杖 6
「子爵閣下、どなたと争われました?」
わずかに目を細めた兵士のいかつい顔が、ファリアヌスには鬼に見えた。
膝がわなわなと震え、喉が焼け付いた。
「閣下」
兵士が一歩詰め寄る。
途端にファリアヌスは、
「無礼者」
と喚き、転ぶように逃げ出した。
兵は追いかけようとしたが、相手が上級貴族であり、躊躇った挙げ句、追いかけられなかった。
ファリアヌスは逃げ惑った。
周りにいる全てが、自分が人殺しであることをきっと知っている。
しかもそれは、バンスファルト伯爵令嬢である。
「あ、はぁあ、いいいかん、レイ、レイピアに」
彼は、どこかで捨ててきた剣の束に、ルーベン家の紋章があるのを思い出した。
それを見れば、もはや自分が犯人であることは、証明されたようなものだった。
彼はとりあえず隠れようと思った。
あたりを見渡すと、庭師たちが使っているとおぼしい小さな小屋がある。
ファリアヌスは、夢中でそれに駆け寄る。
かんぬきには錠もかかっておらず、立て付けの悪い引き戸を無理矢理開け、中に入った。
酷い埃の臭いがして、むせた。
暗くてよく見えないが、彼はしばらくそこで息を潜めた。
「ようこそ、人殺し子爵殿ぅひゃひゃひゃ」
地獄から這い出てくるような声が、いきなり脳髄に響いた。
「うわあぁ!」
ファリアヌスは叫び、たちまち失禁した。
腰を抜かし、小屋の中で無様に這い回る。
「ひゃははは、面白くて汚いけだものだぁひゃひゃ。
オデュセウスはわしに剣で斬りつけてきたが、その自称ライバルは、おもらしだぁひひ」
ファリアヌスの体が、無数のウジ虫が全身を包むような感触に襲われる。
ふと手元や胸元を見れば、赤黒く粘つく血の塊が、ざわざわと体を包み込んでいた。
「ひ、ひぃやぁあぁ」
ファリアヌスは絶叫する。
「うるさいよ、このくずが」
脳にがんがん響く闇の声が、急に猛烈な殺気を帯びる。