9.HELLOWEEN TAWN’S BOOGEYMEN
衝動があった。
感情の突然の隆起によるあの衝動だ。
それに押し流される様に、ケインは動いた。
例の如く、何か考えがあって行動した訳では無い。気が付けば彼の脚は高々と上がり、アリスをその外套の下で抱きながら、水牛男の角目掛けて蹴り込んでいた。
その行為に周囲は呆気に取られたが、それで止まったのは自身も同じだった。
が、硬い感触がブーツの踵を通して脚へと伝わった瞬間、ケインは直ぐに我を取り戻す。
そうして床に脚を降ろすと同時に、出口目掛けて走り出していた。
逃げなければ成らない。
まさかもう居るとは、それもこんなタイミング良く追っ手に出くわすとは思ってもいなかったのだが、何時までも驚いている訳には行かない。気付かれた以上は早々に離れなければ。
ケインはスイングドアを肩で押し開き、外へと飛び出した。
その勢いを殺すこと無く、アリスを小脇で抱えながら大通りを駆ける。
次の瞬間には、案の定二人を追って、何人かが酒場から現れた。
振り向いて見えたのは、あの七人。正確にはあの蹴り倒した一人が居ないので、六人と言うべきか。彼らは、走り去って行くケインの後姿を認めると、ある者は馬に跨って、ある者は己が脚を使って、二人を捕らえようと追い駆けて来る。
けれども、ケインの脚はなかなかに速かった。
彼は常人と比べて桁外れの身体能力を持っているが、中でも脚力には自信がある。幸か不幸か、挑む事よりも逃げる事を優先し、この大陸を渡り歩いて来た幼年期の経験によるものだ。
実際、彼我の距離は開き続けている。
人の走りは元より、馬に乗るのに戸惑っている間にも、ケインは走り続けた。
行き交う人々の視線を受け、彼らを掻い潜りながら、目指すのは街の外の荒野だ。
そこには彼の愛馬が居る。八本脚という奇形によって、無意味に他の人や馬を驚かさぬ様、普段それは放し飼いにされている馬だ。だが一人と一匹の付き合いは長く、呼べば必ずやってくる関係だから、何の問題も無く解放されていた。
このまま何事も無く荒野に、少なくともその近くに来れば。
情念が蒸気となって噴出し、脚という機関を猛烈に動かして行く。
その時、蹄の音が彼の耳に届いた。
しかも程近くに、ますます強まる音として。
ケインは決して脚を止める事無く、僅かに後ろを向いた。
確かに距離はあった。
追っ手の足取りは遅く、その前を行く馬も漸く本調子になるか否か、という所である。
ただ一頭を除いて。
或いはそれは、一人というべきかもしれない。
何故なら、その茶馬には、騎手が居なかったからだ。代わりに、本来馬の頭がある筈の場所から、ポンチョを羽織った男の上半身が生えている。
茶のテンガロンハットを被り、枯藁の如く髭を蓄えたその姿が、ガウチョを思わせる男だ。
そして彼の両手には、鉄の柄をした一本の槍が握られている。
ケンタウロスはそれを振り翳すと、通り際にケインへ向けて振り下ろした。
ケインは反射的に踵で急停止を掛け、帽子を押さえながら屈み込む。
先程まで頭があった場所を、ぶぅんと棒が通り抜けた。
そのまま本体も通り過ぎる、かと思いきや、半人半馬の保因者は少し前まで来ると、前脚を地面へと打ち込み、それを軸にして横周りに反転、ケインの方へと向き直る。
線では無く点として、星の如く刃が煌いた。
舌打ちしつつ、突き出された槍を、ケインは横へ飛んで避ける。
そのまま、家と家の間、小路へ至ると、脇目も振らずに駆け出した。
狭いこの道ならばあのケンタウロスも付いて来られまい。
が、しかし、彼の顔は苦りきっていた。
