4.夫婦以上恋人未満の関係
「お帰りなさい。何時もより、三分と四十秒程遅かったですね、貴方。」
酒場の二階が奥にある部屋で、ケインを迎え入れた銀髪の美女の耳は長く尖っていた。
「嗚呼、少し確認に手間取ってたんだ。」
そう言いつつ彼は何の躊躇も無く中へと足を進ませる。
狭く、家具も洋服箪笥とベッド、古ぼけたテーブル位しか無いそこはしかし良く整理整頓がなされていた。テーブルの上に置かれた花瓶は真新しい花が活けられているし、箪笥の上の置時計も恐ろしく正確な時を刻んでいる。そしてその全てが良く磨かれ、埃一つついていない。
「それは難儀でしたね。」
扉の前に居た女性は、ケインの後ろに付いて行くと、その黒い外套と帽子を脱がせつつ、
「所で……何か呑みますか? それともお食事でも?」
と、続けた。
ケインは、自分の中で、先程まで感じていたわだかまりが消えて行くのを感じる。
ベッドの縁に越しを降ろしながら、笑みすら浮かべて彼は頭を振るった。
「いいや、いいやローラ……解っているだろう?」
壁際のフックに外套を掛けると、ローラと呼ばれた女性はただただ何も言わずに振り向き、小首を傾げて微笑んで見せた。
彼女は、ケインが酒を呑めぬ事も知っているし、燃費が良いから殆ど食べる必要が無い事も知っている。元よりここの内装を見れば解る通り、どちらも提供出来る訳が無い。どうしてもというならば一階に行くか、そこから上まで運ばせなければならない。だというのに、ローラは何時も彼がそこに戻って来る度にそう言う。そのどちらでも無いならば、必要なのは一つ、いや一人だけだ、と。暗にそう言わせる為に、まるで本妻の様な口振りで。
「ええ……お風呂も良い、という顔していますね。入ってからの方がさっぱりして良さそうですけれど、でも、まぁ、良いですよ。そんなに、と言うのなら。」
余り似合っているとは言い難い派手なシルクの肌着一枚の彼女は、その裾を揺らしつつ近付くと、ケインの隣に座った。その手を彼の足の付け根にそっと置きながら、金眼をじっと見据える。ローラの青い瞳を見つめ返しつつ、ケインは彼女をそっとシーツの海に沈めた。
「あらあら……まだ服も脱いでもいないのに、」
余りに訛りの無さ過ぎる、上品というには味気の無い書物的な詠語でそう言おうとしたローラだったが、しかし最後まで台詞を吐く事は出来なかった
ケインの唇が、彼女の薄いながらも艶やかな唇を塞いでしまったからだ。
それに対し特に抵抗も見せず、寧ろ積極的にローラは応え、自ら舌を入れて絡ませる。
二人は抱き合うと、暫くの間そうやって互いの味を愉しんだ。
サルーンとは酒場であり宿屋であり、賭場場であり、時に決闘場であり、そして娼館だ。
風蘭守語で応接室或いはそれを催す社交界を意味する『SALON』が誤って綴られて出来た『SALOON』という言葉が示す様に、そこは貴さとはほぼ無縁と言っていい地で生きる男達の、凡その欲望を満たす場所なのである。
ローラはその二階に住み込む娼婦であり、ケインにとってはこれまで出逢って来た多くの人々の中でも数少ない、心許せる人間の一人だった。
秘訣は彼女のその長い耳にある。
かつて国を上げて保因者が迫害されていた頃、多くの者達は人里離れた山や森の奥深くへと逃げていったのだが、その地での閉ざされた生活は、彼らの血をより濃くし、新たな一つの種として定着させる結果を生み出した。
その一つとして長寿と美貌、長い耳を特徴とする種族、エルフは生まれた。
ローラは、そのエルフの女性である。
本来詠霧趣北部を始めとする北皇の森深くに暮らす者の一人が、とても娼婦には見えぬ器量の持ち主が、何故こんな阿真利火の、それもかつては鍍岸黄と呼ばれていた様な辺境の地で花を売る仕事をしているのか、その訳をケインは知らない。ローラという名も偽名であり、方言と呼ぶには一つの言語として変わりすぎてしまった『エルフ語』による本名もあるそうなのだが、彼女は決してそれを明かそうとはしない。ついでに言えばその年齢も。
ただ、過去に何かがあった事は間違いないだろう。
常に浮かべた微笑の中に、時折薄っすらと哀愁めいたものが見られるからだ。
