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16.闘争の果てのトゥルーロマンス

 ケインと共に在った時に、アリスが父について詳しく述べなかったのは、何か意図があったからでは無く、それが言うまでも無い、当たり前の事だったからである。

 何せ先日の朝、森を出るまで、彼女はずっと彼と共に居たのだから、当然の事だろう。

 だからこそ、父とケインの会話を盗み聞きしてしまったアリスは、強い衝撃を受けた。

 ただ正確に言うと、強い衝撃というだけで、具体的な事は理解していなかった。

 生を深く理解していない彼女に性を認識する事は難しかったのである。

 けれども、それが何か良からぬ事であるのはケインの激しい言動から推察する事が出来たし、何よりもその為に自らが作られたという事実は、アリスを哀しい気分にさせた。自らが気分と言っているそれが、経験と観察にのみ頼ったもの、感覚的には何の確証も無い、あえて言えば偽物であり、それを感じる自分もまた唯の人形である事は、勿論解っている事ではあるけれども、それでも、アリスの心は悲哀で一杯だった。自らを造り、産み出した創造主、父親たるカーシィ・キャルビンこそは、自分をそうでない者として扱ってくれていると考えていただけに。

「……あの……。」

「そら、おいでアリス、こちらに。」

 扉の隙間からおずおずと半身を出していたアリスは、そう父に言われ、そっと出て来た。彼女の服装は今までと同じ、フリルを多用した漆黒のドレスである。体を拭いて寝る様に、と言われながらも、ケインと父の会話が気になって、そのままにしていたのだった。

 カーシィの前に立ったアリスは、暫くの間どうしたものかとままでいた。

 視線は泳ぎ、あらぬ方向、父の姿が焦点に合わさらぬ様な方向へと彷徨う。何をどう言えばいいのか、どう接すればいいのか、解らなかったのである。

 それを見て取ったのか、カーシィはそっと手をアリスの頭の上に置くと、

「……ぁ、」

 そのまま首の後ろへ向け、自らの体へと優しく抱え込んだ。彼女自身、特に抵抗もせず受け入れ、父のその、衰えてはいるけれど大柄な体へ華奢な体を収めさせる。

 見えないが、骨ばかりな指が自らの髪の毛をすいているのを耳で感じ、アリスはあえて瞳を瞑ると、されるに任せてその指と髪が絡み合う音を聴いた。更に耳へと意識を注げば、父の心臓が脈打つ音が聞こえる。真昼間の大脱出の折に耳にしたケインのそれと比べると、熱さも昂りも無いけれど、自分の歯車が噛み合う音と共鳴する様で、心地良い。

 それらは今日の朝まで、何度だって平然と感じていたもの達である。

 だからこそ、より一層解らない。

「……ねぇお父様……。」

 僅かに体を離しながら、アリスは首を上に向けてカーシィを見つめた。

「……どうしたかね?」

 その漆黒の視線を逸らす事無く、父は穏やかな瞳で見つめ返す。

 彼女は一種の居心地の悪さを感じて眼をさっと横へ向けるが、直ぐに引き戻し、言った。

「……さっきの話は……本当、なの……?」

 カーシィの顔に、すっと影が差す。彼は一言、すまないが、と付け加えてから、

「本当の事だ。決して、言うつもりも無かったがね。」

「……。」

 悲哀の波形が脳裏で刻まれて行くのをアリスは感受した。合わせて金属の心臓が嫌な音を放つ。結局の所、彼女を苦しめた荒野での悩みは、無意味なものだったのである。

 ただ、それが解っても、いや解ったからこそ、彼女にはまだ聞くべき事があった。

 自らが、良からぬ目的の為に造られたのであるとするならば、相応の扱いがあるだろうに。

「……どうして、こんな……風に……本物の女の子みたく……?」

 その言葉に、カーシィはますます影の深みを増させると、撫でる手を止めてこう返した。

「最初は、単純に一個の作品を完成させる為だったよ。生きている少女と寸分違わぬ存在にさせようとな、私の師匠と同じか、或いはあのヤーコプ・グルムバッハの様に……だがそれでもやはり、どうしようもなく情とは移るものなのだね。だからこそ悔いはあったし、それにそんな服を着せた訳だよ。喪服だ、なんて自己満足でな。」