これで最短の道は閉ざされてしまったのだから。
どれだけ早かろうと、人の身で馬の脚には適わない以上、後は迂回して行くしかない。
そうして小路を抜けて、隣の通りへと彼は一歩を刻み、
「……ケインっ……。」
アリスの声で、はっと、視界の隅でちらつく人影に気が付いた。
首を傾ければ、先に走って来た方角、通りの奥に、男が立っているのが見える。
無帽且つ無毛の大男だ。汗ばんだ頭部が、太陽の光に寄って卵の様に光り輝いている。体には踝まである長いコートをきっちり襟までボタンを締めて羽織っていた。ただ右袖だけは肩口からごっそり切られていて右腕が露見している。厳密には腕では無い。左腕と比べて遥かに太いそれは、赤錆びた鉄の部品で構築された筒状のものであった。肩部には酒瓶大の金属缶が装着されており、その反対側の先には拳大の穴が穿たれている。
男はその穴の先を、左手で支えながら、ケインの方へと向けていた。
一瞥でそこまで把握したケインの全身から、嫌な汗が湧き上がる。
先回りされていた事、もう既に狙われていた事、そして男の装備が、圧縮された蒸気を火薬代わりに用い、高速で発射する蒸気銃である事に気が付いたからだ。
そして彼が二の足を踏むより早く、男の右腕が白煙を噴いた。
後方部に配置されたピストンが上がって猛烈な蒸気を噴出し、その圧倒的圧力によって押し出された細い杭状の弾頭が、ケイン目掛けて飛来する。
ほぼ同時に、彼はアリスを抱える手に力を込めると、一歩を踏んだ脚で持って跳躍した。
彼女の小さな悲鳴が腕の間より毀れる中、中空で回って行くケインの脚元を、白い影の様なものが通り過ぎ、視界から姿を消す。
何処か遠くで鋭い着弾音がする中、ケインは両脚を地面に付けた。
と、先に着地した左脚が行き成り沈み、彼は体制を崩す。
今度は何だっ。
そう視線を下へと向けると、ケインの左足に無貌の仮面を付けた男が、乾いた砂より裸の上半身を剥き出しにしてすがり付いていた。
仮面を付けていたにも関わらず男だと解ったのは、その露出した体の所為だ。男の胸に脂肪は一切無く、筋張った筋肉が見えた。ただ、男というのにもまた抵抗がある。妙に生白い肌はまるで亡者であり、そいつが脚を抱えて押さえ込んでいる姿は、冥府へと生きる者を引き摺りこまんとしている様だったからだ。
生理的嫌悪が背筋を走り、ケインは咄嗟に後ろ腰へ手を向ける。
だが直ぐに抑えると、代わりに、掴まれたままの左脚を踏み込んだ。
引き摺り込むならばそうすればいいとばかりに力が入ったそれによって、仮面の男はずるりと離れて地中に潜った。尤も手応えは幽霊の様に薄い。自分から放した様だ。
その間にも大男は第二射を放とうと新たな金属管と杭を懐から取り出しており、またケインの後ろ、通りの向こうからは、騒々しい蹄の音と共に甲高い叫び声が聞こえる。あのケンタウロスが、挟み撃ちにしようと回り込んで来たのだ。
どちらへ行こうとも、敵と相対しなければならない。しかも地面の下には、保因者なのか義体遣いなのか良く解らないが兎に角奇怪な男が潜んでいる。留まっても居られない。
進退窮まった彼は、一度元来た小路へ戻ろうと跳んだ。
そこに二つの衝撃が襲い掛かる。
一つはケイン自身を向かいの壁まで叩き込んだ。
もう一つはその体からアリスを引き離して行く。
眉間に深々と皺を刻みつつ、彼は己を抑え付ける相手を見る。何処か狼を思わす若々しい青年であり、刈り込んだ金髪の下で、獰猛そうな瞳が青く輝いている。彼の左腕、肘から先は機械で、段々状になった装甲と鋭い刃と化した指を煌かす義腕だ。不意を付いたとは言え、ケインを倒したその力は、通常よりも出力を上げられた戦闘用の義体に違いない。今もまた気を抜くと、押し込まれた装甲によってそのまま潰されてしまいそうだ。
