20.三者三様の西部(ワイルド・ワイルド・ワイルド・ウェスト)
既に時刻は朝から昼と呼べる頃合になり、上がりきった太陽も、その光を情けも容赦も無く大地に降り注いでいるのだが、ベイツタウンの住人達の多くはまだ家の中に篭っていた。或いは宿か酒場か、商売女の所に。どちらにせよ屋外では無く、通りに人気は少ない。
昨日の大鴉狩り、その顛末に一同強い衝撃を受けていたのである。
よもやあんな瑣末な、と皆が思い込んでいる事で、アレが復讐に来るとも思えなかったが、しかしそうでないと思い切るには八本脚の怪馬が姿は強烈過ぎた。それに飛び乗る大鴉の姿も悪夢めいた印象深さを称えており、人々はよもやと同時にまさかとも考えてしまうのである。
だからその時、荒野の向こうからやって来て、そして通りを抜けて行く、何頭も居るかと錯覚してしまいそうなけたたましい蹄の音に、市民達は震え上がった。
まさかと抱いていた思いが、まさかでは無くなってしまった。
その事を、ぴったりと扉も窓も閉じた家々の中で思い知った彼らは、過去の自分の軽率さを悔やむと共に、それを導いたあの双子を恨んだ。目の前であの馬を見た事ですっかり寝込んでいたステファニーなんかは、恐竜が来る恐竜が、とシーツに頭まで被り、呻いている程だ。
馴染みの酒場に居座っている、厳密な意味で市民とは言い難い連中の場合は、悪態を付きつ
つ何時あの悪魔の息子が戸口に現れてもいい様にと、銃の柄を握っていたが、本当に現れるのかと確かめに行く様な者は誰一人居なかった。『負け犬達の巣窟』がマスターは、そら言わんこっちゃないという冷ややかな視線を送りながら、コップを拭いている。
そ知らぬ顔で通りを歩いていた極少数も、蹄の音に竦み上がり、直ぐ物陰に隠れてしまった。
そうして誰に邪魔される事は愚か、見られる事も無く馬の足音は通りを駆け抜けると、ある一軒の店の前にして嘶き一つ上げつつに立ち止まった。
「何だ、何だ、騒々しい。」
その声に気付いた店主が、腹を掻きつつ扉を開けて表に出る。銃職人ジョンである。
今まで寝ていたのだろう、欠伸を噛み締めつつ、彼は目の前に立っている黒い馬を見た。それの脚は八本もあり、更に騎手は馴染みある顔をしていた。
丁度日の影となったその男に、ジョンは眼を細めて見上げながらに言う。
「よぉ、大鴉。乗り入れなんて珍しいじゃねぇか、どうしたんでい。」
「頼みがある。直ぐに弾丸を補充したいのだが、新しいのはもう造ってあるか?」
騎手……大鴉は、すっくと愛馬から降りてそう言った。
ジョンはまず彼の実に酷い有様に成り果てた外套を、その隙間から覗けるそれより一層悲惨な体を見、最後に黒の帽子の下にある顔を見て、にんまりと笑った。
「お前……迷いが消えたな? 腹にたまってたもんが綺麗に無くなった、いい顔してやがる。」
「御託はいい。あるのか、ないのか、どちらだ。」
「へへ、急かすなよ。多分入用だって思ってな、たんまり作ってある。」
おかげでこちとら徹夜だよ、と更に声を上げて笑いながら、ジョンは一度工房に入ると、拳大の大きさをした麻袋を持って早々と戻り、大鴉へと投げ渡した。受け取ると、彼はその中身を確かめてから、深々と頭を下げつつ、代金が入った袋を投げ返す。
「いいって事よ……行くんだろ?」
ぽんと受け取ってから、ジョンは聞いた。
「ああ……多分、このまま戻らないだろう。」
大鴉がそう応えると、ジョンはうんうんと頷いて更に言う。
「だと思ったぜ……ま、何だ。折角消えた悔いだ、また作らん様、精々気張ってくれよ。俺に、お前の銃の整備をしたって事を誇れる位の働きは期待するぜ?」
それに、そうだな、と苦味を入れた笑みを称えると、大鴉は麻袋をガンベルトに差込んだ。ばさりと外套を打ち振るいつつ振り替えって馬に乗り込む。
ジョンは、その後姿を眩しそうに眼を細めて眺めながら、ぴっと親指を立てるのだった。
