表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/5

夜咲く花は死を招く chapter3

Chapter 3


14


 リザードマン。亜竜族と分類される魔族の一種。彼らは非常に種類が多く、性格も種類によってさまざまである。

 知性や知能が高い種と低い種とがあり、知能の高い種では魔法を行使できるものがいる。一方で知能の低いものは、粗暴で明確な言語を持たず、本能のままに行動する。

 アークリザードと呼ばれる種は、きわめて知能が高く、魔法が行使できるものもいる。しかし、人間に化けるのは魔法の力ではなく、自ら骨格やうろこを変形、あるいは変質させて、人間の姿に「擬態」するものである。そうして人に近づき、油断したところを襲って食べるのである。それが彼らの「狩り」のやり方だった。


 レトたちが物陰で見つめているのに気づく様子もなく、リザードマンは小屋の裏手に近づいていく。その手には麻袋が握られていた。

……本当に種子の採取にやってきたんだ。

 メルルはちらっとレトの横顔に視線を送った。レトは何の表情も浮かべず、静かに様子を見つめている。

 リザードマンは袋の口を広げると、実をつけた『月呼草』を何本かまとめて袋にかぶせて、しばらくそのままの姿勢でしゃがんでいた。やがて、袋の中でポン、ポンと小さく弾ける音が聞こえ始めた。

……袋の中で実が割れ始めているんだ。

 メルルはそう考えた。

 弾ける音が止むと、リザードマンは袋の口を手で握ったまま、そっと袋から草だけを引っ張り出した。草の先にあった丸い実は姿を消し、代わりに小さな黒い粒だけが残っていた。リザードマンは袋の口を紐で縛ると、それを右手に持って立ち上がった。そして、隠れて見ているふたりに背を向け、そのまま林に向かって歩き出す。

 どうやらやり過ごすことができそう……とメルルが思ったのもわずかだった。

 背後からさぁっと涼しい風がふたりを吹き抜けていった。その風はリザードマンが向かっている林の木々を一斉に揺らしていく。リザードマンの足が止まった。

 メルルがどうしたんだろうと思った瞬間、リザードマンが動いた。いきなり振り返ると、猛然とこちらに飛びかかってきたのだ。

 ふたりとの距離はかなりあるはずだった。しかし、リザードマンは一瞬で詰め寄って、太い左腕を振り上げた。

 レトはメルルを抱えると、後ろ向きに飛びずさった。陰にしていた小屋の壁が目の前で砕けていく。リザードマンの一撃は、小屋の一部を削り取り、ふたりの目の前をかすっていった。リザードマンの左手には鋭いかぎ爪が生えていた。小屋の破片とともに風圧がふたりを襲う。ふたりは大きく飛ばされて地面に叩きつけられた。レトの肩に留まっていたカラスは夜空の中へ飛び去って消えた。

 「レトさん!」メルルが叫んだ。

 「大丈夫! 君は?」レトはすばやく身を起こすと、剣を抜いた。

 「私は大丈夫です!」メルルは自分をかばったレトの身体のほうが心配だった。

 リザードマンは最初の一撃をかわされると、追い打ちをせずにその場で仁王立ちになってレトたちを睨みつけた。

 「近くに人間の匂いがするかと思えば……」

 リザードマンがせせら笑うようにしゃべり出した。錆の入った声だった。月夜の光が、その場を青白く照らす。レトの剣が月の光を反射してきらりと光った。

 「ほう」リザードマンは自分のあごに手を掛けた。

 「……探偵か。こんなところで張ってやがったか」

 「偶然です、こうなったのは」レトは落ち着き払ったように言う。しかし、額にはすでに大粒の汗が光っていた。

 「メルルさん、君は逃げるんだ」レトはちらっとメルルに視線を向けて言った。

 「ええええ? レトさんはどうするんです?」メルルはやっと立ち上がりながらレトに尋ねた。

 「できるだけ食い止める! 今のうちに!」

 レトは剣を振り上げると、リザードマンに打ちかかっていった。

 がぁんと激しい音が響き渡った。レトの一撃を、リザードマンは右腕で受け止めていた。その腕には鋼鉄製の小手がはめられている。

 「効かん!」リザードマンは大声をあげると、再び左腕を振り上げた。レトはサッと身を引く。引いた足元を砕かんばかりに、リザードマンは腕を振り下ろした。砕けた地面の土がメルルのほうにまで飛んでくる。メルルは思わず自分の顔を腕でかばった。

