1.ネバーモア
砲声と聞き間違う程の銃声が轟いた。
続くのは野太い男の悲鳴。
甲高い馬の嘶き。
大地を貫く衝撃。
何かが落下し、砂地を滑る音。
駆けて行く馬の上、己の後ろより届くそれらを耳と肌で感じるサイモンはしかし、振り返り、目で見ようとは決してしなかった。
既に何が起きているかは良く知っている所であるし、またそんな暇も無かったからだ。
四人居た仲間も全て消え、彼だけとなった今、サイモンがするべき事は、ただただ手綱を握り締め、荒野を走り去る事のみである。
それも全力でだ。
実際には力も出し切り、最早余す所など無い訳だが、だと言って少しでも手を抜けばそれでもうおしまいである。死神の手は長く確かで、仲間達の様に簡単に捉えられてしまうだろう。
油断は出来ない。今だってもう直ぐ傍まで来ている。
足並み揃えた獣の群れが押し寄せてくる様な、騒々しい蹄の音を背中に受けつつ、サイモンは、馬の茶毛に覆われた肌へ輪拍を転がす。異様な気配を馬も感じていたのだろう、拍車を掛けられたそれは、乗り手の予想以上の速度を持って走った。
サイモンは、振り落とされぬ様しっかりと手綱を握りながら、僅かに顔を後ろに向ける。
解っていながらもつい見てしまったその先で、右手に超大な拳銃を、左手に手綱を握った黒尽くめの騎手が、八本脚の怪馬に跨り、こちらに向けて猛然と詰め寄っていた。
恐怖によって脂汗を滲み出させると共にぶるりと震えると、サイモンは直ぐに前へ向いた。
そもそもあれが現れたのは何時だったろう。
過ぎては現れる土褐色の岩山、砂丘、枯れ草の群生、仙人掌を見つつ、彼は思い返す。
そうだ。それは僅かに一時間程前の事だった。
サイモン、コリン、キム、ヤン、ラルフ。
一攫千金を求めて西部に来るも、結局夢破れて無法者に落ちぶれた五人は、結構な月日の間、徒党を組んでは道行く旅人や馬車を襲っていたが、かつて抱いた望みよもう一度あれ、とばかりに、ここに来て初めて銀行へと攻め入った。
襲撃は、予想と計画以上に上手くいった。
大都会という訳では無かった事もあるだろうが、結局、普段とやる事は大差無かったのだ。必要なのは銃と拳、即ち暴力に気の利いた台詞が少々であり、それは言葉こそ違うが何時も言っている意味合いのものだった。要するに、「命が惜しけりゃ金を出せ」である。
そうして、金庫の中身を空にした彼らは、さっさとその場を後にした。ドルもセントも一切問わず、金という金をたっぷり詰め込んだ麻袋と共に、哀れな銀行員を一人、一緒に引き連れて。こういう時にもモノを言うのが腕っ節の力と、それに添えられる「追って来たらこいつを殺す」という文句だった。
かくして、まんまと街から逃げおおせた彼らは、ここまでくれば大丈夫という辺りで邪魔な荷物を一人、乾いた砂と草以外何も無い大地にほっぽり出すと、この大いなる収穫を何に使おうかと語りながら、自分達のアジトに向けて、和気藹々と戻っていた。乗り手が陽気ならば、馬の足取りも軽く穏やかであったのだが、暫く後の疑心によってそれは滞った。
「おい、ありゃ何だ。」
最初にそれに気付いたのはコリンだった。言葉と共に向けられた指の方角、相当な距離を隔てた向こうへ、一同は馬を止めると視線を注ぎ込む。
五人の後方に、一頭の馬が走っていた。
混種なのかは解らないが、労働用の重種並みの屈強な体格に、軽種の如くすらり長い脚を持つ馬だ。毛色は珍しい青で、その頭部には白斑が、三日月の形をくっきり浮かべている。
だが何よりも奇異なのは脚の数だった。どう見ても、一頭分のそれでは無い。前脚を上げても、その向こうには更に脚が、それを上げても尚まだ脚が見え、向こう側が見えないのだ。