それに、もし普通の……と言っても、エルフの普通、である訳だが……人生を経ていたならば、ケインの様な存在を迎え入れる事はあるまい。市民は元より、多額の金を支払った商売女ですら、異様な風貌と風評から彼を拒む事があるというのに、ローラはそのどちらも怖がらず、あまつさえ共に寝泊りしている。さる賞金首を追い駆け、この街にやって来てから一ヶ月経つが、以来、ケインはここで暮らしている。同じ境遇を持つ者が故の共感だろう。で無ければなかなか出来るものでは無く、彼は事実それを感じていた。同時に、決して少なくない愛情をも。
「嗚呼……また、怪我して来たのですね。」
名残惜しそうに唇を離し、ケインがシャツを脱ぐのを手伝っていたローラは、布地を無残に穿っている赤い穴、その下の贅肉の無い体に出来た弾痕に気がついた。
真昼の追走劇の折に負ったあの傷である。と言っても、既に治り掛けており、本人自身、もう何も感じていない。言われるまで存在をすっかり忘れていた位だ。
「昼間少し、な。」
「貴方がしたがる時って、大抵仕事で怪我した後ですよね。」
じっと見据えていたローラは、ケインの背中に腕を回すと、右肩に顔を寄せる。
そして小さく舌を出すと、母猫が子猫をあやす要領でそれを舐め始めた。
ケインの口から、嗚呼、という感嘆の吐息が毀れる。くすぐったい感触よりも、そうされているという事実が、彼の脳髄を沸騰させ、心臓を高鳴らせた。
だが、ただ成されるがままというのは歯痒いものである。そう感じていた時、丁度眼の前にローラの耳が揺れている事に気がついたケインは、間髪入れずにそれを口に含んだ。
「んっ。」
僅かに呻きつつ、彼女は少し動きを止める。エルフにとって、そこは最も敏感な場所だ。森という見通しの悪い環境が少なからず影響しているのだろう彼らの耳は、人間では捉えきれない音でも聞く事が出来る分、接触による感度も大変に宜しい。
しかし慣れているのか、震えながらもローラはちろちろと舌を動かす。声を出さぬ様堪えながら、負けまいとケインも含んだ口に唾液を含ませ、吸う様に舐めた。
本来とは違う、しかし急所を啜りながら、二人はそっと相手の残った服を脱がして行く。衣服が外れる度に、わざと肌と肌が触れる様にしながら、ケインはガンベルトを手の届く辺りへ置き、ローラはその薄布をベッドの下に脱ぎ捨てる。
そうして生まれたばかりの姿になった彼らは、シーツに頭から包まると、今までのものが児戯だったのではと思わせる激しさで、パートナーを存分に味わい始めた。
「本当の、ん、赤ちゃんみたい。」
露となったローラの小さな乳房を、ケインは唇を押し付け、音を立てて啜る。空いた両手で彼女の全身を愛撫する事も忘れずに、丹念に舌で舐り、軽く歯で突いて、艶かしく光る女エルフの唇から漏れる歓声を愉しむ。ローラもまたそれを受け入れる様に、彼の体へ腕を、脚を絡ませ、喉から搾り出される声も自分から積極的に上げて行く。
高め、高まり合う二人は、快感の波もそのままに、より一層行為を深めた。
ケインは身を捩ると、彼自身をローラの股の間に押し付ける。刺激を受けて目を覚ましたそれは、もう我慢ならんとばかりにいきり立っていた。潤んだ青い瞳の奥に情欲の炎を宿した視線を向けつつ、呆とした表情を浮かべながら、ローラはケインに向けてこくりと頷く。
ずっと食事を待たされていた犬が束縛から解き放たれたかの様に彼は己の腰を入れた。
ア、という声と共に、入って来たケイン自身を、彼女自身が柔らかく抱擁する。
そうなってしまえばもう止めるものは何も無かった。
二人はベッドを軋ませ、息を荒げながら、無心に男女の交わりへと耽って行く。
喘ぎと呻きが小さな部屋の中に木霊し、湿度と温度が何処までも上がった。
そうして繋がり合ったままに時が過ぎれば、やがては果てへと至る。
殆ど同時に、ケインとローラは絶頂を迎えた。彼女の中に、男の精が注がれて行く。
それが決して実らぬ子種である事をケインは既に察しており、ローラもまたそれを知っているのだが、彼女は腹部に感じる熱さにふっと笑みを浮かべた。そして、粒と化した汗を数滴垂らしている彼の頬を掴むと、こう言ってみせる。
「……良かった、ですか、貴方。」
「……嗚呼、良かったよローラ。」
それに対し応えると、ケインはローラの背中に腕を回し、胸の中に深く抱き締めた。
その台詞をしかし、「本当に?」と問い詰められたなら、暫くの間考え込んでしまうだろう。
片腕を枕としてローラに貸しつつ、自分で巻いた煙草を咥えながら、物思いに浸るのが、行為を終えた後のケインの常であった。
「ねぇ貴方……何度も言っているけれど、そろそろ私達、一緒になりません? いい加減、こういう関係も飽きました。子供なんて要らないから、二人で何処かに家でも借りて――」
