3.ヤン・シュヴァンクマイエルの嘆き
日堕ちて尚月も星も上がらぬ豪雨の夜空が下、原初の時代を思わす泥の海と化した大地を、たった独りでその少女、アリスは歩き続けていた。
踏み込む度に真っ赤に染まった靴が地面に沈み、一目で高級且つレディメイドで無いと解る黒のドレスが肌に纏わりついて動くのを邪魔するが、それでも街の灯り目指して進んで行く。
頭に付けた少女らしい赤いリボン付きのヘアバンドが、まるで鬼火の様に揺れた。
それに似つかわしい虚ろな表情のままに、一歩一歩脚を進めながら、彼女はふと思考する。
一体何をやっているのかしら、私は。
それに合わせ、アリスはぴちゃりと水溜りへ脚を踏み込んだまま立ち止まった。
自らが起こした行為のどうしようも無さに、頭が軋み、胸が震える。
悲しくて悲しくて泣いてしまいたい気分とは、きっとこの様な状態を言うのだろう。
泣いた事も無いし、機構的に泣ける訳が無いのだが、多分そうだと推察出来る。
水気を帯びて目元に張り付いてくる前髪を掻き分けつつ、アリスは唇を噛む。
それでも再び歩み出した彼女の脳裏に、これまでの記録が反芻されて行く。
アリスが産まれ、育ったのは、ここから荒野一つ越えた位にある小さな森の中の工房だった。
そこで生まれた時の事を、彼女は良く覚えている。
ノイズ交じりのかすれた声に誘われる様に、それは瞳を開いた。
「嗚呼……お早うアリス、目が覚めた様だね。」
彼女の目の前には、一人の老人が立っていた。ろくに洗濯もされていないだろう作業服の上からエプロンを着て、豊かではあるが薄汚れた髭をこんもりと蓄えた禿頭の男だ。
「私はカーシィ・キャルビン。君を作った、云わば君の父だ。」
言いつつ、彼はすっと退くと、後ろに置かれていた大きな鏡をそれに見せる。
そこに映っていたのは、椅子に座った一人の少女だった。
赤いリボンのヘアバンドを頂点に、腰まで流れ行く黒髪。
白のワンピースを着た、白磁の肌を持つ矮小な体躯。
丸く大きく、黒金剛の様に輝いている二つの瞳。
成る程。これが自分、アリスと呼ばれた者か。
それの頭の奥で、歯車がカチコチと回り、目と耳より得られた知識を刻んだ。
何も知らなかったそれに、紛う事無き叡知が、心が、魂が、音を立てて宿って行く。
「そうだ、これが君だ。君の姿だよ、アリス。」
それ、いや彼女の心情を表情の無い顔から読み取ったのか、カーシィは頷く。
「おいで、アリス。君に世界というものを教えよう。そして、君は世界を知ってゆくんだ。」
続けて言ったその台詞に、アリスは首を縦に振った。
そうする事が肯定を示すのだと、また一つ歯車を動かして。
そして彼女は、沢山の事を知っていった。
教養を身に付けて行くのは、金属の心臓も躍る、素敵な時間だった。
まずは基本的な言葉を音として教わった。
同時に、あらゆる存在には意味があり、それを示す名前がある事を学んだ。
それから金属から木材まで幅広い材料を持って作られた、大小様々の歯車。それと同じ位いろいろな形をした螺子。光に反射しなければとても気付かない程に細い金属の糸。床一面、壁一面に所狭しと散らばり、張られた設計図。槌や錐から、一体何に使うのか良く解らないものまで含めた工具の数々。机。椅子。棚。窓。扉。
工房の中にあるものが何であるかを、アリスは知った。
そしてその外、森の中にあるもの居るものも。木々に生い茂る葉に枝、花。そこに巣を作り、鳴き声を囀らせる鳥。緑の幕を通して見える空の遥か彼方に見える太陽、雲。ぐるりと森を囲む家の壁の如き岩肌。唯一開かれた場所を通して出入りする事が出来るけれど、父から立ち入りの禁止されている岩と砂だらけの荒野。そもそもが森自体。
どちらも後から考えると小さな場所だが、この二つがアリスの現実としてある世界だった。何か作業をしている父の隣を、または一人で木の間を歩く度に新たな発見があって、アリスの知識を募らせるのに役立った。