そしてその怪馬は、野生の馬では無かった。逞しく伸びる背には鞍が付けられ、そこには騎手が跨り、手綱を握って、一味の方へと歩かせている。
騎手は頭に黒いカウボーイハット、肩には黒い外套が掛けていた。帽子の中から無造作に伸ばされた髪もインクを零した様な色合いであり、外套から突き出た両脚を覆う皮ズボンもまた、同じ様に黒で染められている。
午後の強烈な太陽の下、奇形馬の上で影の如くあるその姿は異様且つ不気味であり、生者を求める亡霊の様だった。存在そのものが生きる者を不安がらせる存在である。特に、死んだ後で天に召されるとはとても言えぬ所業を犯して来た者達を。
だが、この世に亡霊など居る訳が無い。
もし仮に居たとしても、こんな真っ昼間に現れるとは到底考えられぬ訳であり、
「……俺達を追って来たのか。」
キムの言う通り、追っ手と考えるのが妥当な所だろう。
事実怪馬は、脇にもそれずこちらへとまっすぐにやって来ているのだから。
「どうかな。俺たちはずっと、人質抱えて走ってたんだぜ? 臆病者どもが、そいつを無視して追って来るとは思えねぇし、実際追って来てなかったのは、ちゃんと何度も確認したろ。」
「あぁその通り。それに、馬鹿が来ない様、俺達が散々連中を痛め付けたのを忘れたか。」
そのキムの言葉を、ヤンとラルフが否定する。
確かに、彼らが居る所から街まではずっと平地であるから、付いて来ようものならたちどころに解ってしまう。また五人の中でも荒事が得意なラルフにより、果敢に立ち上がった正義漢気取り達は、怯える衆人の前で、一生義体が必要な体にされてしまっていたのだ。
まだ息が残っていたのは、時間が差し迫っていたという至極単純な理由である。
「だが、それじゃあいつは何なんだ。暑苦しい格好をした、唯の酔っ払いだって言うのか? 一体どんな節穴で見てるんだい、そりゃ。」
第一発見者であるコリンは語気強く二人に反論を述べた。
何だと、と、ヤンとラルフが意きり立つのを、サイモンが引き止める。
「落ち着けよ。言いたい事はあるだろうが、妙な輩が、どうにもきな臭い感じでこっちに来てるのは事実だろうに……でだ。」
一党の代表格たる彼は、己の中で四人の意見を纏めると、一つの結論を示した。
「俺達が出てから人質が居る間、あいつは影も形も無かった。それも事実なら、あいつは解放された人質が無事に街に付いてから、俺達を追って来た、賞金稼ぎに違いない。保安官なんかには見えないし、俺達だって怖気がする、ラルフの仕事を見た街の奴らがここまで追って来る訳が無いからな。尤も、」
そこで一拍置いた後にサイモンは、
「時間からするとちょっと考え難いぜ。とんでも無い血統書付きの名馬か、機関車にでも乗って行かないと無理な芸当だな。」
それも土壱製の凄ぇ奴な、と付け加え、騎手の方を睨みつける。
こうして話している間にも、ゆっくりとだが彼我の距離は縮まっていた。凡そ百ヤード程だろうか。近い訳では決して無いが遠過ぎるとも言えない微妙な位置に、サイモンは、何とも嫌な予感をふつふつと感じている。
そして彼の懸念は現実のものとなった。騎手は右手を手綱から離し、後ろ腰に向けると、外套の中に手を入れ、一丁の拳銃を取り出し、サイモン達の方に向けたのである。
一味はぎょっとし、己の得物を構えた。
それは、射手との対比が明らかにおかしい回転式拳銃だった。あの特徴的な、マカロニを纏めた形をしている弾倉が無ければ、短散弾銃や騎兵銃と見間違えてもおかしく無いサイズをしている。形状自体も、そう誤解しかねない特異なもので、異様に銃身が大きい。一般に流通している拳銃の類とは、かなり、いや全く似ていなかった。
ついでに言っておくとその色は、聊か食傷気味ではあるが、案の定の黒である。
