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168.練習曲(その27)

声楽の結果発表が始まった。行儀が悪いけれど、もう一度ピアノの結果を公式ページで確認する。私の名前がどこにもない。内心のため息を押し殺して、私はスマホの画面を消し、声楽の発表を聞いた。


審査委員長がロシア語で、そして翻訳者が英語で繰り返す。だが全然頭に入って来ない。ファイナリストなのに順位が付かなかった。しかもピアノで? ピアノでファイナリストになって順位がつかないのって、いつ以来? 何が悪かったのかな? やっぱり協奏曲は1番を選んだ方がよかったのかな? 自作の曲が、歴史に残る巨匠たちと肩を並べられるなんてことを、どうしてそんなに自惚うぬぼれてしまったのだろう。


そんなことがぐるぐる頭を回っている間に前置きが終わって順位が発表される。4位、私じゃない女性。私は思いっきり拍手をした。続けて名前が呼ばれる。


「4th place goes to ……」名前では性別が判らなかったけど男性が席を立った。その時に私は考えた。もし私が声楽と掛け持ちしていなかったら、コンテスタントの中でたったひとりだけ客席に残されていたことになる。それはとてもとても悲しいことだ。だからモスクワではなく、サンクトペテルブルクに居てよかった。でもさっきのピアノと同じ理屈が、声楽にも当てはまるとすると……


私とは違う名前が呼ばれ、女性が席を立つ。3位。私はいろいろやり過ぎたのだろうなあ。また私と違う名前が呼ばれ、男性が席を立つ。こちらも3位。先ほどから女声、男声の順番で名前が呼ばれている。次こそ私の名前を読みあげてくれないだろうか。でも私じゃない名前、2位の女性が席を立つ。次は男性だろう。その通り名前を呼ばれた2位の男性が拍手に包まれて席を立つ。審査員たちと握手を交わした後、舞台の上のコンテスタントたちの列に並んだ。


そして……ロシア語で次の名前が呼ばれた。私では無い名前が。8人のコンテスタントのうち、残されたたったふたりのうち、私ではない男性が立ち上がる。これまでで一番大きな拍手がマリインスキー2のホールに響き、通訳の英語のアナウンスが聞き取れない。だがおそらくは1位なのだろう。おそらくはたった一人の1位。


泣きそうになるのをこらえるために、私は思いっきり拍手をした。審査委員長がまたロシア語で話を続ける。もう発表は終りとでも言っているのだろう。


『ちょっとここでいつもとは違う発表をしなければなりません』


何だろう? ガラコンの話とか? 私にはもう関係ない話だよね。その後審査委員長がいろいろ話している間に、拍手が起き始める。ロシア語だから何を言っているのかはわからないが、拍手がどんどん大きくなる。そしてロシア語のわからない私にでもわかる固有名詞を審査委員長が叫んだ。


『フブキ・ナガサキ!』


先ほどよりも大きな拍手が起きる。私の前に座っていた人が私に手を伸ばしてきたので思わず握手をしてしまう。何が起きているのだろう?


ともかく私の名前が呼ばれた。そして大きな拍手、英語のアナウンスは全然聞こえない。私が戸惑っているのを察した誰かが私に声を掛ける。


『早く舞台に行かないと』


私はその言葉に促されるように舞台脇の階段から舞台に上った。何が起きたのかまだよくわかっていないが、多分女声の1位になったのだと思う。また大きな拍手に包まれる。


私はほとんどが男性の審査員と握手をして、少数の女性の審査員とは軽くハグする。


『聞き取れなかったのですが、私になにかあったのですか?』


そのタイミングで私は聞いてみた。


『あれ、そうなの? 貴方はピアノと女声の双方で1位になったの。それを先ほど発表していたの』


そ、そうか。ピアノも認められたのか。どうやら、2部門で一位になったコンテスタントということで最後に発表されたらしい。


私は拍手の理由を教えられた後、コンテスタントの列に並んだ。これまであまり接点が無かったけどれど何人かと握手をして、女声のコンテスタントとの何人かとはハグを行った。


それで公式発表はあっさり解散するのだけれど、当然のようにホワイエでマスコミに捕まる。


『ピアノと声楽の双方で優勝したことについてどう考えていらっしゃいますか?』


『正直に言うと拍手で英語のアナウンスが聞き取れませんでした』


聞くところによると、ピアノ側の発表では、1位は別途発表させて頂く、ということだったらしい。それがWebでは「該当者なし」になってしまったそうだ。そして女声の方では、異例だがピアノの1位も一緒に発表します、というアナウンスがあったらしい。私は礼を告げてから元々の質問に答えた。


『優勝したのは結果であって、高い評価を頂いたことは大変光栄だと思います。そして両部門にエントリーしたことは、音楽に垣根は無いと思っているからそれを確かめたかったからです。ピアノと声楽はもちろん、クラッシックとポップスやジャズの間にある垣根もいずれは乗り越えたいと思っています。また複数の部門にエントリーしたことについて、出場時刻など柔軟にご対応頂いた運営事務局の皆さまに感謝を。また時間がずれることについて迷惑をかけた他のコンテスタントの皆さまにも感謝を。そして谷山先生を始め、私がこの場に立つために必要な力を与えてくださった師と先達に感謝を伝えたいです』