荒々しい野を、果てが無いかの様に何処までも走る真新しい線路。僅か半年前に建造されたその上を、州都プレスコット目指して一両の蒸気機関車が進んで行く。義体大国として、ここ最近の間に一気に技術先進国となった土壱発端の、超蒸機関では無い従来機関の、タンク式を採用したそれは、代わりに大型化がなされていて、速度も馬力もなかなかであった。
アリゾナ準州にて始めて立てられた本格的鉄道であるこのバロック線の乗客達は、前方から後方へ砂の海が高速で流れ行く風景を、一等から三等の違い無く愉しんでいる。かつては馬か、もしくは馬車で通るより他無かったその地を、遥かに楽な方法で通っているのだから当然だ。
そんな、脈々と繋がる客席が一番先、特別車両の屋根に、シドーは居た。彼は昨夜と同じ、けれども血で汚れていない格好をして、進路方向に向きつつあぐらをかいている。表情は完全にくつろいだもので、歯を剥き出しにしたあの凶悪な笑みだ。
彼は待ち遠しかったのだ。兄弟と感じたあの男が姿を見せるのが。
今来るかどうかは、あの傷だから、微妙な所だろう。
が、しかし来るという確信があった。
奴ならば、まず間違いなく来るだろう、と。
それに、来なくてはわざわざ生かしてやった意味が無いでは無いか。
そも、彼がこの国に遣って来たのは、強敵と戦う事が目的であった。
時は、今から二十年近く昔の事になる。
シドーの祖国たる日本は、その当時、他国との接触を拒む鎖国状態であり、将軍家・徳川が打ち立てた政権・幕府による、閉ざされた、しかし平和な時代を享受していた。だが、そこに強引に割って入った外国からの開国要求を発端に国の統治体制は乱れ出し、幕府側、反幕府側によるある種の内乱状態に陥ったのである。
そこでシドー……当時は別の名前であったらしいが、その詳細は不明である……は、反幕府の若き戦士として倒幕運動に明け暮れていた。尤も彼は、幕府打倒を真剣に目指す同志の様に、明確に戦う言い分など持っていた訳では無い。類稀な才能と修練によって鍛えられ、達人と呼ばれるレベルにまで到達した剣術を活用したい、そんな単純な理由でシドーは戦ったのである。友人達が幕府を打つ、と息巻いていたからそちら側についただけであり、もし周囲が逆の事を言っていたならばその通りにしただろう。
ともあれシドーは、思う存分刀を振るった。
さしたる理由も目的も無く、ただ己の力を磨きたい、試したいその一心で。
そして当然の様に彼は人を斬った。斬った。斬り続けた。
その度に、シドーは感じたのである。
苦も無く敵を倒した時に刀を通して伝わる生々しい感触。
刹那の後、猛然と吹き上がる血飛沫の心地良い暖かさを。
やがて術理の研鑽と利用は、実戦闘を通して本能に火をつけ、闘争への快楽を生み出した。
もっと戦いたい。
もっと斬りたい。
もっと勝ちたい。
もっと殺したい。
そう、もっとだ。
もっともっと、もっともっともっと、もっとっ。
無限の如く湧き上がる欲求は、唯の剣士を恐るべき剣魔に変えた。
一人倒す毎にシドーは喜び、新たな獲物を、刺激を求めて町中を奔走した。
その異常性が露骨に表に出始め、周りの人間から殺人狂として恐れ出された頃、彼は唐突に狩りの場を失った。遂に幕府が倒れ、新たな政府が打ち立てられたのである。
彼は呆然となった。
これでは戦えないではないか、と。
その心は飢えて乾いたままで、何もかもが事足りていなかった。
壮絶な勢いで押し寄せる皇火の文化に、そして築かれる新たな社会に、居場所を奪われた彼は、欲望を満たすべく辻に立って、闇夜の中道行く人に襲い掛かった。だが、既にそこらの人間を斬った位では収まらない程度まで、その飢餓は進行していたのである。
そうこうしている間に討幕運動の最後の一花には参加しそびれ、本格的に始まった新時代の中で唯の犯罪者として追われる羽目になったシドーは一丸発起する事になる。
日本は狭くなった。狭く、最早この腕を振るう事も出来なくなった。
だが海の向こうであれば、きっとまだ戦いの場があるに違いない。
彼はそう思い、逃避行の末、横浜港から密航、国外へと脱出したのである。
