31.最初の授業(その3)
さて火曜日、今日から授業が始まる。4月のうちは時間割A、つまり標準の週に12コマ授業がある。比較的余裕のあるこの期間に教えることに慣れておかないといけない。
最初の授業は1年5組と6組だ。選択前の体験授業だから学生は教科書もまだ持っていない。いまや私のバイブルとなっている前任者の記録によると、最初は簡単な合唱をやっていたらしい。私もそれに倣うことにした。
入学式から日曜日を挟んで月曜日が始業式、火曜の1限目、つまり高校に入って最初の授業が芸術ってどうなんだろう? だがこれもみな私のせいだ。
今年度の大前高校の時間割はまず芸術の時間から決められた。月曜日から木曜日までの毎日、1限が1年、3限が2年、そして5限がまた別の1年の授業だ。金曜は芸術の授業はない。12コマが綺麗に並んでいる。
5月は連休明けからの1週間、時間割Cつまり授業数が倍に増える。それは私が5月下旬、日本にいなくなるから、その分芸術の授業を先取りしておく必要があるからだ。そして月末には運動会があるので連休明けからその練習が始まったりもする。
先取りしても足りない分のために、7月の期末の後にまた時間割Cがある予定だ。時間割Cは地獄だ。普段1限だけの授業が1-2限通しになる。つまり教師から見ると、月曜から木曜まで1-2限、3-4限、5-6限と隙間なく芸術の授業がある!
そもそも金曜に一コマもないのも、私がいないことが多くなることが予想されたからだ。もしなにも用事がなくて、金曜に普通に学校に出てくる場合は、部活までの時間に1週間の授業の準備をすることになる。他に用事が無ければだが。
だが教職とバレーボールを両立することを決めたのは当然私だ。そして多くの人が不可能なはずのそれを応援してくれ、実際しわ寄せがきている。
よし、そろそろ1限が始まる。これが私の教師としてのスタートライン。もう何度も自分に言い聞かせている言葉を、改めて噛みしめながら、教官室から直接音楽室に通じているドアを開ける。
うわっ。ドアを開けた私は思わずひるんだ。音楽室には所狭しと生徒がひしめいていた。これいったい何人いるんだろう。もしかしたら2クラス分ほぼ全員いない?
「みなさん、おはようございます」
私が動揺を抑えながら大きな声で挨拶すると、生徒たちも、おはようございます、とだいたい揃った声で返してくれる。
「これは座席が足りないわね。じゃあみんな前に来て。そこらへんの地べたに適当に座り込んでね」
音楽室は普通の教室とは違う。布地が張られた教壇は他の教室より大きく、また大きな円の一部を切り取ったようなカーブを描いている。その端の方にはピアノがある。教壇の周囲はそれなりのスペースがあって、いわばアリーナになっている。そうすることで教壇とその下で大人数の合唱の練習などが可能な造りになっている。
そしてその後ろは生徒の席だけど、こちらも小さな野外劇場のように円盤の一部を積み重ねたような階段状になっていて、机の代わりに譜面台と椅子がある。
1限のチャイムがなった。生徒たちがアリーナに、一部の要領のいい子は生徒席の最前列の段に座り込む。そして私一人だけが教壇に立っている。
「みんな大勢で来てくれてありがとう。音楽担当の長崎吹雪です。これが私にとって初めての授業です。今日だけの子もいると思うけど、楽しんでくれると嬉しいです」
そう言って生徒たちを見渡す。
「今日は人数が多いので、みんなで歌を歌おうと思います。なにか歌ってみたい曲がある子はいるかな? みんなで歌うから、誰でも知っている曲がいいな」
早速何人かの手が上がった。これには私も驚いた。恐らくは誰の手も上がらないだろうから、この機会に校歌を練習させようと思っていた。積極的に発言する子が多いのも進学校だからだろうか。
「じゃあ手を上げるのが早かった、そこの男の子、クラスと名前と歌いたい曲を教えてね」
名乗った後彼は、「帰り道」という歌を歌いたい、と言った。
「『帰り道』? 誰のどんな曲かな?」
有名な曲でそんなタイトルのものがあったかな?
「長崎先生が動画サイトにアップしている曲です」
おおっと、私のリスナーだったか。『帰り道』は私が上げた歌の中では1、2を争う再生数がある。
「私の動画を見てくれたのね。ありがとう。でもその曲を知ってる子は他にいないから、もっと有名な曲にしようか」
私がそう言うと、すかさず別の子からが声があがった。
「入学式の日にクラスのトークルームができて、そこに動画サイトのリンク貼ったので、多分皆聞いていますよ?」
最近の子は本当にスマホを使いこなしているな。
「それじゃあ一応聞いてみるね。『帰り道』って曲を知っている人は手をあげて」
ほんとにほとんどの生徒が手を挙げたのでびっくり。
「じゃあ、歌えると思う人はもう一回手を挙げてみて?」
今度は数人しか手が上がらなかった。残念でしたね。
「やっぱりみんなが知らない曲をいきなりみんなで歌うのは難しいよ。もっとメジャーな曲で歌いたい曲がある人はいないかな?」
今度は誰の手も上がらなかったので、結局1限は校歌の練習になった。
生徒の自主性を削いでしまったかもしれないので、これは反省点だ。




