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真実の愛のために、婚約破棄してください! 〜王子の背中を押したわたしは、【魅了の魔眼】の持ち主でした〜

作者: ホタル

短編小説三作目です。

よろしくお願いします。

「ーー決断の時ですよ、ノエル殿下」


 わたしはそう言って、微笑みながら紅茶の入ったコップに口を付けた。

 本来なら伯爵令嬢かそれ以上の身分の女性にこそ似つかわしい優雅な所作で、わたしのような男爵家の娘、しかも母の再婚でやっと貴族に仲間入りした元平民じゃ、いくら上品にやっても、『生意気』と言われてそこでおしまいだ。

 でもそれがどうした。知るか。


 わたしは好きなようにやる、いつものように。それだけのことだ。


「……ふむ」


 王国学園三年生で、学園生徒会の会長、そして我が王国の王太子でもあるーーノエル殿下。

 彼は言葉ではなく、濡羽色の髪を掻きながら、困った唸り声で答えた。

 どうやら、まだ決心はついていないようだ。それでもわたしは、勝利したように口角を揚げた。


 半年前なら、わたしのような男爵家の娘が王太子のノエル殿下と言葉を交わすことは、想像すらできなかった。

 それが今はどうだ。ノエル殿下の婚約者、あの公爵令嬢グロリアさまでさえも、こんな風にノエル殿下と対等に会話する事ができないでしょ。

 これだけでも、わたしの完全勝利とも言えた。あとは、如何にノエル殿下の背中を押すかだけだ。


「王国学園から卒業すれば、殿下の人生の軌道はもう変えられません。グロリアさまとの結婚式を挙げ、夫婦となる……こうなったらいくら後悔しても、グロリアさまに縛り付けられたままの人生はもう死ぬまで、一生続きます。それが嫌でしたら、卒業式の夜会でグロリアさまと婚約破棄してください」


「婚約破棄?!その、もっとこう、穏便な手段は……」


「穏便?殿下、寝言はお寝んねの時だけに言ってください。貴方様が逆らおうとする人生設計は、陛下によって決められたものです。言い換えれば、王国そのものを相手に反逆を起こす、戦争ですよ。それを『穏便に』済ませられると思いますか?」


「しかし、しかし……!!本当にお前の計画通り、そう上手くいくのか?!」


 ノエル殿下の端正な顔が苦渋の表情に満ちて、尋ねる。


「それについてはご安心ください。ネズミを獲るならネズミ捕り、トラを獲るならトラバサミ。真の狩り人にとって問題はいつだって獲物のサイズではなく、獲物がちゃんとトラップに掛かったかどうかなのです。そしてグロリアさまは間違いなく、バッチリトラップに掛かりました、わたしが保証します」


「でも相手はマンモスーー三大名家の一家、フォーマント公爵家の一人娘だぞ?!」


「それでもです。正しいトラップを仕掛ければ、マンモスだってドラゴンだって、狩ってみせます」


 啖呵を切って、わたしは紅茶を一口含んだ。

 ……王室御用達の茶葉、やっぱりめっちゃ美味しい。これが飲めるだけでも、ノエル殿下が会長を勤めている学園生徒会の役員になった甲斐があったよ。


「それによくお考えください、ノエル殿下」


 わたしは更に言葉を畳み掛けた。


「片方は何の恋愛感情も持っていないくせに、陛下に決められた正式な婚約者という身分だけで、いつまでも胡座をかいて、綺麗事ばかりのお説教ウーマン。片方は貴方様の苦悩や葛藤をちゃんと理解し、結ばれないと分かっていながらも、全てを貴方様に捧げると誓った、まさに真実の愛。男として、人間として、どちらを選ぶべきか、殿下もお分かりなのでしょう?」


「しかし、父上と母上はきっと俺とグロリアの婚約破棄を認めてくれないだろう……」


「だから何ですか。諦めるのですか?」


 本日二度目、わたしはノエル殿下の話の腰を折った。


「いい歳をして、いつまで人生を他人に握らせるつもりですか。貴方様がご自身のために動かないのなら、誰が貴方様のために動くのですか。それとも陛下ご夫婦を悲しませたくないのですか?それはご立派な心持ちですね。お二人はノエル殿下の幸せではなく、ただ王家の権力を固めるためだけに殿下とグロリアさまとの婚約を決めましたというのに」


 コップをテーブルの上に置き、わたしは立ち上がり、優柔不断なノエル殿下に別れを告げる素振りを見せた。


「それでも決心がつかないのなら、どうぞご自由に、この話はなかったことにしましょう。では、ご機嫌よう、そしてさよなら」


「待って待って待って。分かった。分かったよ!」


 そしたら案の定、ノエル殿下はわたしの手を掴み、引き留めた。

 よし、勝った。しかし、まだだ。

 まだ笑っちゃダメだ。


「何が分かったのです?」


 わたしは敢えて仏頂面で振り返り、冷たくノエル殿下を見下ろす。


「お言葉ですが、ノエル殿下のために命を張るのは、わたしですよ?ええ、分かっていますとも、ただの男爵家の娘ですから、それほど価値のある命ではないでしょ。しかしそれでも、覚悟もできていない男のために棒に振るほど軽くないですが?」


「分かったってば。やるよ、やってやるよ。1ヶ月後……」


 深くため息を吐いて、ノエル殿下は毅然とした眼差しでわたしを見つめ返す。


「1ヶ月後の卒業夜会、グロリアに婚約破棄の旨を伝える。そしてその後……」


「ーー申し訳ありません、遅れてしまいました!!」


 残念なことに、決意に満ちたノエル殿下の言葉は、また腰を折られてしまった。

 今日で三度目だ。


 しかし今回、それをやってしまったのはわたしではなく、生徒会室のドアの方から新たに現れた人物だ。

 慌ててドタバタと生徒会室に入ってきたのは、これもまた眉目秀麗な生徒であった。


「ルディアン、ただいま入ります!」


 スラリとした線の細い躯体は、縦の線を基調にした王国学園の男子制服で更に強調され、完璧なまでの人体比率を映し出す。

 そして少年らしさが残っている美しい顔立ちと、肩のあたりに揃えられた燃えるような赤髪の対照がまた、とてつもなく輝かしい。


 美少年よりも美少年なその声の主は、ノエル殿下の側近の一人の、ルディアン・リットリオンくん。

 わたしと同じ二年生で、生徒会の役員仲間でもあるんだ。


 ルディアンくんの祖父ーージルハート・リットリオン辺境伯は、四十年前の護国戦争で王国に勝利をもたらし、一代にして無名な子爵から一躍辺境伯に成り上がった戦争英雄。

 グロリアさまの家、フォーマント公爵家を筆頭とした伝統派貴族が護国戦争で連戦連敗する中、多くの新興貴族を纏め上げて侵攻してきた帝国軍を撃退したリットリオン辺境伯は、今は歴然とした新興派貴族の代表人物だ。

 そんなリットリオン辺境伯は今年で六十五になる。まだまだ壮健ではあるが、その後継者として指名されたルディアンくんは既に将来新興派貴族を率いるため、生徒会でノエル殿下の手伝いをしながら学園で剣術の稽古を受けているんだ。


「殿下、申し訳ありません、先ほど先生方から呼び出しを食らったため、生徒会の勤めに遅れてしまい……」


 遅刻の理由を慌てふためく述べるルディアンくんだったが、しかしノエル殿下が縋るようにわたしの手を掴んでいるのを見た途端、学園で殿下と人気を二分するほどの綺麗な顔は明らかに嫌悪の色に染まり、眉を顰めた。


「リリィ・ルイズベル、また君か……!殿下!何度も申し上げましたが、この何を狙っているのかもわからない女と二人きりになるのは、おやめください!殿下には正式な婚約者、グロリア様がいらっしゃるではないか!グロリア様を邪険に扱い、こんな素性不明な女とばっかり仲を深めては、殿下の評判を落としかねません!!」


 いやー、嫌われてんな。


 まぁ、理由は分からなくもないが。

 実際ルディアンくんの言う通り、最近のところ、ノエル殿下はわたしとばっかりつるんでるせいで、“婚約者を蔑ろにして元平民の女に現を抜かす浮気王子”と、社交界では彼の信望が地に落ちているらしい。

 そういうわけで、誰よりもノエル殿下に対して強い忠誠心を抱くルディアンくんが、主の名声を傷つけたわたしのことを目の敵にするのはまぁ、至極当然なことだ。


「よせ、ルディアン。リリィは俺の、そしてこの生徒会の大事な仲間だ。彼女のことをそんな風に言うのは、やめてほしい」


 しかし、残念だね、ルディアンくん。キミのその至誠の心はまったくノエル殿下に届いていないようだ。くくくっ。

 何故なら、【()()()()()】を持つわたしにとって、人の心の隙間に付け込むのは何よりも容易いことだ。

 最早ノエル殿下の側近たちは、ルディアンくん以外全員わたしの言いなりなのよ。


 とは言え、わたしだって乙女心を持っている。いつまでもルディアンくんのその端正な顔に睨まれては、心が持たない。

 ノエル殿下もついにグロリアさまとの婚約破棄をする決心がついたみたいだし、わたしの目的はもう達成した。ここは一旦退くことにしよう。


「ふふ、そんな顔をしないでください、ルディアンくん。わたしは誰からでも、ノエル殿下を取るつもりはありませんよ。それでは殿下、1ヶ月後の詳細は追々決めるとして、今日はここまでにしましょう。ご機嫌よう」


 わたしはくすっとルディアンくんに微笑みを見せながら、ノエル殿下に一礼を取って、生徒会室から出て行った。


『……殿下、どうか目を覚ましてください!!その女はただ殿下の身分を見て、殿下に近づいただけだ!彼女を傍に置いて、もしグロリア様とフォーマント公爵家のご不快を買ってしまったら、殿下だって危ないんだよ?!ボクは殿下のことが心配で……!』


『……はあ。だからなぁ、ルディアン、俺は言ったはずだ。リリィは大事な仲間だと。俺らの関係はそれ以外のなんでもない、これ以上要らぬ勘ぐりはやめてくれ』


 そして生徒会室のドアを閉めた途端、その向こうでノエル殿下とルディアンくんの論争がまた始まったらしい。

 しかし聞こえてきたルディアンくんの危惧があまりにも的外れで、可笑しくてなったわたしはつい、誰もいない廊下で小さく笑い出した。


「あはっ……」


 もし誰かに聞かれてしまったら、さぞ気味悪い笑い声だと思われるんだろう。しかし笑わずにはいられなかった。

 王子の身分?ルディアンくん、違うよ。わたしが欲しいのは、そんなちっぽけな物じゃないよ。

 わたしが目指すのは、もっともっと大きく、この王国を根本的に変える物だ。


 見ているか、お母さん。

 貴女はこの【魅了の魔眼】の力を恐れ、それを拒んでしまった。しかし貴女と違って、この力を受け入れたわたしは、今からこの世界を変えてみせる。


「あははははは……!」


 ああ、愉快。実に愉快だ。早く来てくれないかな、卒業夜会。もう、1ヶ月後、グロリアさまが婚約破棄されるのが、待ちきれないよ。



 %%%%%%%%



 月日が経つのが早い、気付いたらやってきてしまいました1ヶ月後、卒業式の夜会だ。


「グロリア・フォーマント!」


 夜会会場のど真ん中、同じく伝統派の家の友人と談笑する公爵令嬢グロリア・フォーマントさまに、ノエル殿下は高らかにその名を呼んだ。


 ノエル殿下の右側に、わたしはその近くに付き添っていた。

 そして反対側には、騎士団の凛々しい礼服装束をしているルディアンくんも、殿下の傍で付き従っている。

 そんなルディアンくんは先ほどからわたしの存在が不審そうに、チラチラとこっちに睨みをきかせている。

 しかし流石に公の場だけあって、生徒会室にいた時みたいにはっきりとした敵意を向けて来ることはなかった。


 ふふ、本当にお気の毒な人。これから訪れる嵐に全く気付いていないんだから。


「あら、殿下、ご無事そうで何よりです。わたくしのエスコートに全くいらっしゃってくれませんでしたもの、何事かと思っていましたわ」


 嵐に気付いていないお気の毒な人がまたここに一人、グロリアさまはトゲのある言葉でノエル殿下の呼び掛けに返事した。


 嫌な意味で何度も交流があったが、グロリアさまのことはやはりいつ目にしても、流石にノエル殿下の婚約者に選ばれるだけはあったと、思わずにはいられなかった。

 顔立ちは美人そのもので、所作は優雅そのもので、佇まいは高貴そのものだった。

 もし、彼女がもうちょっと人当たりが良く、もうちょっと愛想良くしていれば、いくら【魅了の魔眼】があっても流石のわたしもここまでノエル殿下と仲良くなる事はなかった。


 でも気に入らない相手にグロリアさまは本当に容赦がないんだよな、それが。

 いつもノエル殿下の側にうろちょろしているわたしのことが目障りだったのか、学園にいた時、彼女から苛烈な小言や嫌味を浴びせられたのも一度や二度だけのことではなかった。