知ったものは実際にあるものだけでは無い。
言葉を視覚的に刻んだ文字もまた、アリスは教わった。
二十六のアルファベット、それを並べる事で示される単語。空気の振動として示される言葉よりも、それらは余程彼女の在り方に近く、覚えるのは容易かった。
そして文字は、書物という世界を新たに開いた。
工房には数限りない本があった。辞典や学術書は勿論、小説や雑誌も置かれていた。更には童話、果ては魔術書と呼ばれる類のものまであった。その多くを父は、実際に読んだ訳で無く適当に買い漁ったまま積まれて行ったものだ、と言った。
工房の隅の棚で埃を被っていたそれらは、アリスにとって絶好の教科書だった。
中でもお気に入りは、彼女と同じ名前をした少女が主人公の物語で、アリスはその本を続編も含めて頻繁に読み漁ったものである。
こうして昼の間は、工房と森と、そして本の中でアリスは過ごした。
そして夜になると、今度は父カーシィの話に耳を傾けたのである。
かつて土壱という国に行って、職人としての腕を磨いたという彼は、よくそこで過ごした日々の事を娘に話した。ここ海を隔てたもう一つの大陸にあるという皇路覇の事。アッシェンバッハ卿という師匠の下での、辛く、だが遣り甲斐のあった修行。
それは愉しそうで、しかし何処か寂しげであり、アリスは一度こう尋ねた事がある。
「……何故ずっと土壱に居なかったの、お父様……。」
「出来るならばずっと居たかったさ。だが、ある男が土壱の人達に、とってもとっても悪い事をしてしまったのだよ。彼と同じ職人だった私は、外国人でもあったからね、故郷に戻って来るより他無かった。それに、私はその時、病気に掛かっていたのだよ。」
「……病気……?」
「あぁ、病気だ。私はもう長くないんだよ……尤も今は君が居るから大丈夫だよアリス。」
安楽椅子に座りながらカーシィは、何処か遠くを見る様な眼でそう応えた。
途中で現れた剣呑な単語にアリスは訝しがったものである。
ともあれ、この眼で見た訳でも本を通した訳でも無く、父の口から語られるそれは、また違う印象を持つものであり、彼女にとって、とても新鮮なものであった。
そうして月日は流れる。
アリスは父カーシィの事が好きだった。何か一つを学び、覚える度、目元を緩めて褒めてくれるのだが、その時の表情が好きだった。頑張ったな、と囁く声が好きだった。
彼女の父は、かつて病気だと語った様に、確かに少しずつ痩せ細り、元気が無くなっている風に見えたけれど、それでもアリスは、彼との暮らしがこれからもずっと続くものだと考えていた。私が居るから大丈夫だとそう確かに言ったのだから。
だが、終わりは突然にやって来た。
「さぁアリス。今日はこれを着るんだよ。」
良く晴れた朝、カーシィはそう言ってアリスに赤い靴と共に一着のドレスを渡した。
フリルをふんだんに使った、豪奢で黒いそれを手にして、彼女は当惑気味だった。普段来ているワンピースとは作りが違い、着方が解らなかったからだ。それでも父に手伝われながら何とか着込むと、彼女はカーシィに尋ねた。
「……お父様、何故こんな服を着なければ……?」
「ああ、今日から森の外で暮らす事になるからね。その為の晴れ着だよ。」
彼の返事は、アリスをより悩ませるだけだった。今まで行くなと言われた森の外へ行くというのも妙な話だが、今日から、というのも非常に気になった。
「……お父様も一緒、に……?」
そう彼女が尋ねると、カーシィは少し戸惑った様な間を置いてから口を開いた。
「いや……いや、私は行けない。私は病気だからね、この森の外へは行けない。行くのは君だけだよアリス。そして今日から君は、ベイツさんという人の所で暮らすんだ。何、大丈夫。あの人はこの辺りでも一番のお金持ちで、それにとっても優しい良い人だよ。」