もう片方、アリスを抱えて、大男の方へと走るのは、しなやかな躯をした黒人女性で、背中まで届く程度の黒髪を、根元で縛り、一本の束にしていた。そんな髪が覆う頭部と、皮のパンツに包れた腰からは、それぞれ黒い、尖った耳と長い尻尾が生えていている。
その耳と尻尾を揺らしながら、怪猫女は風の様に駆けて行く。
僅かに振り返り、黄緑色の猫目を笑みで歪めて見せながら。
ケインはその表情を見ていなかった。目の前で口を歪ませている金髪の青年でも無い。
彼は、ただアリスを見ていた。驚きに眼を見開き、そして手を伸ばそうとしながらも決して届かず、ケインからどんどん離れて行く少女の方へと。
胸から頭へと熱い血が上って行くのを感じる。
同時に不吉な言葉が、不気味な羽音と共に幻聴として耳元へと届く。
説明出来ぬ、そもその必要の無い感情が沸き起こるのを堪えながら、ケインは青年との間に膝を捻り込ませると、ブーツの裏を見せ、その腹目掛けて思いっ切り蹴り込んだ。
左腕以外はどうやら生身らしい青年は、彼から引き離され、後方へと吹き飛んで行く。
その体は、走り込んで来ていたあのケンタウロスに当たった。
まさかそんなものが来るとは思わなかったのだろう、もろに食らった半人馬は、衝撃にぐらりと揺れて、青年ともつれ合う様に崩れ落ちる。
彼らが完全に地へと倒れる前に、ケインは走り出していた。
こうしている間にも距離を離して行く黒人女を、それが浚って行くアリスを追って。
だが数歩脚を動かした時、彼の背後で土が盛り上がった。
気配に気付いて振り返ったケインの目の前に、白い影が覆い被さろうとしている。
先に脚へとすがりついた、あの仮面の男だ。地面の下から魚の様に飛び上がったその姿は、太陽の光に晒されると、ますます生白さが映えて、薄気味悪い。しかもそいつが背中にしがみつくというならば尚更だ。耳障りな呼吸音を仮面の中で発しながら、怪人はケインの体を抱え込み、放そうとしない。その力の強さは万力のそれだ。
だがそんなものなどまるで無いかの様に、ケインは疾駆する。
更に万力の腕を強引にこじ開け、そして掴むと、先の青年と同じ事をした。
目の前を行く女を目標に、投擲武器として投げたのである。
放射線を描いて飛んで行く白亜の怪人を、ただ進む怪猫女は気付く事が出来なかった。
命中すると彼女は、悲鳴を上げて前のめりに倒れ込む。
その腕からアリスが離れたのを、ケインは決して見逃さなかった。
韋駄天と形容出来る速度で走り寄ると、彼女を抱え込み、一気に駆け抜ける。
立ち止まる訳には行かなかった。
まだ目の前には、あの大男が待ち構えているのだから。
敵味方入り混じった乱戦の中で引鉄を引けずに居た男は、一人抜きん出たケインに向けて、その銃口を差し向けた。新しい缶も杭も装填済みで、後はもう撃つだけである。
そして今、蒸気を吹き上げようとする銃へケインは詰め寄ると、がっと下から蹴り上げた。
前から上、どころか返って後ろへと傾いた銃身が、大男の鼻頭をしたたかに打ち付ける。
その反動で発射された弾頭は上に、噴出された蒸気は地面へぶつかり周囲へと広がった。
予期せぬ、だが姿を眩ますには絶好の隠れ蓑だ。
ケインはアリスを抱える手に力を込めると、だっとその中を駆けた。
方角的には逆になるが、ここまで露見したからには仕方が無い。一度姿を消さなければ。
その時、白い霧の中を銀色の光が煌いた。
くんとケインの脚が止まり、アリスが息を呑む様な声を上げる。