 そして相手がノエル殿下でも、殿下が言い返さないのを良いことに、言いたい事は遠慮なく言っているらしい。


 グロリアさまのそんなプライドが高くて気が強いところから、彼女は王妃さまから深く信頼されて、伝統派の貴族令嬢の間にも高い人気を誇っているらしい。

 しかしその反面、その性格のせいなのか、せっかく綺麗に生まれた顔は十人中十人が“悪役顔”と評する顔になった。

 まるで御伽噺の中に出てくる、意地悪な異母姉みたいだ。


 実際、今もご一緒にしている友人と共に、突き刺すような視線でわたしのことを睨み付けていた。

 おお、怖い怖い。


「今日の君のエスコートはできないという先触れは出したはずだが……もしや届いていなかったのか?」


「もう過ぎた事ですし、殿下がお気にかけてくださることではありませんわ。殿下こそ、こんな婚約者にもエスコートされない惨めな女、何か御用なのでしょうか?」


「ああ、そうだな……」


 毒のある言葉を投げ付けられたが、それを気に掛ける様子もなく、ノエル殿下はグロリアさまの問い掛けに頷く。

 そして、爆弾を投下した。


「グロリア。すまないが、君とは結婚できない。俺は決心したんだ、これからの人生は本当に愛している相手と共に歩むと。だから、俺との婚約、どうかなかったことにしてくれ」


 冷静な口調で、ノエル殿下は長い間彼をずっと悩ませた心のうちを言葉に変えて、それをグロリアさまに打ち明けた。

 しかしそれを受け取った周りの人々はそう冷静ではいられなかった。


 先ほどから無関心なフリをしながら、実はこっそりと耳を立てていた夜会参加者の貴族たちは、一瞬で全員が『はぁ?!』と信じられない表情をこちらに向けた。

 グロリア様のご友人は泡を吹きそうな表情で、驚愕したまま硬直した。

 ルディアンくんも、『えっ?!えっ?!』と言わんばかりに、わたしとノエル殿下両方の顔を交互に見ていた。


 そしてあの氷のように冷静なグロリアさまでさえ、少しだけは目を見開いた。

 しかしそれも一瞬だけのことで、グロリアさまはすぐその釣り上げた目を細め、ノエル殿下を見つめ返した。


「……わたくしの聞き間違いかしら?殿下は今、わたくしとの婚約を破棄すると仰いましたか?」


「ああ、そういうことだ」


「はあ……」


 グロリアさまはお芝居でもするかのように大袈裟にため息を吐いて、こめかみを押さえた。


「やっぱりそうなりましたか……。殿下はご自身の発言の重大さをご理解しているのかしら?」


「もちろんだ。俺だって沢山悩んで、沢山考えて……」


「考えた結果がこれですか……破棄するかどうかはひとまず置いといて、殿下、こんな公の場でその宣言をなさるのは些か配慮が欠けているのでは?」


 まるで聞き分けの悪い子を諭すように、グロリアさまは言った。


「王子本人に婚約破棄された傷物令嬢。その札を付けられたわたくしは、これから社交界でどんな目で見られるのか、殿下はお分かりなのでしょうか?例え結果的にわたくしに非がなくても、王家に楯突いてまで婚約破棄されたわたくしを貰ってくれる家があるとは思えませんわ。それともわたくしがこれからどうなるのかは、殿下にとって考慮にすら値しないことかしら?」


「そんなことはない!」


 ノエル殿下は、頭を横に振った。


「君に多大な迷惑をかけているのは無論承知している。しかし、この話を秘密裏に進めると、逆に余所にあることやないことを勘繰られ、君に更なる迷惑をかけることになるだろう。だから敢えてこんな風に公の場で宣言するんだ、全ての責任は俺にあることを周りに示すために」


 そして真っ直ぐな眼差しでグロリアさまの目を見て、ノエル殿下はズバッと頭を下げた。


「この通り、誠にすまない。身勝手な頼みを承知の上だが、どうか俺との婚約の解消を受け入れてくれ。もちろん全責任は俺にあるんだから、君に不利益を被った分の弁償はするつもりだし、もし君に想う相手がいれば、その婚約が首尾よく結ぶように俺も全力で口添えする所存だ。だからどうかそれで、首肯いてくれないか?」


「……はあ」


 婚約破棄を言い渡した相手だから、てっきり剥き出しの敵意を向けられることを予想したのであろう。

 だからノエル殿下にこんな風に頭を下げられたことに、流石のグロリアさまもやや呆気に取られた様子だった。


 ノエル殿下はオリーブの枝を差し出した。さぁ、グロリアさま、貴女はどう動く?


 この場でノエル殿下の提案に乗るか。或いは、ここで一旦返事を遅らせて、両家の当主が来るのを待つか。

 どちらも悪くない選択肢だが、流石にこの現状から婚約を継続するのは無理だろう。ならいっそのこと、折角の言質を取った今、ノエル殿下が提示した好条件を了承した方がよっぽど利益になる。


 もちろん徹底抗戦して、この婚約破棄の非正当性を最後まで問い詰める手もある。

 しかしノエル殿下の言う通り、彼女に何の非もないことは既にこの場で公表されていた。ノエル殿下が自ら頭を下げた現状から、これ以上追求してもグロリアさまにとって、そしてフォーマント公爵家にとって全く何の利益にもならないだろう。

 そのこと、権謀に長けているグロリアさまが分からないはずがなかった。


 ……ふふ、まぁ、わたしにとって、グロリアさまがこれ以上追求しない方が困るけどね。


 だから彼女を思いっきり煽った。

 勝者が負け犬を、選ばれた女が捨てられた女を見下ろすかのように、わたしは勝ち誇った笑顔を余すことなくグロリアさまに見せた。


「……ッ!!」


 そしたら何て都合の良いことでしょう。わたしのその表情は、バッチリとグロリアさまの視線に捕捉された。

 困惑に満ちた瞳は一瞬でまた怒りの色に染められて、グロリアさまは目を細め、お手本のような悪役顔になった。


「……殿下。一つ、確認させていただいてもよろしいでしょうか?」


「ああ、どうした?」


 冷静に聞こえながらも、ブツブツと沸騰しそうな怒気がいっぱい篭った声で、グロリアさまは顔をノエル殿下に向けその質問を投げかけた。


「ーーわたくしとの婚約を取り消した後、まさかそちらの男爵令嬢を婚約者に、次期王妃に立てるつもりではございませんよね?」


 パッチン。


 まるで獣がトラップに引っ掛かり、仕掛けが作動した時のような幻聴が、わたしの耳元に木霊する。

 グロリアさまがその質問をした瞬間、わたしは彼女が完璧にわたしの設置した罠に掛かったと確信した。


 ーー『正しいトラップを仕掛ければ、マンモスだってドラゴンだって、狩ってみせます』。


 この言葉が偽りではないことを、今からお見せしようじゃないか。


「……男爵令嬢って、リリィのことか。彼女とは関係ないだろう。なぜここでリリィの話になるのだ」


 ノエル殿下は、眉を顰めた。


「あら、わたくしはただ王国の一介の臣民として、この国の行末を案じているだけですわ。もしこんな男に媚びる能しかないアバズレ女が王妃になるとしたら、建国当初から王国にずっと忠誠を誓ったフォーマント公爵家の一員として、流石に見過ごすわけにはいきませんわ」


「アバズレ女って……そんな言い方はないだろう。俺のことはどう言っても良いが、リリィは俺の大事な仲間だ、これ以上の侮辱は許さんぞ。グロリア、リリィに謝れ」


「謝れ、ですって?」


 グロリアさまは軽蔑の眼差しをわたしとノエル殿下に向けた。


「わたくしはただ、真実を申し上げただけなのに、何故謝る必要がございますか?」


「何だと……!!」


「そもそも相手に婚約者があることを分かっていながら、男に色目を使うのは常識としてどうなのかしら?それに聞けば、リリィ様は殿下だけではなく、側近の皆様とも親密な関係をお持ちのようではありませんか。一人だけではなく、複数人の男に同時に媚びるのは、流石に人間性を疑わずにはいられませんわ」


 次々と言葉を吐くグロリアさまは、気付けばだんだんと音量が大きくなり、それを向ける相手もわたしやノエル殿下でなく、周囲に演説しているようになってきた。

 どうやら、グロリアさまは本気でわたしとノエル殿下をここで社会的に潰すつもりだ。


「わたくしとて、こんな自身の品格を下げるような言葉でリリィ様を貶したくありませんでした。しかし、殿下のお側を四六時中我が物顔で占有するリリィ様の言動は、貴族の一人として少々目に余るものではありませんか?正式な婚約者として、わたくしも何度も苦言を呈しましたが、そしたら彼女がなんとお答えになったと思います?」


 まるで全会場のスポットライトが彼女に集まったみたいに、グロリアさまは周りにいる夜会の参加者たちに問い掛けた。


「『殿下はわたしが必要ですから、わたしはその側に一緒にいるのですぅ。グロリアさま、わたしたちの邪魔はしないでくださいますぅ?』と、彼女は言ったのですわ。皆様、これがリリィ・ルイズベル男爵令嬢の本当の顔ですーーこんな身の程も弁えない勘違い女が未来の王妃では、皆様は安心してこの国に暮らせるのかしら?」


『まあ……』


『何てはしたない……』


 グロリアさまの熱弁に対して、観客たちの反応は上々であった。揃いに揃って、わたしの方に非難の視線を向けた。

 おお、良いね、この視線。熱い熱い。というかグロリアさま、何気にわたしの物真似上手だったね。


「言わせておけば、好き勝手なことばかりを……!!」


 場を楽しんでるわたしと違って、ノエル殿下はグロリアさまの言葉にワナワナと怒りで震え上がった。


「殿下。わたくしたちの婚約は両家の政略によって結ばれたもの、そこに愛がなくても当たり前です。自由恋愛に憧れて、リリィ様と青春を謳歌したい気持ちは分からなくもないですが、それでも限度というものがございます。上に立つ者として生まれたわたくしたちは、ただ好き勝手に振る舞っては許されません。身分に犠牲は付き物、そしてわたくしたちが諦めなければならないものの一つは、平民のように自由恋愛する権利なのですわ」


