14.オズの国の父なる神(ゴッドファーザー)
そこは、ちょっとした岩と岩の隙間に築かれた、ある種のオアシスだった。
周囲がすっかり乾燥し、ろくな草木も生えていない中、その場所だけが豊かな木々で覆われている。小さいけれど、密度は確かに森のそれだ。恐らくはベイツタウンがそうである様に、周囲ではここからだけ、地下水が湧き出ているのだろう。
「ここでいいのだね?」
「……そう、ここが…私の生まれた所……。」
ケインがそう語り掛けると、アリスはこくりと首を縦に降った。彼はセレーネから降りると、アリスに手を貸して降ろしてやり、更にその黒い背を押して、愛馬を解き放つ。一応の道はあっても、こう幹が連なっては満足に走る事も出来まい。用があるまで解放して置く。
そうして彼らは、二人連れ立って、森の中へと進んで行く。唯でさえ影となる枝葉の下に、更に日も暮れた今、その視界には静謐な闇が湛えられているけれど、ケインもアリスも、視力は普通の人間よりも良いのだから、歩みは一向に変わらない。一つの雲に遮られる事も無く、緑の天幕を通して月と星の明かりが差し込まれるならば尚更に。
その様な道を進む彼らの間に会話は無い。特にケインは、未だに馬上での事を気に掛けており、あえて唇を噤んだままでアリスの前を歩いていた。彼は、己について考えまいと心掛けながら、別の問いを、彼女の父親について考えていた。
一体この少女の人形を造り出した人物とは、どの様な人なのだろうか。
アリスが、彼について言明した事は、殆ど無かった。けれども彼女の薄い唇から「お父様」と紡がれた時、故郷について静かに語った時、そこには深い愛情と尊敬、そして哀愁の念が込められている様に感じられた。それに義体人形は、本物の赤子の様に無知として生まれ、そこから実際の子供の如く育てなければいけないとも聞いている。人形がどの様な魂を持つのかは、その生育者に委ねられているのだ。
技術は元より、人間としてもさぞや出来た人なのだろうとケインは思い、そして自らの脚が妙に忙しないのは、彼に逢う事に少なからず緊張しているから、という事に気付いた。
ケインとアリスは、何の神秘性も込めずにただ事実を述べるならば、成り行き、としか言う事の出来ぬ状況によって巡り合い、そのまま縺れ込む形であれよあれよとここまで来てしまった関係である。それを、彼女がここに来るとは知らぬ人物へ説明する事は容易でないだろう。
さて、どう言ったものか。
彼はそう弱った、苦い笑みを浮かべる。これまでと比べれば、相当易い悩みであるけれど、余り口の達者では無いケインに取っては、相応な悩みだ。強いて幸運だったのは、その奇妙な表情を、彼の背に居るアリスには見られていない事程度だろうか。
そうこうしている間に、幅の広い小屋じみた建物が見え始めた。
「一体誰かね? こんな時間に、こんな所へ。」
言いつつ扉を開けて出て来たのは、 見事に髪と反比例した髭を持つ老人だった。かつてはもっと筋肉質な体型をしていただろうに痩せこけ、顔に深い皺が出来てしまっている。身に付けているのは、何時洗ったのか解らない作業服に、皮の分厚いエプロンだ。
「……お父様……。」
「……アリス、か。」
そうして彼は、ノックし、目の前に立つ少女へ、自身が作った人形に眼を見張った。老人は、無言のままに彼女の黒い硝子の瞳を見つめた後、厳しい顔はそのままに、
「……お帰り、アリス。やはり戻って来たのだね。」
そう言って、華奢な肩に腕を置きつつしゃがむと、大きな抱擁をした。
「…あの…うん…うん、ただいま…。」
アリスはそれに応え、小さな手と腕を父と呼ぶ男の背中へと力を込めて回す。帰って来てしまった理由でも言おうとしていたのだろうが、彼女は黙って抱き付くだけだ。
「で……君は?彼女をここまで連れて来てくれたのかね。」
その様子を考え深げに見つめていたケインは、体を起き上がらせてこちらに話し掛けて来た老人に、あ、と一拍子置いてから、手を伸ばした。
