19.始まりと終わりは、鳥の声が聞こえる朝に
そうしてまず始めにケインが目にしたのは、見慣れぬ天井だった。朝か昼か、そのどちらかは解らないが、差し込む日の光で、ここ最近ずっと寝泊りしていた『負け犬達の巣窟』が一室の天井とは違う木目が、はっきりと見て取れた。
次に感じたのは、自らを包み込んでいるシーツの柔らかさだった。その色は異様な程に白くて汚れ一つ、染み一つすらついていない。また、匂いらしい匂いも無かった。
幾つかの情報を経て、意識を呼び覚ました彼は、シーツを退かし、上半身だけ起こした。
そこに服は纏われていなかった。あるのはシャツと見紛う程に手厚く巻き付けられた包帯だけである。勿論、下はちゃんと黒の革ズボンが履かれているけれど。
誰が手当てしてくれたのか、と考えつつ、ケインは視線を周囲に送った。
そこは窓が二つに扉が一つだけの、小さな部屋だった。清潔感はあるが質素な造りで、家財道具は今寝ているベッドを入れても余り多くは無く、他に机と椅子と本棚がある程度である。
ただ、棚に並ぶ本の数はかなり多く、上から下までずらりと並んでいる。種類も幅があって、分厚い辞典からペーパーバックの薄い大衆小説まで様々だ。恐らくそのどちらに置いても、ケインが今までに読んだ書物を上回っている事だろう。ぽんとそこだけ取り出せば、彼が一度も行った事が無く、また行く事も無いと思う図書館の一角と言っても問題はあるまい。よく眼を凝らせば、そこには詠国の作家ルイス・キャロルの児童書が置かれてあり、それに隣り合う様にして、訳された荒羅舞の物語が並んでいる。
そこでケインは、ここがアリスの部屋である事を悟った。
意図せず、眼が辺りを彷徨う。居るべき相手、居る筈の相手を探して。
部屋の主は、今この部屋には居なかった。
自らの意識が途切れる前に何が起きたのかを思い出して、彼はぐっと眉間に皺を寄せた。
更に拳に力を込めた時、ケインは漸く、己の右手が握っている黒い拳銃の存在に気付く。寝ている間にもずっと握っていたのだろう、右の指は白く染まっている。
彼はまた、先程まで見ていた奇妙な夢を思い出した。
その夢の最後、少年時代の自分自身から、このレイヴンクロウを手渡された事も。
ゆっくりと、ケインは右腕を上げた。更にぴんと伸ばして、銃口を真っ直ぐ、目前の壁に定める。通常の拳銃の凡そ十倍近い重量があるそれは、散々打っては撃った、しかもファニングなどという無謀極まりない行為までした手首にはなかなか響いたが、我慢出来ない程では無い。
そこに弾が込められていない事を確認しつつ、彼は用心鉄を軸に銃身を回した。最初は遅く、次第に速めて風切り音を発す。行き成り止めて構えれば、銃は回転を始める前ときっちり同じ位置へ、その巨大な口を向けていた。
やれる。
少なくとも、ある程度動けるまで体は回復したらしい。清々しいまでに斬り刻まれ、更には心臓の一歩手前を突き込まれたというのに、こうして生きている体には、最早笑ってしまうより他無かったが、けれども同時に感謝の念も浮かんでいた。こんな体質で無ければ今頃は……さて今頃は一体何時なのだろう。エルフのローラは、常に秒針まで正確に巻いた時計を持っていたから、時間の把握には困らなかったが、この部屋には時計すら無い。自分が倒れてから一体どれだけの時間が経ったのか検討が付かなかった。余り、経っていなければいいのだが。
そう思っていると突然ノックと共に扉が開き、銀色の髪を揺らし、少し小さめの……多分、アリスのものだろう……ワンピースを身に纏ったローラ当人が現れた。
「あや……起きちゃったようですね、お早うございます。」
爽やかに挨拶しつつ、彼女は脚でドアを閉めた。品は無いけれど、それも致し方あるまい。彼女の両手は盆を持っている事で塞がっていたのだから。
「お腹空いてると思って、カーシィさんに台所お借りしてきましたよ。貴方に食事を出すのは、初めてですね。何分この家にはろくな材料がありませんでしたから、かなり手を抜いてますので……口に合うと、良いのですが。」
「お早うローラ……と、ありがとう。」
ローラはそう言いつつ、ケインの今だシーツに包まれたままの膝の上に盆をそっと置いた。そこには、豆とトマトとジャガイモ、後何かの野菜が一緒に煮込まれたスープ、ふた切れのパン、彼好みに深く淹れられた真っ黒な珈琲に、それから見た事が無い焼き菓子らしきものが、皿やカップに盛られている。