私は聞かれたことではなく、自分の言いたいことを返した。


『高校の音楽教師であり、アスリートとしても成功したあなたがコンクールにエントリーされたことについて、どういう目的や意義をお持ちですか?』


『どんな人間も一つの面だけでは語ることができません。あなたもジャーナリストだけではなくて、誰かの家族で、誰かの友達で、何らかの趣味を持っているはずです。そしてそれぞれの場で何らかの、自分の意見なり考えなどを発信しているはずです。私にとってはそれが音楽やバレーボールでした。こうしてコンクールに参加したのは、自分の立ち位置を確認したかったからで、それは十分にできたと思います。教師であり公務員でもある私が、本来の仕事を差し置いてこの場にいることができるのは、生徒であり、その保護者であり、同僚の教師や上司であり、さらには都民の皆さまのご理解があったからこそだと思います』


最後の一言は、私は公務員なので納税者についても触れておいた方がいいだろうと思ってとっさに付け加えた。


『ピアノでも女声でもオリジナル、自作の曲を敢えて演奏されたのは既存の曲では表現できないものがあったからですか?』


『ピアノでも声楽でも伝えられるものはいっぱいあると思います。作曲や作詞もまた、人に何かを伝えるものなので、もし皆さんにも私の何かが伝わっていれば嬉しいです』


質問に危険な香りを感じたので、それを逸らす。


『ピアノと歌唱、どちらが自分の思いを伝えることができると思っていますか?』


『難しい質問ですね。現時点ではおそらくピアノですが、これからまた変わっていくと思います』


矢継ぎ早に、しかも聞かれる質問にできる範囲で丁寧に答える。


『最後にこれからのキャリアについてどう考えてらっしゃいますか』


『私の場合、教師が天職だと考えています。音楽教師は音楽のプロなのかアマチュアなのか、私はこれまでもずっと考えていて、一旦はプロだと思っていましたが、このコンクールに参加したことで、やはりアマチュアだなと思いました。バレーボールもそうですが、今後ピアノや声楽もアマチュアとして積極的に活動していきたいと考えています』


『おめでとうございました。そしてインタビューありがとうございました』


『こちらこそありがとうございました』


バレーボールにも似たような傾向はあるが、海外のマスコミは応対にイチイチ考えなければならない質問をされる。そしてコンクールのスポンサーでもあるロシアのテレビ局のインタビューが終わると、日本のテレビ局の取材がある。


「チャイコフスキーコンクールでも初の2冠、おめでとうございます」

「ありがとうございます」


「今のお気持ちを率直に教えてください」

「とにかくほっとした、というのが正直なところです。ピアノの発表を聞くことができなかったので、webを見たのですが私の名前がどこにも無かったですし、声楽でも拍手で英語が聞き取れず、何が起きたのかわからなかったので。あと率直に、とのことなので口にすると、とても眠いです」


途中で仮眠は取ったけど、今朝早くからバレーボールの実況を教えてもらっていたし、もう真夜中だというのに、明日の昼にはモスクワで表彰式がある。夜にはザリャジエコンサートホールでガラコンがある。まだ聞いていないけど、1位だから絶対に選ばれるはずだ。そして明後日はまたこのマリインスキー2に戻って来てガラコンだ。


「このコンクールで一番嬉しかったのはなにでしたか?」

「コンクール期間中という意味であれば、今日、いやもう昨日か、私が顧問を務めている男女バレー部が東京都大会で優勝したことです」


「なるほど、では最後に生徒の皆さんに一言お願いします」

「半月以上不在にしてご迷惑おかけしました。特にバレー部のみんなはありがとう。あと、日本に戻ったら、すぐに期末試験の準備をしますのでよろしくお願いします」


ちょっとインタビュアーが変な顔をした。


「改めて、おめでとうございました」

「ありがとうございました」


海外のインタビューに比べると、日本のインタビューは条件反射的に答えることができるものが多いので助かるな。私はそう思いながらホテルへの帰路についた。既に普段着だし荷物も持っているので、早足で現地を去る。


場合によってはインタビュー慣れしていないコンテスタントもいるけど、私はバレーでなれているからね。


これでとりあえず今日は安心して寝ることができそうだ。早くホテルに戻って、明朝の列車に乗らなければいけない。ガラコン、何を弾こうかな。本番で使わなかった曲や歌を演じてもよいのだろうか?


その前にみんなに報告しないといけないなあ。もうみんな結果は知ってるだろうけど。歩きスマホは良くないので、ホテルの部屋に戻ったらまず投稿しようと思った。その後は親に電話して、谷山先生にも電話。咲先生と早苗はメッセージでいいよね。それが終わったらシャワーを浴びてすぐに寝よう。

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