目指すは阿真利火の西部であった。人づてに聞いた話によると、その地は金が出たとかで、世界中がら夢見がちな連中が集まり、まだ日本では一般に流通していない銃が幅を利かせた、素晴らしい混沌の地と化しているのだという。
そこならば、と、これまた長い時を掛けて阿真利火大陸に到達したシドーは、昼は剣術披露、夜は辻強盗で路銀を集めながら、西へ、西へと脚を進めた。
拙いながらも詠語を理解し始め、着たきり履いたきりだった着物と草履が現地の服とブーツに変わる頃、西部と呼ばれる地方へ付いた彼は、荒野にてあっと言う間に盗賊団に取り囲まれた。敵は多数で全員が銃を持った、絶体絶命と言える状況である。
だが、シドーの心は狂喜と共に乱舞していた。
この荒廃さ、無法さ、豪快さ。
ここだ、ここに違いない。
こここそが俺が求めていた場所、極楽にして浄土だっ。
所詮は少し速い突きに過ぎんと直ぐに弾丸を見切り、一対複数という不利をたった一振りの日本刀で覆して見せたシドーは、そう確信すると、死体の散乱する地で高笑いを上げた。
この時より彼は、今の名を名乗る様になる。
漢字で『斯道』と記すそれは、さる筋の道、分野を意味する言葉である。正に戦と死の道に精通する彼が、西部の荒野に無数の異名を轟かすのに大して時間は掛からなかった。
そうして月日は経って現在。
ただ一度の敗北から、シドーは生身の体から機械の体となり、その整備の(ついでに衣食住)確保の為ベイツの用心棒となっていたが、彼を本当に満足させる相手とは逢っていなかった。
そんな風に、いい加減退屈を味わっていた所へ、大鴉が姿を現したのである。
合計二回の戦闘を垣間見、そして実際に一戦交えて、シドーは思った。
こいつは俺の兄弟だ。
誰もが叶わぬ力を持って、全てを殺し尽くす有様こそ、正に血を分けたそれであり。
実に殺し甲斐がある、と。
伸びるに任せられた白髪を風で棚引かせて、シドーはそう笑みを強める。
待ってやっているのだ、早く来い兄弟よっ。
更にガンベルトに差した白い柄を握り締めて、彼は好敵手の出現を待つ。
その中で、『もっと』と囁く声が、毎秒毎に声量を上げた。
シドーが居る特別車両の中では、ベイツが寛いだ面持ちで新聞を読んでいた。
この車両は、彼の為に造らせたもので、ここで暮らすのに申し分無い程の家具と設備が、その成金的趣向によって備わっていた。
これは、バロック鉄道線敷設の折、責任者であり、技師でもあるトム・バロックに相当な額を援助していた為である。時間的にも技術的にも資産的にも、本来ならもっと掛かるとされていた鉄道敷設だが、ベイツは金の力によって半ば強引に成し遂げたのだ。
それは彼の金に対する絶対の信頼と、飽くなき願望が原因であった。
かつて鉱山を見つけぬ前の若いベイツは、学も無ければ体格的にもそう恵まれておらず、何の後ろ立ても地位名声も存在せず、しかも大変に醜かった為、親兄弟知人友人全てに疎まれた。
そんな中で鬱積していった高みへの欲求は、金鉱発見と共に大いに爆発した。
ベイツは、金で買えるものは何でも買った。
堅牢な屋敷を建て、豪奢な家具を買い揃い、自分と同じ異形の部下を雇って、世界中の女を、少女を取り寄せた。自らの価値が、その資産のみである事など重々承知していた彼は、それを惜しげもなく活用する事で、昔日の自分が満たせなかったあらゆる、そう、あらゆる欲望を叶えるべく邁進したのである。
バロックへの援助もその一環であるし、またプレスコットへ行く事もそうだ。
ベイツは鉱山都市の一市長で終わる気など無く、更に上を望んでいた。州知事、それこそ大統領の地位を。そこから見える風景は、果たしてどれ程のものか。想像するだけで絶頂を覚える。かつて己を見下してきた連中全てを見下し、意のままに出来るというならば、その為に使う金に糸目は無い、と、ベイツはそう考えていた。
その考えは、もう一つの欲求に置いても、同様である。
彼は、ちらりと新聞から眼を離すと、窓辺に座る義体人形の方を見た。