「ケイン。ケイン・ウェイトリィだ。その、偶然知り合って、ここまで連れて来た。」
老人は、差し出された手を見、それからケインの顔を見た後、それに応えて、
「私はカーシィ・キャルビンだ。彼女の生みの親、に当たる者だ。ここから街までは大分離れていただろうに、わざわざすまないね。」
ぐ、っと握手した。もっと何か指摘されるかと思っていただけに、簡単に受け入れられた事へケインは安堵しつつ、首を横に振りながら指に少し力を込めて返した。
「……ねえお父様……早速だけど、話したい事があるの……いい、かな……彼も一緒に……。」
そこにアリスが、カーシィの袖を引きながら割って入る。彼女の言葉に彼は頷くと、
「解った、いいだろう……君も入ってくれ、立ち話というのも、何だからな。良かったら食事でもしながら。と言っても、精々缶詰になってしまうがね。」
首を傾けて、奥を示した。
如何に燃費が良いとは言え、二十四時間以内で食したものが珈琲のみで、且つあれだけの大立ち回りをやった後では、当然に腹も減る。ケインは拒否もせずに、あぁと頷くと、アリスと共に、誘われるまま中へと入っていった。
本当に、唯の、何の調理もされていなければ、食器に盛られてもいない缶詰を渡された。
ジョンもそうだったが、職人というのは余り衣食住に拘らない様だ。一応ではあっても客人に出す様なものでも無いだろうが、彼らよりも余程それらに頓着の無いケインは、特に文句も無くスプーンで豆を掬いつつ、アリスとカーシィの会話に静かに耳を傾けていた。
入って直ぐの工場から続く更に続く居間、その中央に置かれたテーブルに座って、彼女はさっきからずっと、自らが見た事、聞いた事、何があり、それがどうなって、ここに来る事になったのかを、拙い言葉遣いで積極的に父へと話している。初めて見た荒野。街。城な屋敷、直感的に悪だと解ったベイツ氏。そこから逃げ出した自分。倒れていた所を助けてくれたケイン。己を嫌っているらしいローラ。愉しげな街の探索と、嫌な女性との会合。ケインとの再会と会話。酒場での一悶着から、ベイツの手下による追跡、市民達の増援。職人の工房での小休止。再びの追跡と、大脱走。神秘的な八本脚の馬に乗っての帰宅についてを。そしてまた、多分追っ手はここまで来て、けれどもケインが必ず(ここで少し不安げに流された視線に、彼は微笑を浮かべながら頷いた)護ってくれるだろうという事を。
カーシィはそれについて何か言うでも無く、うんうんと頷きながら、思い出した様に豆缶を減らした。会話というよりも、一方的な報告の様なものだった。ただアリスが最後まで語り終えると、そっと彼女の肩に手を置いて、
「ともあれ……お前が無事で、良かった。問題は、何、どうとでもなるだろうさ。」
そう一言だけ、言葉を発した。自らの肩に乗った手をちらりと見やってからアリスは、
「……うん……ありがとうお父様……。」
そっとその手に、白磁の肌をした自らのそれを重ねる。
空になった缶にスプーンを置きつつ、ケインは彼らの様子をやはりじっと眺めていた。
「……それじゃ……いいか解らないけれど……お休みなさい……お父様、ケイン……。」
食事が済んだ後に、アリスはそう言って、己の部屋へと入っていった。
「嗚呼、疲れたろう。今日はお休み、間接はちゃんと自分で拭いておくんだよ。」
カーシィは彼女の後姿にそう言いつつ、手を軽く降った。ケインもまた、お休み、と応える。
「……義体人形というのも、睡眠が必要なのだな。」
「そうだよ。外部からの情報を極力廃し、蓄えた知識が最適な状態で保存される様に、歯車を整理整頓する必要がある……らしい、のだが、実は詳しい所は解っていない。」
そうして二人きりになったケインとカーシィは、食後に淹れられた珈琲を啜っていた。その淹れ具合は、やはりというか何というか、薄いものだったけれど、流石に文句は言えない。
ケインは黙ってそれを飲み込みつつ、義体職人の言葉に返した。
