21.遠い空で奪われた貴女を取り戻しに(エンター・ザ・パラダイス)
蒸気機関車に乗る客の半分、この西部の砂漠に長い間居る者達、警護の為に客席に乗ったベイツの部下達は、突如現れた大鴉の姿に震え上がった。
馬固有の嘶きと、特徴的なその音が聞こえ、外を向いた時には、愛馬に乗ったアレの影はまだ遠くにあったというのに猛然と砂煙を上げて見る間に近付き、気が付けば直ぐ隣に居る。
そうして併走する大鴉の姿は正に噂に違わぬ不吉なものがあった。
自らに待ち受ける末路もまた噂通りではないか。
彼はそう恐れ、叫び、銃を撃った。
ただ、残りの乗客は他所から来た本当の意味での市民が為、大鴉の噂など殆ど知らなかった。
だから彼らも喚声を上げたのは、セレーネの異形と、その走る速度による所が大きい。
脚が八本もある馬だなんて動物園に行っても見られる様なものでは無く、白斑も珍しい三日月だ。それに、馬の走りは余りに速い。一昔前ならいざ知らず、仮にも最新の技術によって造られたこの列車に後ろから追い掛けて、追い付く馬など、早々居る筈が無いのである。
故に彼らは、確かに気味の悪い所こそあれ、周りの者達が恐れ戦きつつ銃を撃つまでは、純粋な好奇心で黒い影を追っていた。
尤も、実際の所、ケインは無関係な者に危害を加えるつもりは無かった。邪魔立てするというならば話は別だけれど、それとてアリスを救う目的を前にしては掠れてしまう。その目的こそが第一に優先される事で、他の全て、何もかもは後に回されるものである。当然、折角補充した弾の消費などあってはならないのだから、撃つ訳も無い。
それからまたセレーネも、乗客の想像以上に危うい状況にある。
ベイツタウンからここまで、彼女が出せる速度の限界を維持したままに駆けて来たのである。他の馬であればとっくの昔に脚に来て倒れているだろう事を思えば、確かに驚異的と言えるけれど、それでももう危険な域に達している事に変わりは無い。
それでも尚列車まで届けてくれたのは、主の為を想ってか。
鼻と口から苦しげな吐息を上げ、全身から滝の様な汗を流す愛馬を優しげに見つめつつ、前傾姿勢を持って高速度を維持していたケインは、更にその耳元へそっと顔を寄せた。片手を手綱から離し、軽く彼女の頭を撫でてから、彼は静かに言葉を紡ぐ。
「ここまで走ってくれて、ありがとうな、セレーネ。」
揺れる馬上で、途切れ途切れにそう言ったケインの言葉に、セレーネはヒィンと声を鳴く。
頷いたのだろうか、と微笑みながら、彼は徐にレイヴンクロウを振り抜いた。
鉄と鉛がぶつかる音が響き、列車から放たれた弾丸を叩き落す。
その恐るべき事実に恐慌状態となって撃たれ続ける無数の弾丸が、一発たりともセレーネに当たらない様悉くを堅牢な銃身で迎撃しつつ、ケインは続けて叫んだ。
「お前はゆっくり休んでいてくれ。」
彼は鐙から脚を離すと、膝を曲げて鞍に乗った。
手綱を操り、出来る限り列車へと近付く。
「次は俺が行く番だっ。」
そして、装填の為に弾丸が止まった瞬間、ケインは跳んだ。
殆ど垂直に、水平に、数ヤード近い距離を一瞬で埋め、屋根の上に立つ。
ケインを無事に送る事が出来た事を喜ぶ様に、セレーネが鳴いた。更にその体を線路より反らすと、新たな弾丸が跳んでくるより早く、彼女は離れて行く。賢明な馬だ、と彼は頼もしく思い、その黒い体が遠のくのを見守ると、ふっと前方を見た。
何両もの客席を越えた先に、シドーが佇んでいる。
馬と同じ位揺れるこの屋根の上、悠然と両手を広げ、その口元に笑みを浮かべながらに。