その、まるで装甲を纏っているかの様に分厚い銃口を向けながら、ゆっくりと近付いてくる騎手を目の前にし、一同に緊張が走った。これで最早議論の余地無く、敵と決まったのである。
そんな中、不意にラルフが乾いた笑いを上げると、肩の力を抜いてこう言った。
「お前ら何びびってんだ。あんな所から拳銃を撃ったって、まともに当たりゃしねぇよ。」
その言葉は、半ば自分の為に発せられたものであったが、しかし事実その通りだった。
拳銃の弾丸が、その威力を保ったまま、まともに当たる射程などたかが知れており、精々五十ヤード程である。その距離であっても命中させるには相当な腕とそれ以上に運が必要であり、確実に相手へ鉛弾をぶち込めるのは、一段位が下がって数ヤード程だ。だが仮に、その距離から撃ったとしても、実戦では当たらない事の方が多い。相手と自分の状態に周囲の状況が伴って、親指大程度の弾丸など簡単に意図せぬ方向へと飛んでいってしまうものなのだ。
騎手は今、百ヤードを切った所に居るが、ここは荒野の風吹く屋外であり、また彼が居るのは揺れ動く馬上である。まず当たる訳が無い。
「あ、あぁ、ラルフの言う通りだ。」
「あんな所からじゃ届く訳が無ぇ。」
仲間の言動に励まされ、彼らは笑い合った。
あんなものは唯の脅しに過ぎないのだから、今はまだ、恐れる必要など微塵も無いのだ、と。
ラルフ以外の四人は互いを見合い、安堵した。
次の瞬間、彼らの視界の隅に閃光が煌いた。
少し送れて銃声が鼓膜を震わせ、そしてそれとほぼ同時にラルフの胴が反れた。床に落ちた卵の様に、血と骨と肉の欠片が一緒くたになって四散して、笑みを浮かべたままの男達の顔や体に容赦無く降り掛かった。
何が起きたのか、肌に感じるこの熱さが何なのかを彼らが理解したのは、胸に大きな穴をぽっかりと開けた同胞の体がぐらりと揺れて地面に落ち、真っ赤に染まった馬が慄き叫びながら何処へと走り去って行った、その数秒後の事である。
四人の視線は、一気に一点へと集中した。あの距離から撃っても所詮無駄だと語った、その人間を嘲笑うが如くに弾丸を放ち、もう二度と語れぬ命にした、黒尽くめの騎手の方へ。
彼は、男達の元からでは小さな線にしか見えない白煙を上げている拳銃を下げると、それを握ったまま手綱を取って、横合いに走り出した。
「あの野郎よくもラルフをっ。」
その光景に、仲間の死の衝撃からいち早く立ち直ったヤンが叫ぶと、無数の脚……前面からでは確認出来なかったが、側面から見るとそれは八本ある……を動かして疾駆する怪馬へ、ラルフの仇である騎手へ銃口を向け、我武者羅に引鉄を引いた。直ぐ傍でけたたましく鳴り響く銃声に、我を取り戻したコリンとキムも、騎手へ向けて獲物を向けた。
ただ一人、サイモンだけが、持ち前の性格と取って付いた役職によって冷静なままに叫ぶ。
「止めろ止めろ撃つんじゃないっ。外れるしかないんだ、弾の無駄遣いは止せっ。」
その言葉の通り、三人が放った弾丸は騎手に、怪馬にかする事無く、彼方へと飛んで行った。
皮肉な事だが、直撃を食らって真っ先に死んだラルフの言った通り、この距離で小さな鉄の塊を当てる事は至難の業だった。ましてやその標的が動いているなら尚更の事である。
自身の言葉を受けて指を止めたヤン達に、サイモンは次なる指示を出した。
「一先ず逃げるぞ……いや逃げなくてもいい。止まっているのが不味い、動くんだっ。」
彼自身不安だったのだ。何せ、先に上げた様な、至難の業を、軽々と行って見せた相手である。距離に意味が無いならば、少なくとも動いてなければ、余りに危険過ぎる。
「お、おう、解っ、」
指示を受けてそうキムが頷いたその時、彼の胸にも大穴が開かれた。