 「何をしている! 早く!」レトは叫んだ。

 「でも!」メルルも叫び返す。

 「このままじゃふたりともやられてしまう! 走れ!」レトはリザードマンから目を離さず、剣を構えたまま怒鳴るように言った。

 「仲間を逃がす気かい?」

 リザードマンは手にしていた袋を地面に置いた。

 そして、「そのまま行かせると思うのかぁ!」と大声とともに、メルルに向かって走り出す。レトはリザードマンに剣を振り下ろした。レトの脇を駆け抜けようとしていたリザードマンは、肩を切られて横っ飛びに飛びのいた。「痛ぇじゃねぇか!」リザードマンが吠えた。

 「まずはお前からだ!」

 レトの目の前にリザードマンのかぎ爪が迫ってきた。レトは剣を顔の前で縦に構えると、それを弾いて防いだ。しかし、打ち込んできたリザードマンの強い力で、レトの身体は通りまで跳ね飛ばされてしまった。

 もともとこの界隈は人通りが少ない。それでも、近くの居酒屋で一杯ひっかけようとする者はいる。近くを通りかかった何人かが、通りに飛ばされたレトを目撃したのは別に不思議なことではなかった。地面に叩きつけられるように落ちたレトを見た者の中には、何事があったのかとレトに歩み寄った者もいた。しかし、小屋の陰からのそりとリザードマンが姿を現したとき、彼らは驚愕して大声をあげると、一斉にその場から逃げ出した。

 レトはとっさに受け身を取ることはできたものの、身体に受けた衝撃は強いものだった。身体中がきしむように痛い。口の中には血の味が広がっている。

……魔族と戦うのは2年ぶりか……。

 口の端からにじみ出た血をぬぐいながら、レトは立ち上がった。全身は痛いが、まだ動ける。十分だ、戦うには。しかし……。

……やっぱり、勘が鈍っている……。

 先ほどは一気にレトたちの元へ飛び込んできたリザードマンだったが、今度はじわりじわりと間合い詰めるように近づいている。

 「……お前、思った以上に頑丈じゃねぇか」

 リザードマンの言葉にはレトを警戒する響きがあった。事実、あの一撃を受けて立ちあがることのできる人間は、そういるものではない。レトの持っている剣は中ぶりのもので、あまり肉厚もない一般的な大きさのものだ。本来であれば、リザードマンのあの攻撃は、剣をへし折り、レトの全身の骨を砕いていたはずである。しかし、レトの持つ剣はまだ戦えるとばかりに威厳をたたえた光を放っており、レトも全身の痛みに顔をしかめながらも、しっかりと地面に両足を踏ん張って立っていた。リザードマンは勝手の違う相手に、少し違和感を抱いていた。

 「今のは、褒め言葉と、受けとらせて、いただきます」レトは息をつぎながら言葉を吐き出した。

 「褒めちゃいねぇよ!」

 リザードマンはこぶしを振り上げた。

 「『火炎剛球インフェルノ』!」

 メルルの声と共に、大きな炎が柱状にリザードマンめがけて撃ち込まれた。リザードマンは両手の小手を盾にしてそれを防いだ。

 「今度は何だ!」

 「やらせはしません!」メルルは片手に魔法の杖が握られている。彼女は、その杖をリザードマンに向けて立っていた。それは、カーラの部屋で見つけ、ポケットにしまっていたものだった。

 「なんだ、さっきの小さいのか」リザードマンの落ち着いた声に、メルルはかちんときた。「小さいからって何なんですっ!」

 メルルは杖を高く掲げると呪文を唱え始めた。「サルジュ・フラン・マ・スファエラ……。我、求むるは業火のしもべの御業。炎の砲弾にて敵を射ぬきたまえ。汝に与うるかりそめの名は……」

 メルルは杖の先端をリザードマンに向けた。

 「『火炎剛球インフェルノ』!」

 メルルが魔名を唱えると、巨大な炎の球がリザードマンに襲いかかった。強い熱を帯びた炎の球体は再び小手で防がれたが、リザードマンは「あっちい! チクショオ!」と叫んだ。熱までは防ぎきれなかったのだ。

 脇からはレトが飛び出し、袈裟懸けに切りつける。鋭い刃がリザードマンの肩を切り裂いた。

 「いってぇ! どいつもこいつもふざけやがってぇ!」リザードマンは両腕を振り回した。レトは鎧をつけた左腕で、その攻撃を防いだ。レトは横っ飛びに飛んで間合いを空けると、メルルのかたわらで剣を構えた。