彼の背中を鉄の矢が貫いていた。銀で覆われた鏃は胸を通り、アリスの眼前に飛び出る。
まだ敵が居たのかと、歯を軋ませながらケインは視線を後ろへと向けた。
未だ立ち込める蒸気の向こう、口髭を鋭く立たせた男が小路から抜け出て、立っていた。灰色がかったハンティング帽とインバネスコートを身に付けた彼の右の眼孔には、瞳の代わりに赤いレンズが嵌められている。本物らしく見せる事を排除し、機能のみを追及した望遠機能付きの義眼だ。更にその両手には、今ケインを撃ったばかりらしいクロスボウが握られている。
思わぬ伏兵が居たものだが、しかし、彼は再び走り出していた。
幸い、矢は心臓には触れていないし、鏃を覆う銀もケインは効かない。少なくない保因者が銀を苦手とし、触れただけで死に至る者すら居るのだが、彼に取っては唯の金属に過ぎない。
そうしてケインは、追っ手達が起き上がろうとするよりも早くに、白い闇の中へ身を潜ませると、一旦身を隠す事が出来る場所を目指した。矢を抜く事も、機を待つ事も出来る場所へと。
「……ケイン、怪我、は大丈夫……?」
だが、敵に見つからぬ安全な場所でも、前者を行う事は出来かねた。
「嗚呼……嗚呼、アリス。大丈夫だ、心配するな。」
先に通った小路と似た様な場所に置かれた樽の陰に座りながら、ケインはそうやって心配そうに身を寄せているアリスに薄っすらと微笑みかけた。
その背中には、依然として鉄の矢が突き刺さっている。弾丸の様に勝手に出て行くには形質的に不可能である事、刺さった角度が力の入れ難いものである事、抜く事を手伝えるアリスが全くの非力である事によって、そのままにされているのだ。しかもケインの肉体は既に回復を始めており、共に癒着しようとしている。大鴉の体質を相手が知っていたかどうかは解らないが、なかなかに厄介だ。本格的に抜こうとすれば、ちょっとした荒治療が居るだろう。
ただ、傷がそうである様に、痛みももう消えており、矢が刺さっていようとも、多少動き難いだけで、最早別に気にならないレベルではある。一つ残った問題は、
「……ケイン……あの、やっぱり、いい、わ……。」
この、人形と呼ぶには余りに人間過ぎる少女に多大な心配をさせてしまう事だろう。
「……何がいいんだい、何が。」
そうやって俯くアリスへとケインは体を向ける。
彼女は、本当に申し訳なさそうに下を向いたままに続ける。
「……うん……こんな、無理して……帰れ、ないわ……だから、そう、私は戻る……。」
その言葉に、ケインは肩を竦ませた。
「こんな矢なんて大した事じゃない。あの追っ手も、心配要らない。」
寧ろ、そんな悲しそうな顔をされる事の方が、辛いというものだ。
彼は微笑み、少しためらった後、アリスの艶やかな黒髪で覆われた頭を撫でた。
「……でも……ん……。」
アリスは尚も何か言おうとしたが、だがケインの手が自身を触ると、黙って眼を細める。
そうして暫く撫で続けていると、彼は唐突に立ち上がり、
「大丈夫だ。さぁ、行こうか。愚図愚図していると、日が暮れてしまうよ。」
そう言って、彼女の方へと右腕を伸ばした。
まるで熟練の音楽家が如き指をじっと見詰めていたアリスは、こくりと頷くと、
「……解った、わ……。」
その腕に収まり、身を摺り寄せる。
ケインは外套で再び包み込む様に抱き上げると、再び小路を歩き出した。
ここにやって来てから、まだ余り時間は経っていないだろう。精々十分から十五分だ。そして、これ以上居続けるのは厳しいものがある。あの六人の者達が、見つけ出してしまうとも限らないし、それに早く出なければ援軍を遣されるかもしれない。防衛戦、撤退戦を強いられた事もあるが、六人だけでも十二分に苦戦した。更に増えれば、どうなるか解らない。
