狂えば
夜中の二時頃だったろうか。
退屈凌ぎにパソコンをいじっていた坂上は、突然の携帯の着信音にびくりと腰を浮かせた。
表示を見ると、どうやら同じ大学の友人かららしい。こんな時間に何の用だ、と幾分気を悪くして出る。
「はい、もしもし」
無愛想に言ってやる。が、電話口の向こうの相手は中々返事をしなかった。一度、「くン」と咳込むような鼻づまりのような音が聞こえたのみだ。
「もしもし? 何、喜田さん」
心持ち強めに呼びかけると、今度は短い呼吸音の後に、低くこう聞こえた。
「…助けて」
聞いた瞬間、坂上の気分は完全に切り代わった。いつもの彼女らしくもない、ストレートに深刻な声色と台詞だ。
「何、どうかした」
真剣に尋ねる。
若干間が空き、喉に息の詰まる気配が何度かあった。そして、
「…ごめん、夜中、に。ね、てた?」
「いいから用事」
馬鹿野郎と罵りたいのを押さえ先を促す。苦しげな息、無理をしているのが明白な挨拶。これで演技なら俺はコイツに弟子入りしなきゃならない。
「あ、あの…今ね」
「ん」早く。
「腹…っ、刺された」
途端、捻れた呻き声が耳に滑り込んだ。続いて、堰を切ったように漏れ出した荒い呼吸が受話口に雑音を送り込む。
ぱしゃっ、と、何か重い物が水を跳ねる音。
――血か?
「今どこ!」
会話できることを祈りながら怒鳴ったが、ひゅうひゅうという呼吸音が響くばかりだ。
五分も、十分も待った気がして漸く、絞り出すように彼女は居場所を告げた。
「分かった救急車呼んだら俺も行く、出来れば腹何か巻いて寝てろ」
一息に言って坂上は通話を切った。
病院へ連絡しながら全力疾走し、息を切らして辿り着いて坂上はぎょっとした。
墨の塊に彼女が沈み掛かっているように見えたからだ。が、直後それが血の池だと気付く。
「うわ」
街灯の明かりが遠くよく見えないが確かに、喜田の左脇腹には白い包丁が中程まで埋まっている。慌てて駆け寄ったが、どうやら電話で伝えた処置も施せなかったようで只ぐったりとしている。
「おい…」
ぞっとした。
携帯を力なく血溜まりに浸し、投げ出された右腕。それはまるで―
「……!」
すぐに気がついて、脈を取ろうとその手首をひっ掴んだ瞬間、指がぴくりと反応した。
「あっ、喜田さ」
「痛い…」
ぬるり、と坂上の衣服を捉えて、
「痛っ…い、痛いよ、痛い、痛ぁいっ…」
裏返った声で訴えながら、身を捩り、爪を立てて縋る。その表情は、異様に緊張した筋肉と皮膚を濡らす赤黒い液体に彩られて、鬼にも似ていた。
「い…だ…いっ痛い痛い痛い痛い、」
「落ち着け!」
坂上は思わず怒鳴っていた。
「暴れたら傷が開く。救急車すぐ来るから大丈夫」
言いながら喜田の血塗れのシャツを一部引き裂き、腹に巻いて縛る。大出血するとまずいので包丁は刺したままだ。
顔からは目を逸らして処置した。一番落ち着きたかったのは坂上自身だ。と、
「…ごめん」
呻きながらではあるが、ぽつりと彼女が漏らした。
思わず顔を見る。緊張が薄れている。
(ヤバい意識が―?)
