夜咲く花は死を招く chapter5
Chapter 5
23
「さて」兵長の声が狭い部屋に響いた。
あれから数時間後、レトとメルルは駐屯本部の昨夜と同じ部屋に連れてこられていた。部屋にはレトとメルルのほかに、ホース部隊長にヴィック兵長。それから、タックとベックの姿もあった。ギドーは傷の手当てを受けているため、この部屋にはいなかった。メルルはこれから叱られる子供のように小さくなって、うつむき気味に座っていた。
「こっちもそろそろ落ち着きたいところだが、まだそういうわけにいかないんでね。探偵、きちんと説明してもらうぜ」
「もちろん、そうしたいと思います。そこで、説明に必要なのですが、リザードマンが残した袋と紐をこちらに持ってきてはもらえないでしょうか? それと、あともう一本、同じ長さの紐を」
ベックがさっと敬礼すると、部屋から出て行った。ベックはレトに言われた品を手にすぐ戻ってきた。
「現場ではひどい混乱だったようだし、私はそれを目撃していない。説明はできるだけ詳細にな」
部隊長はレトに説明を促した。
ひどい混乱。部隊長がそう指摘したのは、リザードマンを倒した後も、事態の収拾にはさらに時間がかかったからである。
死者こそ出なかったものの、リザードマンが投げた槍が刺さった男とルピーダはかなりの重傷だった。メルルが応急手当にと『身体回復』の魔法をかけたのだが、男はともかく、ルピーダにはあまり効果が見られなかった。致命傷は避けたといっても、あばら骨の何本かは折れていたし、いずれかの内臓が損傷している危険が高かった。
ルピーダは急ごしらえの担架に載せられ、近くの医者へ担ぎ込まれていった。おそらく、カーラの死因を確認した医者のところだろう。ゴーゴリーはもちろん付き添っていった。
レナード・バーンが『試し』を拒絶し、さらに暴れた理由は間もなく明らかになった。バーンの自宅に調査の兵が踏み込んだところ、そこにひとりの女が死んでいるのが見つかったのだ。
それはレナードの母親だった。首には手で絞められた跡が残っていた。
近所の話によると、レナードは父親の死後、追われるように現在の家へ引っ越してきた。かつて仕えていた執事たちもなく、母親だけを伴っていた。近所の者たちはバーン家の凋落ぶりを語り合ったものだった。
最初のころは、レナードは小さな商社で真面目に働いていたそうだ。だが、「凋落したバーン家の跡取り」と冷たい目で見られている。そう思い込んだレナードは、周りとけんかするようにして勤め先を辞めてしまった。
それ以降、レナードは日雇い労働の日銭で暮らす生活となった。そのことを、どうも母親がなじっていたらしい。近所の主婦たちは、母親が息子のことで愚痴をこぼしていたと証言した。レナード自身も日雇いの現場で、母親になじられ続けてまいっているという弱音を吐いていた。そのことから、精神的に追い詰められたレナードが思い余って母親を絞殺したのだろうと推察された。
そのことを追及されたレナードは、涙を流しながら事実を認めた。母親を絞殺した当日の朝、突然訪ねてきた駐屯兵によってレナードは強制的に教会へ連れて来られた。母親の死体を家に残したまま教会へ行く羽目になったレナードは、てっきり自分の犯罪が暴かれるものと思い込んで恐慌状態に陥っていたのだった。
こうして、事件以外のことは徐々に詳細が見えてきたのだが、肝心のリザードマンの事件が見えてこない。
メルルもレトの説明を聞きたかった。部隊長の言葉で、メルルは顔をあげてレトの顔を見つめた。レトはベックが持ってきた紐を取り上げた。何をするのかと見ていると、くるくると2回ほど紐を巻いて結び目をひとつ作りあげた。二重巻き結びだ、とメルルは思った。
「僕がボッブスをリザードマンではないかと考えたのは、まず、昨夜リザードマンと戦ったときのことから説明する必要があります」
レトは結び目を机の上に置きながら話を始めた。
「メルルさん。僕と小屋の陰からリザードマンを見ていたとき、リザードマンはこちらに気づいていきなり襲い掛かってきた。覚えているね」
「もちろんです」
「そのとき、リザードマンはどう攻撃してきた?」
メルルは頬に指を当てて、思い出そうと天井を見上げた。
「ええっと。たしか、こんな風にバーンって殴りかかってきました」
メルルは自分の左手でぶんっと振ってみせた。
「そのとき、小屋の壁をえぐり取って、そのまま私たちごと攻撃しようとしました。レトさんがとっさに私を抱えて後ろへ飛んでくれたおかげで、その攻撃は当たらずに済みました」
「リザードマンはどうしてそんな攻撃をしてきたんだろう?」
「どうしてですって? 理由あるんですか、あれに?」
レトは兵長のほうに顔を向けた。
「自分が攻撃しようとしている相手が、左側に壁がある状態のとき、兵長でしたらどう攻撃します?」
「そりゃ、右側面か上から仕掛けるな」
「左側を壁ごと攻撃はしない?」
「当たり前だろ、リザードマンじゃねぇんだから。剣を使っていたら、剣が折れるかもしれない。折れなくても、壁が勢いを殺してしまうだろう。そんな確実性のない攻撃はしない」
「兵長はそのようにおっしゃいますが、あの夜のリザードマンの最初の一撃はまさにその確実性の低いものだったんです」
「だから、それがリザードマンの攻撃の仕方じゃないのかい?」
「あのときのリザードマンは、こちらの不意を衝くために、振り向きざまに飛びかかってきました。とっさの行動だったので、獲物がいる周辺状況を考えずに左側から攻撃したんです。つまり、あのリザードマンにとって、それが一番動きやすい戦い方だった。あのリザードマンが『左利き』だったからです」
「あのリザードマンが『左利き』?」
兵長がオウム返しのようにつぶやいた。
「リザードマンの利き腕なんて考えもしなかった」
「僕の場合、直接やりあったので、非常に高い可能性だと考えていました。確信したのは、ここでリザードマンが残した袋を調べたときです」
レトはタックのほうを向いた。
「タックさん。あなたは二重巻き結びができますか?」
「ええ、できますよ」
タックはレトから差し出された紐を手にすると、くるくるっと巻いて、言われた通りの二重巻き結びを作ってみせた。
「できました」
「こちらにあるのは、さっき僕が結んでおいたものです。これと較べてみてください。違いがわかりますか?」
タックは先ほどレトが結び目を作った紐を受け取ると、自分の結び目と並べて較べ始めた。メルルはタックのそばで様子をずっと見ていた。結び目の形は、メルルにはどちらも同じもののように思えたが、ふいに気がついた。
「レトさんの結び目は、タックさんが結んだものと、結び目の向きが逆です」
「結び目の向きが逆?」兵長が机の上に首を伸ばす。結び目をよく見たいようだ。メルルは紐を兵長の元へ押しやった。兵長は紐を受け取ると、ふたつの結び目をしげしげと眺めた。
「……たしかに、結び目の向きが逆だな」
「僕が結んだのは、リザードマンが袋の口を縛っていた結び方を再現したものです。そして、タックさんが結んだものとは結び目の向きが逆になりました。二重巻き結びは紐を巻いた後、巻いてある紐をまたぐように先端を通して縛る方法です。右利きですと右手で紐を巻き付けて通します。左利きの場合は、左手で紐を回すので……」
