手を振る彼女
私がいつも乗っているのは普通電車で、一駅ごとに停車するため住んでいるマンションまで30分近く掛かる。
転職したばかりで慣れない作業の連続だったこともあってか、座席に座れる日は必ずと言っていいほど居眠りをしてしまい、終点まで起きないこともざらだった。
その日も疲れ切った私は擦り切れた鞄を抱え、うずくまるようにして椅子に座った。車窓の外の空は夕焼けがすっかり端へ追いやられ、星のない重い夜が広がっている。一駅ごとに停車する普通電車特有のゆったりとした振動に揺られ、私はあっという間に眠りに落ちた。
夏の夜特有の湿った土の匂いに目を覚ます。電車は停止しており、車両には私以外の人はいない。まさかまた乗り過ごしてしまっただろうか。慌てて時計を確認するが、どうやらまだ降りる駅には到着していないようだ。他の電車が通過するのを待っているのか、電車はなかなか発車しない。
切れかけの電灯が数個あるだけの薄暗い駅に、1人。淡い黄色のワンピースを着た女が柱に寄り添うようにして立っていた。女は私の視線に気が付いたのか、おもむろに手を振った。ゆら、ゆら、と暗闇の中で白い手が振り子のように揺れる。
知り合い、だっただろうか。私は曖昧な笑みを浮かべ、小さく会釈を返した。長い黒髪のせいで顔は見えなかったが、僅かに覗く薄い唇がゆっくりと弧を描いた気がした。しかしはっきりと確認する前に発車のベルが鳴り、電車のドアが閉まってしまった。私は少々引っ掛かりつつも、家に着くころにはそんなことはすっかり忘れてしまっていた。
まただ。
私は説明できない違和感に、腕を擦った。あれから3日に1日程度の頻度で、同じ格好、同じ位置に立っている女を見かけるようになった。この後にくる電車を待っているのか、女がこの電車に乗ろうとすることはない。だが、私を見つけると、女はいつもこちらに向かって手を振った。
その日は繁忙期なこともあり、帰路につけたのは夜半も近い時間帯だった。時間が時間なこともあってか、電車には誰もいない。例のごとく座席に座るなり眠ってしまった私が目を覚ましたのは、いつも女が立っているあの駅だった。女は相変わらず、柱に寄り添うようにして立っている。だが、おかしい。この電車は最終で、このあとの電車は回送しか通らないはずだ。にも関わらず女がこの電車に乗る様子はない。
おかしい、変だ、絶対変だ。
曖昧だった違和感が、はっきりとした気味の悪さと恐怖に変わっていく。
女がゆっくりと手を上げ、私に向かって手を振る。最初はいつものようなゆら、ゆらとした動きだったのが、どんどんどんどん早くなっていく。髪を振り乱し、体がぐらぐら揺れる。それでも薄い唇は弧を描いたままだ。私はそんな女を呆然と見つめていた。唐突に、女の動きが止まった。そして中途半端な位置で止められた腕が、重い音を立てて落ちた。続けて脚、もう片方の腕が落ち、最後に黒髪に包まれた頭が、異様な音を立ててへこんだ。今度こそ、私は力の限り絶叫した。
気が付くと、私は最寄り駅のホームに立っていた。
次の日から私はバス通勤に切り替えた。
後から聞いた話だが、少し前にあの駅で人身事故があったらしい。事件性はなく、自殺だろうと。事故に遭った女の体はバラバラになり、まだいくつかの部位が見つかっていないとか。
今でも時々バスの停留所に淡い黄色のワンピースが見えるが、私が顔を上げることはもうない。