耳元で囁く彼女の声も上の空に、彼は立ち上る紫煙をぼんやりと眺め続ける。
ローラを愛していないと言えば、それは嘘だ。確かに、彼女の事は愛している。
けれども、それを心の底から言う事が出来ないのも、また確かな事であった。
その理由は多分、ローラが自分の事を受け入れ切れていないから、だと思う。
例えば、彼女は自分の事を名前で呼ばないで、『貴方』と呼ぶ。長年暮らしを共にしてきた夫婦の間ならばいざ知らず、出会った時からそう呼んでいるのだ。ケインでは無く貴方。愛人として己を抱いてくれる不特定の存在。何時去ってしまっても良い者として。
そして、実際に体を重ねなければ解らない事だが、ローラの芯は決して解れず強張ったままである。どれだけベッドを共にしようと、一向に変わらないものだ。今こうしている間も、彼女は何処か一定の緊張を保っている様に見える。『大鴉』の傍から何時でも逃げられる様に。
或いはそう自分が感じ、考え、表に出してしまっているからこそ、ローラは頑なであり続けているのかもしれないが。自分が感じているものを、彼女自身感じている、と。
卵が先か、鶏が先かの問題だ。いや鶏では無く鴉というべきか。
しかし真に問題なのは、解答が得られた所で最早どうしようもないという事実である。
きっと二人とも、少しばかり長く生き過ぎてしまったのだろう。少なくとも、もうケインには、何ら疑いを持つ事無く己が全てを持って誰かを信じ、愛す事など、到底出来ぬ芸当だった。
これがもっと早くにローラと出逢っていれば、また違っていたのかもしれない。彼は賞金稼ぎなどという阿漕な仕事には就かず、健全たる一市民として差別と偏見と真っ向から戦いながら最後には勝利し、それこそ彼女が言う様に一緒になって、末永く幸せに暮らしたかもしれない。大鴉などと恐れられる事など一度たりとて無い、ごく普通の男の一生があっただろう。
しかし所詮は語尾に『だろう』『かもしれない』と付けなければ語る事も出来ない、現実には全く持ってありえていない過程の世界の話である。
ケインは煙草を握り締めながら、渋面を作った。
ここにもまた一つの皮肉がある。ローラこそはポーが謡った死せる少女レノアの末路に他ならない。詩の中で死を嘆いていたのは恋人らしき男であるが、今こうしてそれに思いを馳せているのは、彼に残酷非道なる事実を突き付けた大鴉自身だった。
「もう……貴方、ちゃんと聞いていますか?」
顔を覗き込ませ、唇を突き出してローラが問う。
その瞳は輝いている様でいて、消す事の出来ぬ影を浮かべている。
「聞いているよ。けれど、駄目だ。まだそれは応えられない。」
そんな彼女の銀色に流れる髪を撫で弄りつつ、申し訳の無い罪悪感をブレンドした空しさを胸に抱きながら、ケインは応えた。彼女は先の願いを、一体何処まで本気に考えているのだろうかと訝しがる自分が居る。その程度の存在であるとすれば素直に去ってしまえばいいのに、だがこうして寄り添いたがっている自分もまた居る。
何と女々しい。これの何処が地獄の悪魔の息子だと言うのだろうか。
「またそうやって……まさか他の女でも居るのでは無いでしょうね?」
そんなケインの態度をどう取ったのか、ローラが更に体を前に出して言った。
「まさか。そんな相手が、俺に居る訳無いだろ。」
「解りませんよ。通り一つ越えたダリルの娼館のね、マリーがこの間言っていましたよ。『ネバァモアって色々怖いけど、あの眼と髪の色はとってもエキゾチック』てね。」
「確か……ブロンドヘアの娘だった、かな。」
聞き覚えのある名前に、ケインの唇は苦笑いを浮かべる。ケインが娼館に訪れ一晩愉しもうとした時、娼婦代表としてけんもほろろに断ったのが彼女だった。
化物となんて寝る位なら、まだベイツの所に言った方がマシよ、と。
それが今頃になって意見を変えた理由は解らないが、何にせよ滑稽だ。尤も、保因者への変異が、性的接触を行った者程起こり易いという事実がある事を考えれば、断った時の気持ちも解らなくは無い。ローラだって、ケインが来るまでは保因者か、変異など一向に御構い無しの何処までも飢えた男達だけを相手にしていたのだから。
「詳しいですね、貴方やっぱり何かあるのではないですか。」
「おいおい、馬鹿を言うものじゃないぞローラ。」
「馬鹿って何ですか。マリーだけじゃないんですよ。たとえばですね、」
「嗚呼解った、解ったよ。」