ケインは眉間に皺を寄せ、眼光鋭く睨むも、しかし何もしなかった。
風にはためく外套を振るいつつ、車両の連結場所へと降りて行く。
アリスを連れてそのまま逃げる事など許してくれる相手ではあるまいし、あの男との決着は個人的に付けねばならないものと考えている。
だが、それでもやはり、まずは彼女を見つけ、救い出す事こそが大事なのだ。そして、まだ何処に居るか解らない以上、最後尾から虱潰しに掛からねばなるまい。
ケインはそうやってシドーを無視すると、連結場所上の扉を蹴った。
勢い良く開いたそこへ、上げた脚はそのままに一歩を踏み込む。
絶叫と共に銃声が上がったのはその瞬間だった。
既に攻撃してくる事を予想していたケインは、客車へ入ると共にしゃがみ込む。
頭上を何発かの弾丸が通り過ぎる中、彼は内部の細部に至るまでに視線を送った。
そして、確認する。
この三等客車は、長椅子の列を左右に並ばせたもので、大人二人分の幅がある通路がその間を真っ直ぐに伸びている。乗客は満員とは言い難いが、決して少なくは無い。椅子の陰に隠れているのが大半である為、具体的にその数を確認する事は出来なかったが、聞こえてくる小さな悲鳴や吐息で、それとなく解るのだ。そしてその奥、次の車両へと続く扉の前には、列車に乗るよりも襲う方が似合いそうな二人組の男が、撃ったばかりでその先より白煙を上げている拳銃を握り締めている。どう見てもベイツの手下であり、且つ自分とセレーネに向けて撃って来た連中と考えて問題無いだろう。
ケインはここまでを、数秒で認識した。
そして、出来るだけ姿勢を低くしたままに通路を走り出した。
目指すは前方の二人組
彼らは迫り来る黒い影へ何かって何か叫びながら、撃鉄を下げ、引鉄を引いた。
重なって上がる二発の銃声に、絹を裂いた様な女性の悲鳴が共鳴する。
だが、放たれた弾丸は、ケインが通り過ぎた後の床に穴を開けるだけで。
無残な結果に阿呆面を浮かべる二人に彼は腕を伸ばして衝突。
外見的には遥かに屈強な彼らを、壁際に叩き付ける。
鈍い音と共に強烈な衝撃を受けた二人組は、白眼をひん剥きつつ、膝を崩した。
ずるずると床に付く彼らの背後の壁は罅割れ、ささくれ立っている。
外套を払いながらケインは体勢を戻すと、彼は背後を振り向いた。
恐れと怯えが混じった視線が、一身に黒い体に注がれる。
だがケインは、その瞳にも揺らぐ事無く辺りを見渡すと、一人の貴婦人を見た。
恋人らしき相手に抱かれ、涙を浮かべる彼女は、彼の爬虫類じみた眼に震え上がった。
まぁそんなものだろう、とケインは思いつつ、乗客を代表して彼女に会釈する。
騒がして悪かった、と慇懃な態度で。
その仕草で彼女がどんな表情をするかを見るより早く、彼はこの客車から出て行った。
もう人々の不穏な視線や会話などで、動揺する様なケインでは無くなっていた。
全ては、彼女のお陰か。
たった一人でいい、本当に心の底から想え、想える相手が居るのは良い事だ、と彼は思いながら次の客車の扉を蹴り開ける、と同時に、屋根の上へと飛び乗った。
連続して弾丸が、誰も居ない虚空を穿つ。
騒ぎを聞いて、待ち構えていたのだろうけれど、それはケインとて先刻承知の上である。勿論唯の弾の一発や二発では死なぬだろうが、生憎これでも病み上がりの身であり、何処まで本調子なのか本人にも定かで無い以上、そんな簡単に食らってはやれない。
今度は腕を組んで、にやにや笑っているシドーを横目で見つつ、ケインは屋根を行く。
出来るだけ音が出ぬ様腹這いになって移動すると、顔を出して、横の窓から敵を見る。
客席の構成も、乗客の数も、前の車両と余り変わらなかった。