 彼は、そこまで言い終えると、一拍を置いてこう言った。

「そうだ……私は君を愛していたよ、アリス。」

「……。」

 父の表情を、アリスは決して反らす事無く彼の瞳の奥を見つめた。その中に宿っているだろう真意を読み取らんが為に。

 そうして導き出された解は、偽で無かった。

 彼女は唇に笑みを浮かべると、私もよ、と言ってから父の胸に顔を埋めて呟く。

「……愛しているわ、お父様……。」

 そうやって仮初の親子は抱き合い、一つとなって、互いの愛情を確かめ合った。

きっかけが何であれ、元々が何であれ、愛情があるならば、どうとでもなるのである。

だが、アリスにはまだしなくてはならない事があった。

「彼が気になるのだね。」

静かに体を離した娘に、カーシィはそう尋ねた。

彼女は、こくりと頷く。

ケイン。今もまた、外で戦っている彼の安否が、無償に気に掛かっていた。そこに至る思いは父へのものに似ているけれども、それとは別種の衝動めいたものを感じるのだ。

 行かなくてはいけない。

 カーシィの体から離れたアリスは、首を窓の外へ向けた。

 それを見て、父は何とも言い難い複雑そうな表情を示して、

「多分彼は君に来て貰いたいとは思っていないだろうな。自分の闘っている姿を、君に見せたくなどあるまい。君に嫌われると思っている。だが、行くというのかね? アリス。」

 それはあのネバーモアと呼ばれていた事に関わるものだろうか、と彼女は考えると、その問い掛けに小さく、だがはっきりと首を縦に振って見せた。

 それは何度も思った事だ。

 彼が何者であろうと、構わない。

 その魂が幼く、また善良である事は、良く解っているのだから。

 だから何を見たのだとしても、きっと受け入れる事が出来る。

 アリスはそう確信していた。

 そんな娘の想いを黒く煌めく瞳に見たのか、カーシィもまた頷く。

 そして立ち上がると、彼女の肩に手を置いて言った。

「解った、解ったよアリス。行きなさい、君の思うがままに。」

「……はい……。」

 その言葉に再度頷き、肩に置かれた手を愛おしそうに頬ずりしてから、彼女はくるりと背を向けたと床を蹴って外へと出ると、森の出口目指して走り出していった。

 

 呆けた様に座っているローラを背に、ケインはメンシャンとヤオシーに対峙した。

 双子の中国人は、荒野と馬車を背にし、隣り合って立っている。ケインから見て、左に赤い衣のメンシャン、右に青い衣のヤオシーだ。そしてそれぞれ、横の者に向いていない方の手に、あの奇妙なナイフを数本持っていた。

「これはまた、実に見事なお手並みでしたな、大鴉(ネバーモア)。」

 刃を弄び、月光で銀色に輝かせながら、メンシャンが言う。

「その七人は、我らの中でも相当な手練だったのに。」

 同様の事をしながら、ヤオシーが続けた。二人共に掛けた丸縁の黒眼鏡は、月夜の下に虚空の円を四つ程穿っている。その下にある筈の眼をケインが見通す事は出来なかったが、今の言葉が本心からのもので無い事は、その妖しさから十二分に感ぜられた。