 「さっき、君には逃げろと言ったはずだ」

 「もっと前に言いました。簡単にやられるほどじゃありませんって!」

 メルルはくるんと杖を小さく回しながら、すばやく呪文を唱えた。

 「『火炎剛球インフェルノ』!」

 「そう何度も!」

 リザードマンは思いきり左腕を振るうと、飛んできた炎の塊を叩き壊すように打ち消した。一瞬、三人の動きが止まった。それぞれが次の攻撃を警戒して、相手を見極めようとしているのだ。メルルはその中で「次はどんな呪文を唱えるか」を必死になって考えていた。

……私の中で一番威力のある『火炎剛球インフェルノ』が防がれている。呪文の詠唱中に身構えられてしまうからだ。効いてないわけじゃないけど、このままではこっちが先に魔力切れになってしまう。強い魔法を使えば勝てるわけじゃないんだ。考えなきゃ、考えなきゃ……

 レトは、ちらっとメルルに目を向けると、勢いよくリザードマンに向かっていき、鋭い突きをくらわせた。リザードマンは飛びずさってそれを避ける。レトは飛んだリザードマンの着地を狙って、足元を剣で薙ぎ払った。切っ先がリザードマンの向こう脛をかすめた。

 「……畜生。こいつ、なんだかんだで戦い馴れていやがる」

 後ずさりながら、リザードマンは唸るようにつぶやいた。

 「だが、どれも浅いな。俺にとっては全部かすり傷よ。明日には傷跡ひとつ残らねぇぜ」

 リザードマンは舌なめずりして、レトに一歩踏み出した。再び間合いを少しずつ詰めようとしている。

 「死んでもらうぜ」リザードマンがあざ笑う声をあげた。

 「『火球衝撃ファイアーボール』!」メルルの声と共に、小さな火の玉がリザードマンの顔に直撃した。顔に火を受けたリザードマンは顔を覆って悲鳴を上げた。

 「『火球衝撃ファイアーボール』! 『火球衝撃ファイアーボール』! 『火球衝撃ファイアーボール』!」

 メルルは連続して呪文を唱えた。

……呪文の詠唱時間が短い魔法で連続攻撃か。

 レトはメルルに目をやりながら、リザードマンに突進した。まだ、顔を覆っているリザードマンの足元から剣を振り上げる。

 ガアンと大きな音を立てて、リザードマンの左腕が上に跳ね上がった。そこで空いた左脇に剣を叩き込む。

 「ちぃっ!」

 リザードマンは右側へ身体ごと飛び跳ねて小屋に激突した。衝撃で小屋の壁がめりめりと音をたてて裂けた。

 「やった!」メルルが叫ぶと、

 「違う! 避けられた!」レトも叫んだ。

 リザードマンはすばやく後ろへ飛び下がると、構えているふたりを交互に目をやった。メルルはレトのかたわらへ駆け寄ると、再びリザードマンに向けて杖を構えた。

 「くそッ。俺がこんなのにここまで手こずるなんて、いったい何の冗談だ」

 リザードマンは両腕を胸の前で構えながら、一歩、また一歩と近づき始める。レトは剣を握りなおした。メルルは杖をくるんと回した。

 「ふたりとも伏せろ!」

 突然、レトの背後から大声が飛んできた。レトは振り返ろうとするメルルの頭を押さえると、そのまま地面に倒れこんだ。倒れたふたりの上を、空気を切り裂くようにボウガンの矢が飛んでいった。

 矢のほとんどはリザードマンに当たらなかった。当たりそうな矢は、両腕の小手で弾かれた。

 レトは地面に伏せたまま後ろに目をやると、ヴィック兵長の大柄な姿が見えた。兵長はボウガンを構えた兵士を数名従えて駆けつけたのだ。おそらく、先ほど逃げた誰かが通報したのだ。

 リザードマンは、まだ離れたところにいる兵長たちと、地面に伏せているレトたちと交互に目をやっていたが、無言で身体の向きを変えると林に向かって走り出した。林までかなりある距離を一気に駆け抜け、そのまま林の中へ姿を消したのだった。

 「逃げられちゃう!」メルルは叫んで立ち上がった。

 そこをレトが制した。レトもすでに立ち上がっていた。

 「ダメだ、追ってはいけない」レトは剣を腰に戻しながら言った。

 「どうしてです! このままでは!」

 レトはすぐに答えず、後ろを振り返った。

 「ヴィック兵長! 周りの皆さんも林の中へ追うことはしないでください!」

 ようやく、ふたりのもとに駆けつけた兵長は息を切らせながら、

 「なぜだ、探偵?」と尋ねた。

 「この林の中ではすぐ見失う。林の中は月明かりも届きにくいですから。しかも今夜は曇りがちで、こちらにとって視界がかなり悪いです。でも、奴は鼻が利くのでこちらの位置がつかめます。つまり、奴はこちらが見えないところから反撃できるのです」