ただ今度は、通路の真ん中にゴロツキ風の男が四人居た。
少し厄介だが問題も無い、と、ケインは縁に手を当てる。
体を起こし、ぐるんと回る様にして、彼は窓を蹴破り、中へと入った。
そこに客が居ない事は確認済みであり、更に敵の一人は目の前に居る。
入ると同時に顔面へ蹴りを放つ。
仲間の一人が倒れる中、残りの三人は銃を捨てて殴り掛った。この至近距離では逆に当たらないと判断したのだろう。けれども、それで勝てる道理も無い。
ケインは放たれる拳を流れる様に避け、脚を払い、急所を打った。
最後の一人が、この野郎っ、と突いて来たナイフを後ろに下がって避ける。
それは更に突かれ、振るわれるけれど、しかしケインにはかすりもせず。
とうとう痺れを切らして突撃してきた所を、闘牛宜しく避け際に上げられたレイヴンクロウに自ら顔面を直撃させ、彼もまた他の者達同様あえなく倒れた。
ふぅ、とケインは息を付いた。
肉弾戦はそれなりに出来るけれど、物凄く得意という程でも無い。
やはりこいつを使おうか、とも彼は思い、黒鉄の銃を見る。
が、結局はまだ使わぬ事にした。撃てば周囲への弊害が凄まじいし、こんな雑魚相手に撃っていざという時に弾が切れたでは洒落にならない。最終的に戦わなければならないのは、そんな油断も隙も生めば、たちどころに斬り伏せてくる様な相手なのである。
あの老いて尚闘気張り巡らす男の姿を思い起こし、ケインは首を軽く振った。
そうして、気持ちも新たに次へ進もうとして、かつんと脚を止めた。
誰か、何かが外套の裾を引っ張っている。
振り返れば、そこには一人の、本当に幼い少年が居た。恐らく親である人物が、震えた眼で手招きしているけれど、彼は気にせず、じぃとケインを見上げている。
その両手には、覚えのある黒い帽子が握られていた。
あ、と思い、手を頭に乗せると、案の定そこには伸ばすに任せられたぼさぼさの髪しか無い。
戦っている最中に脱げたのか、と思いつつ、ケインは帽子を受け取り、
「ありがとう。」
そう一言告げてから、わしゃわしゃと彼の茶髪を撫ぜた。
少年はくすぐったそうな顔をして、それを受け入れると、親元へと戻っていった。
その様子を見送ってから、ケインは外套を払いつつ、帽子を被って、反転。
なかなか上々な気分がままに、次なる車両目掛けて走り出した。
あえて使わないのもまた手か、などと、そう思いながら。
次第に近付いてくる悲鳴と銃声に、ベイツは怒りも露に頭上へと叫ぶ。
「シドー、シドー貴様っ。あれは殺した筈では無かったのかっ。」
返事は無かった。
ええい肝心な時に使えぬ男だと、彼は口汚く罵りながら地団駄を踏んだ。
「……。」
アリスは、そんな彼など歯牙にも掛けず、ただこの部屋に唯一ある扉を見ていた。
あの人が、ケインがやって来る。
その事実は、彼女に複雑な感情を抱かせた。
彼がここに来るのは、大変嬉しい。何故なら、私を助けに来てくれたのだから。ここまで来るのに、ベイツタウンから結構な時間が掛かったから、かなり急いできたのだろう。その事を一緒に考えると、泣いてしまいたい程に嬉しくなる。だが、同時に心配にもなる。つまりはそれだけ無理をしてきたという事だ。いや、こうして来ている事自体が、無謀と言って構うまい。あんな酷い怪我だ、簡単に治る訳が無いのに。それで居て、自分はこうしてまた待っているより他無いのだろうかと思うと哀しくなる。
そんな様々な想いが渦巻く中、それを一つに纏めたのは、ベイツの行動だった。
「糞めっ、役に立たん糞どもめっ。金を払っても、それ以下の仕事しかせんっ。」