「解っていない、というのは? あんたが造ったんだろ?」
「知識の保存どうこうの前に、機械による人間そのものの代理を造る事が、義体人形の最初の理念だったからだ。何とか再現しようと奔走し、結果、その要である歯車式人工頭脳が出来たのは良いのだが、誰も、それを発明した私の師匠ですら、原理は解明出来なかった。そんなものを無視して、兎に角製造しようとしたものだからね。云わば偶然の産物、魔法の品物なんだ。」
彼の質問にカーシィは応えると、同様に珈琲を啜って唇を潤す。何か少し誤魔化された気もするが、ケインは成る程、と応えてから、人差し指をすぅと立てて言った。
「だがこれだけは確かに言える事がある。」
ほぅ、と興味深げに老人がその指へと眼を向ける。
「何かね、それは。」
「彼女は……アリスは、良い娘だと言う事だ。」
ケインは臆面も無く言うと、再びカップを傾けた。一瞬、何を言ったのか良く解っていないという顔をしたカーシィだったが、くっと直ぐに唇を歪ませ、違いない、と呟く。
「で、だ。」
そこに、半分以下まで珈琲の減ったカップを置きつつ、ケインが唇を開いた。
その彼の瞳は、異様に鋭く黄金の輝きを湛えながら、カーシィに向けられている。
「ん、何かね?」
不穏当な視線に気付き、老人もカップを置くと、彼を見つめ返した。
ケインは、その年を取って小さく萎んだ瞳から一切眼を逸らさずに、こう続ける。
「良い娘だと……頷きつつ、何故あんたは彼女をベイツの元へやった? 噂を知らないのか?」
「……。」
台詞が全て紡がれると同時に、緊張の糸が二人の間に走った。
それは、ケインがこのカーシィ・キャルビンに逢ってからずっと抱いていた懸念だった。
最初にアリスと再会を果たした時は、本当に父の様な人物なのだな、と、ただそう感じた。
けれどもその後、彼女が事情を説明している時の反応を見て、ケインは奇妙な違和を覚えた。
この人物は、何も驚く事無く、淡々と説明を聞き入れていた。たとえ人形であれ、自らが造り出したという意味では実の娘と大差無く、事実彼の言動はそれを指し示している。だが、その娘が手酷く扱われそうになり、そこから派手に逃げ出してきたというにも関わらず、彼の表情は穏やかなものであったのだ。まるで最初から、そうだと知っていたかの様に。
或いは、自ら望んで行ったかの様に。
「……如何にも、知っていたよ。当然だ、この辺りで知らぬ者は居ない。」
ケインの視線を真っ向から受け止めつつ、カーシィは言った。
「だがそれでも送った。何故か? 彼女を造った理由は、ベイツ氏の依頼だったからだ。」
「……何?」
その言葉に、ケインは片眉を吊り上げる。
それを無視しながら、カーシィは言葉を続けた。
「愛玩用の人形を一体、造ってくれと頼まれたよ。永遠の処女が欲しい、無限の寿命を持ち、何をしても決して壊れない娘が欲しいと、そう言われたのさ。」
老人は、そこで依頼に来た時の事を思い出したのか、はんと鼻で笑い、
「愚かといえば実に愚かだ。決して壊れない物など、決して造る事は出来ない。あれから伝え聞く趣味趣向は相当手荒らしいからな、そんな事をされれば肉体的にも精神的にも、アリスは壊れる……死ぬだろう、ね。しかも性に関わる機構は、付いてはいるけれど、本物に匹敵する様な出来では無い。まともに満足する事も難しいだろう。あの男なら、癇癪を起こして、そのままぶち壊してしまうかもしれない。」
「……何故だ、何故依頼を受けた。」
抑揚も無く、事実を語り続けるカーシィに、ケインは椅子から立ち上がって歩み寄った。
アリスの裸が、奇妙な程精密に造られている理由は解ったが、それに纏わるものは到底納得出来るものでは無い。自らの娘を死なせに行かせる親の言動とあっては、尚更だ。彼の脳裏には今、遠い昔に自らを捨てた両親の姿が、おぼろげに浮かび上がっている。
そんなケインに向けて、カーシィも同じく立ち上がると、歪んだ笑みのままに応えた。
