10.珈琲と煙草
その時アリスが考えていたのは、前に考えたものと同じだった。
即ち、このケインという人はどの様な人なのだろうか、というものである。
ただ本質についてはもう察している。
彼女が言っているのは、もっと具体的な部分の事だ。
この人は何の仕事をしているのだろう。
或いは、今までどの様な人生を過ごして来たのかしら。
少なくとも普通の職業には就いておらず、並の生き方もしていない筈だ。
たとえば、あの酒場で自分を助けてくれた時の、そこから逃げた時の身のこなしは本当に兎と騎士の合いの子の様(この発想、我ながら微笑ましいわとアリスは思った)だったし、それにベイツの手先には見えない、ただの街の人達にまで追い回されるのは何か少し違う気がする。追われているのは私の筈なのに、彼らは凄まじい形相で、喉を振り絞りながら、口ぐちにネバーモアという名でケインを呼び、追って来た。銃を撃ってくる人までいた。矢を撃たれた事もあって、それはさっきまでずっと突き刺さっていたのに彼は一向に平気な様だった。
アリスの歯車で出来た頭脳は、一連の騒動をよく知覚し、記憶している。
突然の事に戸惑い、驚き、けれども助けてくれた事を感謝していた。
そこから彼女は、再び思うのである。
彼は一体、どの様な人間なのかしら、と。
そんな思いのままに、アリスは周囲に目を向けた。
ここは、走り回った末にケインが逃げ込んで来た場所だ。具体的にどの様な場所なのかは、裏口から入って来た事もあって良く解らないのだけれど、しかし父の工房に似ている。道具があり、器具が置かれ、設計図がひしめいている。尤もそれらはどれもこれも使いこまれている上に、また汚れや埃が拭かれる事無く残されている為、あの工房以上に乱雑に見えた。それに良く見ると、設計図に描かれているのはどうやら銃らしい。
その家主は今、向こうでケインと共に何か話している。
背はアリスと同じ位の、痩せた老人で、殆ど脂肪のない肌の至る所に皺が刻まれている。ただ筋肉はちゃんとついているらしい事は、半袖のシャツとズボンという軽装によって剥き出しになった腕や脚を見れば解った。
そんな様相で木製の年季が入ったパイプを咥えている老人と、ケインは話しっきりだ。
彼の表情は、痛く真剣であり、眉と眉の間には皺が深々と刻まれている。
言葉を発する時、珈琲を口に付ける時以外、その唇は一文字に結ばれていて、笑みを称える事が無い。正しくは一回だけあったが、それも直ぐに消えてしまった。
眼光も鋭く老人を見据えたままで、ちょっと怖くもある。
アリスは彼らが何を話しているのか、酷く興味があった。それを聞く事で、名前以外にろくに知らないケインについて、何か知る事が出来るだろうから。
けれどもそれは禁じられていて、彼女は隅で待っている様にと伝えられている。
つまり余程重要な事なのだろう。誰にも聞かれたくない様な。
自分を助けてくれる人間に迷惑を掛ける訳にも行かず、アリスは言われた通りにした。
少し残念な事ではあるけれども仕方が無い。
そう考え、更に考察へと歯車を向けながら、彼女は話を終わるのを待ち続けた。
「ふーん・……まぁ何だ、実に七面倒臭ぇ事になってるんだな。」
煙を浮かべてそう言う老人に向けて、ケインは珈琲を啜りながら、頷いた。
この老人、名をジョン・Bという。
彼はそのありきたりな個人名通り、西部の街では必ず一人はいると言って良い銃職人であり、ローラ程では無いが、ケインにとっては心許せる人間である。
ただ正確に言うと、職業的にせざるを得ないのだ。弾丸の調達から銃の整備までを行ってくれる彼ら職人が居なければ、如何な大鴉とて荒野を縦横無尽に駆け巡るなどという事が出来る筈も無い。磨り減らない銃も、決して絶えない弾も存在しないのだから。今日の朝出掛けた用事というのも、他ならない、弾丸の注文をしに、ジョンの元まで行っていたのだ。
その意味で彼はなかなかに信頼出来る人間である。職人としての腕前はなかなかのものだ。