彼は叫びながら、奥に立てかけてあった何かを取り出した。
それは一丁の散弾銃だった。
ケインが持っていた銃より長くて、筒の口もより大きい。アリスがその実物を見るのは始めてだったけれど、それが散弾と呼ばれる、無数の小さな弾を発射する為の銃であり、至近距離で当たればとんでも無い威力になる位は知っていた。
その時彼女の体が、本人も意図せずに動いた。
光景が動作を促し、思考するよりも早くに拳を、かつてベイツを殴り付けたのと同じで今だ皹が入ったままの拳を叩き付けた。流れる様な、自然そのものの力強い動きで、
「おっとっ。」
だが今度のそれは、ベイツには当たらなかった。ひょいと、彼が後ろに下がった事で空を切り、更に伸び切って無防備になった腕を捕まれたアリスは、力任せに床へと押し倒される。
「早々何度も殴らせはせんぞ、この人形風情がっ。」
ベイツはその華奢な体に馬乗りになると、握り締めた拳を横合いに殴り付けた。
強い衝撃にアリスの首は横へと向けられる。触感の無い彼女に痛みは無かったが、頬を打たれた時の音が、ガタガタと揺れる視界が、造られた脳へと容赦無くその事実を叩き込む。
呆とした表情で、首を横に向けたままのアリスを、ベイツは荒い息遣いと共に見下ろした。その醜い顔が、良からぬ感情によって、見る間により醜悪なものへと変わって行く。
「主人に手を上げる様な所有物には、一つ調整が必要だな。」
傍らに散弾銃を置くと、彼は彼女を再び殴った。続けて別の手、更に別の手と、左右交互にテンポ良く、アリスの頬を打つ。ベイツの様な人間にとって、暴行と性行は同列のものなのだろう、内に堪っていたものを吐き出す様に、下卑た笑いを浮かべながらに、彼は拳を振るった。
その度に見る側を変えさせられるアリスは、もう抵抗する事も無く、されるままにしていた。
最初の反抗が失敗した時点でそれは瑣末となり、もっと重い問題が鎌首を上げたのである。
抗っても、簡単に組み伏せられてしまう。
これでは本当に、唯の人形では無いか。
見ているだけで、聞いているだけで、考えているだけで。
何も産む所の無い、唯あるだけの人形。
自らの体が傷付けられる事よりも、その事の方がアリスには余程哀しかった。そんな自分の為に、あの人がやって来ようとしている事が、より彼女の感情を重いものにする。
ベイツは、そんな内心などお構いなしであった。無口で、感情に乏しい相手程に情欲がそそられるのだろう、殴る度にその力と速度を速めて、次の拳を注ぐ。生身の肉体では無いのでまだ強いけれど、しかしやはり衝撃を受け続けるならば、その結果は同じだ。アリスの片頬には小さな亀裂が入る。それはやがて大きく、深いものになって、最後を迎えた。
ばきっと、硬いものが折れる音と共に、彼女の樹脂で出来た外皮が弾けた。
そこで漸くベイツの手が止まる。
中空で拳を突き出さんとしたままで、ぎょっとした顔を浮かべて。
弾けた部分は、右頬とその眼の周囲、つまりはアリスの右顔の殆どだった。そうして露と成った内部では、表情を作り出す為、小さな蟲の様に忙しなく動く夥しい数の歯車と、それに連なる種々様々な極小要素、蜘蛛の巣の如く張り巡らされた擬似神経たる銀色の神経糸、それに繋がれている白い陶器と黒い硝子で造られた抜き身の眼球が犇いていた。
少女の小さな顔面に、ここまでの技巧を織り込む様子は、職人や研究者の目から見れば感嘆すべきものであり、カーシィの腕の確かさを照明するものであるけれど、しかし想像する者で無く消費する者であるベイツは、露骨に嫌な顔を浮かべて言った。