その人形、アリスこそは、七人教授の一人にして『歯車式人工頭脳の祖父』と呼ばれる男、クリストフ・フォン・アッシェンバッハに師事した一級の義体職人カーシィ・キャルビンに大枚を叩いて造らせた愛玩少女である。
彼女の姿は実に美しい限りであり、ベイツはその出来を甚く気に入っていた。
そして、そんなアリスを陵辱し尽くす様を想像し、えもいわれぬ快感を感じた。
カーシィに彼女を造らせたのは、女達がベイツの責め苦に耐え切れないからである。ベッドの上で、彼女達は肉体的にも精神的にも呆気なく壊れてしまうのである。反応が一切返って来ない、本物の木偶人形を相手にしても、何も面白く無かった。
故にこそ、彼は決して死なない少女を求めたのである。何を、どんな風にしても決して壊れず、或いは壊れても治せば良い、そんな、永遠に、自らの趣向の相手が務まる存在を。
わざわざ製作者の説明を聞くまでも無く、常識的に考えれば、そんな者居る筈が無い、不可能だと解りそうなものであるが、強欲の権化であるベイツには及びも付かない。彼が考えるのは、如何に支配し、如何に愉しむかだけなのである。
それこそ、今から出来るならば、是非したい所であるのだが、それは何故かシドーに止められていた。もし少しでも触れたらならば、お前を斬る、と。勿論不服ではある。七人の精鋭を、更に側近のメンシャンとヤオシーを失いはしたが、それでもあの大鴉は潰えた(と、あの件の男が言っていた)のである。今更何を恐れるというのだろうか。
だが、それを言うと、今一番恐ろしい相手は、大鴉では無く、間違いなくシドーである。よもや手を上げるとは思えないが、油断が出来ない以上、彼の言う事は聞くより他ならない。
こうして殆ど揺れぬ特別車両の中、視線だけでベイツはアリスを味わう事にしていた。
その白磁の肌を抱けば、やはり見た目通りに冷たいのだろうか、それとも温かいのだろうか。蕾のままで止まっている薄い唇は、果たしてどの様な味わいをしているのだろうか。間接の繋ぎ目ばかりの指や脚、生身のものと比べて余りに艶めいている黒髪は、己の一物をしごくのに向いているのだろうか。そして肝心要の穴は、一体どんな具合なのだろうか。それを致した時、あの人形はどんな悲鳴を上げてくれるのだろうか。嗚呼、全ての部位をばらしてから(どうせ後で繋ぎ直せばいいのだ)行為に及ぶというのもいいなぁ。
ちらりちらりと、新聞とアリスを交互に見つつ、彼は悶々と思考を巡らせ、舌なめずりする。
ベイツは、やがて開放するに至るだろう強欲を、ねっとりと熟成させていた。
一方のアリスは、ある意味では一番単純で害の無いベイツの事など眼中に無かった。
彼女が考えていたのは、只管にケインただ一人の事だけであった。
無駄に細かい装飾がなされた窓枠に体を傾け、外を眺めながらに彼女は昨夜を想う。
自らの体に縋りつき、本当に幼い子供の如く泣きじゃくっていた青年の姿を。
アリスはそんなケインを見て、自身もまた哀しみを抱くのを感じた。
彼の様子は、本当に弱々しかった。
凛とした強さを垣間見せていたケインがまるで嘘の様に。
だが逆に言うと、その行為は、それまでの彼の全てが虚勢であった事を告げており、普段との段差は、彼が人生の中で強いられてきた諸々を指し示す。
その事をアリスは共に考え、共に感じたのである。
今、己の胸に顔を埋めている青年、いや、少年の心の内に。
無限に限りなく近しい有限を持つ歯車が動き、彼女は愛しさと慈しみの感情が沸き立つのを感じた。父親に抱くものとは少し違う、だが穏やかで優しい、良い響きを持った動作だ。
その感情に動かされるがままに、アリスはケインの頭を撫ぜ続けた。
アリスはそして、次第に別の感情が、ある種の喜びが形を成してゆくのを察する。
今ケインが、自分を信じ、頼っているというその事実が、彼女には嬉しかったのだ。
アリスは、今日に至るまで自らが造られた理由を知らなかった。知らなくとも、父は居るし、本もあったし、世界は広かったから、何の問題も無かったのである。
けれども今日彼女は、その製造理由を知った。それは端まで理解出来なくとも、しかし認め難いものだった。生まれてからの歳月を全て壊しかねないものだったからである。