 十八番の正論タイムを披露するグロリアさまに、夜会の参加者の貴族たちはうんうんと同意を示した。

 しかし、ノエル殿下は違った。


「グロリア、今はお前の貴族談議を聞きたいわけじゃない。リリィに謝るんだ」


「はぁ……殿下、忠言耳に逆さからうが、どうか聞き入れてください。何も殿下だけがお辛いわけではありません、わたくしだって普通の貴族令嬢みたいに育ちたかったですわ。しかし殿下の婚約者になったこの十年間、例え王妃教育が辛くてもわたくしは怨み言の一つもなく受け入れました。何故なら民の支えあってこそのわたくしたち、贅沢な暮らしが出来る代わりに、わたくしたちは民に必要な権力者にならなければなりません。それがわたくしたちの背負うべき義務、ノブレス・オブリージュという……」


「ーー良い加減にしろ!!」


 長々としたグロリアさまのお説教は、突如、ノエル殿下の怒鳴り声によって終わりを迎えた。

 横に振り向くと、そこには顔を憤慨で赤くしたノエル殿下が、拳を強く握りしめながら立っていた。


「リリィに謝れと俺は言ったはずだ。なのに君はいつまでも延々と無関係な屁理屈ばっかりを……マルクス!キリアン!バスチアン!お前たちはグロリアがリリィに謝るまで、どこにも行かせるな!」


 ノエル殿下に呼ばれて出てきたのが、ルディアンくん以外の側近たちーー騎士団長子息のマルクスくん、宰相子息のキリアンくん、そして王国正教会の司祭見習いのバスチアンくんだ。

 彼らはノエル殿下の命令に忠実に従い、グロリアさまの両側と背後に立ちはだかった。


 しかしグロリアさまは怯えるどころか、むしろどこか嬉しそうだった。


「皆様、ご覧ください、か弱い女一人を男四人で囲ませる……まるで下町の荒くれ者たちのようですわ。王国の将来を担うはずの者がするようなこととは、とっても思えませんわよね」


 何事もなかったのように、グロリアさまはその演説を継続させた。


「何故こんな暴挙に出るほど、殿下と側近の皆さまはリリィ様に傾倒してしまったのでしょうか。ええ、確かに傍目から見てもリリィ様は可愛らしい女性ではありますが、それでも絶世の美人というわけではございません。いくら男に媚びるのが上手でも、我が国の有力貴族の子息たちが全員揃いに揃って骨抜きになるのは、流石に不自然すぎますわ。それが気掛かりになったわたくしは自分なりに調べて、そしてある確信を持つようになりました」


 “これ以上言っても良いのかしら?”と言わんばかりの挑戦的な目線でわたしを睨み、グロリアさまは勝ちを確信した笑顔になった。


「ーー皆様は、【魅了の魔眼】という魔法の存在をご存知でしょうか?」


 グロリアさまの口からこの言葉が出た瞬間、周りはざわついた。


「目が合っただけで、相手の気持ちなど関係なく強制的に好意を抱かせることのできる、幻の魔法ですわ。平民から王侯貴族まで身分関係なく操られるため、非常に危険視されて、今でも国王陛下に許可された以外の使用は禁じられています」


「お、おい、グロリア!!」


 コツ、コツ、コツ。とグロリアさまはハイヒールで足音を響かせ、ノエル殿下の制止を無視して一歩一歩とわたしに近付いた。


「【魅了の魔眼】の持ち主自体は数百年に一人と言われるほど珍しく、現在我が国で正式的に記録された【魅了の魔眼】の持ち主も一人しかいません。しかし、その持ち主の名前はリンダ・ルイズベル男爵夫人……そう!!ルイズベル男爵が十年前に再婚した相手で、こちらのリリィ・ルイズベル男爵令嬢の母親にあたる人物ですわ!」


 夜会の人々は、さらにどよめいた。


「もしかしたらと思って、わたくしは我がフォーマント公爵家秘伝の、状態異常を探知する魔法薬を学園に持ち込みました。結果はわたくしの危惧通り、ノエル殿下だけではなく、マルクス様、キリアン様、そしてバスチアン様から全員、魅了の魔法に掛かった形跡がありました。そしてこの四人の共通点はと言えば、リリィ様に不自然なまでの好意を抱いていること。これだけの証拠が揃えば、真相はもう誰から見てもはっきりと分かるはずです」


 やがてグロリアさまはわたしの目の前に立ち止まり、わたしと頭ひとつ分の差もある高身長を使って、上から見下ろしながら問い詰めた。


「ーーリリィ・ルイズベル男爵令嬢!貴女は母から受け継いだ【魅了の魔眼】を使い、ノエル殿下及びその側近たちを言いなりにさせて、しかも王妃の座を欲する余りに、わたくしとの婚約を破棄するようにとノエル殿下を唆しました。わたくしの言ったこと、間違いはありませんわね?」


 そんなグロリアさまの迫真な眼差しに見つめられて、わたしは思わず顔を俯けた。

 ああ、もうダメだ。


「さあ!!何か言い訳の一つでも、仰ったらどうなんですか?殿()()()()()()()()()、リリィ・ルイズベル様?」


 ああ。もう、ダメだ……笑いそうになるのを我慢しすぎて、腹筋がもうダメそうになったわ。

 だからわたしは思いっきりの笑顔になって、それをグロリアさまに向けさせた。


「ではお言葉に甘えて。わたしは、目上の相手の許しもなく話し掛けるのは無作法だと教えられましたので、先ほどから沈黙を貫いていましたが、グロリアさまのご質問を発言の許可とお見受けしましたので、お返事させていただきましょうーー『グロリアさま、寝言はお寝んねの時だけに言ってください』、と」


「なッ?!」


 てっきりわたしが慌て出すと予想したのだろう、グロリアさまは不意打ちを喰らったような顔になった。


「確かにわたしの母は【魅了の魔眼】の持ち主です。しかしそれがどうしました?グロリアさまだって、【魅了の魔眼】の持ち主は数百年に一人しか現れないと仰ったではありませんか。それなのにわたしのことを【魅了の魔眼】の持ち主と匂わせようとして……グロリアさま、言動が少々支離滅裂としていますが大丈夫ですか?そもそも殿下たちに好かれたのはわたし自身の努力の成果です。それを“魅了”、“魅了”と否定するのは流石に傲慢すぎるとは思いませんか?」


「リリィ・ルイズベルゥ……ッ!!貴女、あくまでもしらを切るつもりですね……!!」


 グロリアさまは仇を噛み殺すようにわたしの名前を叫んだ。


「ならばわたくしも容赦いたしませんわ!!」


 バッ、とグロリアさまはドレスの下に隠し持っていたある物を取り出し、それを高く掲げた。


「これはフォーマント公爵家に代々受け継がれた家宝【アンドロメダーの涙】、如何なる状態異常でも解除することができる魔法秘具ですわ!!」


「おい、グロリア!君、まさかそれを……!!」


 ノエル殿下はグロリアさまを止めようとしたが、既に遅かった。


「リリィ・ルイズベル!建国当初からずっと王族の方々を状態異常の魔法からお守りしましたこの【アンドロメダーの涙】。今こそ貴女の野望を完膚無きまでに打ち砕きますわ!!ーーーー行け、《スペル・クラスト(異常解除)》!!」


 グロリアさまから魔力を流し込まれ、青い水滴状の魔法秘具【アンドロメダーの涙】は、グロリアさまの手の中で点滅し初め、やがては目を眩ますほどの強い閃光を放出した。


 パリンッと、何かが砕けた音がした。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」


 肩で息しながら、うっすらとした汗と共に達成感の溢れた表情を浮かべて、グロリアさまはノエル殿下の側近たちに尋ねた。


「さあ!マルクス様、キリアン様、バスチアン様!貴方たちはもう、リリィ様の魅了魔法から解放されましたわ!もう一度リリィ様の顔を見て、彼女の存在をどう思っているのか、この場で皆様にお聞かせくださいまし!」


 そんなことを言われた三人は、未だ何が起こったのかも分からない顔で、最初は言われた通りわたしの顔をじっくり見て、そして困惑したまま顔を見合せ、そしてまたわたしの顔を見る、この一連の動きを何度も繰り返した。


「あの……」


 恐る恐ると、やっと最初に言葉を発したのは、騎士見習いのマルクスくんだった。


「リリィのことはやっぱり、普通に有能な生徒会仲間だと思っているんですけど……?」


「……は?」


 魅了の効果が抜けて、目を覚ました彼らが今までの自分の行いを省みてわたしを遠ざけるという、ドラマチックな展開を想定していたのだろう。

 間抜けな声を漏らすグロリアさまだった。


「そうだな、何も変わっていないな」


 引き続き、宰相子息のキリアンくんもせせら笑いながら返事した。


「時折漏れる笑い声はちょっと気持ち悪いが、それを除けば、頭も冴えているし交渉能力もある、彼女は生徒会が欠かしてはならない大事な一員だ。特に生徒会の予算策定の時、リリィはとっても役に立った」


 おい、誰の笑い声が気持ち悪いんだこのメガネ野郎。もう予算書の手伝いしないぞコラァ。


「キリアン、女の子に向けて気持ち悪いとか言っちゃダメだよぉ……」


 おっとりとした口調で、司祭見習いのバスチアンくんも口を挟んだ。


「確かに最初は、邪悪な笑い顔をする子だなぁと思ったけどぉ……でも本当は、休日でも教会の孤児院の子供たちの面倒を見に来てくれる、とっても優しい女の子だよぉ」


 いやぁ、優しい女の子だって、照れるんじゃないか……っておい、誰の笑い顔が邪悪だコラァ。


 生徒会の仲間たちからの評価とわたしの頭の中のツッコミが飛び交う中、グロリアさまは今まで見たことのない表情で、口をあんぐりさせた。


「な、な、な……ッ?!」


 声にならない声で、グロリアさまは生徒会の仲間たち三人とわたしの顔を交互に見て、悲鳴をあげた。


「なぜ魅了の効果が解除されていないの?!そ、そうですわ、もう一度【アンドロメダーの涙】を……!!」


「いい加減にしろよ」


 ペシッと、わたしはまた【アンドロメダーの涙】を発動しようとするグロリアさまの手からそれを叩き落とした。

 カッシャーン。派手な音と共に、【アンドロメダーの涙】は地面とぶつかり、無惨な姿に成り果てた。


「きゃ?!あ、貴女、我が家の秘宝になんてことを……?!」


「グロリアさま、貴女のご質問にお答えしましょう。何故魅了が解除されていないって?それはですねーー最初からわたしは魅了なんか使っていなかったからですよ」


「そ、そんなのあり得ませんわ?!だって、状態異常探知の魔法薬は確かに貴女から魅了魔法の痕跡を……」


「ああ、そうですか。それでは何故、グロリアさまが『如何なる状態異常でも解除できる』と得意げに自慢した【アンドロメダーの涙】は、何の役にも立たなかったのですか?もしかして偽物だったのでしょうか?それと同じ色、形の魔石なら、城下町では二束三文で売っていますが、それを秘宝と奉るフォーマント公爵家は本当にお気の毒ですね」


「いや、違う、偽物なんて……!!」


「もう一度申し上げますが、グロリアさま、わたしが殿下たちに好かれたのは徹頭徹尾、わたし自身の努力の成果です。もしわたしが元平民な男爵令嬢だから、殿下たちに認められることは絶対にあり得ないとお考えでしたら、早急にその古臭い思想を捨てることをお勧めします」