 「おい、聞いたか。林には入るな」兵長の声に、林に向かっていた兵士たちが引き返す。

 メルルはレトの冷静さに、自身の興奮が冷めていくのがわかった。

 あたりは先ほどの戦闘が嘘であるかのような静けさに包まれている。もう近くにリザードマンがいる気配は感じられない。

 「考えが足りなかった。まさか、リザードマンが姿を現すなんて予想していなかった」

 レトの声に悔しさがにじんでいた。

 「もっと早く、リザードマンの行動を予測できていれば……」

 そこでようやく、レトはメルルに顔を向けた。

 「君は大丈夫か? かなり強く打ち付けていたはずだが」

 「いいえ、レトさんがかばってくれたから、私に大した傷はありません」

 「さっきは君の魔法に助けられた。ありがとう」

 そのことではてっきり小言を言われるものと思っていたので、メルルはびっくりした。

 「怒ってないんですか?」

 レトは首を左右に振った。「感謝の気持ちしかないよ」

 そこへバサッ、バサッと大きな羽音が頭上から飛んでくると、レトの肩にカラスが舞い降りた。

 「アルキオネも大丈夫かい?」レトが声を掛けると、カラスは翼を広げながら「カァア」と元気よく鳴いた。

 「おい、探偵。どういうことなんだ。ここで何が起こった?」

 やっとふたりのそばに到着した兵長が、レトに話しかけた。

 「偶然、リザードマンが現れたのに行き当たったのです。あの小屋の陰で」

 「なんで奴がそこに?」

 「それは……」レトは歩き出すと、草むらに足を踏み入れた。あるところで身をかがめると、リザードマンが置いた袋を手に身体を起した。

 「こいつを手に入れるためです」

 「それはいったい何だ?」

 「『月呼草』の種が入っているはずです」

 「『月呼草』の種?」

 レトは小屋に顔を向けた。小屋は先ほどの戦闘でひしゃげていた。

 「リザードマンはあの小屋の陰で『月呼草』を栽培していたんです。昨夜咲いていた花が、今夜種を飛ばすと見込んで採取にやって来ていた、というわけです。僕はそれをきちんと予想できていなかった。奴と出くわしてしまったのは僕の失敗です」

 「メルルちゃんも探偵についてきたのかい?」兵長はメルルのほうを向いた。その声にはいくぶん責める気持ちが含まれているのをメルルは感じた。

 「わ、私は。いえ、私も種を採りに来たんです。『月呼草』は花を咲かせた次の夜に種を飛ばすと聞いていたので」

 メルルはレトに顔を向けないように言った。「探偵さんとここで会ったのは偶然です」

 「やれやれ、あんまり心配かけさせないでくれよ」

 兵長はあきれたように両手をあげた。そして、再びレトのほうを向いた。

 「あんたもだ、探偵」

 「先ほどは助かりました」レトは兵長や兵たちに向けて頭を下げた。メルルも慌てて頭を下げた。

 「しかし、遠目では、あんたがリザードマンからまともに一撃食らっていたようだったが、本当に無事なのかい?」

 レトは再び通りに戻ると、左腕を持ち上げてみせた。

 「この鎧が盾になってくれました」

 続けて剣を掲げてみせる。

 「そして、この剣も」

 「何だ、その剣は? ちょっと見せてくれ」

 兵長はレトから剣を受け取り、月の明かりに照らしながらよく見ようとした。

 「……これは、魔法で鍛えられた業物か」

 兵長は低い声で言った。

 「探偵ってのは珍しいものを持てるんだな。こいつは硬さも丈夫さも特別なものだ。たしかに盾代わりにも使えるな」

 だから、あのときリザードマンの直撃にも折れずに耐えたのか。メルルは納得した。

 「前から気になってはいたが、その左腕だけ鎧をしているのはなぜだ? しかも、

身体に合わねぇぐらいごつい鎧だが」

 レトは自分の左腕に目をやった。

 「これはですねぇ……。戦争で大けがをしたんです、左腕がぼろぼろになるぐらいの。幸い、腕の機能は回復しましたが、皮膚の表面は空気にさらすだけで腐るほどの後遺症を負ってしまったんです。この鎧は、いわば皮膚代わりのものなんです」

