01.新任音楽教師(その1)
「赴任前から、いろいろとご迷惑をおかけしておりますが、これからもよろしくお願いします」
4月1日、私こと長崎吹雪の社会人としての最初の仕事はまず挨拶から始まった。上司である校長と副校長には事前に顔合わせをしていたが、こうした挨拶によって、私もちゃんと教師になったのだという思いを新たにした。
私の場合、本当に様々な迷惑をかけることがわかっているので、下げれる頭は下げておいた方がいい。179cmある体をできるだけ屈めて挨拶をすると、校長も副校長も笑顔でよろしく頼むよ、と言ってくれた。校長室には他にも何人かの教師がいるが、彼らは他の高校からの転任者。新米教師は私だけだ。
こうして校長室で簡単な任命式が終わると、全員でぞろぞろと職員室に行き、そこでもまた先輩となる先達に挨拶をする。
「本日、本校、都立大前高校に新任で参りました長崎吹雪です。諸先輩方にはにご迷惑をおかけしますが、よろしくお願い致します」
好意的な温かい拍手に包まれるのが嬉しい。当然ながら私の変な立場は、事前に全員に伝えられているのだろう。
そして、今後同僚となる先輩教師たちに混じって、一人だけこの学校の教師でない人がいる。昨日までのこの学校の音楽教師、すなわち私の前任者だ。普通なら今年もまだ異動せずにこの高校で働くはずだったのに、新任の私をここに置くために追い出された形だ。それなのに自分の新たな赴任先ではなく、こちらに引継ぎに来てくれたのだ。真面目で誠実な中年女性である。
私は音楽教師なので、職員室には席がない。音楽室の横に音楽教官室があって、そこが一人しかいない音楽教師である私の根城になる。前任者にそこに連れられて、引継ぎを受ける。この部屋には廊下に面したドアともう一つドアがあって、そちらから防音扉を越えて音楽が聞こえてくる。あの扉の向こうは音楽室だ。今日も部活があるのだろう。
この学校は1学年8クラス、計300人程の学生がいる。そして2クラス合同で芸術の時間があり、生徒それぞれが、音楽、美術、書道のいずれかを選択する。例年半分弱の生徒が音楽を選択するというので一回の授業で教えるのは30人ぐらい。それが1年生は週に2コマ、2年生は1コマ、3年生になると芸術の授業は無くなる。
だから週に受け持つ授業数は週に12コマしかない。1日2時間ぐらい教えたらいい。準備に同じだけの時間をかけても1日4時間。そう考えると随分楽な仕事に思える。
「その代わり他の仕事がいっぱいあるわよ。一番わかりやすいのは部活動ね。私は今この隣で練習している吹奏楽部と視聴覚室で練習している合唱部の顧問を務めていたけど、長崎さんは男女バレー部の顧問も兼任するのだから、放課後の方がむしろ忙しくなるわね」
音楽教師が音楽系の部活の顧問を務めるのは当然だろう。だが、私は経験者、というより現役の選手なので、バレー部の顧問も受けざるを得なかった。でも男女両方ってどういうことなのさ。本来はせめてコーチか副顧問になるべきだが、先輩教師に是非にと頼まれてしまったのだから仕方がない。実際には名目上副顧問となったこれまでの正顧問、先輩教師が指導を助けてくれるに違いない。
「この学校は生徒の自主性を重んじていて、吹奏楽部も合唱部も生徒たち主体で頑張ってくれているから毎日顔を出す必要はないわ。高校から音楽を始めた子も少なくないけど、みな熱心に取り組んでくれているわ。でも、早い子だと1年の終わりから受験を意識して辞める子もいるから、人数は多くないわね。もちろん週に何回か足を運ぶ必要はあるし、大会前はスケジュールが厳しくなるわ。バレー部も多分だいたい同じだと思うわ」
私のような大学を出たばかりのルーキーが、こんな高偏差値の名門都立高校に配置された理由の一つがこれ、あまり手のかからない生徒たちがいる学校ということだ。都立中高の新米音楽教師たちの中でも、私は明らかに優遇されている。
私自身は中3の夏には私立の推薦が決まっていたから、高校入試のことは良く知らないけど、この大前高校が我が母校、群星高校より偏差値でいうと軽く10以上も上の高校であることは知っている。音楽史とか無事勤まるかな。
前任者は楽にするように言うが私は不安だ。不安じゃない新任教師なんていないと思うけど、全国広しと言えど、私程不安な新任はいないんじゃないか? いや私本人よりも、私をフォローする先輩達の方が不安かもしれないが。
「他にはいろいろなイベントが入って来るわ。文化祭とかはもちろんだけど、他にもなにかしらイベントがあると伴奏したり、指揮をしたりすることがあるわ。長崎さんは藝大のピアノ科出身だから演奏も指揮も問題ないわよね。他にも生活指導とか、行事の準備や裏方とか、出張や病欠の先生のクラスに行ったり、問題を抱えている生徒のケア、つまりカウンセリングや家庭訪問もするわ。それまでまったく接点のない生徒の自宅を訪問したりするの。副教科の教師は結構いろいろな仕事があるのよ。講師の待遇の悪さはたまに報道されるけど、教師はその代わりにいろんな仕事をこなさないといけないの」
講師はアルバイトのように扱われ、雇用は不安定な上給与も低い。それは大きな問題だが、それは教師が楽に遊んでいるというわけではない。私も一応その手のことを調べてはいたが、前任者から聞くことでよりリアルに感じる。
「あなたも副担任は持つでしょう? そのうち担任も回って来るわよ。あなたの場合、いろいろと特殊だから実際のところどうなるかはわからないけど」
音楽教師はこの大きさの都立高校には一人しかいない。それでも副教科だから、受験に必要な科目の教師たちよりは随分と楽なのは紛れもない事実だ。だから空き時間に彼らがこなせない仕事の穴を埋めるのも大切なこと、ましてや、これからあれやこれやと世話になるのだから当たり前だ。
前任者は授業も部活もしっかり記録を残してくれており、さらに簡単ではあるが重要事項だけを簡潔に書いた虎の巻をわざわざ作ってくれていたので、それを見ながら引継ぎを受ける。最後に連絡先まで書いてくれている。これらは大変ありがたいことだ。前任者次第ではなにも引継ぎを受けない状態のまま、新米教師が教壇に放り出されることがある、そうネットの海で聞いていた私は大いに勇気づけられた。
それらが終わって、では隣へ行きましょうかと、廊下ではなく音楽室に通じるドアに目を向けられる。初めて生徒たちの前に出る。これが私の「教師」としての第一歩だ。私は覚悟を決めてうなずいた。