派手な音をたてて屋根の一部もろとも崩れ落ちた。
切れ味も腕力も桁違いだ。まるで戦鬼が斧槍をふるったような威力だった。
「あーあ。もはやきみの身体じゃないんだよ。加減を覚えなきゃね」
「やる前にいってくれよ」
ネイトは声を落として怒鳴ったが、もう遅い。
物音を聞きつけて死霊憑きが群がってきた。家のなかからもぞろぞろでてくる。各個撃破の隠密作戦は早々に崩れ去った。
そこからはがむしゃらに両手をふるった。剣術も戦略もない。きっと傍目には癇癪を起した子供のように無様だろう。しかしその子供の両手の軌道が死霊憑きをなぞるたびに、ゆるい泥人形を切るように身体が細切れになっていく。
吹きすさぶ血煙が空気と混じりあい、蜂蜜のような粘性をおびていくように感じる。薄赤い蜂蜜の霧のなかでは死霊憑きの挙動も自身の体捌きも、水中で動いているかのように遅く見えた。興奮状態で感覚が覚醒しているというにはあまりにおぞましい光景だった。まるで不出来な悪夢のなかにいるようだ。
ネイトは中途半端に長い不慣れな二刀流で自身を傷つけないことにだけ四苦八苦しながら、動くものがいなくなるまで両手をふり、突き、薙ぎ払いつづけた。
「終わったか……?」
あたりにはかつては人の一部だった肉片と体液とが散乱していた。何体斃したのか。もはや残骸からは判別できなかった。
あれだけ暴れまわったのに息を切らすことはなく、惨たらしい光景と血の臭いを浴びても胃液がせりあがってくることもない。
――ほんとうにおれの身体じゃないんだな。返り血を浴びた身体を見おろしながらネイトははじめて明確に実感した。
身体的な変調がない半面、罪悪感だけは際限なく頭のなかでふくらんでいく。いったい何人の村人が犠牲になってしまったのか。
「くそ」
ネイトはぶんぶんと頭をふって憂慮を追い払い、手近の家屋を目指して歩を進めた。今は己のことで悲観している場合ではない。またフーギィに操作権を奪われる前に、この村の悲劇は自分で始末をつけると決意していた。
家のなかも見るに堪えない惨状がひろがっていた。死霊憑きが這いでてきた家には例外なく食い散らかされた遺体があった。
どの遺体も衣服と皮膚と内臓が残っていなかった。ところどころ齧りとられた筋組織と伽藍になった肋骨の中身を外気にさらしている。顎と手指の力だけで人間を解体し食べようとしたらこうなるのだろう。できれば一生知りたくない発見だった。
家々を見てまわったがフーギィの予想どおり生存者は見あたらない。ネイトはなかばあきらめながら最後の一軒に踏みいった。
物音が聞こえた。ごりごり、ぶちぶち、ぼたぼた。
居間と調理場を隔てる仕切り板のむこう側からだった。
水気を含んだおぞましい物音から、死霊憑きの捕食を想像できた。
唇をきつく結んで意気地を奮い立たせ、そろりそろりと近づいた。仕切り板の先をのぞき見た。
狭い調理場、かまどの前で男の子が屈みこんでいた。
犬のように足許のなにかにがっついている。
なにかは男の子よりもさらに小さい女の子だった。
女の子はなすすべなく仰臥し、顔は蝋のように白くなっていた。それでもまだ生きていた。小刻みに痙攣し、焦点のあわない目で男の子の頭越しにネイトを見た。ぱくぱくと口を動かす。
声はでておらず、なにをいっているのかわからない。しかし唇の動きを読めば伝えたいことがわかってしまう。ネイトは咄嗟に目線をそらした。
助けてなのか、殺してなのか。どちらにせよその願いをかなえることはネイトにはできそうになかった。直視してまともに受けとめたら、きっと自分の心は壊れてしまう。
そのように自覚した途端、ネイトは下半身が遠のくような感覚に襲われた。内股でへたりこみ、尻もちをつく。
物音で男の子がふりかえった。小さく短い手指は真っ赤に染まっていた。おなじように血肉でまだらになった顔は女の子とそっくりだった。兄妹なのか。双子かもしれない。
男の子が飛びかかってきた。表情は茫然自失としていたが、動きは肉食動物のように俊敏だった。
ふりまわした爪がネイトの頬に触れた瞬間、右手が勝手に動いて男の子の首を斬り飛ばした。小さな頭部は南瓜のような重い音をたてて地で弾み、転がった。
右腕はそのまま伸びて横たえる女の子のほうにむかった。先端は刃のかたちのままだ。その意図は明確だった。
二の腕から生えたフーギィが無言でネイトを見つめた。
ネイトは同意も拒否もできなかった。かたく目をつむり、うつむいた。しかし避けようのない現実から目をそむける行為は同意しているようなものだった。
女の子の生き地獄を終わらせる慈悲が予断なくふりおろされた。