レトは手を動かしながら説明していた。左手が右手のときとは逆の動きをするのを見て、メルルは結び目が逆向きになったわけを理解した。
「こうして袋を縛っている紐に、ここにあるような結び目が残ったわけです。あとで説明しますが、タックさんは右利きです。ですから、あの結び目を結んだリザードマンは左利きだと考えたのです」
あの夜、袋の中身を検めようとしていたレトは、紐をほどく前に結び目をじっと見つめていた。メルルは何だろうと思っていたのだが、レトはリザードマンが左利きであることを見抜いていたのだ。
「わかったぞ、探偵がどうしてリザードマンと互角以上に渡り合えたのかが!」
兵長は興奮したように大声をあげた。メルルは驚いて、かぶっている帽子がずれてしまった。
「探偵はずっとリザードマンの右側ばかりを攻撃していた。利き腕じゃない右手側からじゃあ、戦いにくかったはずだ。あんた、わかっててそういう戦い方をしたんだ」
メルルはレトがリザードマンの『右側』を駆け抜けて斬りつけるのを見ていた。すばやいリザードマンがレトを捕えることができなかったのは、苦手な位置から攻撃されたせいだったのか。
「一方で『魔物狩り』のふたりは左側から攻撃していた。それで、あっさりと攻撃を防がれて反撃されてしまったんだ」
「ここでふたりに会ったとき、リザードマンの利き腕の可能性についても話そうと思っていたんですが、最後まで聞いてもらえませんでした。あのとき、何としても引き留めて話しておくべきでした」
「今となっては仕方がねぇよ。あいつらだって、そんなことを恨むような連中じゃないと思うぜ。病院に担ぎ込まれる前に、ルピーダが謝っていたんだ。探偵に迷惑を掛けたってな。せっかくの忠告をまともに聞こうとしていなかった自覚はあるみたいだぜ。しばらくは様子を見なきゃ確かなことはわからねぇと医者は言ってたが、今のところ大事はないそうだ」
「……そうですか。とにかく大したケガでなければ良いのですが」
「あのリザードマンの利き腕がそんなに大事な手掛かりになるか、あのときの探偵だって確信が持てなかったんだろ? 仕方がねぇよ。それに、あのとき街の誰が左利きか知らなかったわけだしな」
ひとりごとを言うように兵長は話していたが、そこで何かに気づいたように背筋を伸ばした。
「そうか、それであの『試し』に繋がるってわけか」
「何がです?」メルルは尋ねた。
「あの『試し』のとき、みんな利き手でナイフを握った。わざわざ逆の手でナイフを持って、利き手を傷つけたりはしないからな。右手でナイフを持ち、左手に傷をつけた者は右利きだってわかる。最初に『試し』を受けたタックたちは全員、自分の左手を傷つけていた。それで探偵は、タックが右利きだってわかっていたんだな」
「その通りです」レトはうなずいた。
そこで、メルルはあのときのことを思い出してみた。教会に集められた者たちは右手にナイフを持ち、左手に切り傷をつけていた。ナイフを怖がった大家のマリカは、メルルが代わりにしたのだが、右手にナイフを近づけたメルルに対し、マリカは「家事があるから、こっちにしとくれ」と左手を差し出したのだ。それは利き手が右手だったことを示している。『試し』を受けることがなかったレナード・バーンも、ギドーから剣を奪ったとき、右手で剣を握っていた。
そうだ、絆創膏。
傷の手当てにメルルは絆創膏を貼ってあげていた。中には包帯で処置した者もいたが、いずれも左手に対してだった。ただひとり、ボッブスを除いて。ボッブスにだけ、メルルは右手に絆創膏を貼ったのだ。それは、ボッブスが左手でナイフを持ち、自分の右手に傷をつけたからだ。
「あのとき、あの場にいたもので左利きはボッブスだけでした。あの時点で断定はできませんが、疑いがかなり強まったのはたしかです」
レトの説明に、部隊長は大きくうなずいた。
「『魔物狩り』がボッブスをリザードマンだと断定した根拠よりは論理的だ。だが、ボッブスが左利きであり、『魔物狩り』が言うように体格的にも条件が合うのであれば、あれを有力容疑者として確保しておいても良かったのではないかね?」
「……今にしてみれば、そうだったのかもしれません。ですが、一般市民を拘束して、それが間違いとなれば、仕事を依頼した市長の立場は極めてまずいものになります。ボッブスを拘束するのは、あとひとつ材料が足りなかったんです」
「ルピーダさんも確信がなかったから、あんな無茶なはったりを仕掛けてたんですよね?」
メルルが後を受けるように言った。
「結果的にボッブスがリザードマンだと明らかになりましたが、一方で重傷者を出す事態になってしまいました。あそこで仕掛けるのは危険だったんです」レトは首を左右に振った。
「そのことに関してはもう済んだことだ。どうせ過去を振り返るなら、事件のあらましを明らかにするほうにしてくれんかね」
部隊長は先を促すように口を挟んだ。
「わかりました。事件のあらましと言っても、ある程度はボッブスが告白した通りです。カーラさんは当初の標的ではなかった。狙われていたのはサーストン教授でした」
「それがわからない。なぜ、サーストン教授なのだ。狙われる理由とは何だ?」
部隊長の疑問はもっともだとメルルは思った。そこはメルルにも理解できなかった点だ。
「まずは、これまで起こった行方不明事件の特徴を考えてみましょう。行方不明になった方がたは、その多くがケルンの市民ではありませんでした。たまたま訪れた旅人や冒険者、それに商人でした」
「ゲフ・バークさんのようなかたですね」
「この街の誰かが行方不明になれば、まず家族が騒ぎますし、行方不明になった日時もわかります。それで捜索の範囲が狭まったりすれば、自分たちの犯行だとバレる危険が高まります。その点、ケルン以外の方がたは、いつ、どこで行方不明になったかさえわからないですし、そもそも事件が起こったことさえ気づかれないかもしれません。ゲフ・バークさんの場合も、かなり親しい人物が街にいたおかげで事件として認知されています。そうでなければ、ゲフ・バークさんはケルンで行方不明になったのか、レイモンドで行方不明になったのか、誰にもわからないままだったでしょう」
「結局、ゲフ・バークは見つかっていないもんな」兵長は腕を組んだ。
「リザードマンがこの街で安全に『狩り』を続けるためには、僕たちに『狩り』が行われていること自体を悟られないようにするのが理想です。そのためには、すぐ行方不明だと騒がれたりしないよそ者か、身寄りのいない者、あるいは間もなく街を離れる予定の者を獲物として選んでいたのです」
「サーストン教授はラッシュビルの魔法学院へ転任されることが決まって、ケルンを離れる予定だった。教授がいなくなっても任地へ向かったのだろうと誰も疑わないってことか」
「それが、サーストン教授が狙われた理由です。ボッブスは教授を『釣る』ために、自分の常備薬にしている『月呼草』を見せて、ひと気のない小屋の裏手に誘い出しました。ところが、教授は罠を張った場所に現れず、代わりにカーラさんがやって来た」
「若い女だから、つい獲物を変更してしまったのか」
兵長は口にしたとたん、慌てたようにメルルに向かって手を振った。