「いいって」
すると気のせいか、彼女が微笑したように見えた。紅く、艶やかに。
サイレンが遠くに鳴いていた。
坂上が入院中の喜田を見舞ったのは、それから一週間後であった。病室の扉を開けてすぐ、右側のベッドにいた彼女がこちらに気づく。
「よう」
「ああ、サッキー。いやごめんねこないだは」
そう挨拶する表情は、多少やつれてはいるものの普段の彼女と変わりない。坂上はほっとして、
「それはいいけど。つか馬鹿かお前?俺よりまず救急車呼べや」
軽口を叩くと、喜田はやはりいつも通りのごまかし笑いを上らせた。
「それはホラ、だって、知らない人だし」
「はあ?」
「電話苦手だから…」
「……」
「いや、それにあの、悪戯とか思われても困るし」
「…ふーん」
「まっ、いいじゃん助かったんだから」
「……」少し睨んでやる。彼女が大仰に慌てて、
「ハイ貴方のおかげです!」
「よし。処で犯人とかまだ捕まらないって?」
さり気ない調子で切り出したつもりだったが、喜田は笑顔を消し、目を伏せた。坂上がしまった、と瞼を動かす。
「よく…覚えてないんだよね。いきなり前から来てた人が…どん、ってぶつかって。そし、たら」
「いやいいから」
「腹が変な感じで…おっ重く…わけ、わかんなくてっ…っ…う…」
「いいって!」
明らかに青くなっていく顔を、坂上の両手が勢い良く挟んだ。喜田はひょっとこ口の涙目だ。
「…うぃ…ごむん」
「な」
「むん。おちつきむす」
「よし」
ほっと息を吐いて掌を離し、わしわしと頭を撫でる。その手の下で喜田は、気恥ずかしげに笑っている。
にんまりと。
病院を出ると、坂上は二人組の刑事に呼び止められた。事件について聞きたいことがあるという。
年輩の方が駐車場を示し、
「宜しければご自宅の方までお送りしたい」というので甘えることにした。
「話と言っても、以前見えられた刑事さんに大体のことは…」
車に乗り込んだはいいがカークーラーは壊れているらしく、窓を開けても湿気と熱気がむっと車内に籠もっている。
「ええ、承知しております。本日はまた別件で」
「別件、ですか」
「ええ」
口元に笑みを張り付けた刑事が目をこちらに遣り、すぐに正面に戻す。瞬間、心臓がきつく締め上げられたのは、ただ緊張のためばかりではなかったろう。
蒸し暑い中、額から一筋流れた汗が瞼に留まって震えた。
「坂上さん。喜田さんは…」
蝉が鳴いている。
*
それは夢だった。
彼が、長い指を髪に絡ませる。黒い瞳をして、強く、柔らかく、抱き寄せる。睫毛まで絡み合いそうな距離、首筋に熱い腕がそっと巻き付いて、重み、吐息が近く、唇が――
しかし瞬間、鏡に映し出されるのは自分ではない美しい女だ。頬を上気させ、彼と深く口を継ぐ、知らない可愛い、可愛い女。
「――っ!」
夢なのだ。とうの昔にそれは知っている。
「はあっ、はあっ…」
病室の窓からは、相も変わらず星の見えない夜空。今日は月に雲がかかって、いっそう不気味で幻想的だ。
「は…、…っ」
手で顔を覆う。跡が残るほど強く、爪先を立ててみる。しかし、痛みはその額ではなく縫ったばかりの脇腹から鋭くこみ上げてきた。そこから飛び出していた黒い柄を、想像の中で再現してみる。
「うっ、く…くくくっ」
息が引きつってしまう。後から後から溢れて、じわじわと広がってゆくのをどうしても止められないのだ。
いや、止めなくてもいい。今夜はずっとこうしていよう。
ずっと、こうして。
――翌日。
「よう」
「あ、サッキーまた来たの」
「…お前な」
「え?あっいや、またってそういう意味じゃなくてね」
「本当か?喜田さんよく嘘つくからなあ」
「ちょ、ひどいな。そんなに…」
「ついただろ」
どすん、と見舞いの品をサイドテーブルに置いて、坂上はベッド脇の椅子に腰掛けた。
「嘘」
「…え」
喜田の笑顔が強ばる。
坂上の掌が、脇腹の傷にそっと乗せられる。勿論布団越しだが、それでも喜田の体はぴくりと反応した。
「…痛かった?」
「え?あ、いや、大丈夫」
「じゃなくて、刺された時。痛かったのか?」
酷く優しい声音だった。慈しむような手つきで、目で、だが残酷な質問だ。
「そりゃ…」
訳も分からずぞくぞくと肌を粟立てながら、喜田はやっとのことで笑って見せた。
「…、痛いの何のって!もう息は詰まるし血は止まんないし、あっそれに縫う時ね、全然麻酔効かないの。内蔵ちょっと傷いってたみたいでさあ、切ったり貼ったりで私タオル噛ませられてたし」
「よく」
坂上が低く遮った。
「平気で答えるな」
その手は依然傷口の上に、目は無表情に喜田を見ている。
「昨日は、犯人がどうとか言っただけで半泣きだった癖にな。なに笑ってんだお前、もう平気とか無いだろ?たった一日でなあ」
「じゃっ、」
喜田が噛みつくように、
「そんなこと何で聞くんだよ!え、私を虐めて嬉しいのかこのドS」
「でも大丈夫だったろ」
平然と返され、ぐっと詰まる。