たとえばどんな女達が居るのかは知らないが、もし彼女がぽんぽん名前を挙げられる様な世界であったなら、ケインはここまで悩む事も苦しむ事もあるまい。
案外に嫉妬深く、放って置けば際限無く言っていそうなローラの唇を、浅いキスで封じ込めば、彼はそっとベッドから離れ、ただ一つだけある窓へと寄った。むっと眉を吊り上げて、シーツを頭から被りそっぽを向いてしまった彼女へ苦笑を送りつつ、ケインは窓を開ける。
気がつけば日は暮れて、何時の間にか雨が降っていた。この季節、この地方では珍しい豪雨は、大地を海の如く成さしている。吹き込む風が、火照った体には丁度良かった。
思えば昔は、こんな空の下で夜を明かさねばならない事が何度もあった。今では上に屋根があり、敵に襲われる事無く眠れる場所がある。そもそも襲ってくる様な輩の上に乗っているのは土砂か墓石。そして不満はあるけれども、愛人と呼べる女性も居る。
そう考えれば、自分の現状は幸福であると言えよう。
しかし、歯痒さが決して消える訳では無い。。
ケインは深く吸った煙をゆっくりと吐き出すと、殆ど灰と化した煙草を外に捨てた。
小さく丸まった白い紙が放射状に大地へと落ちて行く。
それを金眼でじっと見つめていた彼は、ふと地面に横たわっている人影に気がついた。
暗く、影としてでしか、捕らえられないが、確かに人であり、それが蹲っている。
恐らくは乞食か、行き倒れだろう。だがここでは別に珍しい事でも者でも何でも無い。どんな事情があったかは知らないが、流れ流れて辿り付いたこの地で、そのまま何処へと逝ってしまうなど、良くある話だ。ケイン自身、何度もそんな目になりかけた事がある。幼い頃は抗う力など無く、金銭を奪われ、衣服を剥がれ、肉を喰われたものだ。
ケインはそう考え、窓からただじっと見ていた筈、だったのだがしかし気がつけば、何時の間にか外に出て、倒れていた人を抱えていた。しっかり服まで着込んでいる始末である。
まるで時を盗まれた様な、記憶の空白を感じつつ、彼は目線を下へと向けた。
うつ伏せになって倒れているのは、長く黒い髪をした一人の少女だった。行き倒れ、という言葉とは似ても似つかぬ、見ただけで上等と解る漆黒のドレスを着ている。フリルを多用したスカートから僅かに伸びる細く青白い脚の先に履いた真っ赤な靴が、水面にインクを零した様艶やかに地面へと広がっている黒髪の上に付いた赤いリボンのヘアバンドと共に実に鮮明だ。
もう既に襲われた後かもしれないな、と不穏な事を考えながらケインは向きを変えさせた。
人形の様に綺麗、という言葉があるが、この少女は正にそれである。血の気の抜けて青褪めた頬をし、無表情に眠りについているその顔は、生きている様に見えず、それ故に体の芯骨へ震えを覚える程美しかった。こんな野暮ったい西部という場所には相応しくない。
その容貌にケインが面食らっていると、表情に変化が現れた。
少女が眼を開けたのだ。薄い瞼の下から大きく丸く、黒い瞳が現れて行く。
ケインは何も言う事が出来ず、ただその瞳をじっと見つめていた。
黄金と漆黒の二つの視線が絡み合う。
時が止まった、という感覚を、今度こそ彼は確かに受けた。
笑った。
そう、見紛う事無く、少女は笑った。
弱々しくも薄く赤らんだ唇の縁を僅かに吊り上げ、全体を三日月の形にして。その笑みは、肌に当たって垂れて行く水滴と重なって泣いている様にも見え、それ自体どうしようも無く儚く美しいという印象を与えるものだったが、ケインにとってはまた別の意味が存在した。
彼を見て、こんな笑いをした人間は始めての事だった。多くの者は嘲りか憐れみ、へつらいの笑みを浮かべる。もしくは好戦的な。そうでない僅かな人々ですら、そこには怯えや恐れの影が絶えず付き纏う。ここまで透明な、穢れの無い笑顔では断じてない。
ケインは眼を見開いたまま、少女を見つめ返すと、震える唇から声を出そうとした。
名前を聞きたかった。そして今何故笑ったのか、問うて見たかった。
だがその願いは適わない。
ケインが一言口に出すより前に、彼女はまた眼を閉じると、眠りについてしまった。
もう、あの笑みも消えている。
「……。」
暫くの間、激しい雫が打ち付けるのも気にせずに、彼は名も知らぬ少女を抱き締めていた。 だが直ぐに立ち上がると、彼女を抱えたままに酒場へと向けて歩き出した。ケインの頭の中において、この少女を介抱するという以外の思考は全てかき消えていたのである。