「いや、イヤらしい意味で言ったんじゃないぞ。若い女のほうが旨そうだと思ったんじゃないかって……」
「その言い方がイヤらしいです」メルルはぶすっとして言った。
「ですが、自制が効かなかったのは間違いないですね。慎重に周りを警戒することなくカーラさんを襲った。だから、あの『狩り』は失敗に終わったんです」
「リザードマンに高度な知恵があるのはわかった。しかし、それでも程度は知れているな。目撃者に対する警戒もそうだが、正体をさらして種子を採りに現れることといい、奴はかなり雑な性格だ。正体がバレてからの戦いぶりも、腕力任せの暴れ方だったというじゃないか」
部隊長はあきれ顔だった。
「これまで、こんな奴に気づかずにいいようにやられていたわけだ。正直、情けない気持ちになる」
「そ、それについては我々が不甲斐ないばかりで、誠に申し訳なく……」
部隊長のぼやきに、兵長は大粒の汗をかきながら謝罪した。
「それは今だから言える話で、魔物が人の姿で街に入り込んでいるなんて、誰も信じたりはしないでしょう。僕が最初にリザードマンが起こした事件だと主張しましたが、カーラさんの死があって初めて説得力を持った話であって、そうでなければ今でも誰にも信じてはもらえなかったでしょう」
「たしかにそうだな。なにはともあれ、これで事件は解決した。だが、今後はどうやって魔物の侵入を防ぐか、難しい課題が残っておる。ヴィック兵長。街の警備体制について、見直しの報告書を手配したまえ」
「ただちに」
兵長は立ち上がると、敬礼して部屋を退出した。タックも敬礼すると後に続いた。
部下が立ち去るのを見届けると、部隊長はレトのほうを向いた。
「さてと、君はどうするかね? 王都へ戻る最終の駅馬車はもう出てしまっている。今夜もここに泊まるかね?」
「仕事が終わったうえでは甘えるわけに参りません。今夜は宿で休んで、明日の早い便で王都へ戻ります」
レトは立ち上がりながら答えた。メルルもつられるように立ち上がった。そうだ、探偵さんは明日帰っちゃうんだ……。メルルはレトの横顔を見つめた。しかし、レトはこちらに顔を見せてくれない。
「いろいろお世話になりました」
「世話になったのは、こっちのほうだよ」部隊長は謙遜するように手を振った。
レトはメルルに顔を向けた。メルルはどきりとして少しうつむいてしまった。
「メルルさん、あなたにもいろいろ助けてもらいました」
「い、いえ」メルルは小さく首を振る。
「ですが、危険なことに首を突っ込むのはこれっきりにしてください」
メルルは顔があげられなくなった。
「では、これで失礼します。皆さん、さようならです」
レトは別れの挨拶をすますと、そのまま部屋を出て行った。メルルは急いで部隊長にお辞儀をすると、駆け足でレトの後を追った。
駐屯本部を出たところでレトは空を見上げて立っていた。メルルがちょうど外へ出ると、空からカラスが舞い降りてレトの肩に留まった。あたりはすでに夜の景色になっている。
「レトさん」メルルはレトに声を掛けた。
レトはメルルに振り返った。「どうしました?」
「きょ、今日はどこに泊まるんですか?」
「そうですね。昨日泊まり損ねた宿でも訪ねてみようかと思います」
……うちでしたら、ただでお泊めいたしますよ。
メルルはその言葉を飲み込んだ。さすがに女の子ひとりしかいない家に男を泊めるというのはどうかしている。当然、レトも断るだろう。しかし、メルルはそのままレトと別れたくはなかった。自分の頭の中にもやもやしたものがあったからだ。先ほどのレトの説明で、ボッブスがカーラを殺した犯人であることは疑いもない。だが、レトはまだすべてを説明していないと感じていたのだ。しかし、その根拠と言える具体的なことが浮かんでこないので何も尋ねられないのだ。
「……そうですか」
メルルの口からはそれしか出てこなかった。
「あなたにとって、この何日かは大変だったでしょう。今夜はゆっくり休んでください。今後のことはそれから考えるといいでしょう」
レトはそう言うと、通りを行き交う人込みの中へ去っていった。去り際に、肩のカラスがちらりとメルルを見ていた。
メルルは小さくなっていくレトの背中を、ただぼんやりと見つめるしかなかった。レトさんが行ってしまう。レトさんが……。
そこでメルルの頭の中に大きな疑問符がついた。
……レトさんが向かっているのは西区のほうだ。宿場町のある通りとは逆の道を行っている……。
一瞬、レトが道を間違えているのだと思った。しかし、駐屯本部から現場に向かうこともあった。事件現場の西区の道と宿場町の道を間違えるだろうか? あの観察眼のあるレトが。
メルルの口の端がキッと引き締まった。
……やはり、レトさんは何か隠している。現場にまだ何か残っているんだ。
メルルは意を決すると、人込みに紛れながらレトの後を追った。
24
教会の奥にある居室にて、ファレル神父は寝台に腰かけて正面を見つめていた。正面にはやや薄汚れたランプが、古びた木製の机の上でゆらゆらと明かりを灯している。
普段この時間であれば、神父はすでに就寝しているはずだった。しかし、今夜は何度か床に就いたが眠ることができない。実のところ眠気もない。ただ、習慣に従って寝台に横たわっただけである。
寝付けないことにいら立った神父は明かりを点け、何をするでもなく、ただ明かりを見つめていたのだった。ランプのガラスにこびりついた煤を小さな炎が舐めるように揺らめく。ただそれだけの光景を、神父は飽きることもなく眺め続けていた。それが寝付けない原因を振り払ってくれるわけでもない。そんなことはわかってはいるが、寝台にただ横になっているよりずっとましだと思ったのである。
神父の頭の中にはひとつの懸念、または疑念と言っていいものがぐるぐると巡っていた。
ボッブスがリザードマンの姿をさらして暴れだしたあのとき、神父はレトたちに続いて教会の外へ出た。教会の出入り口は階段になっていて、そこからはボッブスの暴れている状況が上からよく見ることができた。神父はレトたちの後に続くのを止め、その場で様子を見ることにした。
戦いはレトたちが勝利し、ボッブスは絶命して倒れた。
そのとき、神父は自分に注がれる視線を感じたのだった。神父はすぐさまそちらに視線を移したが、人込みの中から誰が自分を見つめていたのかを確認することができなかった。あれから数時間、あのとき感じた視線の正体がわからないまま時間だけが過ぎている。何の変化も見られない中、神父の心には不安と焦燥感だけが澱のように溜まっていた。
ランプの明かりが小さくなってきた。かなりの時間、ただこうして過ごしていたのか。
神父は大儀そうに立ち上がると、ランプの油を補充するべく机に近づいた。ランプの蓋を開けたときである。神父の手の動きが止まった。目を閉じてあたりの様子に耳をすます。
かすかだが、教会のどこかで物音がしたのだった。この教会には神父ひとりしかいない。とすれば、何者かがここに入り込んだのだろうか。
神父の疑問はやがて確信に変わった。再び、かすかであるが、神父の耳が何者かが立てる物音を拾ったのである。それはたしかに地下から聞こえてきた。
……『聖なる水』の井戸に何者かが立ち入った?