「…刑事さんが言うにはなあ。傷の具合が妙なんだと。刺さり方が、人にやられた場合とは違うらしい。それに包丁、指紋が付いてないって奴。俺見たことあるわ、アレ…」
喜田は、瞬き一つせずに坂上を凝視していた。
「お前んちのだろ」
蝉が鳴いている。病院のすぐ裏に木立があるので、ひっきりなしだ。緑が燃えるとはこのことかと思うほどに、鮮やかな景色だった。病室のひんやりした灰色を、まるで呑み込みそうな程に。
「…なあ。痛かっただろうなあ?…」
坂上の声が何重にも聞こえ、その骨ばった指が鉤状に曲がって傷に食い込んできたのを見て、喜田は短い悲鳴を上げた。
痛い。憎まれている。殺されてしまう。嫌だ―
「何、気持ち悪。変な声出すなよ」
呆れたように坂上が言う。我に返ってみると、掌はただ布団の上に乗っているだけだった。
「……っ」
「おい。馬鹿かお前は」
ずい、と坂上が顔を寄せた。喜田が狼狽えて逸らすのを強引に自分に向けさせ、片方の拳を振り上げる。そして思い切り、
「馬鹿かお前はっ!」
枕を、殴りつけた。喜田の頭が震動で跳ねる。
「ご、ごめ…」
「うるさい」
くしゃっ、と。
坂上の手が乱暴に頭を撫でた。彼女の目が見開かれ、いっぱいに溜まった涙が揺れる。
「あのな、わざわざ確かめなくても皆お前を心配するから。イザとなりゃ助けるし」
「……」
「勝手な思い込みでアホなことすんなよ」
布団を軽く叩いて溜息をつく。「ったく、やりすぎだっつの」等と彼が文句を言いながら元の位置に戻ろうとした時、それまで黙って聞いていた喜田が急に後ろ手をついて身を起こそうとした。が、やはり手術直後だ。がくりと肘を折って、
「痛っ…」
「おい、ちょっ」
倒れかかった体を支え、坂上が中腰になる。そのまま彼女を枕に戻そうとしたが、腕が首に回されていて離れない。
「喜田さん?」
「…やっぱ、体大きいね」
「そういう喜田さんは手ェ冷たいって。ほら傷に響くから」
しかし彼女は、黙ったまま離れようとしない。それどころかしがみつく力が強くさえなっている。
坂上は、刑事に言われた言葉を思い出した。
『彼女の行動は自傷行為として行き過ぎではありますが、それだけ精神的に抱えるものが大きいということでしょう。回復のためには周囲の皆さんの協力が不可欠となります』――
「…ホント、無茶すんな。一歩間違えたら死んでたぞ」
「でも助けに来たよね」
冷えた指が、坂上の背骨をなぞった。すうっと寒気が走る。
「あの…恥ずかしいこと言っていい?」
彼女が囁いた。腕は放さないままだ。
「何」
「…来てくれた時、凄い格好良かったわ。何て言うか、映画の主人公みたいな感じで」
「…あ、そ」
若干気恥ずかしげに、坂上が答える。いい加減に離して貰いたい、と困り顔である。
「ねえ」
彼女が言う。耳元の、息が掛かる距離だ。低く、笑うような声で問いかける。
「痛がってる私、どうだった?」
坂上は思わず眉根を寄せた。
彼女は重ねて問う。
「ね、どんなだった?」
「どんな、って…」
質問の意図が掴めない。困惑して、坂上は言い澱んだ。
くすくすくす、と彼女が耳元で笑う。
「え、何」
「私さあ、ずっとイメトレしてたんだよ。ハンカチ被せて包丁持つでしょ、で、脇腹に先突いて、壁で支えて一気にブスッ。痛みで立ってられなくなって、息も絶え絶えであんたに電話」
「ああ…」
相槌を打ちながらも、坂上の眉はますます不可解げに曲がる。自白を始めたにしては、彼女は奇妙に楽しそうだった。
「電話口に出て、あんたが必死に私を心配する。私は段々虫の息で、ハァハァ喘いだりとかして、あはは。まるで悲劇のヒロイン、みたいな?」
「おい、何言ってんだ…」
ますます滑らかに回る彼女の舌、背中に、襟元に絡みつく彼女の腕。
「そんで助けに来たあんたが『喜田さん!』とかって、私は青ざめてゆっくり目を開くのね。『ごめん…一番近いと思って…』『いいから喋るな!』なんつって、これじゃ漫画か。でも結構素敵じゃん?」
ころころと、彼女が笑う。坂口は何やら胃袋に重く沈む嫌な感覚に襲われ、中腰のまま凍り付いていた。
まさか、俺は――
「…でも、残念、助けに来てくれてからのことあんまり覚えてないんだな。まあいいか」
くす、とまた彼女が笑って、囁く。鼓膜を擦り上げるようにして突き込まれたその音に、坂上は身を震わせた。
「今が、良ければね」
殊更低く滑らかな言葉を吐いて、満足気な細い手が肩甲骨を這う。じっとりと背中を湿らせるのは、汗かそれともあの日彼女を濡らしていた赤い液体か。
『ね、どんなだった』
ふいに気づいて、坂上はぞっとする。
彼女は、自分が美しく見えたかどうかを知りたかったのだ。あの血溜まりの中で悶えながら、まるで全身を飾り立てた女のように。
今は外の緑も薄暗く褪せ、蝉は、いつの間にか鳴き止んでいた。
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