「……見殺しにしたのか。加勢も出来ただろうに。」

 レイヴンクロウの銃身を折って、新たな弾丸を込めながら言うケインに対し、二人はほぼ同時に、さも愉しそうな、故に見る者を不快にさせる笑みを浮かべると、

「これは何とも人聞きの悪い事を仰るものですなぁ。まるで我らが鬼畜外道であるかの様に。」

「戦に勝利するには敵を知るのが重要。その為に尖兵を出す。我々の行いは利に適ってるかと。」

「良く言う。」

 ケインは、がきりと、乱暴に銃身を元に戻しつつ、そう応えた。

 彼は先にも増して酷く苛付いていた。アリスを護らねばならない所にローラも護らねばならなくなり、そしてその末に、彼女の心の内を垣間見てしまったのだから。

 彼の頭の中では、単調なまでに同じ言葉を鳴き続ける鳥が降り立っている。その声が、或いは一時のものでは、という弁解を容赦なく掻き消し、強引に一つの結論を出さしめるのだ。

 嗚呼、彼女も心の何処かでは、そういう風に俺を見ていたのか、と。

 元よりそう思わせるだけの言動はずっとあった。

 そしてあの平手打ちである。

 あれは応えたな、とケインは自嘲する。つまり、それだけ自分は彼女に心を許していたという事だ。自身がそうだと思っていた以上のレベルで、だ。

 だがそれを気付かされた一発は、同時に決別のものでもあった。

 また皮肉か、とケインは奥歯を噛み締めた。

 そうして、ささくれ立った感情を視線に込め、金色の眼で双子を睨み、唐突に言う。

「所で……何故俺が戦っている間にさっさとアリスの所へ行かなかった? 隙はあっただろ。」

 行き成りの発言に二人は少し戸惑ったのか、きょとんとした顔を浮かべた。

 だが直ぐに先程の笑みを作って言う。

「理由は二つですな。地理的なものと、それにベイツ殿の意思です。」

「森は岩に囲まれて、行けるのはこの場所からだけ。」

「更に我らが主は、貴方を生かす事無き様に、と言われました。」

「残しておけば間違いなく、後々の遺恨になるが故に、と。」

「成る程……それこそ愚かだな。」

 口々にそう告げる双子に対し、ケインは深く頷き、下を見た後、嘲る笑いを彼らへ発した。

 瞬時にその腕が上がれば、二人の片割れへと銃口を向ける。

 この大鴉と恐れられる者を、真正面から相手にしようとはな。

 そしてケインは、誇りと嘲りが同時に混ざり合った感情がまま、人差し指を引鉄に掛けた。

 暗き闇を抱く今の彼にとって、こんな中国人など、哀れな三下程度に過ぎなかった。

 そう、少なくとも、ケインの中では。


 一方のメンシャンとヤオシーもまた、大鴉に対してある結論を導き出していた。それは街で逃げ続け、つい先に七人の者達を相手取った彼を見てのもので、この様なものであった。

 大鴉など恐れるに足らない、と。

 確かに、この男は強い。動きは素早く逞しく、人間を一発で塵芥に出来る拳銃を巧みに駆使する事が出来る。またその肉体は不死身が如くあって、これが一番厄介極まりない。見た所弱点は無く、しかも殆ど瞬時に回復する体質は、世界中の保因者(キャリアー)の中でも破格であろう。

 だが、それだけである。詰まる所は、生まれ持っての力に過ぎない。

 彼には、その力を行使する為に必要不可欠な、技が足りていないのだ。

 いや、多少はあるのかもしれないが、メンシャンとヤオシーには遠く及んでいない。

 誇張はあろうが、仮にも中国四千年。

 その大いなる時の中で培われて来た数多の技を継承する一派に属し、術と付くおよそあらゆるものを会得してきた彼らと比べれば、大鴉のそれなど児戯に等しいのである。


 だから双子は、レイヴンクロウの巨大な銃身を見ても、動揺などしなかった。

 その引鉄が引かれるよりも早く、彼らは弾かれる様にして左右に分かれた。

 大鴉の狙いが、二手に分かれた相手のどちらへ向くかで迷う。だが、横へ走りつつ、近づいて来る相手に、もたもたはしていられないとばかりに、彼はメンシャンへ銃口を向けた。

