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06.大学4年生・秋(その1)

「任用通知」


ボストに届いていた封筒を恐る恐る開け、それらの文字を目にした時、私は文字通り手を叩いた。子どもの頃から憧れていた音楽の先生になることができるのだ。もっともあの頃憧れていたのは小学校の先生で、採用通知は都立の中高の音楽教諭のものだ。だがそれは大した違いではない。


私の表情で結果を把握したらしい母の祝福を受け、その後母が父に電話している間、私はさき先生と、高校時代の仲間たちにアプリで報告した。


咲先生は私が高3の夏に寮を出て実家に戻った後、家庭教師としてわずか半年で私の中の錆びついたビアノを藝大に入れるまでに引き上げてくれた恩人だ。今は有名なミュージシャンのバックで弾いたり、レストランなどで自分の名前でミニコンサートを開いたりしているプロのピアニストで、入学後も連絡を取り続けている。一緒に観客の前で連弾したり、咲先生のピアノで私が歌ったりしたこともある。暇な時は速レスをくれるのだが、今は忙しいのかなかなか既読にならない。


高校時代の仲間たちもなかなか既読がつかない。今日の晩ご飯は、定時退社で帰って来る父と駅前で合流してお寿司にしましょう、と母に言われた時、アプリに最初の返信があった。母との話が終わってからスマホを見ると、高校時代からの一番の親友で、高校卒業後もたまにチームメイトになる早苗さなえから返信があった。


「嘘やろ? ホンマに本気なん?」


なんて失礼な。私は既読スルーした。



翌日、私は上機嫌で学校に行ったが、露骨に喜ばないようにする程度の分別はあった。大学4年生の秋、この時期になっても進路が決まっていない同級生がごろごろいるのがこの大学の特徴だ。私だって就職先が決まったのは昨日だからあまり人のことは言えない。


藝大の学生でも美術教師とか音楽教師になるためには狭い門をくぐり抜ける必要がある。咲先生みたいに自分の名前でコンサートを開いたり、はたまたどこかのオーケストラに入ったり、あるいは彫刻を掘るだけで食べていける人間になるよりは確かに簡単かもしれない。だがそれでも学んだことを活かせる就職先として教師は最上の部類だ。安定性重視なら最強と言ってもいいだろう。


私は同級生たちの複雑そうな祝福に控えめに喜んでみせたが、それだけでは私の優越感が満たされなかったので、講義の後に部活に顔を出した。後輩には遠慮なく自慢できるからだ。音楽も美術も指先が大事だから、サークルならともかく体育会でバレーボールをやる学生なんかいない。入学するまではそう思っていたが、入部したらそこそこ人数がいたので安心した。その後は日本代表の躍進もあって、わが校の女子バレー部は大人気なのだ。やっぱりバレーは楽しいもんね。


だが4年生になっても続けているのは私ぐらいのものだ。煙たがれてるって? みんないい子だからそんなことはない。


「わあ、吹雪ふぶき先輩だ!」

「吹雪センバーイ、こんちわっす!」


ほら、体育館に顔を見せただけでこうしてかわいい声が飛ぶ。


「今日もよろしくね!」


私も笑顔で後輩たちに負けない大きな声で返事をして、更衣室へと向かう。


将来の不安が消えると練習にも熱が入る。火照った体をシャワーでました後、後輩たちと夕飯に行く。女バレ部でよく行く定食屋の一つだ。私たちが行くと、いつものように2階の広めの個室に案内してくれる。それでもこの人数だと手狭だけど。座布団に座ってご飯が出てくるのを待っていると、少し数が少なくなった3年の後輩が話しかけてきた。3年も夏を過ぎると辞める子たちが出てくるのだ。


「吹雪先輩、今日はいつも以上にご機嫌ですよね? 練習にも力が入ってましたし。なにかいいことがありましたか?」


待ちに待った質問だ。私はちょっと余裕ぶって答えた。


「おっ、やっぱりわかる?」


私はさぞかし満面の笑みだったに違いない。


「ええ男ができたんやろ?」


早苗ならきっとこう言うだろう。だが、私の可愛い後輩たちはそんな下品なことは言わない。なお早苗に対しては既読スルーのまま、あれから返事をしていない。


早苗と私は親友だけど、一度大喧嘩をしたことがあって、そういえばあの時と状況が似ている。あの時、早苗が私に激怒し、後輩たちの前で互いに罵り合うという醜態を晒したが、翌日には仲直りした。物理的に遠い距離にいる今はどうなんだろう。私が少し怒っているように、早苗も怒っているのかな。


でもそんなことは後輩たちとの会話ですぐに忘れる。


「わかりますよ」

「すっごくわかりやすいです」


くけっ。思わず変な笑い声が出てしまいそうだ。


「実はさ、就職が決まったんだよね~」


私の言葉が終わる前に歓声が飛び、部屋中に朗報が言伝ことづてされていく。


「えーっ」

「おめでとうございます」

「吹雪先輩、さすがです」


後輩たちに褒められて私はとてもいい気分になった。そのいい気分で盛り上がっているところに、ちょうど注文した定食が次々に運ばれてくる。今日は気分に任せて私の夕飯は生姜焼き定食。ご飯はもちろん大盛だ。カロリーをいっぱい消費して、いっぱい摂取するのはとてもいいことだ。


「で、どこなんですか?」


私の横に座っていた2年の後輩が上目づかいで聞いてくる。彼女はレギュラーのセッターだ。実力もあるしかわいい。半年もすれば私の次の次の部長になるだろう。その他の周囲の後輩たちも期待に満ちた視線で見つめてくる。


くっ。いけない、また下品な笑い声が漏れてしまいそうだ。多分これは早苗の影響に違いない。私は立ち上がると声を張り上げて答えた。


「皆さま私事わたくしごとですいません。不肖、長崎吹雪ながさきふぶき、都立中高の音楽教諭に任用されました。次の春、私は中学か高校の先生です!」


部屋中に聞こえるように、後輩たちに向かって声を張り上げた。


すごいじゃないですか!

どこの学校なんですか?

吹雪先輩、さすがです。


そういう反応が返ってくると思っていたのだが、予想に反し、周囲が一転して静かになってしまった。

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