 攻守逆転。

 今度はわたしが一歩一歩前へ進み、満足に反論すらできないグロリアさまが一歩一歩と後ろに下がった。


「先から黙って聞いておけば、ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあと、好き勝手なことを言ってくれたじゃないですか。わたしの母が【魅了の魔眼】の持ち主だから、わたしも【魅了の魔眼】の持ち主だって?はっ!つまり、犯罪者の子供ならきっと犯罪者になる、そう言いたいのでしょうか?考え方がこれほど幼稚とは、次期王妃と聞いて呆れますよ」


「わ、わたくしはそういう意味で言ったのでは……!!」


「そもそも、“民に必要な権力者”だの、”身分に犠牲は付き物”だの……国に貢献といった貢献をしたこともない小娘が、よく偉そうに“ノブレス・オブリージュ”を語れますね。ではお聞きしますが、四十年前の護国戦争、国すらまともに守れなかったフォーマント公爵家は果たして、民にとって必要な権力者なのでしょうか?」


「それは、帝国の攻撃があまりにも卑怯で……!」


「他人のせいですか。フォーマント公爵家の兵の軍糧、防具、兵器は全て、平民の一人一人が地面に這いつくばって必死に働いた成果、言わば血税ですよ?そんな彼らの信頼に応えて、最後の一人になっても国を死守するこそが、貴女の言う“ノブレス・オブリージュ”ではないでしょうか?それなのに、無様に帝国軍に打ち破られた後のうのうと生き延びて、今も知らん顔で民から税を搾取する……なるほど、これが“民に必要な権力者”ですか、勉強になりました」


 わたしが蔑み笑うと、先ほどまではグロリアさまに同調していた周りの人々、特に伝統派の貴族たちは都合の悪いことを叩きつけられて、目を背けた。


「しかも、グロリアさま、貴女は先ほど『例え王妃教育が辛くても怨み言の一つもなく受け入れました』、と仰ったようですね。では聞きますが、貴女には一体どこに怨み言を言う資格があります?生き残ることが精一杯な平民にとって、教育というのは高望みすらできない贅沢ですよ?貴女の代わりに王妃教育を受けたい人間は有り余るほどいるのに、それを嫌々で、義務だから仕方なく受けたように仰って、それは少々傲慢ではありませんか?」


「お、王妃教育を受けた事もない貴女が、王妃教育の厳しさについて何が分かるんですの?!それでも途中で投げ捨てなかったのは、それがわたくしの義務と理解しているから……」


「ーーだからいつまでも義務義務ばっかり言ってんじゃねえええ!!」


 怒りを押さえきれずに、気付いたらわたしは怒鳴りついた。

 きゃあ、と吃驚したグロリアさまは地面に尻餅ついた。


「貴女には、感謝という気持ちがないのですか?!貴女が義務と呼んでいるものは、義務でもなんでもない、ただの幸運ですよ。暑い日や寒い雪の中で働かなくても、贅沢な生活ができる。仕事や家計のことを心配しなくても、教育を受けて知識を手に入れられる。もし人生を選ぶチャンスがあったら、平民は誰だって貴女の人生を選ぶんですよ。選ぶチャンスがないから、平民は平民ですよ。誰でも羨ましがれる幸運を、義務義務と、貴女は一体何様のつもりですか?!」


 怯えた表情を浮かべるグロリアさまを見下ろし、わたしは叫んだ。


「百歩譲ってそれが本当に義務だということにしましょう。だから、なんだって言うんですか?もしかして義務を犠牲と勘違いしているのですか?義務を果たすというのは、だたやるべきことを最低限にやったことですよ。義務を果たしただけの貴女には、道徳的優位で偉そうに他人の人生を指図する資格は全くありません。他人の時はまるで正義の代弁者のように、何もかも“ノブレス・オブリージュ”と押し付けるくせに、いざ自分の場合になったら、義務を果たしただけなのにまるで全てを捧げたように自分陶酔して……貴女には、恥というものはないのですか?!」


「ーーリリィ。もうその辺にしておけ」


 突然グロリアさまに救いの手を差し伸べた男の声で、わたしはハッと冷静になった。

 その声の主は、まさかのノエル殿下だった。


「あ……ああ、わたくしは、わたくしは……」


 今にも泣きそうなグロリアさまに近づき、ノエル殿下は彼女に優しい口調で語り掛けた。


「グロリア、これで君も分かっただろう、リリィは君が思っているようなふしだらな女じゃないんだ。俺たちの婚約の話はこれからでもゆっくり話し合えるから、今はまずリリィを侮辱したことについて謝ろう、な?」


「い……」


 グロリアさまは、何かを小さく呟いた。


「い?」


「いーーーーやですわ!ぜーったいに、いやですわ!!認めない認めない認めない認めない認めない認めない認めない、わたくしは絶対にそんなことを認めませんから!!!」


 今度は何だと身構えたら、あのグロリアさまが、まさか地面で幼児のように駄々を捏ね始めた。


「わたくしが“何様のつもり”、ですって?!貴女こそ何様のつもりですか!何で公爵令嬢のわたくしが男爵令嬢の貴女に説教されなければならないのよ?!散々わたくしの努力と犠牲を否定して!!それでも貴女が王妃に相応しくないことに変わりはないじゃない!!」


 キッと涙目でわたしを睨むと、グロリアさまは声を上げた。


「いいわ、もうこの際、婚約のことはどうでも良いですわ!婚約破棄?謹んでお受けいたします!!でもこれで幸せになれると思わないでよね!!何故なら貴女は所詮男爵令嬢、そう、男・爵・令・嬢ですよ?!ノエル殿下が王太子の地位を固めるために必要な有力な後ろ盾も、この国の王妃として相応しい身分も、貴女には全くありません!男爵令嬢のくせに伝統ある貴族のフォーマント公爵家に楯突いて、現実の厳しさがどれほどのものなのか、その身で存分に味わうと良いですわ!」


 ヤケクソに叫んだ後、何か良いことでも思いついたのか、グロリアさまは残忍な笑顔を浮かべた。


「ふふふ、これから貴女とノエル殿下の二人を待っているのは、地獄ですよ。まず大貴族のフォーマント公爵家を侮辱した罰として、貴女とノエル殿下は身分剥奪されて平民に落とされるでしょう。そんな貴女たちはきっと普通の平民として生きることも出来ず、住処を転々とするも、どの領地に行っても我がフォーマント公爵派閥の傘下にある貴族も決して貴女たちを見逃してくれませんわ!それから、それから……!!」


「あはっ」


 もはや妄想の域に入ったグロリアさまの言葉を遮って、わたしは蔑み笑った。


「な、何よ!その気持ち悪い笑い方!」


「気持ち悪いとは失礼ですね。わたしはただ、グロリアさまが余りにも面白いことを仰いましたので、思わず失笑しただけですよ」


「面白いですって?!わたくしが冗談を言っているとでも?!」


「そんなまさか。天下のフォーマント公爵家がわたしのようなか弱い男爵令嬢を弾圧することに躊躇うなんて、全く期待していませんよ。しかし、確かにわたしにはノエル殿下を守るための有力な後ろ盾も相応しい身分もございませんが、それを持つ方はわたし以外にいますので、グロリアさまはどうぞご心配なく。それよりも、」


 と、わたしはニヤリと口角を釣り上げた。


「ーーわたしの聞き間違いでなければ、グロリアさま、貴女は今しがた、()()()()()()()()()()()()と仰いましたよね?」


「……へ?!あ、貴女、それはどういう……?!」


「ノエル殿下」


 呆気に取られたグロリアさまにはもう目もくれず、わたしはノエル殿下に向けた。


「グロリアさまは婚約破棄を受け入れたようです。さあ、どうぞ真実の愛の告白を」


「うむ」


 ノエル殿下は鷹揚に頷き、わたしの前に立ち止まった。


「リリィ。君のお陰で、俺はやっと好きな人に本当の気持ちを伝えることが許された。感謝する。この恩は、一生忘れない」


「身に余る言葉でございます。わたしはただ、一介の臣民としてなすべき事をしたまでです」


「ああ、そうか」


 短く返事して、ノエル殿下はそれ以上何の言葉も掛ける事なく、わたしの横を通り抜けてーー


 ルディアンくんの前に立った。


「……えっ?」


「ルディアン。俺はこれまで婚約者を持つ男として、王子として、君に対する本当の気持ちをずっと押し隠していた。でもこれでやっと、それを伝える事ができる」


 まるで芸術品を扱っているかのように、ルディアンくんの手を大事に両手で包み込み、ノエル殿下はわたしが今まで見た一番かっこいい笑顔をルディアンくんに向けた。


「ーー俺はずっと、君の事を愛していた。王子として俺は常に王国の利益を最優先にしなければならないが、君のことだけは国よりも大事にすると約束するよ。だからどうかこれからの人生、俺の側で共にこの国の行末を見守ってくれないか?」


 ……愛し合う人の気持ちが通じたこの瞬間、何度見てもやっぱりこの世の中で一番美しい。

 片膝をついて、ルディアンくんの手に軽く口付けするノエル殿下の姿を見て、わたしはまるで我が子の成長を見届けた母のように、思わず目を潤ませた。


 しかしここで、それを邪魔する無粋な人間がいた。


「はああああああああああああーー?!?!?!」


 信じられないといった声を上げるグロリアさまだった。


「何なんですかこの状況は?!殿下はリリィ・ルイズベルと結婚するために、わたくしとの婚約を破棄したんじゃないですか?!何で殿下がルディアンさまにプロポーズしましたのよ?!」


「殿下がわたしと結婚?そんなの貴女の勝手な勘違いに過ぎませんよ、グロリアさま」


 ノエル殿下とルディアンくんのお二人を邪魔したら悪いので、わたしが代わりにグロリアさまの疑問に答えた。


「殿下と結婚なんて、わたしは一言も言っていなかったでしょ?ノエル殿下だって、『リリィとは関係ないだろう』と仰ったではありませんか。他人の言葉に全然耳を傾けてくれないんですから、グロリアさまの思い込みって本当に恐ろしいですね」


「でも貴女、わたくしが婚約破棄された時、嫌な笑みを浮かべたでしょう?!」


「生まれつきの笑顔でね、別に他意はなかったのですよ」


「『殿下はわたしが必要ですから一緒にいる』って、『わたしたちの邪魔はしないでください』って、貴女は前もそう言ったじゃない?!それはどういう意味なのよ?!」


「わたしを敵視しすぎてお忘れになったかもしれませんが、わたしは普通の男爵令嬢である以上に、学園生徒会役員の一人の書記でもありますよ?会長のノエル殿下は“仕事上で書記の"わたしを必要としていて、"その仕事上の関係を"邪魔しないでいただきたい、という意味で言っただけですが何か?」


「はああああああ?!それじゃ学園にいた時、四六時中殿下の側に付き添っていたのは……?!」


「書記のお役目として会長の活動を記録するための、必要な行動です」


「殿下だけではなく側近の人たちとも親密な関係になったのは……?!」


「生徒会業務を円滑に進めるために、同僚と普通に良好な関係を保っただけです」


「きいいいいぃぃぃーー!!」


 甲高い怒りの奇声をあげ、グロリアさまはわたしに迫った。


「リリィ・ルイズベルゥ……ッ!!貴女、わたくしを謀ったわね!これではわたくしは、婚約者が男に取られたせいで婚約破棄されたことになるじゃない……もうっ!!一体何が何なのよ?!」


「ーーそれはボクだって聞きたいよ!!!!」


 地団駄を踏み癇癪を起こすグロリアさまの横で、ルディアンくんも困惑を隠し切れない怒鳴り声で殿下を問い質した。


「ただ夜会で殿下のお供をするだけと思ってたら、いきなり殿下が会場の真ん中でグロリア様との婚約を破棄して、それで殿下がリリィさんと結ばれるかと思ったら、いきなりボクにプロポーズして……もう訳がわからないよ!そもそもボクはお、男だよ?!」