 そうして引鉄を引こうとしたその時、三本の白刃が飛来する。

 ヤオシーが放ったナイフであった。

 その狙いは正確であり、軌道は両の目と銃を握る右手へと進んでいる。

 大鴉は思わず拳銃を振るった。

 鈍い音と共に黒い塊が通り過ぎ、硬質な音と共に刃が砂地に突き刺さる。

 彼はすぐさま銃口を戻し、今度はヤオシーへと向けた。

 だが、そこに生まれた決定的な隙を、見逃す二人では無かった。

 気が付けば、大鴉の前にメンシャンが奔り寄っていた。

 前傾姿勢のまま、早々と接近したその動きは、まるで赤い猿の様である。

 舌打ちしつつ、大鴉は撃つ事を止め、メンシャンへと銃身で殴り掛かった。

 それは本来の用途では無いが、しばしば必殺の一撃として用いられてきた鈍器である。

 その一撃が東洋人の小さな頭を砕くより早く、メンシャンはしゃがんだ。

 頭上すれすれを大鴉の右腕が通り過ぎる中、彼は円を描く様にその脚を払う。

 重心がぶれていた事もあって、それは鮮やかに決まった。

 体制を崩し、思わず大鴉は仰向けに倒れる。

 すかさずメンシャンは立ち上がった。

 そしてがら空きになった大鴉の脇腹目掛け、人骨で最も硬い踵を叩き込んだ。

 素晴らしくはっきりと、ものが砕ける音が響き、堪らず大鴉の口から血と息が吐き出される。

 それでもまだ敗れはせず、大鴉は痛みの中で上半身を起こした。

 おっと、とメンシャンは後ろへとステップを刻みつつ、そのまま高々と跳ね飛んだ。

 中空で後ろ向きに回転して行く彼へ、唇から垂れる血はそのままに大鴉は狙いを定めた。

 赤い影の下を、這う様に青い影が疾走する。

 はっと大鴉が眼を降ろせば、ヤオシーが懐へと飛び込んで来ていた。

 彼は左手で相手の右腕を上へと逸らしつつ、半身となって右肘を突き込む。

 場所は先にメンシャンが砕いた肋骨である。

 二重の激痛を受け、大鴉は反射的に引鉄を引いた。

 轟音と共に、大口径の弾丸が、空しく夜空へと飛んで行く。

 その反動もあって、彼は後ろへと下がった。

 左手でそっと脇を抑えつつ、痛みと怒りを堪えてヤオシーを見る。

 彼は既に離れ、横へと跳んでいた。

 その後ろには、既にナイフを投げる構えを取るメンシャンの姿があった。

 咄嗟にヤオシーからメンシャンへ、大鴉が次なる弾丸を撃つ同時に、彼はその刃を放った。

 指から放たれたそれは、今度は全て銃を握る右手へと突き刺さる。

 刃の衝撃で狙いはぶれ、必中の一射はメンシャンの横を通り過ぎた。

 そして、もうその頃には、既にヤオシーは動いているのである。


 片方が打って出る時、それをもう片方が支える。

 次にはその逆を。次の次にはまた逆を。次の次の次には更に逆を。それが延々と続く。

 それが、メンシャンとヤオシーが最も得意とする対人戦術である。

 弛まぬ修練によって体得した功夫(クンフー)と、まるで意識を共有しているかの様な双子の神秘。

 この二つを最大限に生かして敵を翻弄し、遂には打倒する。

 扉と鍵という名前に相応しい、かちりと見事にはまった組み合わせ。

 常に独りで戦い、相手もまた一人ずつ仕留めて来たケイン・ザ・ネバーモアにとって、絶えず二人で戦い続けるこの敵は、天敵と言っても過言ではなかった。


 そうして気が付くと、ケインは荒野から森の方へと確実に追い詰められていた。

 戦っている間に砕けた骨は一つに繋がり始め、突き刺さったままの刃も勝手に抜け落ちて行くので、倒されこそしないのだが、だからといってこのままでは勝てる見込みも無い。その傷の治癒とて、一体どれ程持つのか、本人すら定かではないのだ。