神父はすばやくランプの油を補充すると、そのランプを手に自分の居室を出た。蝶つがいは油がよく差されたので、扉を音もなく開けることができたうえ、絨毯が敷かれた廊下は足音を殺して歩くこともできた。このままいけば、侵入者に悟られることなく教会内に入ることができるだろう。居室からは細長い廊下が礼拝堂まで続いている。廊下に取り付けられたいくつもの広い窓からは、月の明かりが差し込んでランプなしでも歩けるほど明るかった。
礼拝堂に至る扉の前で、神父は立ち止まって再び耳をすませた。足音と思しき音が聞こえる。間違いない。この教会に自分以外の誰かがいる。
神父は扉の取っ手をつかむと、さっと押し開いた。こちらの扉もきしむ音ひとつ立てずに開いた。神父は礼拝堂に入ると、持っているランプを奥のほうまで明かりが届くように高く掲げた。
ランプに照らされてふたつの影が教会の壁に揺らめいた。神父は照らし出した人物をよく見ようと、その人物のほうへ一歩踏み出した。
メルルはレトに気づかれないかひやひやしつつも、何とか人込みで身を隠し続けてレトの尾行を続けていた。周囲の警戒をしていないのか、レトはメルルに気づく様子もなく西区への道を歩き続けている。今回は肩に留まっているカラスも気づいていないようだった。
……やっぱり、事件現場に向かっているんだ。
メルルは自分の予想が当たっていると思い、胸がどきどきしてきた。また、何かが起ころうとしているのではないか。早くその先が知りたくて、焦る気持ちを抑えながらも歩みは早足になっていた。
間もなく、メルルの予想が外れたことがわかった。
レトは教会の前で足を止めたのだ。
……教会? 今さら教会に何があるの?
教会の窓から明かりは見えない。ファレル神父はすでに奥の部屋で休んでいると思われた。レトは窓から中の様子をうかがうと、肩のカラスに何かささやいた。レトの肩からカラスが飛び立ち、屋根の上に姿を消す。カラスが飛び去るのを見届けると、レトは教会の正面に回って、扉を開けて入っていった。その様子にメルルは違和感を覚えた。まるで忍び込むかのように静かに扉を開け、そっと入っていったからである。
レトの行動にますます怪しさを感じながら、メルルも足音を立てないように教会の扉に近づいた。いきなり扉を開けて入るのはためらわれたので、まずは扉に耳を当ててみた。中からは何の物音も聞こえない。メルルはぐっと息を止めると、扉の取っ手におずおずと手を伸ばした。
教会の扉は大きさの割にたやすく、そして静かに開いた。メルルは顔の半分だけ教会の中に突っ込んでのぞいて見た。
教会の中は静寂そのものだった。礼拝堂の天井に取り付けられた明かり窓からは月の青い光が差し込んでいる。メルルは目をこらしてあたりを見渡した。
教会の左手側にある奥の扉で人影が認められた。レトだ。
……たしかあれは……。『聖なる水』の井戸がある扉だ。
メルルはファレル神父に説明されたことを思い出した。
レトはその扉を音もなく開けると、中に入って扉を閉めた。閉めるときも音は立てなかった。
……行こう。
今度はメルルにためらいはなかった。足音を忍ばせつつも、すばやく奥の扉へ近づくと、レトと同じように扉をそっと開けた。
扉の蝶つがいがきしむ音を立てた。それはささやき声ほどの小さいものだったが、メルルはどぎまぎして右の扉に目をやった。神父はその扉の奥にいるはずである。メルルは耳をすませたが、誰も現れる気配がない。神父はもう眠っているのだろうか。静かにほっとため息をつくと、メルルはすばやく扉の隙間に自分の身体を滑りこませた。扉を閉めるのも忘れなかった。
扉の向こうは地下へ続く階段だった。真っ暗な状態だが、下から炎の明かりがゆらめいている。そのおかげで明かりを点けずに階段を降りることができた。
メルルは踏み外さないよう、足元を探りながら階段を下りた。階段を下りた先は少し開けた洞窟のような広場だった。広場の中ほどに大きな石の板で蓋をされた井戸が鎮座しており、その前には左手から炎をあげているレトの姿が見える。
メルルが下りてくると、レトはさっと振り返って炎を掲げた。さすがに隠れるものがないところではどうしようもない。明かりに全身を照らされて、メルルは愛想笑いをしながら手を振ってみせた。
レトはメルルを見つけて驚いたようだった。しかし、それは一瞬のことですぐに冷静な表情に変わる。
「また、君か」レトは小声で言った。
「すみません。どうしても気になったので」メルルも小声で応じた。
「何が?」
「宿場町に向かおうとしないレトさんが」
レトはそれを聞いて、ふうとため息をついた。
「それで僕の後をつけたのか」
「ほかにも気になったことがありました」
「気になった?」
「誰がリザードマンなのかという推理を聞きましたが、レトさんの説明は少し中途半端です。何かわざと説明を省いているところがあると思いました。例えば、ゲフ・バークさんの遺体が見つからない理由。結局、レトさんの説明にはありませんでした。あの話にまったく触れなかったのは変です。途中までゲフ・バークさんの話をしていたのに」
レトが黙っているままなので、メルルは後を続けた。
「それと、リザードマンが左利きだという話。その推理は間違いないと思います。ですが、あの『試し』で誰が左利きなのか確かめようとしたのは少し乱暴です。ナイフで身体の一部に傷を負わせなくても、利き腕を確認する方法はあるはずです。たとえば、目の前でペンを持って名前を書いてもらうとか。レトさんは、あの『試し』では別のことを確認するつもりだったんでしょう? わざわざ傷を負わせるのが必要なことが」
メルルは井戸に目をやった。
「……あの『試し』で、本当はリザードマンだったボッブスの血に反応しませんでした。ですから、あの『試し』はリザードマンに圧力をかけるためのはったりだったとみんな思いました。でも、レトさん。あれは本当にリザードマンをあぶりだす『試し』だったんですよね?」
レトも井戸に目をやった。
「それにからんで、ここへ来たのです」
メルルは一歩前に踏み出した。
「お手伝いさせてください」
「また君は……」
「事件がまだ終わっていないと言うのなら、私は最後まで見届けたいです。私から大切な先生を奪ったこの事件の結末を」
レトは口をつぐんだ。やがてあきらめたように首を振ると、
「メルルさん。この井戸の蓋を動かします。反対側から持ってもらえますか?」
と言いながら、井戸を覆っている石の板を指さした。
「はい!」
メルルは笑顔になると井戸の反対側に回り、蓋の端に両手を掛けた。
ふたりは力を合わせて石の蓋を脇に動かした。相当な重さがあって、メルルは歯を食いしばらなければならなかった。蓋を外すと井戸はぽっかりと丸い口を開いた。レトは明かりを手にして中をのぞきこむ。