「そうですわ!!殿下が男色家かどうかはともかくとして、男を次期王妃に迎えるなんて、正気の沙汰とは思えませんわ!」


「君たちの言う通りだ。俺の愛する人は俺と同じ男。俺は異常だ。告白してもきっと気持ち悪がられるだけだ。だからこの気持ちを伝える日は永遠に来ない。リリィに出会う前、俺もそう思っていた」


 グロリアさまとルディアンくんの二人に詰め寄られても、ノエル殿下は何の動揺もなく答えた。


「でもリリィに指摘されて、俺は気付いたんだ。一緒にいたいのに結ばれる事ができない、自分の気持ちを押し殺すしかできない。その痛みを知っているのは俺だけではなく、ルディアンも同じだったはずだ。だから、俺は自分の方から、一歩を踏み出そうと決めた」


 愛しそうにルディアンくんの手を握りしめ、ノエル殿下は語った。


「ルディアン、覚えているか。八歳の時、俺とグロリアの婚約が決まったその日のこと。顔合わせの場で俺は逃げ出して、一人で王宮の隅っこに隠れて泣いてた。父上も母上も大人たちはみんな、ただの俺の我が儘だと思っていた。俺がグロリアを気に入らなかったからと、そう決め付けた。でも違ったんだ。俺が泣いたのは、もし伝統派貴族のグロリアと婚約を結んだら、それと対立する新興派貴族のルディアンは俺の側から離れると思ったからだ」


 でも、とノエル殿下は思い出の話を続けた。


「付き人の誰もが俺を探していた中、最初に俺を見つけ出したのは、ルディアン、君だった。俺を責めることも問い詰めることもなく、ただ俺を強く抱きしめた。『殿下の重荷を代わりに背負うことはできませんが、ボクは命果てるまで絶対に殿下のお側を絶対に離れません。お約束します』と、言ってくれた。俺はあの日から、君に惚れていた」


 そして真剣な眼差しで、ノエル殿下はルディアンくんの両目を見つめる。


「それから君は約束通り、俺の側にずっといてくれて、俺を勇気づけた。でも、その代わりに君がどれほどの犠牲を払ったのか、俺はリリィに言われてようやく気付いた。だから今度は、俺が君に恩返しをする番だ。俺は、君が()()()()として生きて欲しいんだ」


「本当の、ボク……?まさか殿下はもう、ボクの秘密に……?!」


「ああ、そうだ。まあ、正確に言うと最初に気付いたのはリリィだが」


「そうか……。あの、ノエル、殿下」


 頬を赤らめて、


「本当にボクがどんなボクになっても、受け入れてくれるのか?」


 ルディアンくんは震えた声で聞いた。


「約束する。君が君である限り、俺は命果てるまで君を愛する」


「……ッ!!」


 ルディアンくんの瞳が喜びと不安の間を揺れ動き、二人の周りに漂う空気も段々とピンク色を帯びていくように見えた。

 しかしここでまた、無粋な人間が邪魔に入った。


「ちょっとお待ちください!!殿下とルディアン様の会話、何かおかしな方向へ向かっているのではありませんか?!」


 切羽詰まった声でグロリアさまが叫ぶ。


「王妃の役目は王を支えることだけではなく、王家の後継者を授けることも大事な務めですよ?殿下はそれをお忘れになったのですか?!殿下がいくら頑張ったって、男のルディアン様が懐妊するのは絶対できませんわ!!」


「いや、だから……」


 何かを説明しようとするノエル殿下だが、グロリアさまはそんな隙を与えなかった。


「ルディアン様も何か言って頂戴!主の過ちを諫めるのは、騎士の貴方の務めでしょう?!そもそもリットリオン辺境伯家の後継者である貴方がノエル殿下とこんな醜聞に巻き込まれたら、新興派貴族がどうなるのか貴方もお分かりでしょう?!ですからその乙女が恋に落ちたような気色悪い顔はいい加減にして、殿下にこんな茶番を辞めるように言い聞かせて頂戴!!」


「気色悪い……ッ!グロリア様!その言葉を撤回してください!!」


 しかしルディアンくんもただでグロリアさまに咎められはしなかった。

 騎士見習いの稽古で身に付けたその力強い声で、ルディアンくんは怒鳴り返した。


「は、はああああああ?!何ですのその態度!!子を授けることすら出来ないくせに、男が男と寄り添うなんて、そんなの気色悪いに決まっているでしょう?!」


「ボクは……ボクは……!!」


 着用している騎士礼服の襟を震える手で強く掴み、呟くルディアンくんの目に覚悟が宿った。

 そしてバッ!と、ルディアンくんは上半身の礼服を脱ぎ捨てた。


「ーーボクは女なんだ!!だからボクだって、ノエル殿下の子を産めるんだ!!」


 その下に晒け出されたのは、騎士の稽古で鍛え上げられた、健康的な肉付きの体だ。

 しかし胸の方は、布にしっかりと押さえられながらも、女性らしい身体の起伏がはっきりと見えた。


『何だと……?!』


『あのリットリオン辺境伯家の跡継ぎが……!!』


『女……?!』


 夜会の人々はざわつき、驚愕の声が嵐の様に巻き起こる。

 しかし幸い、ルディアンくんが実は女の子だったという事実があまりにも驚愕だったため、彼、いや、彼女の発言の後半は綺麗に人々の意識からすり抜けた。


 もっとも、ノエル殿下の言う通り、誰よりも最初にルディアンくんが女の子なのを気付いて、それをノエル殿下に教えたのがわたしなんだから、他の人ほど衝撃を受けていなかった。

 精々、“わぁお……ルディアンくん、大胆……!!”と言う感想を抱いたくらいだ。衆目の前で上半身を晒け出す意味でも、さりげなくノエル殿下との子作りを宣言した意味でも。


「え……え?お、女?え?何で?!」


 怒涛すぎる展開のせいで頭の稼働が停止しかけて、グロリアさまからは断片的な言葉しか出てこなかった。


「ボクの両親はボクが生まれてすぐ急死して、お爺様の後を継げる人間はボクしかいなくなった。だから新興派の者たちを安心させるために、お爺様はボクのことを男として育てた。そんな訳で、ボクは生まれてこの方、一度も女の服に袖を通したことはなかったんだ」


 手に持った上半身の騎士礼服に目を向けて、ルディアンくんは苦笑しながら答えた。


「でもグロリア様、ボクは本当はずっと、女として殿下のお側に居られる婚約者の貴女のことが羨ましかった。今まで何度か女に戻って殿下の婚約者に立候補するチャンスはあったが、ボクはそれらを全部諦めた。何故なら、女の子らしさのかけらも無い自分が、綺麗なグロリア様に勝てるはずがない。女と名乗り出て、結局婚約者の競い合いでグロリア様に負けたら、ボクは殿下の側近から外されて、もう二度と側にいられなくなると思った」


「な、何よ?!そんな全部わたくしが悪いみたいな言い方?!わたくしだって、願って殿下の婚約者に選ばれたわけじゃありませんのに!!」


「いいえ、これはボク自身が決めた道だ、誰のせいにするつもりもない」


 とルディアンくんは頭を横に振った。


「ただボクは今気付いた、ボクがしたのはただの甘えだってこと。この十年間、ノエル殿下はずっとボクのことを男として愛していた。例えそれを打ち明けることも実らせることもできないと分かっていても、ノエル殿下はその恋を捨てることはしなかった。それは、とっても勇気が必要なことだと思う。早々に自分の気持ちに諦めをつけたボクと比べて、殿下はずっとずっと勇気があったんだ」


 だから、とルディアンくんは決意の言葉を口にした。


「だからボクはその勇気に応えたいと思った。殿下、ボクもずっと殿下のことをお慕いしていました。リットリオン辺境伯家の後継者として、ボクは新興派を導く使命を果たさなければならないが、それでも殿下のことだけは誰よりも大事にするとお約束します!だからそのプロポーズ、どうかボクに受けさせてください!」


「そんな、そんなこと、出来るはずがないわ!王家が、リットリオン辺境伯家が、今更そんなことを認めるわけがない……!」


 なお否定しようとするグロリアさまだが、ルディアンくんはさらに力強くそれを否定した。


「出来る!だってボクはリットリオン辺境伯家の騎士にして、ノエル殿下の一番の側近だ!勇気を持っていれば、ボクたちに切り開けない未来はない!!」



「ーーそれがお前の答えか、ルディアン」



 突然夜会の会場に響いたのは、歳月の流れを感じさせながらも威厳のある声だった。

 声がした夜会会場の入り口の方に目を向けると、そこには多くの侍従を連れた二人がいた。

 一人は屈強な体格を持つ、精悍な眼光の老人。

 そしてもう一人は、メガネと無精髭が特徴的な中年男性だ。


「お爺様?!」


「父上!!」


 ルディアンくんとノエル殿下のそれぞれの叫び声が、その二人の正体を示した。

 そう、老人の方はルディアンくんの祖父で、新興派貴族の代表人物でもある、護国戦争の英雄ジルハート・リットリオン辺境伯。

 そして中年の方はノエル殿下の父、つまり国王陛下ご本人だ。


 さて、本物の権力者が出てきたら、これからの流れが何処へ向かうのかは、完全にこの二人次第になる。

 頑張れ、ノエル殿下、ルディアンくん。わたしに出来るのは、ここまでだ。


「先の話は聞かせてもらったぞ」


 周囲の人々が慌てて礼を取る中、先ほどの声の持ち主であるリットリオン辺境伯は人集りを掻き分けて、眉を顰めたままこっちに近づいた。


「ルディアン、以前ワシが確かめた時、お前は女に戻る気がないと断っていたはずだ。にもかかわらず、今更女に戻りたいとでも言うのか?」


「……はい、お爺様」


 自分よりも優れた体格を持つ威圧感の強い祖父に迫られて、しかしルディアンくんは怖気付くことなく答えた。


「我が儘かもしれないけど、ボクはもう自分の気持ちから逃げることをやめた。心に嘘を付くことができても、気持ちを覆すことはできない。だからボクは心の赴くままに、伴侶としてノエル殿下を支える事に決めた!」


「ほぉ……」


 とリットリオン辺境伯は表情を変えることなく、ルディアンくんの手から騎士礼服を取り、それに目をやった。


「つまり、ワシの跡を継ぐ気はもうないというのか?」


「いいえ。たった一人爺さんの血を受け継いだボクが後継者をやめたら、家に、そして新興派の皆さまに大きな迷惑をかけるだろう。この血肉はリットリオン辺境伯家から授かったもの、恩を仇で返すような事はできない。だからボクは女の身分に戻っても、そしてノエル殿下と結ばれても、爺さんの後継者を辞める気は全くない!」


「両方とも欲しいとは、ルディアン、お前は強欲よのう」


「それがボクとノエル殿下の幸せへの道なら、ボクは強欲でも構わない」


「大変な道になるぞ。これまで男として生きてきた人間に王妃が務まるわけがない、これから女として生きていく人間に新興派の代表者が務まるわけがない……お前はそんな伝統派、新興派、そして王家の三方面からのプレッシャーに、耐えられるのか」


「大丈夫だ、お爺様。困難な道だからと歩むことをやめたら、騎士の名が廃る。女でも男でも、ボクはリットリオン辺境伯家の騎士だ。だからボクにできるのは、ただ勇気を持って前へ突き進む、それのみだ!」