 ローラは離れた所からそれを見つめて、ごくりと生唾を飲み込んだ。

 彼女は信じられないと思った。

 あのケインが殆ど一方的に負かされようとしている。

 それもあんな小さな男、たった二人によって。

 先程まで、あれ程の強さを示していた者が、である。

 しかしながら彼女は、同時に二種類の安心を感じていた。

 それはあの大鴉とて、人の子であるという事と。

 あの化け物を、倒してしまえる人間が居る事だ。

 その事に気付き、ローラは首を激しく降った。

 私ったら本当に何て事を。

 だがそれでも思いは消えず、彼女はじっと、ケインが蹂躙される様を見つめていた。


 勿論当の本人は、自らの敗北に安心など抱ける訳も無く、怒りを持って敵を捕らえていた。

 何と小賢しい相手だ。

 一対一であれば苦も無く勝てるだろうに、それが適わない。徒党を組んでも結束など容易く壊せたものだが、この二人に限ってはそれも出来ない。

 刺され、倒され、殴られ、蹴られ、一歩一歩ケインは押されて行っていた。

 そうやって下がる度に、彼の中で怒りと憎しみと憤りが募る。

 このままでは負けてしまう。

 負けてしまっては、アリスを護れない。

 無駄に体力を消費し、弾丸を浪費する中で、ケインの思いはどうしようも無く昂った。

 今まで篭っていた鬱屈がそれを後押しし、意識はただ一つへと収束する。

 この赤と青の毛皮を被った黄色い猿に、眼に物を見せ付けねば。

 何故自分が、大鴉などという不快な異名を誇っているのか、を。


 放たれた四発目の弾丸が小脇を抜けて地面を抉るのを見て、メンシャンは微笑んだ。

 大鴉の持つ拳銃が五発しか撃てないのは、先の戦いの折に確認済みである。つまり、あの中には一発しか残っておらず、相手はもう不用意に引鉄を引けないという訳だ。勿論再装填などさせるつもりは無い。このまま一気に、押し倒してしまえ。

 彼はそう考え、ヤオシーに目配せすると、相手も解ったのか頷き、笑った。

 そうして今度は青い彼が大鴉へと詰め寄った時、彼らはある異変に気付く。

 レイヴンクロウが、その主の右手から消えていた。良く見ると、後ろ腰のホルスターに収められており、黒く染め上げられた木製の柄が腰元より垣間見える。

 とうとう諦めたか何か策があるのか、と疑う双子を前に、彼は走り出した。

 後者か、と投げられるナイフを地面に転がって避けつつ、大鴉が寄ったのは、フランク・ザ・ノーホーンの側だ。

 更に立ち上がった時、彼はあのロングバレルのピースメーカーを掴んでいた。

 二十インチもある銃身が後方に備えられた回転式弾倉に込められている弾丸は、左右合わせて十一発。本来六発まで込められるそれは、大鴉を呼び寄せる為に一発使用していた。とは言え、それでも、十一発といえば結構な数である。

 あの牛め余計な手間を、と双子が同時に思っている間も無く、二丁の銃が火を噴いた。

 しかし当たらない。銃身を伸ばした事でその命中精度を上げたのだとしても、一度に二つの的を射抜くのは困難で、走っている相手ならば尚更である。二丁拳銃遣いならばいざ知らないが、大鴉はそんなものでは無いし、また二丁持つ理由は元来撃てる弾の数を増やす事に使われる事が多く、二人を一度に撃つ為にある事は少ない。

 そんな事は大鴉とて解っているだろうに、しかし彼は引鉄を引き続ける。

 自棄に成ったか、とほくそえみつつ、ヤオシーは詰め寄った。メンシャンが袖から抜き出したナイフを指に挟み、何時でも投げられる様に構える。

 だが、彼らは知っておくべきだった。

 大鴉が放つ弾丸は、今メンシャンに集中している事を。その為にヤオシーは接近出来るけれども、彼の片割れはその場に縫い付けられ、距離を縮められないという事を。そして避ける事に専念する余りに、攻撃の手を届けられないという事も。