ベイツさんが誰なのか、アリスは知らなかった。そんな人の所へ、父から離れて暮らさなくてはならないのは、非常に嫌だったけれど、彼女は最早何も言わずに、その事実を受け入れた。今までも、父の言う事は何でも聞いて着たし、森の外という世界にも興味があった。何よりも、また戻って来られると考えていたのである。
そして昼となり、ベイツ氏の所から来たという双子の中国人が迎えに現れた。
それぞれ赤と青の派手な中華服と帽子を身に纏い、揃って辮髪を垂らして黒の色眼鏡掛けた彼らは、極東の人間らしく背丈もアリスと大差無い事があって、若いのか老いているのか、さっぱり解らない。ただ何と無く、三文小説に出て来る悪党の遣いに見えた。きっとその、年齢不詳の顔に張り付いた笑みの所為だろう。それはカーシィと何か話している間も絶えず浮かんでいた。歯車と心臓が高鳴る不吉な感じを受ける。
父以外に本当に見た、初めての人間だというにも関わらず。
だが、今更行くのは嫌ですとは、言えなかった。
「……行って来ます、お父様……。」
「あぁ行ってらっしゃい。気をつけて。」
そう父娘の挨拶をした後、森を抜けた先で止まっていた馬車へと誘われるがままに乗ろうとしたアリスは、最後に振り返って尋ねた。
「……お父様、最後に一つ質問があるんだけど……。」
「何だいアリス。何でも聞いてご覧。」
「……何故……この服は、何時も見たく白くないの……?」
それは朝からずっと気になっていた事だ。
違う服なら形が違うのは当然だが、何も色まで違う必要はあるまいに。
その問い掛けに、カーシィは眉間に皺を寄せつつこう応えた。
「それはね、喪服だからだよ。」
その名前が意味する所は知っていた。死んだ(それがどの様なものなのかは、今でもまだ解らないが)人を悲しむ人が着る服だ。詠霧趣の女王がそれをずっと着ていると聞いた事がある。
けれど一体誰が死んだのだろう。
そして、悲しんでいる訳でも無い自分が何故それを着ているのだろう。
「……喪服……ぁ……。」
それを尋ねるより早く半ば無理矢理に、アリスは馬車へと乗せられてしまった。
そして馬車は走り出して行く。
後ろから見ると、父は佇みつつ、こちらをじっと見つめていた。
馬車から森が見えなくなるまで、彼はずっと佇んだままだった。
結局アリスは、この服が何故喪服なのか、知る事が出来なかった。
代わりと言っては何だが、森の外の世界をその眼で現実に知る事が出来た。
荒野は、行くなと言われる理由が良く解る場所だった。何も無く何も居ない。あるのは砂と岩と仙人掌位だ。死とは恐らくこの様なものなのだろうと、歯車が動く。
初めての馬車の割には、余り良いとは言えない風景だ。早く終わってくれないか、と考えていた荒野は暫くの間続き、やがて街が見えて来た。
『BATES,S TOWN』
入り口にはそんな看板が掲げられていた。どうもここは、これから暮らすベイツさんが所有している街らしい。自分の名前が街の名前とは、どんな気分だろう。もしくは、そんな風に名付ける人は、どんな人だろう、と、揺れる馬車の窓から外を眺めつつ、アリスは考えた。
外では、色々な人々が馬車を見つめているのが見えた。男も女も、若者も老人も居る。彼らの後ろには、工房とは作りの全然違う建物が見えた。あの人は誰でどの様な仕事をしているのか、あの店は一体何を売っているのだろう、と、彼女はまるであの大好きな物語の主人公になった心持だった。これから行く先の事など忘れる程熱心に。
そうこうしている間に馬車は街を抜け、再び荒野を走ってから、漸く止まった。
暫くぶりに外へと出たアリスは、夕日の中、鉱山を背後に聳え立つ館に眼を見開く。
とてもとても、大きな館だった。工房よりも街の建物よりも大きい。もしかしたら自分の方が小さくなったのかも、とすら考えてしまう程だ。
アリスはそう立ち止まっていたが、赤と青の双子に誘われ、中へと入る。
「やぁ今日は、いや今晩は、かな? 時間的にどちらかは曖昧だが、これだけははっきりと言う事が出来るぞ、始めまして、ようこそアリス。わしが、エドワード・ベイツだ。」