一味の周りを囲う様に走る騎手が握る拳銃が、二発目の咆哮を上げたのだ。手綱を持って馬を操りながら、弾丸を命中させるなど、正気の沙汰では無い。並みの射撃、馬術の腕では、到達不可能な、神業とすら言える芸当である。
或いは、悪魔の技か。
「ひぃっ。」
「野郎、ケンタウロスかっ。」
目の前で物言わぬ屍に変わって、ラルフ同様地に落ちて行くかつての友の姿に、コリンが顔を引きつらせて短い悲鳴を上げる。悪態を突きながら再びヤンが獲物を向けた。
それを手振りで制しつつ、サイモンもまた叫ぶ。
「だから止めろ、死にたいのかっ。」
そしてブーツの踵を馬に打ち付けると、勢い良く走らせ出す。それに気付いた二人も、キムとラルフの死体に幾分か名残惜しそうにしながらも、後を追う様に手綱を叩いた。
何は無くともまず騎手から離れなければいけない。この距離を縮められたら、残った者達は抵抗する暇も無く、先に逝った二人を追う羽目になるだろう。それにこのままここで止まっているという事は良い的になる以外の何物でもない。
コリンとヤンを先導する形で、彼らの少し前を直走るサイモンは、その頬から一筋の汗を風に流させつつ騎手は今何処かと振り向いて、背筋を恐怖が駆け抜けて行くのを感じた。
彼の後ろを走る二人の更に後方、彼らが並ぶその隙間の向こう側に、騎手とその怪馬の姿が見える。それもかなり近く。自分達の馬のそれと重なってその蹄の音に気付かなかったのだろうが、十ヤードを切るか切らないかという所に居て、赤々と輝く血走った瞳を良く見る事が出来る。さっきまでは皆の周りを、もっと距離を置いて走っていた筈なのに。
あの馬の体は速く走るのには向かないものだ。本来ならば農作業か運搬か、重い物を長時間掛けて運ぶのに適している体格であり、実際相応のスタミナがある事を今示している。だが、そうして見せている急激な接近への走りは、競争用に改良された種のそれである。
その矛盾を可能にしているのが、あの八本の脚なのだろう。引き締まった筋肉の塊一つ一つに、一体どれ程の力が詰まっているのか。それが八本もあるのだから、想像も出来ない。おまけにこの調子であれば、まだまだ体力は続くだろう。限界速度で走るサイモン達の馬がそろそろへたりだそうとしている中で、だ。
相反する馬種の長所を兼ね備えているとは、一体何という馬か、と彼は戦慄した。
そしてその恐るべき馬に乗るあの騎手は、操るそれと同じ程度に脅威の腕前を見せたあの男は、一体何者だろうか。そもそも、あれ程の威力を持つ、馬鹿みたいにでかい銃を片手で扱えている時点で、並の人間には思えない。馬に乗って、なのだから尚更の事である。
「……大鴉だ……。」
サイモンの心の中で湧いた疑問に応える様に、何時の間にか隣を走っていたコリンの唇が、わななきながらそんな単語を発した。
「大鴉……大鴉だと?」
「嗚呼……あの馬あの銃それにあの格好……間違いねぇ大鴉だ……大鴉のケインだっ。」
そして彼はもう駄目だ、と続ける。喉が張り裂けてしまいそうな金切り声で。
ケイン・ザ・ネバーモア。
それは奇怪な逸話を持つ、凄腕の賞金稼ぎが名前だった。
曰く、地獄の悪魔の息子である彼は、老いる事も死ぬ事も無い体をした黒い怪物あり、父から与えられた、放った弾丸が必ず命中する魔法の拳銃と、魔神が産み落とした八本脚の馬を持って、戦士の魂を捕らえて回っている狩人だという。そして彼に狙われた獲物は最早二度と、そう、最早二度と逃れる事叶わず、その右手に握られた魔銃の餌食となるか、何処までも影の様に付き纏われた挙句疲れ果てて死ぬかの二つに一つしかないのだ、という。
かつて、何処かの酒場で聞いた話だが、その時サイモンは、この話を笑顔で聞き流した。
そんなものは、日々刺激を求めて止まない西部の連中が考え出した与太話に過ぎない、と。