 功に焦るヤオシーは、銃弾が来ないのを良い事に、一気に詰め寄った。

 腕の中、胸の内に跳んで入った彼は、その掌底を大鴉の鳩尾へと叩き込む。

 たとえどれ程人間離れした体を持とうと、急所の数も間接の場所も同じなのだ。

 ぐらりと倒れる大鴉に、ヤオシーは笑みを称える。自らの見事さを褒めてやりたい位だ。

 だが、彼は直ぐにそこにある違和を感じた。

 何故この男は、こうまで何の抵抗も示さないのか。

 そう考えた突如、ヤオシーの体は前へと傾いた。

 何時の間にか開いた片手で持って、大鴉が彼の腕を掴み、引き摺り込んだのである。

 誘ったのかと、堪らず叫びながら、ヤオシーは空いている拳で殴り、脚で蹴った。自らの腕を離させようと、金的を含む打てる限りのあらゆる急所を強打する。

 だが大鴉は決して離そうとしなかった。寧ろその力は一層に増して行く。

 何という力かっ。そうヤオシーが恐怖すら覚えた時、彼の天地は真逆になった。

 ねじり込まれた膝に、彼と大鴉との位置関係は反転したのだ。

 今度は大鴉が上となり、馬乗りになっている。

 そうして彼は、がきりと残ったピースメーカーの銃の先を、ヤオシーの額へ押し付けた。

 それに気付いたメンシャンがナイフを投げ付け、それらは全て背中に突き刺さるも、大鴉は一向に構う事無く、ぐっと銃を握る手に力を込めた。

 そうして今正に引かれるというその瞬間、ヤオシーは見た。

 雲の無い空に輝く月を背景に揺れる、魔性の双月を。

 瑣末な力ではどうしようも無い、絶対的な力の持ち主を。

 黒眼鏡の下で瞳を震わせながら、止めようの無い脂汗を垂らしながら、彼は一言呟く。

 それは中国語で、『魔王』という意味の言葉だった。

 その言葉が解ったのか、大鴉はぎりっと瞳を細めると、容赦無く引鉄を引いた。


 寂れ、乾いた地面に、潤いを与える赤い水が溢れ出す。

 咲いたのは、己が半身の名を呼ぶ、悲鳴と言う花。

 その中の悲哀を、次に己へと来る憤怒の視線を感じ、ケインは我知らず笑った。

 どうだ、この俺に仇なすその不届きさを、身を持って思い知っただろう。

 彼は無造作にピースメーカーをフランクの方へと投げ捨て、レイヴンクロウを取り出す。

 ケインは、久しく忘れていた爽快感を、高揚した心で確かに感じていた。

 ちょこまかと小五月蝿い虫の如き奴らを叩き潰す事の、どれ程に素晴らしいものか。

 そんな清々した気分で、彼は最後に残った獲物へと視線を送る。

 哀しみ、怒っていた相手は、睨まれた瞬間に確かに震えた。

 怖がっているのだ。恐れているのだ。この俺を。

 そう思うだけでケインは高笑いしたくなった。

 そしてそんな想いは、新たな獲物を求めて一歩を踏み締めた時、

「……ケイン……っ。」

 聞こえた声によって、際限の無い後悔へと瞬時に変わった。


 森を彼女なりの全力で走ってきたアリスは、抜けた先で思いも寄らぬ者を見た。

 地面に横たわる無数の死体。七人、に見えたが、しかし一人はどうやら生きているみたいなので、正確には六人が、所々欠損した奇怪な姿で倒れている。そこから離れた所には、何故か怪我はしていないみたいだけれど血まみれのローラが居て、自分を見て驚いた顔をしている。

 そうして、彼女からもまた離れた所に、ケインが居た。彼の右手には物凄く大きくて黒い拳銃が握られていて、側にはまた別の死体があった。服装からすれば、あのベイツの部下の中国人だろう。もう一方の赤い方は、ケインと対峙する様に今だ立っている。