「ああ、もう。両手がほこりでドロドロですぅ」
メルルは両手をこするようにはたきながらぼやいた。レトを見ると、釣瓶をゆっくり下ろそうとしている。メルルはレトのそばへ駆け寄り、井戸の水を汲み上げるのを手伝った。
汲み上げられた水は、炎の明かりを弾き返すように青白い清浄な輝きを放っていた。
レトは懐からスポイトを取り出すと、釣瓶の中の水を吸い上げた。
「ここでの用事は終わりです」レトはスポイトをしまいながら言った。
元通り蓋を閉め、釣瓶の水で汚れた手を清めると、ふたりは階段を静かに昇っていった。やがて上に着き、レトは左手の炎を消して教会に入ったときだった。
左手側からランプの明かりがふたりを照らした。急な明かりに手で顔をかばいながら、明かりのするほうに目をこらすと、右手奥の扉からファレル神父がランプを手に立っていた。
「探偵さんに、メルルさんですか。神聖な場所に断りもなく踏み込むとは、どういう了見ですかな」
神父の口調は穏やかではあるが、そこに威圧的なものをメルルは感じた。
「勝手に足を踏み入れたのは悪いと思っています。ですが、どうしても確かめておきたい大事なことがございましたので、どうかお許しいただきたいと思います」
レトは丁寧な口調で神父に詫びた。
「大事なこととは何ですかな? しかも、私に断りもなく確かめるようなこととは?」
神父は説教台にランプを置くと、ふたりに向き直った。かたわらのランプが神父を真横から照らす。神父の表情には何の感情もうかがうことができない。メルルはただ冷たさだけを感じていた。
レトは懐からスポイトと、布切れを取り出した。その布の真ん中は血で赤茶色に染まっていた。
「今日の昼の『試し』をもう一度行なうのです。今回はこのスポイトの水からです。神父に事前にお話ししなかったのは、これからお見せすることと合わせて説明いたします」
神父は無言だった。
「この布はある人物の血が付いたものです。ちなみにボッブスのものではありません。これにスポイトの水を垂らしてみます。この水は先ほど地下の井戸から採取したばかりの、紛れもない『聖なる水』です」
レトは布を左手で広げて持つと、上からスポイトの水をたらし始めた。メルルはレトの横に回り込んで、レトの手元を見つめた。
スポイトから滴り落ちた水はランプの明かりにきらきら光りながら布の上に落ちていった。赤茶色の血を含んだ部分に触れると、そこから白い湯気が昇り出した。
「反応した!」メルルは小さく叫んだ。
レトはスポイトの水をたらし続ける。『聖なる水』を含んだ布は、しゅうしゅうと音をたてながら次々と白い蒸気の湯気を立ち昇らせていく。それはまさしく浄化作用が起きている光景だった。
「『聖なる水』の浄化作用って本当の話だったんですね? それじゃあ、昼のときの『試し』で神父様がご用意した水は?」
メルルはそこで神父を振り返ってみた。神父の目は細く、鋭いものになっていた。メルルはそこに初めて「殺意」を感じた。神父の口の端はゆがむように上がっていて、まるで笑っているかのようだ。
レトはスポイトと布をかたわらの座席に置くと、神父に顔を向けた。
「さて、ファレル神父。何か言うべきことがあるなら、うかがいましょうか」
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ファレル神父は身じろぎひとつしなかった。表情こそ変わったものの、無言のままで何か行動を起こそうとする気配もない。
「……では、もう少し、僕から話をさせていただきます」
レトは神父が黙ったままなので、再び口を開いた。
「以前、メルルさんに話しました。今回の事件は過去の行方不明事件と性格が違うと」
メルルはうなずいた。
「たしか、先生を殺したリザードマンは下手で失敗だらけだって。一方で、これまでの行方不明事件は鮮やかすぎると」
「ゲフ・バークさんを含め、遺体などが見つかったものは皆無です。完璧に消しています。カーラさんの場合だけ、殺害時の悲鳴は聞かれるは、遺体を残すは、散々な内容でした。実行犯であるボッブスは、事件の翌日に現場へ正体をさらして現れるなんてこともしています。もし、これまでの行方不明事件がボッブスひとりの行ないだとすれば、彼は急に手際が悪くなったということになります。果たしてそうでしょうか?」
レトは神父の顔を見つめた。神父が口を開く様子はない。
「『狩り』を行なうにあたって、成功率をあげるためにはどうすればいいか? 一番なのはやはり『仲間と協力して行なうこと』だと思います。ひとりがあたりを警戒し、目撃者のいないときを狙って獲物に襲い掛かる。もし、逃げられることがあれば、もうひとりが反対側から追い詰めて逃さない。ひとりで行なうことに比べれば、連携することの利点は大きい。ましてや隠密に『狩り』を行なうのであれば、仲間の存在はむしろ必須だと言えます。
ボッブスは腕力や身のこなしでは優れた『猟師』だったかもしれませんが、慎重さや状況の判断力に難があった。それを補っていたのが仲間だったのでしょう。仲間の知恵や判断力を背景に、ボッブスたちは『狩り』を成功させていった。その知恵や判断力を担っていたのが、あなたです。ファレル神父」
神父からはまだ何も反応がない。
「仲間がいたことはボッブスの態度からもうかがうことができました。ボッブスとの戦いの中で、追い詰められた彼は急に空に向かって叫びました」
メルルはそのときのことを思い出していた。
ボッブスはあのとき、
『おおい、俺はもうこんなところにいるのは止めにする! この街から出て行く!』
と叫んでいた。
「……あれは、自分がこれからどうするつもりでいるかを仲間に知らせるためだったんですね」メルルは補足するようにつぶやいた。
「ボッブスとあなたは、それぞれ役割を持った仲間だったんでしょう。主な実行役をボッブス。獲物の選定や、『狩り』の状況設定などをあなたが行なう、というように」
レトは無言を続ける神父に向かって説明を続けた。
「あなたは神父という立場をうまく使って、行きずりの旅人などを探し出し、ボッブスと共に人々を『狩って』いた。敬虔な旅人なら、教会に立ち寄ることがあるでしょう。そのとき、その人物が行方不明になってもすぐに発覚しないかなど、あなたには確認する機会に恵まれていた。懺悔や日常的な会話など、神父という職は情報を集めるのに適していましたから。
また、獲物の対象には、街を離れる予定の者も含まれていた。もちろん発覚を避けるために、獲物は慎重に選ばれていた。サーストン教授が転任のために街を離れることを知ったあなたは、教授を獲物として選び、ボッブスに罠を仕掛けさせた。