もし仮に事実だったとしても、噂なんてものは誇張に溢れているものだ。例えばサイモンは、以前テキサスで一仕事しに出かけた時、あの名高きビリー・ザ・キッドこと、ウィリアム・ボニー(と、呼ばれる者)を見かけた事があるが、その姿は噂に名高い金髪の伊達男などでは無く、雀斑だらけの、何処にでも居る様な若いだけが取り得の男であった。
それこそ何処にでも居るたかりの酔っ払いが語った話ともあり、彼と一緒に居た四人の仲間達はそう笑い合うと、少しの間皆を愉しませ、またずっと安酒臭い息を嗅がせてくれたお礼として、密造ウィスキーの瓶ごと、語り部の頭へプレゼントしてやったものである。
今はそんな風に、笑って聞き流して終わりになんて、到底出来るものでは無かった。
その噂が、何処まで与太であるかは解らない。が、少なくとも、そう言われるに足りる程の脅威としてラルフとキムの命を奪い、そして今もサイモン達を狙って追い駆けている。
流石にあの速度で撃つのは難しいのか、銃口を向けてはいるものの撃っては来ない。それとて、こちらの余力が残っている間だし、もっと近付かれればどうなる事か。
最早二度と逃れられぬ。
最早二度と。
冥府の鳥の鳴き声がそう頭の中に響き、彼は畜生、と悪態を付いた。おかげで舌をしこたま噛んでしまったが、痛みは殆ど感じない。悠長に感じている暇なんか無いのだ。
「は、何が大鴉だ糞野郎っ。」
その時そう叫んだのは、ヤンだった。
コリン同様、サイモンの直ぐ隣にまで来ていた彼は、怯え震える二人から離れる様に馬頭を傾かせると、逆方向へと走り出した。
「おいヤンっ。」
友の無謀な行為にサイモンも喉を振るわせ叱咤したが、内心は感謝もしていた。
群れから離れて狙い易くなった一匹を狙って、大鴉はその進路を変えたからだ。
反転した事で近付いた二人は、距離を置きつつも横一直線に並び、元来た道を走って行く。
遠ざかる背中と計四本の後ろ足が掻き立てる砂煙を捉えつつサイモンは、ヤンがあの恐るべき黒の怪鳥とその僕を撃ち落してくれる古の英雄たる事を柄にも無く祈った。
だが、本当につい先まで神の存在すら信じていなかった男の祈願など何の意味も無かった。
大地に刻まれた無数の足跡とは九十度逆に掛けながらヤンは、並行して進む大鴉に向けて、コルト・シングル・アクションアーミー、通称ピースメーカーの引鉄を引いた。
しかし当たらない。
射撃という行為の中で、最も難しいのは、動いているものを当てる事だ。遠くても、小さくても、それが止まっているならば、必要なのは己の腕だけだ。だが、動くものに対しては、その動作を読み取る必要がある。それに何らかの意思、意味、法則があればまだ楽とはいえ、しかし非常に難しい事には変わり無く、相対している射手、つまり自分も動いているならば、その困難の具合は相乗的である。
全く別の方向へ飛んで行く弾を哂う様に、鴉は銃口を向けもしない。
八本脚を忙しく動かす怪馬の口から、引き攣った叫び声が上がった。
それでも尚人差し指を動かし続けた彼に、銃器に纏わるもう一つの定説が働く。
そう。数を撃てば当たる、だ。
一発の弾丸を命中させるのは確かに大変な事だ。だが複数の弾丸となれば話も別で、数を増せば増す程に確率は高まる。最初は限りなく零に近いけれど、段々に変わって行くのだ。
そうして撃ち続けた結果、ヤンの弾丸は遂に適当な軌跡を捉えた。
放たれたそれが対象に向かう時間など瞬きする暇も無いものだが、しかし、確かな手応えを頭で感じ、彼はほくそえんだ。これでラルフとキムの仇は取る事が出来たのだ。
だがその愉悦と満足も一瞬の事だった。
確かにその額へと向けて飛んで行った弾丸は、黒く分厚く巨大な鉄塊によって遮られている。
大鴉が握る拳銃だった。