 その言葉を聞いて、リットリオン辺境伯はがっしりと、真剣な表情でルディアンくんの肩を掴んだ。

 そして次の瞬間、豪快に笑った。


「がはははは!よく言った、流石はワシの孫、いや、孫娘だ!」


 とリットリオン辺境伯はバシッバシッと、ルディアンくんの肩を強く叩いた。


「そう、その通りだ!ワシが四十年前帝国軍を撃退したのは、奇策も裏技もない、あるのは“ただ勇気を持って前へ突き進む”という心意気!そして人生のどんな苦境に対しても、それは同じことだ!お前にその覚悟ができているのであれば、ワシは安心してお前に全てを任せられる!!」


 そしてその鷹のような目で、夜会に参加している貴族たちの顔を一人一人確認して、リットリオン辺境伯は宣言した。


「皆の者も聞いたな!今日からワシの跡を継ぐのは、孫のルディアン・リットリオンではなく、孫娘の()()()()・リットリオンだ!それと同時に、リットリオン辺境伯家当主として、リディアのことをノエル殿下の婚約者として申し入れる!王家が肯けば、リットリオン辺境伯家はいつでもリディアを嫁がせる準備ができているぞ!!」


「……お爺様!!」


 感涙するリディアくん、いや、今はもうリディアちゃんか。彼女は上半身の肌を晒したまま、リットリオン辺境伯に抱きついた。

 リットリオン辺境伯はただ優しそうな笑顔を浮かべて、手にした騎士礼服をリディアちゃんの上半身に羽織らせた。

 実に素晴らしい家族愛だった。


 そんな光景を目にして、リディアちゃんの側近仲間のマルクスくん、キリアンくん、そしてバスチアンくんは、パチパチと、祝福を送るように拍手した。

 流石に彼らもリディアちゃんが女の子である事は知らなかったが、それでも以前からノエル殿下とリディアちゃんがお互いに抱く特別な感情に気づいていたのだろう、彼らは微笑ましそうな表情を浮かべた。

 それに釣られたように、周りの夜会の参加者たち、特に新興派貴族の者も拍手し始めた。

 めでたし、めでたし。


 さて、リディアちゃんの方は一件落着したし、ノエル殿下の方はどうかな?


「やあやあ、ノエル。やってくれたな」


 ……ノエル殿下は、国王陛下にチンピラのような絡まれ方をされているようだ。

 ノエル殿下の肩に手を回し、ニヤニヤと嫌らしい笑顔を浮かべる陛下に、ノエル殿下は大変困った顔になった。


「いやー、まさかあの大人しいノエルの初めての我が儘が婚約破棄とは。しかも余や王妃には一言も言っていないじゃないか。なるほど、大人しい子ほど恐ろしいことをしでかすとはこのことか」


「……すまない、父上。これは全て俺の独断だ。罰するなら、どうか俺だけにしてくれ」


「罰する?」


 ぷっ、と国王陛下は笑い出した。


「ぷはははは、何だ、ノエル、お前はやっぱり変わっていないじゃないか。幾つになっても、まだあのビクビクして余の言いつけをちゃんと守っているいい子ちゃんだ」


 わしゃわしゃと、国王陛下はノエル殿下の髪を掻き乱すように彼の頭を乱暴に撫でた。


「そう心配するな。王妃は確かに少々ヘソを曲げるかもしれないが、余に至っては全然怒っていないし、お前を罰するつもりもない」


「何故だ……?!俺は、父上と母上が決めた婚約を……」


「お前、昔からわがままを言わな過ぎるんだよ。余がガキだった時はとにかくやんちゃで、お前の母と結婚して王になってから、やっと自分の責任の重さを知った。でもお前はそんな余とはまるで正反対だった。お前は子供の時から責任感が強すぎて、どんなに嫌なことでも大人しく受け入れた。余はずっと、それが心配だった」


「し、心配……?!父上や母上に心配をかけさせたくなかったから、俺は言われたことを全部受け入れたが」


「もしお前が平民なら、それはそれでいいかもしれないが、お前はこの国を導く人間になるんだ。ちゃんと国のことを考えている王なら、時には価値観と信念のために我が儘を通して、描いた理想へ向かって好き勝手にやらなければならない。何の我が儘も言わない王は、ただの操り人形と変わらないんだ」


「何の我が儘も言わない王は、ただの操り人形……!!」


 何か心にピンと来たところがあったのか、ノエル殿下は国王陛下の言葉を繰り返した。


「十年前、お前の婚約を決めた日、お前は確かに一人で隠れて泣いていたそうじゃないか。実は余は期待していたぞ、お前がやっと我が儘を言ってその婚約を断るのを。でもルディアンくん、いや、リディア嬢に連れ戻されたお前はただ、素直に婚約を受け入れた。それが今になって、ようやくお前は自分の意思を貫けた。父である余の決まり事に逆らったお前は確かに子としては失格だが、未来の国王としてお前は合格したーーそのご褒美として、今回、お前の我が儘を認めてやるよ」


「父上!それは、つまり……!!」


 国王陛下はチャラい雰囲気から精悍な国王の顔に変わって、リディアちゃんの隣に立つリットリオン辺境伯に手を差し伸べた。


「リットリオン卿、国王としてそなたの申し出を受け入れよう。そなたは王国のためによく働いてくれた、これを機に我が王家との関係が更に深めることを期待しているぞ。それと、リディア嬢ーー頼りない息子かもしれないが、どうかこれからも今まで通り、彼のことを見守ってくれ。頼んだぞ」


「はっ!ありがとうございます、陛下!ノエル殿下のことは、ボクにお任せください!」


 歓喜の感情を顔中に溢れさせて、リディアちゃんは国王陛下に騎士の礼をとった。

 リットリオン辺境伯も、満足そうに国王陛下と握手を交わした。

 これで全てが円満に終わーー


 ーーらなかった。


「少々お待ちください、陛下!」


 言うまでもなく、グロリアさまだ。


「本当にこれでよろしいんですか?!」


「おや、フォーマント公爵んとこのグロリア嬢じゃないか。どうした、何か申したいことでもあるのか」


「ありますわ!!わたくしとノエル殿下の婚約は、陛下ご夫婦がお決めになったではありませんか?!こんな簡単に反故にして、本当によろしいのですか?」


「いや、だってグロリア嬢も先ほど、婚約破棄の話を受け入れたじゃないか」


 国王陛下は首を傾げた。


「息子の言うとおり、全責任は息子と王家が負うので、フォーマント公爵家にはちゃんと弁償するし、グロリア嬢の新たな婚約にも斡旋してあげる……これで話が付いたはずだが?まだ何か問題があるとでも?」


「し、しかし!!王家はフォーマント公爵家との繋がりが欲しくて、わたくしをノエル殿下の婚約者に選んだはずではありませんか?!それなのに、わたくしとの婚約を破棄したノエル殿下が処罰なしでは、流石にフォーマント公爵家も黙って……!」


「おい、余に指図するつもりなのか。頭が高いぞ」


 突然氷よりも冷たい口調で、国王陛下はグロリアさまの言葉を遮った。


「寧ろ余は聞きたい、その“王家がフォーマント公爵家との繋がりを欲しがっている”云々を、君は一体どこから聞いたんだ。フォーマント公爵家は四十年前の護国戦争で大失態を犯し、この十数年でも領地運営が上手く行かないせいで、領民がほぼ反乱を起こしかけていた。グロリア嬢をノエルの婚約者に選んだのは、フォーマント公爵家の威信に少しだけでも箔をつけて、反乱を防ぐためだったぞ?」


「そ、そんな……お父様からは、そんなことを一言も……」


「アイツは自分の面子が何よりも大事な男だからな。でもこれで君も分かっただろう、弁償を求める立場なんて、本当は君にはないんだよ。今日一日自分の行動を振り返って見たらどうだ。君は余の許可も無くノエルとその側近たちに魔法薬を使ったと自白した上に、この場にいる全員の目の前で彼らに対して魔法秘具を使ったぞ?動機はどうであれ、全部立派な犯罪だ。今ここで裁かなかったのは、君が十年間もノエルの側にいてくれたことに免じてだ」


「わ、わたくしが、犯罪……!!」


「グロリア嬢。余はずっと君を義理の娘のように見ていた、だからこれはせめての助言だ。貴族社会という小さな世界で自己完結するな、もっともっと大きな世界を見ろ。君の両親が可愛い娘に過保護になるのは分からなくもないが、今のままでは君はきっと他人の痛みを理解できずに、一生人の上に立つ人間にはなれないだろう」


 動揺して震えるグロリアさまに、国王は優しく語った。


「君にとって今宵の出来事はきっと辛かったであろう。恥ずかしかったであろう。でもこの気持ちは、きっと君が変わる大きな力になる。今は家に帰って、ゆっくり休むといい。そして明日、君がこの経験で少しでも自分の殻を突き破る気持ちになれたら、また余と王妃のところに来るといい。ノエルの婚約者が誰になっても、余たちにとって君はずっと義理の娘のままだ、君を見捨てることは絶対にしないから」


「わたくしは、わたくしは……うっ、うわああああああああん!!」


 突然、あのプライドが高くて、気が強くて、氷のようなグロリアさまは幼児のように泣き出した。


 もしかしたら彼女もどことなく気付いたんだろう、両親に教えられた“貴族としての矜恃”というのは全てただの偽りの自己満足だったってこと。だからあの様に近寄り難い態度をとって、誰にも彼女の価値観を疑わせる隙を見せなかった。

 でも今日、この夜会で、その世界観は粉々に砕かれた。明日から、彼女は一からこの世界の本当の姿を知らなければならない。


 しかし、やっぱり彼女は運がいい。

 何故なら泣き喚く彼女に、国王陛下だけではなく、ノエル殿下もリディアちゃんも近づいて、優しく彼女の肩を抱いた。

 散々敵意を剥き出しにされていたのに、それでも彼女のことを思って、彼女を叱って、そして彼女のことを受け入れてくれる優しい人間はいる。

 それならきっと彼女は無事、立ち直れる。


 ……本当は、グロリアさまをもっともっと突き落として、地獄の底を見せたかった。

 しかし、この光景を見て、流石にそれはもうできないとわたしでも分かった。

 婚約破棄から始まった真実の愛の恋物語は既に終幕を迎えた。ヒーローのノエル殿下やヒロインのリディアちゃんだけではなく、ヴィランのグロリアさまもそれぞれの形に救われた。

 ならば、ヒーローでもヒロインでもヴィランでも、そのどちらでもないわたしの出る幕は、もう終わった。


 だからわたし、リリィ・ルイズベルは、静かに夜会の会場から姿を消した。



 %%%%%%%%



 ボクは、全力で走った。


 あの卒業夜会の夜から一週間の休みが経ち、三年生になって王国学園に戻ってきたボクは、やることがいっぱいだった。


 まず学園に通う前に、王宮に行って王妃様から朝の王妃教育を受けなければならなかった。グロリア様のことが気に入ってたから、てっきり王妃様はボクに冷たく当たると思っていたが、案外優しくボクのことを可愛がってくれた。

 でもグロリア様の言う通り、やはり王妃教育は大変だった。

 それから学園に行って、騎士の稽古を受け続けなければならなかった。ノエル殿下の婚約者とリットリオン辺境伯家の跡継ぎの両方の肩書きを請け負ったからには、騎士の訓練を疎かにはできないんだ。


 でも一番重要なのは、リリィ・ルイズベルへの謝罪だった。


 リリィはボクが今まで見た一番可愛いらしい女の子だった。小柄で、髪の毛がふわふわで、雰囲気はまるで小動物みたいだった。

 でもいきなり殿下の側に現れて生徒会の一員になった彼女を、ボクは忌避していた。なにを考えているのかも分からないし、たまに漏れる笑い声も不気味だったし、ボクは彼女のことが怖いと思っていた。

 きっと何か企んでいるに違いない。絶対ノエル殿下を誘惑するつもりに違いない。こんな風に、彼女のことを疑っていた。

 でも違った。もし彼女がいなければ、ボクもノエル殿下もきっと自分の気持ちに一生素直になれなかった。


 だから今まで彼女のことを勘違いして邪険に扱っていた分、ボクは彼女に謝りたかった。

 謝って、そしてもしかしたら、彼女と友達になりたかった。


 ……今朝、生まれて初めて女子制服に袖を通したボクは、呑気にそんなことを考えていた。

 でも学園に辿り着いて、側近仲間だったマルクスから聞かされたのは、信じられない知らせだった。


 ーーリリィ・ルイズベルはルイズベル男爵家から勘当され、王国学園からも退学して、今も行方不明のままだ。


 いや、信じられない知らせではなかった。ボクが馬鹿すぎて、思い付かなかっただけだった。

 国王陛下やお爺様の後ろ盾を持つボクやノエル殿下と違って、リリィはただの男爵令嬢という身分で、フォーマント公爵家に楯突いた。

 いくら衰退したとはいえ、フォーマント公爵は大貴族である。そんな相手に喧嘩を吹っ掛けた彼女がどんな結末を辿るのか、想像に難くないはずだ。


 気づいた時、ボクはリリィを探し出すために、学園から飛び出た。


 どこだ、リリィ。君は一体どこに行った?!