その扉の向こうで、アリスは更に面食らった。
何せ、待っていたのは醜悪な老人と、奇妙な背格好の男達だったのだから。
エドワード・ベイツと名乗った男は、彼女と同じかそれより頭一つ程小さい位の大きさだった。そして本の中でも見た事が無い程に醜い。ちゃんとした礼服を着ているだけに、それがより顕著になってしまっている。ただ、人以外も入れるならば、彼の様な者は知っていた。ブラウニーとかゴブリンとか、詠霧趣生まれの妖精達である。
彼の横、壁に背を付けて並んでいる男達は、多分護衛か何かなのだろうけれど、主人に負けず劣らず変わった容姿をしている。ある者は帽子を突き抜けて水牛の角を生やし、ある者は鉄製の手を鳴らしたりしていた。双子の姿が至極真っ当に思えてくる。
だがそれよりも、ベイツ氏の目が彼女には気になって仕方が無かった。
彼がアリスを見る視線は、奇妙に歪んでいながらも酷く熱烈なものだった。ハンス・クリスチャン・アンデルセンが生み出した王様の様に、自身の着ている服が透明であった気にさせる。それで居て、見ているのは彼女では無く、どうやらその一部であるらしい。
ふと目を動かせば、従者達も似たり寄ったりの視線をアリスへと送っている。
それが何を意味するのか、さっぱり解らないが、彼女は一つ認識していた。
あの双子を見た時の考えは間違っていなかった。
ここに居る者はろくな者で無く、即ち悪党に違いない、と。
その様な者達に囲まれ、しかも逃げ場の無い状況に、アリスは内心愕然としていた。
だが彼女は、それを臆面に出そうとはしなかった。
「さて、まずはわしの部屋に案内しよう。おいでアリス、さぁ。」
そう言ってベイツ氏がアリスの肩を掴み、全く忍ぶつもりの無い笑みを浮かべている男達の間を奥へと向けて誘って行くのだが、彼女は抵抗しなかった。
お父様はこの事を知っているのかしら、ベイツ氏が悪者だという事を?
いいえ、きっと知らない。知っていれば、こんな所に自分を遣す筈が無いのだから。
ならばここで自分が抵抗しては彼に害が及ぶ、と、そうアリスは判断したのである。
そうして彼女は、一番奥にある、ベイツ氏の自室へと案内された。
工房が丸々入ってしまう様な広さを持った部屋には、豪華といえば豪華なのであるが、調和というものを全く考慮されていない為、ちぐはぐで不恰好なものに見える。
中でもそれが一番顕著なのは、中央に置かれたベッドで、他が彼の小さな体躯に合わせられている中で、これだけ明らかに大きく、どう見ても一人で寝る為のもので無い。
そしてそれらの合間、壁際には、申し訳程度の窓、窓、窓。
「さぁアリスよ、そこのベッドに座っているんだ、いいかな?」
扉の前で突っ立ったままでいるアリスを他所に上着を脱ぎつつ、ベイツ氏はそう言った。
何時もの癖、というよりも本能的なもので、周囲の状況を観察していた彼女は、我を取り戻すと、言われるがままにベッドの上に座った。
ここまで来たならば、もう覚悟を決めて成る様に成るしかない。
一体何をされるのか、そこの所は解らなかったが。
アリスは瞳を瞑った。
「しかし……永遠の……か。わしも……も実に業が……」
そんな彼女の耳に、ベイツ氏の独り言が届く。
恐らく自分に聞こえぬ様小さく話したつもりだが、それでも耳に届いた事に、体は反応した。
脳髄が酷く引き締まり、心臓が声高に鳴り響く。これは一体何という状態なのだろう。
「ではアリスよ。早速で悪いが、わしと共に、」
自分の内側を理解するより早く、アリスの頭の上にベイツ氏の手が乗る。
その事実を目と耳で捉えた瞬間、彼女の中の機構が鋭く唸った。
そして再び外界を認識した時。
アリスは荒野に立っていた。
記憶が見事に飛んでいる。ここまで来る間に何があったのか、覚えていない。だがこの場所に居るという事、そして右手の甲に走る皹が、自分がしでかした行為を告げていた。