自分の弱点が数である事は、ケイン自身一番良く解っているのである。
特に今、この腕の中にアリスが居るならば尚更だ。あの六人はどう控え目に見ても、自分とアリスの見境が付いていなかった。ケインが上手い具合に避けていなければ、大変な事になっていた攻撃も少なくない。目的はこの少女を奪還する事にある様だが、その手段が激し過ぎるのだ。一体何を考えているのか、さっぱり解らないが、しかしこれだけは言えよう。
この街に長く留まる事自体、避けねばならない。
そんな思いを抱いたまま、ケインは小路から抜け出た。勿論ちゃんと周囲は観察済みである。見た所、あの六人の姿は無い。居るのはただ道行く市民達だけである。
そして建物の隙間から彼が姿を現した時、何気無く歩いていた一人の親父が脚を止めた。
何処にでも居る様な、赤ら顔の中年だ。特に書き示す事も無い様な、どう見ても普通の男だ。
どうしたんだこいつ、と訝しがりながらも、ケインはその前を通り過ぎようとする。
「大鴉、大鴉がいたぞっ。」
親父が叫んだのはその時だ。
「なっ。」
ケインは驚き、思わず脚を止めてしまった。今まで遠巻きに見ているだけの、ただただ罵詈雑言を零すだけの市民が、こうやって干渉する事など、まずあるものではない。
しかもそれが、護身用の小さなものとは言え、銃を取り出し、向けるだなんて。
何が起きているのか解らなかったが、だが見覚えのある虚空の穴に、ケインの体は反応していた。千鳥足ながらも差し向けらられたデリンジャーを、彼の脚が蹴り飛ばす。
更に振り下ろす脚で親父自身に止めを誘うとした時、ケインは周囲の連中までこちらを注目している事に気が付いた。本人へ気付かれぬ様に横目、では無い。事実、こうしてその視線に察しても、尚彼らは顔を背けないのだから。
嫌な予感がした。長い間感じた事の無い、嫌な予感だ。
と、群集の中から、何人かのカウボーイ達がこちらへと向かって来るではないか。
それも銘々、何かしらの獲物を携えて、
「見つけたぜ大鴉、こんな所に居やがったかっ。」
「あいつの言う事は本当だったな、獲物を持ってもいやがらないぞこいつ。」
などと訳の解らない事をのたまいながら。
だが何と無く、どうなっているかは解り始めたケインは、アリスを抱えたままに向きを変えると、腰を抜かしている親父を越えて迫る男衆に背を向け、小路を戻り始めた。
駆け抜けた先、隣の通りに脚を踏み入れても、反応は変わらない。
「うぉぅ、大鴉だ、大鴉を見つけたぞっ。」
「ヘイ黒いの、その娘を置いてさっさとお縄に付きなっ。」
隠れて侮蔑を送るか、何とか無視しようとするかのどちらかだったこの街の住人達が、自分に向けて襲って来ている。銃を、中には札束を持って。
戻る事も出来ず、飛んでくる銃弾に当たらぬ様、低姿勢で走りながら、ケインは察した。
時を待って敵をやり過ごすなどと言っている間に、敵は策を巡らせていた。
援軍、それも、余りに到着の早い援軍。
どんな風に焚き付けられたかは定かでは無いが、街一つが明白な敵と相成ったのである。
何度かケインは同じ眼にあった事があるから解る。この反応は、以前受けた事があった。何ら罪を犯していなくとも、気に入らないという理由で賞金を掛けられた時の周囲の反応だ。異なる事を理由に、異なる者の全てを、自分達の生きる糧としても何ら問題では無い、という。