それに、せざるを得ないと言いながらも、自分から心許せると述べられるのは、
「で? どうする。あんたも俺を捕まえるか?」
「馬鹿こくな。誰が好き好んで糞野郎の掌で踊ってやるかってんだ、くっだらねぇ。それにお前は上客だかんな、客に対してんな事しちゃぁ駄目だろっ……ああ、ついでに言やぁ、お前あの銀行強盗ぶっ飛ばしたんだっけな、速攻で。良い事だ、豚保安官よりよっぽど使えるぜ。」
この、品は無いが頑固で、真っ直ぐな性格故である。
腕だけで無く、性根まで職人という訳だな。
ケインはそう思い、僅かに口の先を吊り上げた。
だからこそ、彼はここに逃げ込んできたのである。たとえその関係が商売上の付き合いの延長線上にあるものだったとしても、ケインというよりも大鴉という賞金稼ぎとして見て、接しているのだとしても、こうして僅かな間、身を寄せる位には信頼出来る。背中に突き刺さっていた矢も、彼によって外して貰った。痛みは伴ったが、ずっと放置しているよりましだ。
ただ一つ文句をつけるならば、繊細さ、もとい気配りが足りない事だろうか。それが職人性とは対極の位置にあるものだとしても、多少なりとも欲しいのが人情というものである。
具体的に言うと、珈琲が薄い。
「所で……俺は確か、濃いものを頼んだ筈だが。」
「はんっ、贅沢言うんじゃねぇよ、珈琲飲めるだけありがてぇと思えよ逃亡人っ。」
その事を言ってみても、こんな風に体よくあしらわれるだけだ。ただ、確かに尤もな言い分なので、ケインは黙って肩を竦めると、再びカップを傾ける。
やはり薄い。
この老人といい、どうも西部の人間は珈琲を薄く入れたがるものらしい。節約の為か何かは知らないが、勿体無い話だ。あの深い香りを、味わいを愉しむ為には、もっと濃く入れるべきだろうに、これでは色付きのお湯を飲んでいる様なものだ。
あのマスターも最初はこんなものを出していたな、とケインが思い返していると、
「で、お前これからどうするつもりだね?」
ジョンがパイプを咥えたままにそう言ってきた。
すっと、カップを口元から放しつつ、ケインは応える。
「……逃げるよ。この街から出て、彼女の父親の元へ行くんだ。」
「はん……俺が言っているのはそんな所じゃねぇぜ。」
首を向けてアリスを指した彼に、老人は鼻から煙を吐き出した。
「聞きたいのは、いいか?俺が聞きたいのは、どうやって、だよ。」
「……それは……。」
ジョンの無遠慮な言葉に、ケインは奥歯を噛み締めた。
外では無数の市民達が、靴を踏み鳴らし、馬を駆りながら、ネバーモアネバーモアと狂った様に叫び回っている。騒ぎから一時間になるかならないか、という所だろうけれども、それが止む気配は一向に見られない。寧ろ、次第次第に増している様に感じる。
「何時までもここに居る訳にも行かねぇだろ。俺もきっついからよ、そりゃ。」
今はまだ、あの大鴉をかくまう人間が居るとは誰も考えていないのだろうが、こうまで探して見つからなくては、もう街の外へ逃げたか、何処かに潜んでいるとするのが妥当だ。
となれば、外から中へと来る筈。この老人は先にも上げた偏屈な性格の所為で、人間関係に乏しく、ろくな人脈が無い。多分、相手は行き成り踏み込んでくるだろう。正誤の判断が真っ当に付かなくなった連中となれば、それは尚更だ。
長居は出来ない。元よりするつもりなど無い。
が、聞かれて応えられる具体的な案もまた、何も存在しなかった。
最初からしてそうだったのであるし、そもそもここに来た事だってやむを得ずだったのだ。
「……。」
「はぁん、何も考えていない訳だ。おめでてぇこったな、お前は。」
ジョンは、ふんと鼻を鳴らしながら、そう言うと、やれやれと肩を竦めてから、
「……おい知ってっか? 人間には、三種類あんだぜ。」
唐突に、そんな事を語り出した。
真意が読み取れず、ケインはただ黙って、そちらの方へと視線を向ける。大鴉の、黄金に輝く竜が如き瞳は、見る者を不安にさせて来たものが、経験豊かなジョンは何も意に介さず、人差し指を一本立てて言った。