壮絶な戦闘をこなした後で、流石のケインの体も、空腹を訴えていた。そこで彼は銃を小脇に置くと、盆を手元に寄せる。そしてローラの、さぁどうぞと言わんばかりの笑みに促されるままに、その脇に置かれているスプーンを持つと、赤い汁に先を向けつつに、こう尋ねた。
「所でローラ……今は何時なんだい?」
彼女は、うぅんと呻きつつ、懐から銀蓋の懐中時計を取り出して応える。
「十時二十八分三十五秒ですね。あ、もう四十秒ですけど……貴方がシドーとかいうアレに倒され、私がここに連れ込んでから、まだ一夜しか経っていませんよ。」
ケインが何を知りたいのか察したのだろう、ローラは最後に言うと、ぱちんと時計の蓋を閉じて微笑んだ。彼はスプーンを動かす手を止める事無く、考える。
一夜。まだ一夜しか経っていない訳か。
それならば、まだどうとでもなる。
急がなくては、なるまい。
そう思い、スープを飲み続けるケインに、ローラはおずおずと尋ねた。
「あの……美味しいでしょうか?」
「ん?……と、嗚呼、悪かった。美味いよ、凄く。」
感想を求めていたのだろうに黙々と食していた事に苦笑しつつ、彼は言う。無論、それが嘘でないのは、黙々と、という時点で明らかであり、事実、美味かった。量だけで無く、味に関しても無頓着なケインではあるが、これならば食欲に無理を言ってでも作ってもらえばよかったかもしれない。千切ったパンをスープに落とし、程よく汁を吸わせてから食しつつ、彼は今更ながらに少し後悔した。一緒に添えられている珈琲の具合も最高である。
そうしてパンごとスープを飲み干したケインは、焼き菓子に手を伸ばしてひょいと摘んだ。
「気になっていたんだが、何だいこれは?」
「嗚呼、それはですね、レンバスと言いまして、エルフの里に伝わるお菓子なんですよ。荒挽き粉にハーブ類を混ぜて焼き固めたもので、美味しい上に体にもいいんです……ま、ハーブなんてありませんから、さっきそこら辺で採って来た草なんですけどね、入ってるの。」
最後の台詞の剣呑さに、う、とケインは口に運ぼうとしていた指を止めた。味の良し悪しは兎も角、毒でも入っていたら洒落にならない。そう考えている事に気付いたローラは、慌てて両手を振り振り大丈夫ですよと言って、
「ちゃんとそれっぽいのを入れましたし、毒見はやりましたから。」
その言葉を信用して、ケインはざっくりと歯を立てた。成る程、悪く無い。本来はもっと別の味なのかもしれないが、これはこれで美味である。それに心無しか、疲れが取れて行く気もした。尤も、適当な草ではその効果も薄いだろうから、本当に気の所為だろうけれど。
ともあれ食後のデザートとしては上等なもの(そも、彼の様な者にとって、食後のデザートという概念そのものが上等だったが)を最後の一欠片まで噛み締めると、最後に半分程残っていた珈琲を一気に飲んで、ケインは一息ついた。
「ありがとう、本当に美味かった。」
「いえいえ、お粗末さまでしたよ。」
そう言って、頭を下げてみせる彼に、ローラもまた会釈で返す。
そのまま彼女は盆を退けつつ、珈琲のお代わりはどうですか、とケインへ尋ねた。それを彼は被りを振って断ると、脚をベッドから出して言う。
「いや、もう充分だ……ありがとうローラ、俺はもう行かなくては。」
久方ぶりにちゃんと食した、暖かい手料理により、ケインの鋭気は養われた。それに合わせて、体もまた幾分か楽になった感を受けている。時は十分だろう。そう言って、ベッドの下に置かれていたブーツを履こうとする彼に、ローラは満面の笑みを浮かべると、
「やはり、行ってしまうのですね……散々私に縋った癖に。」
冗談めかして、けれど心に来る一言で応え、ケインの動きをぴたりと停止させた。
確かに、その通りと言えばその通りであろう。
ローラとは、幾日も幾夜も、同じ屋根の下で暮らした仲である。ケインにとってその日々は、心穏やかに出来るものでは無かったか。たとえ最後の一線を、恐らくは互いに、踏み越える事が出来なかったのだとしても、その事が消える訳では無い。今からアリスの元へ行くという事は、そんな時を過ごした彼女を置いてゆくという事である。
だが、
「……すまないローラ……けれど、ね。」
ケインはブーツを履き終えると、立ち上がり、ローラへと向き直った。彼女は微笑みを称えたままに、彼を見つめ続けている。こうして改めて並ぶと、その背や肩が自らと比べて如何に小さいかを、痛い程良く解った。こんなに差があったのかと、訝しがる程に。