あなたが教授とは知己の間柄であり、近く街を離れることを知っていました。それは今日の『試し』のときに、あなたと教授とのやりとりで明らかです。
もし、計画通りであれば、あの夜、あなたとボッブスは教授を密かに殺して食糧にし、教授は人知れず街を去ったことになるはずでした。ところが、ここで想定外の出来事が起きてしまいました。まずは、あなたが拉致同然にホーエンム卿の晩餐に連れていかれて、『狩り』に参加できなくなってしまったこと。本来であれば、そこで計画は中止になったはずですが、事前に連絡もできない状況だったため、ボッブスはひとりで予定通り罠の場所に出向いてしまった。もうひとつの想定外は、現れたのが教授ではなく、教授から『月呼草』の話を聞いたカーラさんだったことです。獲物が予定と異なるのであれば、そこでも中止の判断ができたでしょう。何せ、その人物を手にかけてしまうと、これまでと違って騒ぎになり、事件になる恐れがあったからです。
ですが、ボッブスはそこまでの考えができませんでした。仲間のいない状況で、予定外の獲物に手を出してしまったんです。あなたがあの場にいなかったからこそ起きた出来事です。
できれば、これ以上失敗を重ねることがないよう、話し合って事後対策を練りたいところだったでしょうが、それは叶わなかった。事件のあった夜は教会に駐屯兵が詰めていて、ボッブスと接触することができなかったからです。そしてあの夜、ボッブスは正体をさらして現場に現れるという失敗をさらに犯してしまった」
メルルは淀みなく語られるレトの話に目を見張っていた。大部分はメルルが目撃してきた出来事から構築された推理である。つまりは、自分にもレトと同じ結論を持つことが可能だったということだ。
「こうして、あなたとボッブスは打ち合わせができないまま、『試し』を受けることになってしまった。ですが、まだ切り抜けられる可能性はありました。カーラさんを殺すことが不可能だったあなたを僕が容疑者から外していたため、あなたから『試し』に細工を施すことが可能でした。
本来、犯行機会がある者を割り出すことが、事件解決につながるのですが、今回はあなたに犯行機会がなかったから事件が起きた、という稀な例でした。もちろん、この事件に限れば、あなたは実行犯でも共犯者でもなかったのですが。
しかし、あなたはこのあと、ボッブスの犯行をごまかすために『試し』に細工を施したのです。
とはいえ、特別な細工は要りません。頼まれていた『聖なる水』の代わりに、ただの水を用意するだけでよかったのですから。
僕はまるで馬鹿みたいに、何の効果もない水で『試し』を行なっていたわけです」
レトはそこでため息をついた。
「しかし、打ち合わせをしていないボッブスはそのことを知りません。追い詰められたボッブスが正体を明かして暴れたりするかもしれないし、そうなっていたでしょう。
だからあのとき、あなたは自ら手を切って、あなたが受ける必要のない『試し』を受けてみせた。
何の容疑も掛かっていないあなたの行動は唐突で不可解でした。ですが、あなたにはそうする理由があった。自分が『身の潔白』を証明してみせることで、何の心配もせずに『試し』を受けることができると、ボッブスに教えるためです。
自分と同じリザードマンであるはずの神父が『人間である』証しを立ててみせたのです。ボッブスも同じことをしても、自分の正体が明かされる心配はない。
そのことを、あなたは言葉ではなく、行動でボッブスに伝えたのです。ボッブスはそれを理解して、あなたの次に進んで『試し』を受けました。そして、見事に『身の潔白』を示してしまった。
実はあのとき、体格や左利きであることなどから、ボッブスがリザードマンの可能性はあると思っていました。ところが、肝心の『試し』ではシロと出てしまった。僕は自分の考えが誤りではないかと悩みました。
その後、ルピーダさんが強引な方法でボッブスの正体を暴いたおかげで、今まで考えていなかった可能性に気づいたのです。
『ボッブスには仲間がいる。その仲間とはファレル神父である』、と」
レトはそこで言葉を切った。メルルが神父の顔を見ると、神父はややうつむき気味になって、ランプの明かりから陰になって表情がうかがえられない。だが、細く鋭い目だけが不気味に光っているのがわかった。
「あなたがリザードマンであれば、説明のつくことがあります。それは遺体の処分方法です。リザードマンは人を食べると言っても全身丸ごと食べるわけではない、と話しましたね?」
レトはメルルに話しかけた。
「ええ。街中で人をひとり消すのは難しいことだと。でも、神父なら可能なんですか、そんなこと? ……あ」
メルルは言いながら気づいた。
「火葬場の火葬炉。リザードマンが食べられない部分は、丸ごと焼いて灰にしたんですね。目撃されることがあっても、誰か身寄りのないかたの葬儀だとみんな疑わないはずです。そして遺灰は堂々と墓場に埋めて、証拠である遺体を隠したのですね?」
「リザードマンがなぜ神父に化けるのか、ここにも必然の理由があったわけです。ボッブスが肉屋に化けていたのも同様でしょう」
レトはうなずいた。
「そこまで考えることができれば、あとは証拠を確認する必要があります。僕の考えが正しければ、『聖なる水』を改めて採取し、魔族の血が付いた布にかけてみれば反応が出るはずです。そこで申し訳ありませんが、断りなく教会に入らせていただき、『聖なる水』を少し頂戴しました。そして、改めて『試し』を行なった結果は、先ほどご覧にいれたとおりです」
「昼の『試し』のときに使われた水が『聖なる水』でないことは、さっき私にもわかりました。なぜって、井戸の蓋があまりにほこりまみれで、最近動かされた様子がまったくなかったからです。また、『聖なる水』を汲むために、神父様おひとりであの大きな石の蓋を外したなんて考えられません。さっきは私たちふたりで蓋を動かしたんですから」
メルルは畳みかけるように言った。ひとりでは持ち上げられないほど重い井戸の蓋を動かしたとき、メルルの両手はひどく汚れてしまった。まるで、何年も蓋を動かしたことがないかのようにほこりをかぶっていたのだ。そこでメルルは、『試し』のときに神父が用意した『聖なる水』が本物かどうかを疑ったのだ。
「あなたは仲間をかばうために墓穴を掘ったのです。『試し』での小細工を知らせるために、自ら証拠を残してしまった。言い逃れのできない完全な証拠になる、あなたの血液です」
レトは座席に置いた布を指さした。
これまで神父はひたすら無言を貫いていた。レトが指さすほうを見ることもしなかった。しかし、このときになってようやく動きを見せた。神父は自らの右手を顔に当てて前かがみになったのだ。メルルが様子を見ようと身体を傾けると、神父の口元から声が漏れているのがわかった。
……笑っている?