 何が起こったのか。

 そんな事は、小さな子供であっても、物を知らぬ人形であっても、一目瞭然だった。

 

 何故彼女がここに居る。

 ケインは愕然と佇んだままで、戸惑いの表情を浮かべている少女を見た。その黒い瞳が自らを捉えるのを感じた彼は、熱く煮え滾っていた精神が、急速に冷めて行くのを感じた。

 見られたのか。

 ここに居る、という事はそういう事だ。

 何処から見ていたかは解らないけれど、そんなもの、辺りの惨事だけで十分であろう。

 見られたのだな。

 その言葉の意味を深く噛み締めるケインの耳に、奇声が飛び込んだ。

 振り向けば、メンシャンが、怒涛の勢いで奔って来る。その手にはあのナイフが、力み過ぎの余り血が流れ落ちる程に握り込まれていた。

 あれも刺さり所が悪ければ死ねるかな、とケインは半ば他人事の様に見ていた。

 けれどもその体は、まるで機械仕掛けの人形が舞を踊る様に正確に動く。

 唯一無二の肉親を殺されたばかりに無謀にも突っ込んで来る相手へ、右腕を動かし、レイヴンクロウの銃口を向ければ、引鉄を引く。

 至近距離まで詰め寄っていたメンシャンは、その胴体に大穴を開けながら倒れた。

 返り血が吹き上がり、唯でさえ汚れたケインの体を、ますます朱に染める。黒い外套(マント)を着ていたとしても、それは余りにも鮮明な赤を月明かりに称えている。

 終わった、な。

 ケインはそんな虚ろな想いで振り返ると、アリスの方を見た。


 アリスは、一切の感情を欠いた表情を浮かべているケインを見て、こう思った。

 この人は誰、と。

 彼女にとって、彼は幾つもの顔を持った人物だった。

 少年、青年、老人。そのそれぞれにそれぞれの感情を覚えたものだが、今目の前に居るケインは、どれにも当て嵌まらなかった。まるで知らない人、始めて出逢う様な人に見えた。

 その身を血に染めているというならば、尚更に、である。

 アリスは一瞬戸惑い、向けられた視線に怯え、ざっと下がろうとした。

 だが、そうやって脚を動かそうとして、彼女は留まった。

 それはケインの、黄金に輝く瞳の奥に見えたのが、馴染みあるものだったからである。

 その感情なら、アリスは良く知っていた。自らが森を出て幾度も受けた感情だ。

 彼は哀しんでいる。

 アリスはそう思った。そしてまた、何に哀しんでいるのかも悟った。

 私に見られたから。

 恐らく、これが彼の普段の姿なのだろう。何の為かは知らないが、人を殺す存在。

 だが、ケインはそれをアリスに隠そうとした。隠し、見られた事に哀しんでいる。

 何故かしら?

 答えは、時間を賭ける必要も無く、簡単に導き出された。

 本人は、それを決して心から喜んではいないから。

 もし喜んでいたならば、逃げている時にだって銃を撃っただろう。けれども、彼はしなかった。殺さざるを得ない自分を、殺す事の出来る自分を、好いてなどいないからだ。

 そう思った途端、この黒い影に包まれた人が、かつてその本質を見た人に摩り替わった。

 体はしっかりしていても心の内は幼い少年なのだと感じた彼が、目の前に立っている。

 そもそも彼は何の為に戦っていたの?