予見か反射か、どちらかは不明であるも、結果は同じである。普通のそれが棒状であるのに対し、箱状になったその銃身によって、彼はまず不可避である一撃から己を護ったのだ。
手首を返して弾丸を振るい落とし、向けられた銃口に、最後の弾丸を撃って完全に無防備となったヤンの笑みは凍りつき、死の恐怖が彼の全身を硬直させた。
そしてその、棺桶を思わす色合いと形状の拳銃が徐に火を噴いた。唯の人間に過ぎないヤンは、避ける事も受ける事も出来ず、そこから放たれた大き過ぎる弾丸をもろに喰らう。
遠方からでも十二分の威力を持つそれを、遥かに近い場所からまともに受けた結果、彼の体は馬から落ち、地面を転がっていった。
但し、そうなったのは彼の上身だけである。下半身の方は馬に跨ったままで、切断面から腸が、毒を吐いて威嚇する蛇の様に、のた打ち回りながら血を吹き上げていた。驚き慌てる馬は、出鱈目な走りで地面に真っ赤な模様を刻み付け、何処かへと去って行く。
その一部始終を見ていたサイモンは、沸き上がる胃液を抑える為、ごくりと唾を飲み込む。
彼に出来る事は今、一つだけだった。即ち、半狂乱となって喧しく喚き散らしているコリンよりも速く走り、大鴉から少しでも遠くに離れる事だけである。
馬の首に手綱を打ち付け、速度を上げる彼の耳には、あの不吉な鳴き声が聞こえていた。
そうしてサイモンはたった独りになった。
先に書いた様に死に様を見た訳では無いが、コリンもまた三人を追って逝ったのだろう。
或いは自分もそうするべきかもしれない。
生きる事に対するそんな弱音が出てしまう程に、サイモンもその馬も疲れ切っていた。一体どれだけの距離と時間を走ったかも解らぬ程に走り続けていたのだから。
それでも大鴉は離れない。
今もまだ、それは後ろを走っていた。
実際の所は距離的にも時間的にも大して走っていないのかもしれないが、その逃れられていないという事実がサイモンを苦しめ、思考と感覚を鈍らせて行く。
もう、いいから早く撃ってくれ。
眼に見える様な荒い息を吐き、大粒の汗を垂れ流す彼は、自棄と化してそう嘆いた。
実の所それが故に彼の馬の動きは定まらず、彼方此方へとふらついていた為、大鴉は死を与える指を動かすに動かせなかったのだが。
そんな事など露知らぬサイモンが起こした次の行動も、やはり自棄によるものだった。
彼は右手を手綱から離し、左腰のホルスターから己の獲物を抜くと、視線はそのままに後方へと向け、そして撃った。どうせ当たらないのだから狙う必要など無いと言わんばかりに、何度も何度も撃鉄を起こしては引鉄を引く。
それは、彼が行く軌道が期せずして狙いを妨げた様に、全く意図していない効果を生んだ。
う、という小さな呻き声と共に、何かが落ちた音が聞こえ、サイモンは慌てて振り向いた。
視界には、前に一度見た時と同じく、八本脚の怪馬があるのが、その上に大鴉は居ない。そこよりまた後方、大分離れた場所で、彼は仰向けに倒れていた。
怪物と恐れられる存在であっても、人間には変わりない。無我夢中でサイモンが放った弾丸達は、風に流されるがままに飛ぶ羽虫が如く不可解なものだった。ヤンのそれを止めるのは、如何な大鴉でも出来なかったのである。
予想だにしない光景に、サイモンは脚を止め、深い息を吐いた後、力無くも笑みを発した。
一時はもう駄目だと思っていたが、どうにかこうにか助かったらしい。その完全な死を確認しようとはよもや思えないが、だが敵の沈黙は、彼が死んだと、終わったと思っていいだろう。
その事実を確かめる様に彼は己の体を触り、何処にも怪我を負っていない事を確かめると、もう一度、今度はもっと大きく笑い声を出した。