 唯一自慢の体力で、ボクは貴族街から城下町のあちこちに走り回っていた。しかしリリィはどこにもいなかった。


 頭の中で、嫌でも最悪な状況を想像してしまった。

 もしかしたら、フォーマント公爵からの圧力でリリィはルイズベル男爵に勘当されて、行く当てもなくなって街中で彷徨っていたところを、フォーマント公爵家に雇われた荒くれ者に拐われて娼館に売り飛ばされて……或いはフォーマント公爵家の暗部に人知れず始末されて……


「……いや、なんか違うな」


 想像していた状況がボクの知っているリリィの人物像とあまりにも掛け離れ過ぎて、ボクは足を止めて、別の可能性を考え始めた。


 ボクの知っているリリィは、確かに何を考えているのかも分からない女の子だ。それでも生徒会での彼女の働きを見て、彼女は後先を考えない人間ではないことは知っていた。

 彼女は戦いを始める前から綿密な計画を立てて、戦いが始まったらブルドッグのように相手が根負けするまで絶対に牙を緩めない人物だ。

 フォーマント公爵家の報復を予想していながら、何の準備もなくただそれを受け入れるとは考えられない。


「もしかしたら彼女は既にこの展開を見越して、逃亡計画を立てていた……?」


 新しい可能性を思いついたボクは、思考転換して、彼女が今一番いそうな場所へ向かった。

 フォーマント公爵家の影響力がまだ大きいこの国にはもういられなくなる、つまり彼女が向かう場所は国外だ。

 そして勘当された彼女が王都から国外へ逃亡するとすれば、手段はただ一つーー


「……中央馬車駅だ!」


 こうして、人々が行き交う中央馬車駅にボクはやってきた。

 しかしそれと同時に、ボクは自分の考えの甘さに呆れた。


「こんな雑踏の中で、彼女を見つけ出せるわけがないんだよな……」


 国内外の各地から王都にきた人間。王都から国内外の各地へ向かう人間。

 その全員が一箇所に集まる中央馬車駅で、いるのかも分からない一人の女の子を探し出すのは、もはや無謀だ。

 ははぁ……、と乾いた笑いを漏らし、ボクは馬車駅のベンチにもたれかかった。


 そもそも、ボクも思いつけるくらいなら、フォーマント公爵家の人間だってリリィの動向を予測できたはずだ。

 そしてフォーマント公爵家の人間の何歩前を歩いているリリィなら、尚更まだここに留まっているはずがなかった。


 そう、考えた途端ーー


「あ、ルディアンくん改め、リディアちゃんじゃないですか。男子制服は似合っていたけど、女子制服もかわいいですね」


 突然、隣の人に話をかけられて、びっくりして顔を声の方に向けると、そこに彼女はいた。

 小柄で、髪の毛がふわふわで、雰囲気はまるで小動物みたいで、でもやっぱりなにを考えているのかも分からない彼女は、いつの間にかボクの隣に座っていた。


「あはは、幽霊にでも会ったみたいな顔、おもしろーい」


「な、な、な……?!」


「何故フォーマント公爵家に追われるわたしが、呑気にこんなところにいるって聞きたい顔をしていますね。でも心配しなくてもいいよ。だってフォーマント公爵家の暗部の人は全員男ですから」


 ……どういう意味?

 そう聞きたかったが、リリィは既に次の話題へと進んだ。


「それで?リディアちゃんはわたしのことを探して、ここに来たんでしょう?何か用でもあるんじゃないですか?」


「あ……そうだ。ボクはずっと、リリィに謝りたかった」


 まだまだ疑問はいっぱいあったけど、ボクはとりあえず一番の目的を伝えた。


「うん?謝る?何で?」


「今までボクはずっとリリィのことを疑っていた。美貌を使って、ノエル殿下を籠絡して玉の輿を狙っていると邪推していた。でも本当は、リリィはボクとノエル殿下の気持ちが通じ合うように、あちこちに働きかけたと殿下から聞いたんだ。だからボクはリリィに謝らなければならないと思ったーー本当に、ごめん、リリィ」


「あはっ、何だ、そんなことか。別にいいのに。わたしはただ自分の復讐のために、自分の好きなようにしただけですよ。リディアちゃんとノエル殿下が幸せになったのは、偶々その結果です」


「えっ、復讐?!」


 不穏な単語が出てきて、ボクは思わず聞き返したが、でもリリィは直接は答えてくれなかった。


「ねぇ、リディアちゃん。わたしがどうやって、貴女を女の子だと見破ったと思う?」


「え、それは……リリィの観察眼が鋭かったから?」


「あははは、褒めてくれるのは嬉しいけど、リディアちゃんはもうちょっと自信を持ってもいいんですよ。わたしが言うのもなんだけど、貴女の男装は完璧だったんです」


 リリィは楽しげに笑って、答えを教えた。


「それでは、正解はーーじゃんじゃん!!わたしは【魅了の魔眼】の持ち主ですから!!【魅了の魔眼】は男にしか効果がないから、リディアちゃんに魅了がかからないと分かった瞬間、すぐに女の子だと気づきました!」


「そうか、【魅了の魔眼】かぁ……って、えええええええ?!?!【魅了の魔眼】?!?!」


「あはは、リディアちゃんってば、本当に反応が一々面白いね。もっと早く仲良くなれればよかったのに」


 笑うリリィの顔に、一抹の寂しさが見えたが、それもすぐに何処かへ消えていた。


「そう、わたしとわたしのお母さんはこの国でたった二人の【魅了の魔眼】の持ち主ですよ。でも正式に【魅了の魔眼】の持ち主として記録されたお母さんと違って、わたしが【魅了の魔眼】を使えるのを知っているのはお母さんとお父さん、それとリディアちゃんだけですね」


「えっ、それじゃグロリア様の言う通り、リリィは本当に殿下やマルクスたちに魅了をかけた……?!でも、グロリア様の【アンドロメダーの涙】は効果がなかった?え?つまりグロリア様が持ったあれは偽物?」


「そんな複雑なことじゃないですよ。【アンドロメダーの涙】は紛れもない本物だったし、わたしが殿下たちに魅了をかけたのも事実でした。でも、グロリアさまはわたしの力を誤解していました」


 リリィはボクにも分かるように、彼女の力を説明してくれた。


「確かに魅了の出力を最大にしていれば、殿下たちをわたしの言いなりにすることだってできました。でもリディアちゃんの言ったように、『心に嘘を付くことができても、気持ちを覆すことはできない』。魅了とはまさに他人の心に嘘をつく力です。そのことに気付かず、ただ力に溺れて周りの男たちを良いように扱って、結局魅了の効果が掻き消された後、男たちに返り討ちにされる……それが、殆どの【魅了の魔眼】の持ち主が辿った結末でした」


「でも、グロリア様が【アンドロメダーの涙】を発動しても、殿下やマルクスたちは相変わらずリリィに好意的な態度を持っていた。それはどうしてなんだ?」


「違う力の使い方をしていたのですよ。わたしが【魅了の魔眼】を使ったのは、ノエル殿下たちに出会った最初の頃だけで、その出力も最小限に抑えていた。だからその効果は、精々他人よりちょっとだけわたしに興味を持った程度です。それをきっかけに生徒会に入れて貰えたけど、そこから殿下たちの信頼を勝ち取ったのは、全部わたしが頑張って自分の価値を証明した結果です」


 だから、とリリィは結論づけた。


「だからグロリアさまが【アンドロメダーの涙】を発動した時、確かにわたしが最初に使った魅了の効果は掻き消された。でもそれはあくまでわたしが殿下たちに信頼されるきっかけに過ぎず、例え魅了の効果がなくなっても、今まで積み上げた信頼関係は消し去られたわけではありませんでした」


「そうか……」


 ボクはリリィの説明に納得しかけたが、すぐに新たな違和感を感じ取った。


「でもちょっと待って。何故リリィは最初からそんな魅了の使い方をしていた?別にリリィの人格を疑っているわけじゃないが、せっかくこんな強力な力を持っているのに、敢えて最小限に使うのはおかしいじゃないか。つまり……リリィは最初から、【アンドロメダーの涙】の存在を知っていた?」


「うん、もちろん知っていましたよ」


 とリリィは当たり前のように頷いた。


「わたしのお母さんから両目を奪ったのは、あの【アンドロメダーの涙】ですから」


「リリィの……お母さんを?」


「うん。あのね、わたしのお母さんはね、画家だったんですよ」


 とリリィはゆっくりと語り始めた。


 リリィのお母様ーーリンダ・ルイズベル男爵夫人は、画家だった。

 平民に生まれて、魔法も使えなければ、魅了のみの字も知らなかった。

 しかし彼女は、貴族お抱えの画家にも匹敵する絵描きの才能を持っていた。

 その才能を買われて、リンダは王国学園に推薦された。


 学園でリンダは二人の貴族生徒と知り合った。その二人は、今のルイズベル男爵のレオン・ルイズベルと、その婚約者の伯爵令嬢バシリア・アードラだった。

 レオンとバシリアは平民だからってリンダのことを見下すことなく、リンダの才能や人となりに、純粋に心から惹かれていた。

 いつの間にか、三人は一番の親友関係になった。


 そんな関係はいつまでも続くと、三人は誰もが思っていた。

 しかしある日リンダは気付いた。自分はレオンが好きだということ。そして、レオンもまた自分に同じ気持ちを抱いているということ。

 それでもリンダは親友のバシリアを裏切ることだけはできなかった。だからリンダは自分の感情をバシリアに告白し、もう二度と二人に近付かないと約束した。


 しかし、バシリアはただ、その必要はないと答えた。

 何故、と困惑するリンダに、バシリアも自分の秘密を打ち明けた。

 バシリアは実は生まれた時からものすごく病弱で、医者によると彼女は一生子を成すこともできないし、最高の治療を施しても恐らく三十歳は超えられない。

 伯爵令嬢のバシリアが、面倒なお荷物のように男爵子息のレオンに押し付けられたのも、そのためだった。


『レオン様と一緒にいられるだけで私は幸せですが、でも私は彼の幸せを邪魔する足枷になりたくありません。だからお願いします、どうか私の我が儘を聞いてください。もし貴女とレオン様が本当に愛し合っているのなら、彼の子を産んであげてください。そして私が死んだ後、私の代わりに彼を幸せにしてください』