「私はこの義体技術を、土壱で学んだ。私の夢は、私の師匠クリストフ・フォン・アッシェンバッハの後に次いで、あの恐るべき叡智の結晶である機械の人形を産み出す事だった。だが、時同じくして、私の同胞が犯したある事件により、私の様な人間は土壱を去らざるを得なかった……病を患ってしまっていた事もあってね。無一文で皇州に赴いた私には、祖国に帰っても時間も、設備も、道具すら真っ当に無かった。技術はともあれ、な。途方に暮れつつ彷徨っていた所、あの男と知り合った。正に千載一遇の機会だ……当然乗ったよ、私は。」
「……そんな事の為だけに、あんたは彼女を造ったというのか。」
「そんな事? 職人として、その技術を完遂させたいと願うのは当然の事だ。」
最早眉間に深々と皺を刻むケインを、せせら笑う様にしながらカーシィは言う。
だが、直ぐに疲れた風な顔を浮かべてから首を振って、
「……しかし、悔いが無い訳でも無かった。幾ら完遂したとは言え、そのまま後世に残される事無く無碍にされるのは忍びない……だから、君には感謝しているよ大鴉。」
「……あんた、何故その名をっ。」
そうケインの表情を驚きの色に染め上げ、思わずその両手を老人の襟首に掴ませた。
首を上に向けられ、息苦しそうに顔を顰めつつ、カーシィは続ける。
「一ヶ月程前から滞在している様だがね、それこそ知らぬ者は居ない、というものだ。君の姿を見た後、アリスの話を聞いて、即座に解ったよ……本当に、奇怪な眼をしているのだな。」
その両目がケインの、細長く輝く瞳を捕らえる。怯えは無く、真っ直ぐに。
「……その様子だと、彼女には言っていない様だね。やはり、言い辛いか。」
「……。」
ケインは更に睨みを利かせ、眼光をより鋭くさせるけれど、本当の事なので何も言えない。
「まぁ、君がケインにしろ大鴉にしろ、感謝には変わらない。それにこれからも、だ。」
「……どういう事だ。」
思わず逆上して掴み掛かった襟首を離しつつ、ケインは問うた。
カーシィは軽く喉を摩り、襟元を正しながら言った。
「私は長くないのでね……彼女を好いているのだろう?」
「なっ。」
その言葉にケインは甚く動揺した。カーシィに掴みかかる様な真似こそしなかったけれど、普段は色の白い顔が、完熟したトマトの様になっている。
老人は、さも愉しそうに、陽気な笑い声を上げた。
「本当に解り易い人間だな君は、それではさぞ生き難い事だろう。嗚呼……多分あの娘には、君の様な者の方が合っているな。だからこそ、これからも、なんだが、どうかね。」
「……俺は、」
ケインは、すぅと瞳を閉じ息を整えた後で、その言葉に返答しようとした。
だがそれは、突如家の外で高々と上げられた銃声によって遮られた。
直ぐ様窓の外を見る彼に続き、眉間に皺を寄せてカーシィが視線を送る。
「そろそろだと思っていたが、もう来た様だな。行き成り襲わず、銃声を上げたという事は、話し合いでもしようというのか、或いは罠か……どうする、行くのかね?」
「……無論、だ。」
窓の外から自身へと向けられたカーシィの視線に頷きつつ、ケインは後ろ腰に手を伸ばした。黒の外套の中に手を入れ、ホルスターからレイヴンクロウを取り出す。銃身を銃把から折って離し、全ての弾倉に弾丸が装填されている事を確認すると、勢い良く振って元に戻した。
「……まずはこれを終えてから、だな。頼んだよ大鴉。」
カーシィは、その様子をじっと眺めてから徐にケインの肩を叩く。
彼は真剣な面持ちで頷き返すと、銃把を握り締めつつ、外へと飛び出して行った。
「ふむ……。」
カーシィは、開かれた扉の縁に立つと、夜の森の中でもはっきりと見て取れる黒い影が、完全に闇へと溶け込むまでじっと見つめていた。
そうしてケインの後姿が見えなくなると、さて、と振り向き、呟く様に言う。
「もういいよ。起きているのは解っているから、出ておいでアリス。」
きぃと、小さな悲鳴を上げて、奥の扉が開かれた。
そこには、困惑気味な表情を浮かべているアリスが佇んでいた。