「一つ目は、行動する前に悩む人間だな。どうすりゃいいかこうすりゃいいのかって、あーだこーだ考えて、考えてから、ようやっと腰を動かす面倒な輩だ。」
次に中指を、人差し指はそのままにぴっと突き立てると、
「二つ目は、何も悩まずに、行動に移す人間だ。そもそも考えねぇ。考えるよりも先に体を動かして、そんな暇を与えないんだ。こういうのは、大抵が早死にするんだがね。」
最後に薬指を、親指と小指を曲げた状態で立てて言った。
「んで、三つ目が、行動してから悩む人間だな。やっちまうのは早いのに、その後でうだうだ後悔しやがる。もう遅いってぇのにな、馬鹿らしい。お前がそれだよ馬鹿鴉。」
「……。」
途中で答えを予測していたケインは、苦虫を噛み潰した様な顔を浮かべる。
確かにその通りだ。
行ってしまった以上、もう後戻りは出来ないのだからそのまま進むしかない。
にも関わらず、ここに来て立ち往生などするに至っている。
それは自分でも良く解っている事だが、しかしそういう人間なのだからどうしようも無く、
「そういう奴はな、基本的にこの西部にゃ似つかわしくない。こんな殺伐とした所は、ね。多分、どっか別の所行った方がいいんじゃないかい?」
そう言われても、返す言葉が無い。元より、あらゆる土地にて忌避され続け、その果てに辿り付いたのがこの西部なのだ。一体、ここ以外の、何処へ行けば良いというのだろうか。
「ま、そうは言っても簡単に行けるもんでも無いんだろうがね……。」
それはジョンも解っている事なのだろう。彼は呟く様にそう言った後は何も語らず、パイプを吹かした。ケインもまた唇を閉ざしたままに、珈琲を啜る。
そうして黒、というよりも濃い茶と言うべき色合いの液体が、カップの半分を切る頃、
「それとは別に、ちょいと聞きてぇ事があるんだが。」
パイプを口から離し、ふぅと煙を吐き出しながら、ジョンが言った。
「どうした。まだ何かあるのか?」
「応とも……大鴉よぉ、何だってお前、銃を抜かなかったんだい?」
更に腰の辺りを指差された事で、ケインの動きは止まる。同時に、カップを掴んでいない方の手を後ろ腰へ伸ばせば、ホルスターから一丁の拳銃を取り出した。
屈強そのものである黒い外見をした回転式拳銃に、二人の男の視線が注がれる。
「……何故抜いていない、と?」
「そいつの整備をこの一ヶ月間ずっとしてたのは何処のどいつだい? 弾丸を作った事もだ。その化物の引鉄が引かれりゃぁ、嫌でも聞こえるさ、あの砲声がよ……まぁ、そうなったらとんでもない事になっていただろうがね。当たれば一発でお陀仏、万が一外れても周りが凄い事になるだろうな……だが、それだけじゃあるめぇ筈だ。そいつを使わなかったのは……あー、名前何っつったっけ?」
「……レイヴンクロウ、だ。」
薄暗い工房の中でも明々と輝く金色の眼を向けながら、ケインは呟いた。
『RAVENCLAW』
それがケインの愛銃の名だ。
銃身長十九インチ余り。
重量凡そ十ポンド。
中折れ型回転式弾倉の装弾数は全五発で、所謂シングルアクションを採用。
使用する弾丸は通常よりも遥かに大きく、火薬も増量した専用弾だ。
この銃は、『保因者相手にも十二分に通用する威力と頑丈さを誇り、また見ただけで相手を委縮させる様な銃にしてくれ』というケインの要望と、量産性を完全に度外視した、多分に趣味的且つ変態的な銃器を造る事で既に当代随一とされている銃職人スタンリー・Q・ロドリゲスの一世一代の熱狂的職人芸によって生まれた獲物であり、敵対する連中にとっては恐怖の象徴であり、その命を悉く奪ってきた正に大鴉の爪と呼ぶべき銃だ。
あくまでもケインの身体能力に合わせて製造されたというだけで神秘も何も無く、科学すら乏しいのだが、しかし単純にその威力は、悪魔の銃と呼ばれるに足るだけのものを持っている。