そう、逃げたのね私は。お父様の為に受け入れるって、そう考えた矢先だっていうのに。
彼女は暫くの間俯いて、ただ呆然と右手を見詰めていた。
だが、何時までもずっとそうしている訳にも行かない。
振り向けば、かなりの距離を隔てて、あの館が見えた。幸い自分が逃げ出した事は気付かれていないのか、或いは問題になっていない様で、追っ手は見えない。
戻って前を見れば、かなり距離を隔てた所に行き掛けに通った街が臨める。館と街のどちらが近いかと言えば前者だが、後者でも行けない距離では無い。
もう一度後ろを見てから、意を決すると、アリスは街目指して歩き出した。
唯一時を指し示すものである天は、刻一刻と変化を遂げて行く。
日は沈み、雲は流れ、雨が降り始めている。
ただ、考えながら進んでいる為に、その歩みは酷く遅かった。
砂埃に塗れた上に、汁気を帯びた脚を進ませながら、アリスはずっと考えている。
逃げて来た以上は戻れない。でも、何処へ行けば良いのだろう。応えは一つだけ、あの工房だ。でも、果たして彼は許してくれるだろうか。自分は言い付けを破ってしまった。大好きな父なのに。勿論そこに理由はあるのだが、実は誤解であるという可能性も無いとは言い切れない。もしかしたら、そうもしかしたら、自分が誤っていたのかも知れない。それを考えれば逃げた事に言い訳は付かなく戻るべきなのだが、彼女としては戻りたくなどないし、戻った事で父には迷惑を掛けてしまうかもしれない。なら、やはり何処へ、という問題になる。とりあえずは街を目指すとしても、そこからどうするべきなのか。
脈々と続く思考は、彼女の脳を沸騰させ、疲労させる。関節の隙間から水滴や埃が入り込み、歯車の動きを散漫にさせるのも、原因の一つだったが。
湯気立ち上る程に沸騰した頭で歩き続けたアリスは、漸くにしてベイツタウンに脚を踏み入れたのだが、しかし最早それ以上何かをする力は残っていなかった。
頭から倒れ込み、彼女はその体を泥溜まりに横たえる。
文字通りの知恵熱で、頭が上手く回らない。ここまで深く悩んだのは久しぶりの事でどれだけ要るのかは解らないが、じっと待っている必要があるだろう。生物としての死は持っていないけれど、休息は取らねばならないのだ。人形として。機械として。
アリスは瞳を閉じると、頭の奥で留まっている熱が冷めるのを待った。
その状態のまま、どれだけの時が経ったのかは解らない。
まだ余熱が残っているのを感じながら、静かにじっとしていたアリスは、誰かが水を跳ね上げて歩み来る足音を聞き、そっと瞳を開けた。
体が持ち上がり、視線が上がる。その誰かが、彼女を持ち上げたらしい。
重い瞼を更に押し上げれば、誰かの姿が見え始めた。夜の雨とあって、全体としては黒い影の様にしか捉える事が出来ないが、性別的にはどうやら男性の様である。まだ若いのか髭は無く、ほっそりとした顎のラインをしている。
ただそれよりもアリスは、彼の眼が気になった。
この暗闇の中でもはっきりと見て取る事の出来る、黄金色に輝く瞳。
縦に長い黒目を持ったそれを、アリスは何かに似ていると思い、ほんの少し考える。
該当するものは直ぐに考え付いた。
月だ。
彼の瞳は、こうして暗い空を背景として見ると、月にそっくりなのである。
こんな日のこんな空の下にある月、それも二つとはおかしなものだわ、とアリスは微笑む。
すっと、唇だけを吊り上げたものだが確かに彼女は笑っていた。
今日は色々大変だったけれど、これが見られたなら十分かもね。
アリスはそう思ったのだ。自分でも本当におかしな考えだが。
ただその思考が、彼女に残されていた最後の力だったらしい。
どうしようも無く圧し掛かる重圧に耐え兼ね、彼女は再び瞳を閉じ、唇を噤む。
また眼を開けた時、あの月の眼がまた見られると嬉しい、かな。
そう霞がかった思考を薄っすら浮かべつつ、アリスは静かに眠りに付いた。