「何だ、わしより醜いでは無いか、この人形。」
彼の言葉と表情は、剥き出しの片目と無事に残ったままの片目……いっそ壊れていた方が良かったかもしれないが……を通し、アリスの機械の脳へと、電撃となって迸った。
嗚呼やはりそうなのか、と彼女の瞳から光が消え、全身から動力が抜けて行く。
繊細な機構は、物理的暴力よりも、精神的暴力に余程弱かった。
「…私は…」
虚ろな瞳はベイツから焦点を外し、視線を中空に彷徨わせる。
その中でアリスは、何故ローラが、あの女性が、自身を嫌ったのか、解った気がした。
そうして鈴の様な、とは言い難い掠れ声で、彼女は呟く。
何故なのか、という決定的な理由を。
「……醜い、人形……。」
「違うっ。」
魂の深遠から搾り出される様な叫び声と共に、扉が蹴破られたのは正にその瞬間だった。
蝶番を砕いて、飛んで来たドアに当たったベイツは、蛙が踏まれた時に出す様な声を上げつつ、共に押し流さ、壁際にぶつかって漸くに止まる。
拘束が解かれ、身を上げたアリスが見たのは、襤褸を着て息を滾らす、黄金の力強い光、彼女曰く月光を称えた瞳を向けているケインの姿だった。
彼は、蹴り上げた右脚でそのまま一歩を踏み出すと、
「君は何より穢れなくっ。」
下敷きとなったドアから抜け出したベイツが延ばした腕の先の、散弾銃を踏み砕き、
「清らかでっ。」
更に強い足取りで彼の成金の下へ行くと、ボールの様に空中に蹴り上げ、
「そして、美しいっ。」
同じ脚を高々と上げたから、一気に踵を下ろして、床へと叩き付けた。
強烈極まりない三連蹴に、ベイツは大量の吐き出しながら、仰向けに横たわる。
苦しげに呻きつつ、その眼を細めてケインを睨みながら、
「こ、こんな、貴様っ。」
胸を踏んで見下ろす彼の足首を掴んだ。
「こんな、このわし……金のある……しか……こんなっ。」
その指は一瞬ケインすら怯む程の力を出したが、しかしそれだけであった。
莫大なる財産を得たが為にその欲望を止める事が出来なかった、ある意味では哀れな老人エドワード・ベイツは、憎悪に顔面を歪ませたままに呆気無く事切れたのだった。
脚の下から、急速に消えて行く生気を感じつつ、ケインはふぅと溜息を付く。
結局、一番後ろから前のここまで、一両ずつ戦いながら来る羽目になってしまった。流石の彼にも疲労が顔色に出てしまっている。最初からここと解っていたならば、こんな苦労も……いや、どちらにせよ結果は変わらなかったかもしれない。
ともあれ、ケインはやって来たのである。アリスの元へと。
彼は、息絶えたベイツより離れると、もう一度深く息を付いてから、ゆっくりと振り返った。
そこには彼女が居て、じぃとこちらを見つめている。
自然と顔が赤くなった。その視線もあるし、また自らが言った台詞を思い出したからだ。思わず聞こええて来た無体な言葉に激情して吐いたとは言え、余りに熱情的な言葉である。こうして気を緩めた瞬間に、それが伝わって来るから堪らないというものだ。
とは言え、言ってしまったものは仕方が無い。
軽く頭を振るうと、ケインはアリスの元へと歩み寄り、片膝を付いた。
そっとその手が彼女の、欠けた頬に触れる。
既に死んだ男への怒りは多少沸いたが、直ぐに止んだ。
彼にとって、そんな欠損など何の意味も無かったから。
人間だろうと人形だろうと関係無く、アリスはアリスだったから。
ケインはそっと、彼女の頬を撫ぜた。
優しく、そっと、慈しみを持って。
彼女の顔の、まだ無事な半分がぴくりと表情を強張らせる。手の下で、無数の機構が動くのをケインは感じた。恥らっているのか恐れているのか、両方なのかは判断付かない。