そして、その時にした選択は、やはり逃げるだった。降り掛かる火の粉は容赦無く払う彼であっても、相手が火で無いのなら、手を出す事は出来ない。それに何度も、何度も言っている事だが、アリスが居る以上、取れる選択肢など、最初からその一つなのだ。
そうこうしている間にも、追っ手気取りは増えて行く。
多分、もといまず間違いなく金に釣られた連中だ。こちらがただ立ち向かわないというだけで、大鴉が何であるかを忘れてしまっている様な輩だ。しかも中には女子供の姿すら見える。
彼らを乗せた者達を恨み……その中にあの彼女が居る事など、彼は夢にも思っていない……簡単に乗せられている者達を愚かと断じながら、しかしケインは逃げ続けた。
通りを下り、小路を抜け、時に戻り、また進んで。
だが、一向に街の外へ行く事が出来ない。
気が付けば、辺りは彼を探す者達で溢れていた。噂が噂を呼んで増えているのだろうが、何処を行っても、彼らと出逢い、追われ、逃げ隠れする羽目になってしまう。
ただでさえ目立つ風貌の上に、しかも今は矢が刺さっているのだから、目印としては最適だ。
これではもうどうしようもない。
つぅと一筋の汗を垂らし、荒い呼吸を上げながら、ケインは思った。
後方には十数人、下手をすれば数十人の群集が押し寄せている。性別も年齢も職業も、また武装もばらばらだが、同じ一念の者達だ。まともに手出し出来ない上に数だけは居るというのだから、あのけばけばしい、馬鹿げた六人よりも性質が悪い。ふと見れば、あのでっぷりと太った保安官まで混じっているのだから余計にだ。
「……ケイン、あの……。」
「今は何も言わないでくれアリス。」
それに苛立ち、つい言動も厳しいものになってしまう。姿は見えなくとも俯くアリスの気配が感じられ、彼はますます己に苛立った。余程、鬱積が溜まっているらしい。
かくなる上は仕方が無い。
通りを走るケインは、行き成り小路へと入ると、そのまま全力疾走した。
待てぇだとか、この野郎だとか叫ぶ者達を放し、ただ立っている者達には風としか捕らえられぬ速度で傍を抜けて、彼はある所を目指していた。
このままでは、二人とも無事に街を抜ける事など出来はしない。その前に、疲労の末、追い込まれる。市井の軍勢にか、あの六人組と再び出逢ってか、或いはその両方によって。
ならば、やはり時が過ぎるのを待とう。
この街では、ローラの次に心許せる者の所で。
関係無い者を巻き込みたくなど無いのだが、もうそうとも言っていられない。
でなければ、それ以上の方法で巻き込んでしまう。
ケインは走った。走り続けた。誰一人として自らがそこに入る事を悟られぬ様に。
そうして彼は、漸くに目的の場所へと辿り着いた。
追っ手を掻い潜り、突き放し、そして裏口から一気にさっと入り込む。
閉じた扉の向こうで、野次が通り、駆けて行くのを聞きながら、ケインはその場にへたり込んだ。幾ら体力自慢とは言え、これ程までに走り続けるのは容易な事では無く、
「大鴉。偉い疲れてそうな所悪いんだが、お前勝手に人んち入って来て何様のつもりでぇ? それからそこのお嬢ちゃんは、何だ、とうとうエルフの姉ちゃんに捨てられたんかお前。」
パイプを咥え、そう呆れ顔で尋ねる小柄な老人にも、まともに応える事が出来ない。
「……いやその……その前に、何様ついでだが一つ頼みたい……事がある……。」
「何でぇ、言ってみろ礼儀も知らねぇ馬鹿鴉。」
額から垂れる汗をアリスが服の袖口で拭く中、足りない酸素を取り込もうと喘ぎつつ、ケインは言った。掠れて聴き取り難い声ではあるが、はっきりした調子で持って。
「……飲み物をくれ……出来たら・・・…是非濃い珈琲を・・・・・・。」