神父の口から漏れ聞こえていたのは、くくく、という含み笑いの声だった。やがて、その笑い声は大きくなり、哄笑へと変わっていった。
「はっはっはっはっ! 面白い! 探偵、よくここまで考えたな! すぐに問い詰めたりせずに、証拠を手に入れることを優先するあたり、なかなか慎重じゃないか。だが、ちょっと足りないな。わかるか、探偵?」
「何がですか?」
「俺がリザードマンだとわかったのなら、たったふたりで来るのは馬鹿だろう。ボッブスひとり倒すのに、お前たちは何人がかりだった? 今、ここにいるのは何人だ? 外には誰もいる気配がない。お前はこんな娘っ子ひとりだけを連れて、のこのこやって来ているんだぞ!」
神父の顔がめきめき音を立てて変形を始めた。顔を覆っていた右手がみるみる大きくなる。メルルは目前で変形するリザードマンの姿に戦慄した。
「メルルさんをここに連れてくるつもりはありませんでした。このひとは勝手についてきたんです」
レトは正体を現すリザードマンに動じる様子もなく、淡々と言った。
「……勝手にって。そんなやりとりしている場合なんですか、レトさん!」
メルルはリザードマンを指さして叫んだ。リザードマンは完全に本来の姿に戻っていた。
「君は少し下がっててください。ここにひとりで向かったのは、もともとひとりでこのリザードマンに対処するつもりだったからです」
レトに言われるまま後ろへ下がりながら、メルルはレトの背中を不思議そうに見つめた。
……もともとひとりでって。どんな自信があってそんなことを言うんですか?
「ほう、もともとひとりで対処する、か」
リザードマンは覆っていた右手を離して、レトに鋭い視線を飛ばした。メルルはこれまでに感じたことのない恐怖を味わっていた。人生で初めて、強烈な『殺気』を感じ取ったのだ。それは、生きるか死ぬかの戦いを経験したことがないメルルでさえわかるほどの、禍々しい圧力だった。
「ずいぶん自信大ありだな!」
目にもとまらぬ速さで、リザードマンの太い右手がレトに襲い掛かった。レトは鎧で覆われた左手で受け止める。
「危ない、レトさん!」メルルは叫んだ。リザードマンの握力は常人の3倍以上。さんざん聞かされたリザードマンの手とレトの手ががっしりと組み合った状態になったのだ。
……潰される!
メルルはそう思ったが、先ほどの殺気にあてられたのか、一歩も動くことができない。
めきめきめき、と明らかに何かが折れる音が室内に響き渡る。メルルは思わず目を閉じた。
「ぎゃあああああ!」
部屋を割れんばかりに悲鳴をあげたのはリザードマンのほうだった。必死にレトの手を振りほどくと、右手をかばうようにして数歩後ずさった。
メルルはきょとんとして目を開いた。まったく予想していない展開だった。
「お、お、俺の右手が、俺の右手がぁああ!」
痛みに顔をゆがませながら、リザードマンはレトを睨みつけた。
「い、いったい、俺に何をしやがったんだ!」
「別に。ただ握りしめただけです」
レトはまったく変わらないぐらいの静かな口調で答えた。差し上げた左手を覆う銀色の鎧が、ランプの光を受けてまばゆくきらめいた。
「どうやら、僕の左手の握力は、あなたがた並みか、それ以上のものなんでしょうね」
レトは鎧で覆われた左手をカチャカチャ鳴らしてみせた。
「くっ。その不似合いな鎧は、握力をあげるためのカラクリが仕込まれているのか」
リザードマンは絞り出すように声をあげた。
「内緒です」
レトはそう言うと剣を抜き放った。そして剣を手に、じりじりと間合いを詰め始める。
「クソっ、やられてたまるか!」
リザードマンはくるりと背を向けるとレトとは反対側に逃げ出そうとした。
その瞬間だった。
雷が落ちたような音と稲光が、リザードマンを真上から貫いた。リザードマンは絶叫した。
あまりのまばゆさで、自分の腕で顔を覆っていたメルルだったが、すぐに腕を離すとリザードマンがどうなったか視線を向けた。
リザードマンは両腕を身体の真横に水平に突き出すようにして立っている。両手は力なくだらりと腕の先で垂れ下がっている。まるで目に見えない十字架で磔にされたようだった。
「こ、これは緊縛の魔法陣。いつの間にこんなものを仕込みやがった?」
身体をよじらせて逃れようとしながら、リザードマンは唸るような声をあげた。
「お、お前にそんな時間はなかったはずだ!」
「ありましたよ、朝のうちは」
リザードマンの頭ががくんと揺れた。
「あ、朝、お前が教会のあちこちを叩いて回っていたのは、魔法陣を仕込んでいたからなのか!」
「『試し』の最中に暴れられたら事ですから。対策として一番強力な魔法陣を仕込ませていただきました。レナード・バーンが暴れだしたとき、これを使うべきだったんですが、あまりに強力なので、周りの方がたも巻き添えを食って大けがをさせる危険がありました。それで心苦しいですが、周りの方がたで取り押さえてもらうしかありませんでした。今こうしてあなたを封じていられるのは、この魔法陣を発動させなかったからです。無駄にせずに済みました」
レトは剣をきらめかせながらリザードマンに近づいた。
「だ、だが、お前、これほどの魔法陣を発動させるのに魔名すら唱えていなかったな? どうやって? そんなこと、人間にはできないはずだが……」
リザードマンはそこで口調が変わった。首だけ何とか後ろに向けて、背後から近づくレトに話しかけようとする。
「は、そうか! お前、人間ではないな? 俺たちと同じ魔族だな! だから呪文はもちろん、魔名も唱えずに魔法が使えるわけだ!」
「それは間違いです」
レトは否定した。
「僕はただの人間、レト・カーペンターです」
レトは剣を突き出した。剣の切っ先は後ろからリザードマンの喉を刺し貫いた。リザードマンの口から大量の血が噴き出した。
「僕はあなたがたを犯罪者とは思っていません。人喰いのあなたがたにとって、ここでの行動は人間が弓矢で鹿やウサギを獲ったり、釣り針や網で魚を獲ったりするのと同じことなのでしょう。殺し殺され、食べて食べられ、それが自然の掟であり、あなたがたはその掟に従っただけの罪なき者。あるいは人間と同じ業を持つ者なのでしょう。ですから、僕はあなたがたを裁く考えはありません。……ですが」
レトはゆっくりと剣を引き抜いた。
「あなたがたに勝手をさせるつもりもありません」
レトが魔法陣の効果を止めたのか、リザードマンの身体はぐらりと揺れると床に崩れ落ちた。そのままぴくりと動く様子もない。メルルは恐る恐る倒れているリザードマンの様子をうかがった。
「これで本当に終わりました」
剣を収めながら、レトはメルルに声を掛けた。
26
日が高く昇っている。
あれからすぐに、レトはホース部隊長とヴィック兵長に事のあらましを報告した。部隊長はあまり反応を見せなかったが、兵長は怒りの表情を見せた。
「何だって、そんな大事な話を隠して、ひとりでリザードマンのところへ行きやがった? メルルちゃんを危険にさらしたんだぞ!」
メルルは、そこは自分が勝手についていったことだからと必死でなだめた。
「それに、俺たちの援護を受けようともしなかったのはなぜだ? 俺たちを信用できなかったって言うのか?」