その感触に、彼は思わず彼は手を離し、視線を反らした。こちらには明瞭な理由ある。気恥ずかしいと同時に、畏れを感じたのである。自分が触れて良いものか、を。けれども、
「……。」
アリスは、受け入れた。そっと腕を伸ばして、離れた指を掴むと、同じ場所に触らせた。
「……ありがとうケイン……。」
微笑む彼女の顔は、左右で全く違う、美醜合わさった表情を作り出すが、ケインには、その台詞と共に、どちらもがアリスという一つの存在の中で至福を生み出す。
彼は、促されるままに頬を、次に髪を撫でると、感極まった様子で腕を首に巻き付け、自らの胸の内へと彼女を抱き込んだ。乾いた血や砂ですっかり汚れている外套があったが、アリスはそんなものなどまるで無いかの様に力を抜き、耳を胸に押し当てる様に顔を埋めた。
自身の元までしっかりと聞こえて来る心音を、ここまで間近に聞かれるという事実は、更にそれを一層高鳴らす事となったけれど、悪い気はしない。
ケインはさせるがままに、彼女を抱いたまま、その髪の毛を撫ぜ続けた。自らを受け入れてくれたこの少女が、あの月の夜にしてくれた様に。
その二人の背後から、大仰で硬質な拍手と共に、聞き覚えのある高笑いが上がった。
ばっと顔を上げて見れば、何時からだろう、あのシドーが扉の前に立っている。吹き飛んだドアの枠に体を傾け、さも愉しそうに口元を歪めながら、彼は言った。
「結構な仕事っぷりだな、兄弟。全くここまで良くぞ来てくれたよ。」
「……シドー。」
きっとケインは彼を睨み付ける。この男が居なければ、苦も無くここまで来れたろうに。
その視線を悠然と受け止めつつ、シドーはぐっと体を起こしてからに続けた。
「怖い顔はするなよ。お前のお陰で、喧しい雇い主から解放されたんだからな。」
それは半分冗談であり、半分本気の口振りだった。実際、この男だったならば、誰かにやって貰うより自ら手を下した方が速かっただろう。それをしなかったのは、そもそもシドーに置いては、ベイツの趣向も恩恵も何もかも、どうでも良かったという事に違いない。
「ま、ともあれ、だ……解ってるよな?次は、どうするか、ってよ。」
そして、この男に興味があるとすれば、それは戦う事、ただそれだけなのだろう。そうであるからこそ、今ケインは生きていて、そしてまた彼は乗り越えねばならない敵でもある。
すぅと、白柄の日本刀を鉄の指で撫ぜる仕草を見て取りつつ、ケインは頷いた。漆黒の拳銃を右手に握り締めながら、そっとアリスの方を見る。
何時かと同じ様な構図に、彼女は不安げな顔をするけれど、彼の口元に浮かぶ優しげな笑みと、その瞳の輝きに、直ぐに表情を変えた。怯えが消え、逆に信頼の念がそこに現れる。
彼らの様子を見ていたシドーは、嘲る様な笑いを深めつつ、くっと親指を天井に向け、
「嗚呼、別れの挨拶やら何やらの準備は終わったかね、兄弟。だったら早くしよう。尤も、そうでなくては困るが、ね。時間はやって、お前の方から来たんだ。今更そんな諸々を済ませてませんでした、ではそれこそ済まされんぞ。」
「……安心しろシドー。もうそれは良い。だから、」
ケインは彼の指を見、再びアリスを見て互いに頷き合うと、彼女をそっと放して立ち上がった。出来るならば、放したくなど無かったけれど、巻き込む訳にも行かない。
それにまた、再びこの腕の中に抱く事も出来るだろう。
ずっと、その銃口と視線をシドーへ投げ掛けつつ、ケインは言い放った。
「俺はお前を倒す。その減らず口は、一晩だけで充分だ。」