 その理由を思い出し、そしてまたかつてここに来るまでに自らが言った事を思い返し、アリスは一度は下がろうとした脚を前へと踏み出し、ケインへと歩み寄った。

 自らには居なかった母親が抱く様な心持を基にして。


「……ケイン……。」

 アリスのその小さな声に、ケインはびくりと我を取り戻し、同時に訝しがった。

 彼女は、自分の方へと歩み寄っている。こんな血に汚れた化け物の元へと。

 君は駄目だ。君は、来てはいけない。

 そう思い、そして言葉に出そうとしたが、震える喉は声にならず。

 気が付けば、彼女は目の前に居た。

 目の前に居て、何の恐怖も躊躇も無い漆黒の瞳で、ケインを見据える。

「ぉ、」

 その何処までも真っ直ぐな視線に、彼は一切を忘れて膝を付いた。

 二人の体が、同じ程度の高さになる。

 と同時に、アリスはそっとケインの頭に華奢な手を乗せた。彼女の父親がずっとそうして来た様に、或いは何時かでケイン自身がそうした様に、黒い髪を白い指が撫ぜる。

 優しく、そっと優しく。

 そこに人肌並の暖かさは無い筈だったが、彼は確かに温かみを感じる事が出来た。

 今まで感じた事も無い様な、人間としての、素晴らしき暖かさ。

 そしてその瞬間、ケインは何もかも全て一切を忘れてアリスに縋りついた。

 ごとりと、レイヴンクロウを離し、彼は彼女の背中に腕を回す。

 アリスの胸に埋めた口から、幼子の様な嗚咽が毀れた。

 ケインは思い出したのだ。

 自らが、一体何を望んでいたのかという事に。

 長い歳月の果てに身も心も汚れ、遂に叶わぬと諦め、忘れてしまったもの。

 それを今、ケインは己の内に宿るのを感じた。

 この機械仕掛けの少女の無垢な、穢れの無い掌を通して。

 ケインは、アリスに縋り付いたままで、長年の汚辱を削ぎ落とす様に泣いていた。

 大鴉の名が与える感慨もそれが告げる言葉も最早遠く、感ぜられるのは彼女だけだった。

 アリスは頭を撫ぜたままに、彼がするに任せた。

 血で肌やドレスが汚れるのに構わずに受け入れ、聖母の様にその頭を撫ぜる。

 月と星の光の下で、二人は今、一つになったのである。


 一体ここは何処の劇場なのでしょうか?

 抱き合ったままのケインとアリスを見て、ローラはそう半分呆れ気味に思った。

 けれども残りの半分では、至極羨ましい気持ちで二人を眺めていた。

 ケインとは一ヶ月余り過ごしたけれど、あそこまで心を打ち明けられはしなかったと思う。愚痴は聞いた事があるし、疲れていれば慰めもしたけれど、でもあれには到底適わない。もう二人は、周りの死体も、そして自分すら眼中にはあるまい。

 ああまでやられると、もう何も言えませんよ。

 最初にアリスの姿を見た時、ローラは彼女を嘲笑った。ほら御覧なさい、と。貴女がかどかわした相手は、こんな者なのですよ、と。自身がそう思ってしまった様に、同じ眼でアリスがケインを見る事をローラは願ったのである。

 けれども、結果はこの有様だ。

 相手が悪かったのですね、あんなの人間じゃありませんもの。

 そう、理由はきっとあれが人形だったからだ。純粋無垢といえば聞こえは良いけれど、要は何も知らないだけだ。知識はあるから動けるけれど精神的に未熟で、だから異形極まりない者を受け入れる事が出来た。ただそれだけに過ぎない。その意味で、ケインは騙されているのだ。

 しかしながら、もし自分が同じ立場だったら、どうなるか、と考えると、心は揺らぐ。またどうせ、自分は人形になんてなれはしないのだから、考えるだけ無駄というものである。それこそ、ケインと同じ様に全てを開け放たなければ、とてもとても。

 ローラはふぅと溜息を付くと、星空を見上げた。

 でも、やっぱり、口惜しいですね。

 一面の夜空に輝く星々の様に、綺麗だがしかし届かぬ光は、彼女が抱いた夢の様だ。

 きっと今度は叶うと、そう確信したのだと考えると。

 やれやれ、と彼女は首を横に振ってから、今だ抱き合ったままの二人を見つめた。今となっては透き通った、ある種純粋な嫉妬を持って。


 そしてその瞬間、場の空気の悉くをぶち壊す白痴の如き高笑いが上がると共に、煌く白刃に寄って、今まで沈黙を保っていた馬車が真っ二つにぶった斬られた。

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