しかし、それでも、ケインは己の開かれた右手を真摯に見つめながらに、言った。出逢ってから僅か一日、しかしその時の中でどうしようもなく大きくなった彼女への想いを。
「……アリスは、俺の眼を月の様だと、素敵で、綺麗だとはにかんだし、荒羅舞の砂漠の物語を知らないと言ったら読んであげると言ってくれたんだ。それに……俺を抱き止めてくれたんだ。敵の血に汚れた俺を優しく、頭さえ撫でてくれたんだ……だから、だから俺は、」
「解っていますわ、そんな事。」
そう語られる唇を途中で押し止めたのは、ローラの人差し指だった。
彼女は、美貌と長寿を誇る一族らしい、何とも妖艶な笑みを浮かべて、
「ただ、それでも聞きたかったのは、踏ん切りをつける為です。貴方を、ただの貴方として、去って行った他の男達と同じ様に、見送る為に。」
そう言うが早いか、するりとケインから身を離した。
「ローラ……。」
「哀れみっぽい言葉は要りませんよ? それよりも、貴方にはまだやる事がある筈です。」
ケインは、そんなローラに手を伸ばそうと腕を伸ばし掛けて、途中で止めた。そして、さぁ早く行きなさいな、と告げる彼女の笑みに、唇を一文字にして頷くと、小脇に置かれていたレイヴンクロウを掴み、ローラに背を向け部屋から出て行った。
エルフの女は笑顔のままに、彼の後姿を最後まで眼のみにて追っていた。
アリスの部屋から居間を抜け、工房へと至ると、壁際にカーシィが立っていた。
「これを聞くのは二回目だが……行くのかね?」
腕を組み、そう尋ねる彼に、ケインもまた前と同じ台詞で、だがはっきりと言う。
「無論だ。」
「……そうか……だったら、至らぬ私からはもう何も言う事は無いな。娘を頼んだよ。」
明瞭に、端的に述べられたその言葉に、彼女の父は頷きつつ応え、ケインも首肯して返した。
と、そこで彼は何かを探す様に辺りを見渡す。
「所で……俺の帽子と、外套を知らないか? あの部屋には無かった様なのだが。」
「どちらも、ここにある……が、帽子は兎も角、外套なんてどうするのかね。まさか着るつもりじゃないだろうな。最早着衣として意味を成さなくなっているぞ、これは。」
カーシィは怪訝そうな顔をしつつ、隅からケインの黒い帽子と外套を持って来た。その言葉通り、外套は酷い有様だった。帽子も大なり小なり血で汚れているが、それはこの比では無い。シドーの手によって思う存分斬られた為に、半ば襤褸布と化しており、更に内側から、外側から付いた血によって生地は強張り、錆びた鉄の様な異臭を放っている。
だがケインは、そのどちらも躊躇する事無く受け取ると、
「いや、そのまさかだよ。」
頭から帽子を被り、ばさりという音を立てて、外套を身に纏った。
それは、彼なりの戒めであった。手も足も出す暇鳴く破れ、無様に倒れた果てに、彼女を失ってしまった愚かな自分を、決して忘れんとする為の。また、長年大鴉として戦って来た中で、ずっと着込んできた馴染みのあるそれは、云わばケインの戦闘服である。ただそれを身に付けるというだけで、アリスを救わんとする心構えもまた鋭く、逞しいものになる。
そうして彼は、ガンベルトのホルスターに愛銃を入れると、
「では……彼女を、取り戻しに行くよ。」
「嗚呼、行ってくるがいい。」
そうカーシィと、簡単な言葉を交わし、後はそのまま家の外へと出た。
本来なら恐ろしい光と温度で照り付けてくる太陽も、葉の天窓越しには爽やかで心地良い。
昨日とはまた印象が違う、正に荒野のオアシス然とした森の小道を、ケインは歩く。
そして彼は森の出口まで来、昨日と変わり無く残っている戦場を眼にした。
あの時存分に争った形跡は、一夜程度ではまだ消えていない。木々や地面の所どころに弾痕が出来ているし、赤い染みがこびり付いているし、そもそも死体からして、まだ残っていた。後で埋葬でもするのだろう。そしてまた、シドーによって斬り倒された木はそのまま横たわったままであり、荒野に眼をやれば、同じく真っ二つに両断された馬車が見えた。
ケインはぶるりと震える。改めて、あの男の力量を思い知ったのだから。
だが、それでも戦わぬ訳には行かない。彼女を取り戻す為ならば、是が非でも勝って見せる。
そう頷き、荒野に居るだろうセレーヌを呼ぼうとした時、
「おい銃泥棒。」
と、背後からだみ声が掛かった。
振り返ると、木の幹に寄りかかる様にして、水牛男ことフランク・ザ・ノーホーンが立っていた。その名前通り無くなった両角の付け根と、首に包帯が巻かれており、片手でレンバスを咥えている。