そんな彼女がこの時、誰かの心の拠り所に成れた。
どうしようも無い理由で造られた人形の自分が、だ。
それが彼女を、どうしようも無い程喜ばしい気分にさせた。
彼と一緒に居て彼を支える事こそが、自らの造られた本当の理由だと感じたのだ。
だが、そんな想いをまるで無視し、蹂躙した相手が居た。
アリスは、窓の向こうの荒野から眼を離し、天井へと視線を向ける。
見えはしないけれど、そこにはあのシドー・アサクラという東洋人が居る筈だ。
彼は、異常な程に強かった。同じ義体とはとてもでは無いが思えぬ程に。
ケインとて決して弱くは無い筈なのに、しかしシドーはその上を行く強さを誇っていた。あんな風に彼が手も足も出ないままに倒れるだなんて、誰が想像出来るだろうか。少なくとも、もしあの時、止めを刺そうと近寄るあの男の前に立ち塞がり、自らの差し出す代わりに彼を見逃す様言わなければ、きっとケインは死んでいたに違いない。
そう、彼女が今ここに居るのは、自らの意思によるものに他ならない。
あえて死地に飛び込む事で、アリスは彼を救おうとしたのである。
というより、彼女はそれ以外に何もする事が出来なかった。
ケインが腕も脚も腹も胸も肩も背中も顔も斬られ続けている間、アリスは一歩も動かず、ただただ目の前で繰り広げられる光景に、信じられないと思いながら釘付けになっていた。彼が、自分の為に戦ってくれている事を知っている上で、且つ彼女の隣に居るローラが、シドーを止めようと必死になっているにも関わらず、だ。
彼女が漸く我に帰ったのは、ローラが捕まれ、ケインが刃によって貫かれた瞬間である。
そうして咄嗟に飛び出したけれど、しかし所詮それは後の祭りに過ぎない。
戻り様の無い時は流れてしまった。何をしようと、彼が倒れた事実には変わりない。
今、列車に揺られる中で、その事が無性に悔しかった。
存在の意義を見出した癖に、その相手を見ているしか出来なかった自分が憎かった。
流れ行く大地を見て、いっその事飛び降りてしまおうかとも思った程だ。だが、そんな事をしても、ケインはきっと喜ぶまいと信じ、こうして留まっている。
アリスは今、自らの命よりも彼の事で頭が一杯だった。
助けになど来てくれなくとも別に良い。
ただ今は、あの傷が癒えてくれる方が、その時間を稼げた事の方が重要だった。
そして何よりも、次にケインの為に何が出来るかが、だ。
コチリコチリと脳内の歯車を刻ませながらに、アリスは考える。
もしまた時が来て、彼が絶対の絶命になった時。
その時こそ、自らが出来る事をしよう。そして、ケインを助けよう、と。
で無ければ、自分がこの世に居る事など、無意味でしかないのだから。
刻一刻と、プレステッドへ近付いて行く蒸気機関車の中で三者の思考はバラバラであり、互いに口を開く事も視線を交わす事もせずに、ただ己の内に閉じ篭っていた。
それを現実へと引き戻したのは、客車から轟いた叫び声だった。
まず、あれは何だ、という疑問詞が最初に告げられる。
次いで感嘆と驚愕が上がり、最後に恐怖と共に、一つの名が聞こえて来た。
「大鴉だっ、大鴉が居るぞっ。」
その声に、がばりとシドーが振り向いた。
アリスもまた、立ち上がって窓に張り付く。
ぎょっとした顔を浮かべて、ベイツが続いた。
彼らの視線の先、まだ先頭には程問い後部車両の直ぐ隣。
彼が、三日月の白斑を持つ愛馬に乗って奔っている。
右手に超大な拳銃を、左手に手綱を握った黒尽くめの騎手。
襤褸と成った黒の外套を纏い、黒い帽子の下で鋭い金の光を輝かす賞金稼ぎ。
化け物と呼ばれ続けながらも、今はただただ愛する者を救わんと直走る一人の男。
その姿へ向けて、ほぼ同時に三人は声を上げた。それぞれに全く違う、己の言葉で。
「来たな兄弟っ、待っていたぞっ。」
「大鴉、大鴉だとっ? 何故奴が、奴が生きているのだっ?」
「……ケイン……っ。」
銃声が上がる中、彼が馬より列車へと飛び乗ったのは、次の瞬間だった。