仲間達には悪いが、自分は生き残る事が出来た。災いを運ぶ鳥の声は最早聞こえず、そして手元には偉業を達した英雄へ常に与えられる財宝と名声、今行っていた大仕事に比べれば児戯に等しい銀行襲撃で得た金と大鴉を自らの手で退治したという事実がある。
このまま州を出よう。別の州に行き、落ち着いたら酒場でも始めよう。今日の戦いを肴にして、客の相手をする。そうだ、もうこんな事はこりごりだ。足を洗って一から出直そう。
恐怖が心に満ち溢れ、そしてそれが消えた時、サイモンは最早悪党では無く、唯の何処にでも居る一市民と化していた。ちょっとした資産と、語り草を持っているだけの。
そうして平穏な気持ちの中、彼はふと、本当に何気無く大鴉の方へと眼を向ける。
地面に背中を付けたままに、その巨銃を握った右手が、太陽目指して上がっていた。
銃口は、サイモンの方を向き、親指は撃鉄へ、人差し指は引鉄に掛かっている。
彼がそれに気付いたと同時、大砲が鳴ったと勘違いしてしまいそうな音が大地を震わし、サイモンの右腕は吹き飛んだ。
超口径の弾丸により右肩は丸々消し飛び、そこには大きな空円が生まれる。二の腕から先が衝撃によって高々と上がれば、落ちて来たのはサイモンが、激痛で叫び、馬から落ち、砂塗れになって暴れてから漸く、それも彼から大分離れた所に、であった。
サイモンは、喉を振り絞って大声を上げる。ついさっきまで頭に浮かんでいた未来への展望など一瞬で消し飛び、今は唯、この苦しみを少しでも和らげようと、鮮血を迸らせる右肩、というよりも右胸を左手で抑えてのたうっている。主の狼狽ぶりに馬が逃げ去って行くが、彼にそれを止める力も声も出なかった。
そんなサイモンに、さっと影が覆い被さる。
血の気の失せた顔で彼が首を上げると、そこには大鴉が立っていた。
奇しくも弾丸を受けたのは、彼と同じ右肩だった。左手でその部位を抑えつつ、拳銃を握ったままの右腕をだらりと下げている。相当な速度を保ったまま落馬した筈なのだが、それに関する傷は、少なくとも外套の上から判別する事は出来ない。
と、燦燦と照り付ける太陽を背にするそれの左手が下げられ、そこより、歯を食い縛りながら呻きつつ最後の抵抗を、大鴉を凝視するサイモンの目の前へと何かが落ちた。
ひしゃげた金属の欠片は、決して見間違う筈が無い、サイモンが撃った弾丸であった。
別の意味で顔色を青くして行く彼の前で風が吹き土煙と共に弾がカラカラと転がって行く。それが視界より消えて去ってから、サイモンは再び大鴉を見上げた。
地面に最も近いそこからは、それの顔をよく見る事が出来た。今までずっと、前髪と帽子によって遮られていたものを。
大鴉は、想像以上に若かった。まだ二十代前半の、青臭い若者であり、何処か東洋的な、彫りが薄い顔立ちで、妙に白い肌をしている。
が、瀕死の状態にあるサイモンの目に留まったのは、そんなものでは無かった。
瞳。
爬虫類か何かに似て細長く、余りにもはっきりとした黄金の光を称えている瞳。
それは大鴉が今まで示してきた馬の、銃の、姿の、行動よりも余程雄弁に彼の者の奇怪さを語るものであった。そうして彼は、解っていながらも決して口にする事は無かったあの単語を、それを認めてしまっては真に終わってしまうだろう名を、とうとう言ってしまった。この目の前に居る男が、端的に語って如何なる存在であるか、を。
「化物……。」
そしてその言葉が、彼の最期の言葉だった。
かっと大鴉の瞳が見開かれ、右腕が高々と跳ね上がる。一度停止してから、力強く振り下ろされたその先にはあの拳銃が握られており、蛮族の鈍器と化したそれは、サイモンの青褪めた顔を、少なくとも三インチは凹ませ、五人の強盗が最後の一人を地へと沈めた。
こうして彼は、その銃の担い手の噂がおよそ真実である事を、白日の下で証明したのである。