 彼女たちは泣きながら、指切りで約束した。そして二人が出した結論をレオンに伝えると、三人はまた一緒に泣いていた。


 それから数年後、三人とも学園を卒業した。

 レオンとバシリアは無事に結婚し、リンダも新鋭画家として働き始めた。

 しかし結婚していなかったリンダは、いつの間にか小さな女の子を連れていた。誰に聞かれても、リンダは頑なにその女の子の父親の名前を口にしなかった。


 更に数年後、レオンはリンダのアトリエに現れて、彼女を妻に迎え入れた。

 そう。いずれこの日はやって来ると三人は分かっていたが、バシリアの病気に悩まされた人生は、とうとうその終わりを迎えた。

 短くても、彼女は精一杯に幸せに生きていたのが、せめての救いだった。


 故人になった親友の代わりに、愛する男を支えることを決めたリンダは張り切っていた。社交界にも、貴族の妻の義務だからと、迷わず出ることにした。

 伯爵令嬢だったバシリアの手ほどきを受けたこともあって、リンダの礼儀作法には問題はなかった。寧ろ既に有名画家として名を馳せていたため、社交界からのウケは上々だった。

 しかし運の悪いことに、彼女は社交界の怪物(マンモス)、フォーマント公爵夫人に目を付けられた。


 元平民というところが気に入らなかったのか、リンダの美貌に嫉妬していたのか、或いはルイズベル男爵家は伝統ある貴族のくせに、やけに新興派に親しかったからか。

 フォーマント公爵夫人がリンダのことを目の敵にした理由は、今となっては誰も知る由もなかった。

 唯一確実なのは、ただの平民が貴族の妻になったのはきっと何らかの手段を使ったに違いないと、そう思い込んでいたフォーマント公爵夫人は、状態異常探知の魔法薬を使い、リンダから魅了の魔力を検出した。


 それからの展開はまるで一週間前の夜会のようだった。

 公開処刑でもするかのように、フォーマント公爵夫人はリンダが【魅了の魔眼】の持ち主である証拠を、フォーマント公爵家主催のパーティの中で衆目に晒した。

 更に【アンドロメダーの涙】を持ち出して、その場でリンダに自分の無実を証明するようにと差し迫った。


 リンダはそこで初めて、自分が【魅了の魔眼】の力を持っていることを知った。だから彼女はひどく動揺した。

 もしかして学生時代の自分は知らぬ間に【魅了の魔眼】を発動し、レオンを魅了した……もしかして自分は親友から、思い合っていた婚約者を奪い取った……リンダは、そう思わずにはいられなかった。

 リンダは怖かった。親友のバシリアを裏切ったこと、そして夫のレオンに愛されないことが。

 レオンの気持ちが真実だと信じたいのに、リンダにはそれを確認する勇気はなかった。


『魔法秘具というのは、他の魔導具に直接作用する珍しい魔導具のことです。魔法秘具はその近くに存在する魔導具の全ての効果を消すことができますから、とっても重宝されています。でももし対象の魔導具が近くに存在しない場合、魔法秘具は発動できませんし、そして魔法秘具が発動する前に対象の魔導具が破壊されたら、魔法秘具はもう永遠にその魔導具の効果を消すことができません。これが魔法秘具の実用上の難点ですね』


 突然、学生時代の魔導具講義の時のバシリアの言葉が脳裏に過ぎる。

 リンダはそこで、真実を確認せずに済む、ただ一つの方法を思いついた。


 そう、リンダは【魅了の魔眼】の魔導具ーーつまり彼女の両目を、自分の手で潰した。

 こうして、正式に記録された王国のただ一人の【魅了の魔眼】の持ち主は、一度も意図的にその力を使ったこともなく、自ら魅了の力を放棄した。


「……お母さんは綺麗に着飾ってパーティに出たのに、帰ってきた時その目はもう何も見えませんでした。絵を描いているお母さんはいつも楽しそうで、とっても綺麗だった……でもあの日、目を失って以来、お母さんは二度と画筆に触れませんでした」


 と、リリィは彼女の母親の物語に幕を下ろした。


「だからわたしは、フォーマント公爵家に復讐することに決めました。本来わたしの計画は、魅了の力を使っている風に振る舞って、グロリアさまが【アンドロメダーの涙】を発動させるように誘導する。そしてわたしの無実が証明されたところで、【アンドロメダーの涙】を破壊することです。でも実行の途中で偶々殿下とリディアちゃんの気持ちに気付いて、成り行きで貴女たちの恋を成就させただけでした」


「……そう、だったのか」


 あの夜会の出来事の裏には、そんな過去が隠されていたのか。

 そのあまりの重さに、ボクは言葉が出なかった。


「これで分かったのでしょ、わたしはリディアちゃんの思っているような善人ではありません。リディアちゃんとノエル殿下がお互いを思う気持ちが、魅了の力を持つわたしでさえ改竄できなかったから、仕方なく計画の方を修正しただけです。だからリディアちゃんがわたしに謝る必要は、どこにもありませんよ」


 殿下の気持ちの強さは既にはっきりと理解していたつもりだったが、【魅了の魔眼】を持つリリィからそう言われると、やはり顔が熱くなる。

 それでもボクは自分を落ち着かせて、答えるべき言葉を告げた。


「いいえ、リリィ、貴女はやはり優しい人だ」


 ボクはリリィの手を握ってそう言った。するとリリィの顔は初めて見る、不意を突かれた表情になった。


「貴女は『仕方なく計画を修正しただけ』と言っていたけど、本当は魅了の出力を最大にすれば、ボクとノエル殿下たちを巻き込んでも、グロリア様の人生を無茶苦茶にすることだってできただろう?でも貴女はそれをしなかった。本当の善人というのは、悪事を働く力があっても善意に従う方を選んだ人間のことだとボクは思う。だから、」


 ボクは真っ直ぐにリリィの目を見て、こう言った。


「他人の気持ちを操ることができても、それをしなかったリリィは、紛れもない善人だ」


「……ありがとう、リディアちゃん。そう言ってくれると、わたしもとっても救われました」


 リリィは少しはにかんでそう答えると、立ち上がった。


「やっぱりもうちょっと早く、リディアちゃんと仲良くなればよかったです。でも、わたしはもう行かなくちゃ」


「どこへ向かうんだ?」


「わたしにもわかりません。でも、多分もうこの国には戻ることはありません。お母さんはもう【魅了の魔眼】のせいで十分苦労したから、わたしはお父さんに勘当するようにお願いしました。ルイズベル男爵家がリットリオン辺境伯家の傘下に入ることも、今日中に発表されるでしょう。これで、フォーマント公爵家に手を出される心配もなく、二人はやっと安心に暮らすことができます」


「でも、これじゃリリィはフォーマント公爵家に追われながら、一人だけで行く当てもなく……!!」


「そんな顔しないでください。例え外見はか弱い女の子でも、わたしの心はモンマスだって倒せる狩り人の心です。それにさっきも言ったけど、フォーマント公爵家の暗部は全員男だから、【アンドロメダーの涙】が破壊された今彼らはもう【魅了の魔眼】を持つわたしの敵ではありません」


 彼女のことを案じるボクを慰めるように、リリィは笑い掛けた。

 昔はどこか邪悪さを感じる笑顔だったが、今はとっても優しく見えた。


「わたしの復讐はもう終わりました。これからは広い世界を旅して、この世界を変えてみようと思うんです。リディアちゃんとノエル殿下の真実の愛は無事に成し遂げたけど、身分がどうとか、性別がどうとかで、今でも愛する人と結ばれない人間はきっと沢山います。この魅了の力が、少しでも彼らの役に立つことができれば、わたしもきっと復讐以外の生きる意味を見つけられるんでしょう」


 そして一歩、一歩、また一歩と、リリィの姿はやがて中央馬車駅の雑踏の中に消えていた。


「ーーさよなら、リディアちゃん。どうかノエル殿下とお幸せに。その愛し合う気持ちは、神が人間に授けた、一番の宝物ですから」



 %%%%%%%%



 それから、ボクは二度とリリィに会うことはなかった。


 ボクが学園を卒業した後、ノエル殿下との結婚式は無事に挙げられて、ボクは晴れてノエル殿下の花嫁になった。

 国王陛下と王妃様が引退して、ノエル殿下が王位を継いで、そしてボクが王妃兼リットリオン女辺境伯になったのは、それから更に数年後のことだった。


『女らしさの欠片もないヤツに王妃が務まるわけがねえ!』


『女のくせに辺境伯として国境を守れるわけがねえ!』


 お爺様の予想通り、ボクが王妃になってから、このような声はあちこちから聞こえてきた。

 でもマルクスや、キリアン、そしてバスチアンだけではなく、あの夜会の夜以来すっかり人が変わったようなグロリア様も支えてくれたお陰で、平坦な道ではなくても、ボクはノエルと一緒に今まで歩み続けることができた。

 ノエルとの間の子供も、いつの間にか男二人女一人になった。娘がボクに似て少々お転婆なところ以外、みんなとっても良い子だ。


 こうしてこの数年間、王国は比較的に平和だった。

 でも隣の国々はそうではなかったらしい。

 王太子が平民のパン屋娘にご執心になった結果廃嫡された国もあれば、国王夫婦が変死して唯一の王女が行方不明になった国もあったらしい。

 もしかしてそれらの事件は、リリィが【魅了の魔眼】を使って起こしていたのかもしれない。或いは、リリィとは全く関係ないかもしれない。

 ボクはそれを知る由もなかった。


 でもボクが思うに、”復讐以外の生きる意味”とリリィは言って旅立ったが、彼女が本当に見つけたいのは、魅了の力を持つ自分と共存する方法ではないかと。

 彼女がその気になれば、他人の気持ちなんて簡単に操れる。でも本当は、彼女は母親のリンダさんと同じで、ちっともそんな力を望んでいなかったんだろう。

 無意識に【魅了の魔眼】を使って、他人の心を偽りの感情ですり替える……そんな恐怖を克服するまで、リリィはきっと彼女の旅を続けると思う。


 そしてボクにできることは、彼女が彼女なりの幸せを手に入れられることを心から祈りながら、愛するノエルと強かに生きることだけだ。

ここまで読んで下さった方々、ありがとうございました。

そして前作(https://ncode.syosetu.com/n4728gh/)と前々作(https://ncode.syosetu.com/n1097gg/)も読んで下さった方々、本当に本当に、ありがとうございました。


前作と前々作を含め、全く繋がりのない三つの話ですが、わたしの中ではこの話が一応三部作の終わりということになっています。

つまり何を言いたいかと言いますと、次回作からは悪役令嬢・婚約破棄以外のジャンルにも、いっぱい挑戦したいと思います。

どうかその時も、どうぞよろしくお願いします。


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[一言] バレなきゃOKで魅了使って周りの人生ぶっ壊しまくっているのに善人扱いなのかよ 辻褄合わせて賠償したっつーても何十年の教育全部ぶっ潰されて醜態さらされたグロリア様に救い一切ねえじゃん 努力全否…
[良い点] 三部作ということで、前回までとは違い ・婚約者ありの王子を恋愛対象にしなかった点 フォロー出来ないし恋愛対象じゃないならする必要もない、所詮利用する「駒」と恋愛は無理ですよね ・悪役令嬢を…
[一言] 途中からBL展開かな?と思った瞬間気持ち悪くなってブラウザを閉じようとしてしまいましたが、そんな単純な落ちではなさそうだ、と思い直して恐る恐る続きを読ませていただきました。 ブラウザを閉じ…
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