03.新任音楽教師(その3)
お弁当をつつきながら、今度は今後の活動についての話を双方の部員と話をしている時、さっきまで視聴覚室の後ろの方で騒ぎながらご飯を食べていて、少し前からは部屋の前の方でなにやらごちゃごちゃやっていた男子生徒が、私の前にやってきた。吹部か合唱か、どっちの部員かはわからない。
「長崎先生」
「なに?」
なにか質問があるのかな? 初日から積極的にコミュニケーションを取りに来てくれるのはとてもありがたい。
「長崎先生のフルネームって長崎吹雪でしたよね?」
私はうなずく。正直この20年以上使っている名前には愛着があるんだけど、ちょっと嫌な面もある。まだ会ったことはないけれど、吹雪で肉親など大事な人を失った人も世の中には少なくないと思う。考えすぎかもしれないが、あまり雪国には行きたくない。
私がうなずいたのを見て、その男子生徒がリモコンのスイッチを押すと、いきなり動画サイトの画面が視聴覚室の前のスクリーン一面に映し出される。
長身の黒人選手が驚異的なジャンプ力で飛び上がる、ポール下のカメラからの映像で見ると天空のような高さからボールを相手コートへ叩きつけようとする。対するブロックは1枚しかついていない。ブロックを避けてアタックが決まる。初めて見る人はそう思う人もいるかもしれないが、私はこの続きを覚えている。一人の選手がボールが地面に到る寸前に自分の手をボールとコートとの間にねじ込む。着地寸前にディグされたボールはその勢いを殺されて、緩やかな軌道を描いてセッターへと向かう。
最初のアタックのシーンでこの映像がいつどの試合のどのシーンか判ったが、私がリベロのユニフォームを着ていない時点で、その記憶に誤りがないことは確実だ。
味方セッターへと向かうボールを搔っ攫うように早苗が相手のコートに奇襲のアタックを決める。歓声が沸き上がりアナウンサーが私の知らない言葉で叫び声をあげている。仕事だから仕方がないのだけど、どこの国でも実況アナはいつもおおげさだ。
「それはもう3年近く前の私たちね」
私のキャリアが知れるのは時間の問題だということは分かっていたから構わない。だが、どちらかというと音楽系の動画や、この試合が始まる前のシーンを見て欲しいのだが、自分から口に出すのは恥ずかしい。
「もしかしてさっき、点を決めたのが長崎先生なんですか?」
「いや違うって、ボールを拾ったのが先生よ」
「すごい! 国際試合に出たことがあるんですね」
「もしかして代表? ユニバ?」
生徒たちがやけに盛り上がっている。私を知ってもらうのはいいことだし、休憩中に動画を映し出すのもいいけど、もっと音楽の話をしない?
私の気持ちを汲んでくれたのかもしれない、その男子生徒が動画を止めてくれた。だが、続いて画面に出てきたのは有名なネット辞典の私の名前のページだ。恐ろしいことに日本の女子バレーボール界には少なくとも数人のITに詳しい熱心なファンがいて、彼らは専門誌や新聞から情報を取って来るのか、かなり詳しい記事をネット辞典に書き込むので、選手たちの間での評判は悪い。私は何年も前に自分のページを見てめまいがしそうになったので、それ以来見ていなかった。
「長崎吹雪 日本の大学生(東京藝術大学音楽部)、女子バレーボール選手。16歳の時、私立群星高校(東京都)在学中にインドアの女子日本代表に選ばれ、20歳の時ムンバイオリンピックで主力選手として全試合に出場した。この大会でインドア、そしてビーチの双方で金メダルを取った世界初のバレーボール選手となった(チームメイトの鳥羽早苗と同時に達成)。インドアの代表チームではリベロとして出場することもあり、守備のスペシャリストのイメージが強いが、ビーチでも活躍しているように本質的にはオールラウンドプレイヤーであり、左右双方の手でスパイクを打つことができる。東京藝術大4年生の秋季リーグ終了後はVリーグ2部、東京ジャンパーズに練習生として参加し、V2優勝とV1昇格に貢献した。」
ブラウザ横のスクロールバーの短さから、この下に経歴やエピソードが延々と続くことが、以前私が見たときから記事の情報量が大幅に増えていることがわかる。こんな恐ろしいものが視聴覚教室の大画面に、今日初めて接する生徒たちの前にでかでかと表示されるのは、あまりにもこっ恥ずかしい。
「ちょっと、もう恥ずかしいから勘弁してよー。私がいなくなったら好きに見ていいからさ」
怒っていると思われてはいけないので、私は笑いながら言う。初日から生徒に悪印象を与えることは避けたい。この後バレー部に行くんだけどどうなるんだろう。私は残りの弁当を搔っ食らって外に出ることに決めた。
私はなんとか食べ終わると、またね、と言って視聴覚室を出た後、一人になりたかったので音楽教官室に入って自席に座り込んだ。さっき、視聴覚室で見た映像や記事、あれを見たら私が完全に体育会系の人間だと思われてしまう。いや体育会系のバレー部にいたけどさ。ちゃんと音楽教師としてのやる気や素養を、あのネット辞典は書いてくれているのだろうか? 気になるが自分で見る気は起きなかった。
そのままへたり込んで、13時が近づく頃にはだいぶ落ち着いたので、私はジャージに着替えて教官室に鍵をかけて出た。これは合鍵なので、私が持ち歩いてよいらしいが、絶対に失うことはできない。今日はもうこの部屋に戻らないので荷物を持って、体育館へと向かった。私服の生徒たちが何人か出てくる。今日、この体育館でいう午前中、すなわち13時までは男女のバスケ部が使ってたんだっけ? 生徒たちは怪訝そうにこちらを見てから挨拶をしてくるので、私も挨拶を返す。正体不明の大女が校内にいたら変だよね。職員室に不審者発見と御注進している生徒がいてもおかしくない、というかその方が学び舎として健全な気がする。
先ほどの視聴覚室での自分の醜態は頭から追いやって、私は体育館に入る。もちろんバレーシューズは持ってきているので問題ない。入口から手前側の半面が男子で奥が女子のようだ。私が入った時にはネットが張り終わっていて、男子部員たちがストレッチをしていた。男子部員の一人が目ざとく私を見つけて駆け寄ろうとする。顧問、いや元顧問の徳原先生が止めようとするが、それに動じずに私の方に走って来る。ここでも不審者扱いだろうかと思いきや、さすがはバレー部員。私が何者かに気が付いたのだろう。
顧問の先生の指示を振り切るなんて、この学校で見る生徒の中で初めてと言ってよいぐらい行儀の悪い生徒だ。
「すいません。女子代表の長崎選手ですよね? なんでこんなところに、って言うか俺ファンなんです。握手してもらえませんか」
どうやら、私がこの学校の教員になったということを、少なくともこの子は知らないようだ。