「前もって大勢で取り囲むと、敵に気づかれて先に大暴れされたり、逃げられたりする危険がありました。それにあらかじめ仕込んだ魔法陣は超強力なものです。近くに誰かいて巻き込まれでもしたら、その人も無事ではすみませんでしたから」
レトの釈明に、兵長はふんっと鼻を鳴らして横を向いてしまった。
だが、本当の理由は別にある、とメルルは考えていた。レトはあの強力な魔法陣を、魔名を唱えずに発動させた。そんなことができるのは、リザードマンが言う通り魔の領域で生きる者――魔族のはずだ。レトはそんな疑いを持たれないよう、駐屯兵団に内緒で事にあたったのではないか。本当はメルルのような目撃者のいない状況で、リザードマンを仕留めたかったのではないか。
レトはメルルにそのことについて何も言わなかったし、メルルも何も尋ねなかった。レトの正体が何であれ、自分たちを守り、戦ってくれた。それだけでレトを信じられる。そうだ。あの人は間違いなく私たちの味方なんだ。
リザードマンとの対決はわずかな時間の出来事だったにもかかわらず、レトとメルルに対する取り調べは夜通し続いた。そのため、レトは最後の夜も宿を取り損ねてしまった。結局、レトはどこの宿にも泊まることができなかったのだ。
ようやく、レトとメルルが解放されたころには夜が明けていた。
「次にこの街に来ることがあったら、ちゃんと顔を見せろよ」
兵長はレトの肩を力いっぱい殴るようにどんと叩いて言った。そこには、昨夜に見せた怒りは感じられない。むしろ、友人に接するような親しげな口調だった。
「お世話になりました」
レトがお辞儀すると、部隊長が顔をのぞかせた。
「本当にそうだな」
今度はさすがに社交辞令がなかった。
レトは王都に戻る馬車に乗り込むため、正門近くの駅まで歩いた。発車の時間まで近くの食堂で遅めの朝食をすませ、そのまま少し眠った。馬車の時間が迫ると、レトは食堂を後にして駅へ向かった。カラスは先に馬車の屋根に留まっていた。
ケルン発、王都メリヴェール行きの馬車は10人ぐらい乗れるぐらいの大きさだった。この馬車で二日掛けて王都へ向かうのだ。
馬車に乗り込んだレトは中を見て、少ししかめ面になった。馬車の座席は左右に向かい合う形になっている。その一角にメルルが座っていた。先客は彼女ひとりだけだった。
「なぜ君が乗っている?」
メルルは笑顔を見せた。
「私、この街を離れることにしたんです」
「王都に行くつもりなのかい?」
「はい、探偵になるために」
レトはため息をついた。
「なりたいと思って、なれる職業じゃないよ」
「でもやろうと思わなかったら、そのための行動をしなかったら、絶対なれませんよね?」
「……そうだ」
「でしたら、行動あるのみじゃないですか。それに簡単な仕事じゃないことはレトさんを見て、ようくわかっているつもりです」
レトは思わず天を仰いで「本当か?」と心の中でつぶやいた。
「でも、この世の中に、これほど人々のために働く仕事があると知ったんです。私はその仕事をしたいと思ったんです」
「探偵はそんな仕事なんかじゃ……」
「いいえ。レトさんは私を助けてくれました。街を脅威から救ってくれました。正義の味方とはちょっと違うみたいですが、それでも人々のためになることは間違いありません!」
「ずいぶん買われたもんだ。たしかに正義の仕事じゃない。人々のため、というのも少し違う」
「それでしたら、私が探偵をそういう職業にしてみせます」
レトはやれやれというふうに両手をあげた。
「一度言い出したら聞かないのは、ここ何日かで思い知ったからね。もう何も言わない」
「私、自分のやりたいに責任を持つつもりです。いい加減な気持ちではやりません」
レトは真顔に戻った。
「その言葉の持つ意味はわかっているね? それは覚悟のいる重い言葉だということに」
メルルは深くうなずいた。
レトはため息をつくとメルルの向かいの席に腰を下ろした。
「事務所に戻ったら、所長に引き合わせてあげよう。僕には君を採用する権限はない。所長が判断されることだ。所長がダメだと言ったらダメだからね。それでいいのであれば、事務所まで連れて行ってあげよう」
「わぁ本当ですか? ありがとうございます!」
メルルは弾んだ声をあげた。
「だから、所長に会わせてあげるだけだよ。そこから先、僕は何もしてあげられないからね」
「十分です!」
わかっているのかね、この娘は。レトは頬杖をついて考えた。だが、この娘はところどころ勘のいいところを見せている。リザードマンとの戦いでは機転も見せた。もちろん、今のままでは探偵の仕事は無理だが、鍛えれば見込みはあるかもしれない。しかし、あの所長がメルルの採用を考えるのは難しいだろう。それでもあきらめずに食い下がるのだろうか。
「先に言っておくけど、所長はとても怖い人だからね。簡単に採用されるとは思わないことだ」
「そうですかぁ? でしたら、これから王都までの時間、事務所や所長さんのこととか教えてくれません? 面接対策です」
「な……」レトは絶句した。この娘はやはり一筋縄ではいかない。
「時間もたっぷりありますしね」
二日間、この娘に教授しなければならないのか?
「もちろん、ただで教えてもらおうなんて考えていません。お弁当にお茶も用意しています。実はレトさんの分も用意していたんです!」
「……用意のいいことで」
「相手の考えの上を行くことも探偵には必要ですよね?」
レトはもう何も言えない。
馬車は時間通りに発車して、門をくぐり抜けた。がらがらと音を立てる馬車の屋根の上では、一羽のカラスがそんな音を気にすることなく羽を休めて目を閉じている。
馬車はふたりの乗客と一羽のカラスを乗せて、一路、王都メリヴェールへの道をしっかりとした足取りで歩んで行った。
【あとがき】アイザック・アシモフの『鋼鉄都市』はSF+ミステリ。W・ヒョーツバーグの『堕ちる天使』はオカルト+ミステリ。ミステリはいろんなジャンルとの親和性があるが、ファンタジーとのコラボを本格的にした作品は見受けられない。それならば自分で作ってみよう……。
『メリヴェール王立探偵事務所』はそんな考えから始まった物語である。下手をすれば魔法で何でもありのファンタジーで、論理的な推理を展開するにはどうすればいいか。作品として成立させるために、魔法や特殊なアイテムには使用あるいは発動の条件を課すことで、その問題をクリアしようと考えた。ルールを設ければ、そこに謎を仕込むこともできるし、そのルールの中にトリックを仕掛けることができる。そう考えると、ファンタジー+本格ミステリを追求することは可能に思えた。さて、『夜咲く花は死を招く』はタイトルにある通り、『月呼草』というアイテムがキーになる話だ。さらに『聖なる水』も犯人を追い詰めるのに一役買っている。それらの仕掛けが成功したかについては、読者から評価いただくほかない。なにぶん、初めての長編ということもあり、課題はたくさんあると思っている。課題については今後も考えていこうと思う。こちらはフクザツなことをいろいろ考えてはいるが、そんなことは抜きにして、ファンタジーの面白さとミステリの楽しさ。読者に両方楽しんでもらえたら、個人的には充分である。
※初掲載から数年経ち、言い回しの誤りや、シリーズを重ねて整合性の取れなくなった箇所など、全面的に手を加えてみた。以前のヴァージョンより、少しでも良くなっていればと思う。