恐るべき硬度を誇る隕鉄によって造られたそれより放たれる弾丸は全てを粉砕し、更にその銃身自体、ケインの手によって屈強な剣にも頑強な盾にも変化する。無論の事、それは本来の使い方では無かったが、思わぬ幸運、という所である。。
唯一の難点は、専用の弾を、常日頃から持ち歩いているレシピに則り特注して貰う必要がある事で、その為に職人の技術と設備が要る事だろう。尤もそれは、造り貯めし、また消費したならば直ぐに補給する方針でどうにか補っている。
頑強さを与える為と、大口径による反動を殺す為、墓碑の如く長大化した銃身をケインはじっと眺める。その瞳には、奇妙な憂いが篭っていた。
ジョンは銃から視線を辿り、彼の眼を見て、
「ま、遣わないに越した事ぁ無いんだがな、だが銃が無いとどうしよぅも無ぇのも確かだろ。何なら、代わりの銃を貸してやろうかい? 勿論ちゃんと金は貰うがね。」
と言うが、ケインは頭を横に振るうだけだ。
それもまた、解っている事である。
射手が獲物を使わなければ、それこそ良い的に違いない。
けれども彼は使わなかったし、また使おうとも思っていない。
ちらりと横目で見た先に居る少女、アリスがその答えだった。
彼女はまだ、大鴉としての自分を見ていない。何十年に及ぶ月日の中で築かれて来た生き方、悔いてもしかし最早どうする事も出来ない人生の先端を見ていない。
故に、アリスの中で自分は唯のケインであるのだ。大鴉では微塵も無く。
その認識を改めさせる気など起こらない。たとえそれが、自己をも巻き込んだ酷い欺瞞であったとしても、彼女に己の正体を知らせたくなかった。
せめて共に居る間は、この銃を使わぬ事を。
そう願いつつ、ケインは肉厚の銃身から目を離し、それをホルスターに戻す。
そして、残っていた珈琲を一気に飲み干すと、がたりと立ち上がった。
「……何でぇ、もう行くんかい?」
パイプから口を離して問うジョンに、彼はぐっと頷く。
ケインは黒のカウボーイハットと外套を纏うと、空になったカップをジョンへ向ける。
「わざわざ悪かった……世話に、なったよ。」
「はん……構いやしねぇよ、別に。その珈琲もだ、御代は無しにしといてやる。」
言ってにやりと笑いつつ、カップを受け取る彼に、ケインは苦笑いを浮かべた。
そうして彼は、ばさりと外套を翻し、ジョンに背を向けると、アリスの方へと歩み寄る。
息抜きは出来た。喉を潤わす事も出来た。ちょっとした気持ちの整理めいたものも。
ならばもう行かなくては。
じっと眺めているのにも飽いてしまい、ふと見上げた壁際で飾られている幾つかの拳銃に興味を移していたアリスは、ケインがこちらへとやって来る事に気がついた。
どうやら話は終わった様だ。ここも、そろそろ出て行くのだろう。
少しは体を休める事が出来たのかしら。
拭いた汗がまだ乾かず、肌に張り付いている服の袖を見つつ彼女は思った。
そこから黒い体を通り、顔へと視線を送る頃にはケインは目の前に居て、
「さぁアリス……行こうか。」
などと言いながら、笑みを作ってみせている。
アリスはそれにこくりと頷きながらも、彼がまた老人めいて見える事に気が付いた。
吊り上げた口元、柔らかく細まる目元に、拭い切れない疲労が垣間見えた。
この人は、大分無茶をしている。
肉体的にか精神的にかは解らないが、アリスはそう思った。
多分後者だろう、とも。何をしている人なのかは見当も付かないけれども、根は子供の様な人だから、色々と不満があるに違いない。きっとそこには、私の事も含まれている。
何とも言えぬ申し訳の無さに、アリスは眼を伏せた。
助けて貰っているというのに、それで苦労させているだなんて。
そう感じ、そしてこうとも考えた。
これから先は、少しでも負担を掛けない様にしなくちゃ、と。
彼女は、ふっと上目遣いの視線をケインの方へと送る。
訝しがって、どうかしたのかと聞いてくる彼に、アリスは言った。
逃げている間にこれだけは解った事、そこから自分がやれるだろう事。
言おうとして結局は言えずにここまで来てしまった事を。
「……ケイン、あの……話があるんだけど……。」