「勝手に人の銃を遣いやがっててめぇは……まぁ、それはもういい。お前は、その、あれだ、あの人形を取り戻しに行くのかい? ベイツの所へよ。」
「……嗚呼、そうだ。邪魔する者を全て蹴散らして、な。」
仏頂面でそう尋ねる敵に、ケインは睨みを利かせて言った。それに対しフランクは、正にその名が示す様な、ざっくばらんな口調で応える。
「けっ、戦うつもりなんか無ぇよ、くだらねぇ。ただ一言言って置こうと思っただけさ。今日ベイツは屋敷にいねぇ。どっかのお偉いさんに逢う為、州都プレスコットに向かってる。そういう予定だったんだ。今頃は列車に乗って丁度向かってる頃だろうよ……まず、あの人形も一緒に連れて行っているぜ、旅のお楽しみに、な……あの馬で今行きゃ、多分間に合うだろ。」
旅のお楽しみ、という言葉に、ケインはますます眼を細めたが、それ以上にこの男の言動そのものが不可思議だったので、怪訝そうに尋ねた。
「……良いのか? そんな事を言って。お前の主なのだろう?」
ケインのその質問に、フランクは破顔すると、歯を食い縛って笑いつつ言う。
「金で雇われてただけだからな、信頼も糞もねぇよ。一緒に来た仲間は、あの胡散臭ぇチャイニーズ野郎共々死んじまったからな、おめおめと帰る訳にも行かん。それに、だ。」
更に折れた角が出ているテンガロンハットの縁で顔を隠し、フランクは続けた。
「お前には貸しが出来たからな。他の連中は殺されちまったが、俺だけは生きている。大事な角を失ったのは悔しいが、生きてるだけマシってものさ。それに、あのローラの姉御は、わざわざ俺まで手当てしてくれたからな……愛人だったんだろ?」
「……前は、な。後、別にあんたを殺さなかった事に理由は無いさ。あの時、俺は本気で蹴ったからな、殺すつもりで……それで生きているのなら、それはあんた自身のおかげだよ。」
ケインは苦笑いを浮かべてそう応えると、フランクは、けっと口元を歪めた。
「どちらにせよ結果は変わんねぇし、もうこれで貸し話しだ。さっさと行けよ、こうしている間にも、どんどん離れてるんだぜ、列車はな。」
「そうだな……その通りだ、行かせてもらう。」
彼に一瞥を送りつつ、ケインは頷くと、セレーネという一唱と共に指を鳴らす。
暫くして、騒々しい足音と共に、馬の嘶きが耳に届き、彼の愛馬がやって来る。それに自ら駆け寄ると、勢い良くケインは馬上に飛び乗った。
手綱を掴み、踵で軽く背を叩く。
相棒然とした主人の指示に応える様にセレーネは高鳴ると、そのまま一気に奔り出した。
烈日の光差す荒野、その彼方目掛けて。
「……えぇ、そう、解っていましたとも。」
「ん? 何が、だね。」
ケインが寝ていたシーツを掴み、そこに顔を埋めているローラへ、カーシィは聞いた。
「あの人が離れて行く、なんて、そんなの解り切った事でした。それでも、もしかしたら、って少しは思っても、良いじゃないですか。ほんの少しだけでも、とどめられるかもしれない、と。と。色々あるけどお互いに眼を瞑って、ね……ねぇ?」
だがそれは所詮『もしかしたら』であり、現実にはありえなかった未来である。
その言葉に、カーシィは腕を組み、眼を背けて応えた。
「さぁ、な……私は、君でも彼でも無いから、何も言えんよ。」
「別に答えを聞こうとは思ってませんでしたけど……ずるいですよ、それ。」
シーツから顔を上げて、ローラは笑った。その目元には微かに濡れた様な痕が残っているけれど、あくまでも痕だ。今はもう泣いてなどいない。そうかもしれん、とカーシィも笑った。
「で……君はどうするかね? このまま街へ帰るというならば送って行くが、何ならここに居ても良いぞ。一人だけではここは寂し過ぎるからな。」
勿論親心で言っているが、と付け加えてそう言う彼に、ローラは解っていますよと言って、
「そう、ですね。少し居させてもらいましょうか。ここは、故郷に似ていますし。」
ちょびっとだけ、と、人差し指と親指で幅を付け、そして更に笑った。
望んだ願いは叶わなかったけれど、自分はエルフであり、時はまだたっぷりとある。
哀しいし、寂しいけれど、でも過去は過去と思って、次に行きましょう。
きっと何時か何処かで、本当の相手と出逢える筈なのだから。
その時こそ、彼も彼女も羨む様な、幸福な生活を送って見せてやります。
種族固有の性格と弛まぬ精神的努力を持って、彼女はそうエルフの微笑みを浮かべた。