 「その鎧も魔法仕立てか」兵長はレトに剣を返しながら尋ねた。

 「ええ。お陰でリザードマンの攻撃にも耐えられました」

 レトは剣を腰の鞘に差し戻した。

 「……そうか。ところで、ほかにもいろいろ聞きたいことがある。が、それは俺たちの詰所で聞かせてもらいたい。ホース部隊長も聞きたいはずだ。来てくれるよな?」

 「もちろんです」レトは応じた。

 「あんたもだぜ、メルルちゃん」

 「何でもお答えします」メルルは素直に言った。

 気がつけば、あたりは騒々しくなっていた。リザードマンを見て逃げ出した人々が大勢を引き連れて戻ってきていた。周りの兵たちは、戦いがあった現場に近寄らせまいとしてその人々と押し問答を始めたのである。

 遠巻きに騒ぎを見ている人々もいた。その中にファレル神父の姿があるのを、メルルは気づいた。

 「これじゃ、トカゲ野郎を追っかけるのもままならねぇ。おい、ここの野次馬を帰らせろ。巡回しているほかの者たちに怪しいものがいてもひとりで近づくなと言って回ってくれ」

 兵長は兵たちに指示を出すと、「帰った! 帰った!」と大声を出しながら、街の人々に向かって歩き出した。しかし、街の人々はすぐに動き出す様子が見られない。誰もが何か問いたげな表情で兵長たちを見つめている。

 レトは兵長とは違う方向へ歩き出した。どちらへ行くのだろうとメルルが見ていると、レトは神父に向かって歩いているようだ。

 「神父様」

 レトは神父にお辞儀をした。

 「何の騒ぎですか、これは?」

 神父はあたりを見回しながら尋ねた。

 「今、詳しくはお話しできません。ですが、すぐ何らかの説明があるでしょう」

 レトは具体的な説明を避けた。

 「神父様に声を掛けさせていただいたのは、実はお願いしたいことがあるからです」

 「お願い? 私にできることですかな?」

 「はい、実は『聖なる水』を少し分けていただきたいのです」

 「ほう、『聖なる水』を」

 「はい、教会で地下の井戸へ通じる扉を見ましたから、『聖なる水』が湧いていることは知っています。あの水を使い、試してみたいことがあるのです」

 神父は腕を組んだ。少し考えているようだ。

 「……それは、あれかね。カーラさんが殺された件と関係があるのかね?」

 「ええ。捜査で必要になったんです」

 神父の当惑した表情を見ながら、メルルも首をかしげた。『聖なる水』を捜査に使う?

 「……わかりました。お役に立てるのであればご用意しましょう」

 「ありがとうございます」

 レトは頭を下げた。

 「さて」

 レトはメルルを振り返ると、手にした麻袋を掲げるようにあげた。

 「これに手掛かりがあればいいんだが」

 「だって、種しか入っていないんでしょう?」

 メルルは不思議そうに言った。リザードマンが残したものだが、こんなありふれた麻袋にリザードマンを追い詰めることのできる何かがあるようには思えなかった。

 「だからって調べない手はないよ」

 レトは空いている手でメルルの肩をぽんと叩いた。

 「行こう。あっちで兵長が待っている」

 「私、あの……」

 メルルは立ち尽くしている。兵長に言われているから、一緒に詰所に行かなければならない。しかし、リザードマンに出くわす前の、あの気まずかった思いがよみがえってきて、レトと同行するのがためらわれたのだ。

 その様子に気づいたレトも立ち止まり、メルルを見つめた。すると、今度はレトも気まずいような表情になり、視線をそらしてしまった。レトは視線をそらしたまま口を開いた。

 「今まで、君にはこのことに関わるなと言い続けた。そうでないと君に危険が及ぶことがあるからだ。実際、そうだったしね」

 メルルはうつむいた。

 「でも、状況が変わった。君はリザードマンの目撃者になってしまった。今後、奴が君を狙う可能性がある。君は僕たちと一緒にいたほうが安全だ。これからは一緒に行動しよう」

 「……一緒に」

 メルルは口の中でつぶやくと、ハッと顔をあげてレトを見つめた。

 「私、レトさんのお手伝いをしてもいいですか? ただ一緒にいるのはイヤです」

 レトはすでにメルルに背を向けて歩き出していた。しかし、顔だけを少しメルルのほうへ向けた。肩のカラスもメルルを見つめている。

 「いいも何も。さっきだって一緒に戦ったじゃないか」

 レトの答えに、メルルはようやく笑顔になった。

 メルルは「はい!」と元気な声を出すと、レトの後を追って小走りに駆け出した。


 「ふうん……」

 ふたりが立ち去る後ろ姿を、通りの端から見つめているふたつの影があった。そのふたりは先ほどの戦いをずっと見ていたのだ。

 「ねぇ、ゴーゴリー。あんた、あれをどう見る?」影のひとつは若い女の声だった。

 「は。男は手練れに見えましたが、あれはおかしいですね。腰が引けているというか、本気で踏み込んでいませんでした」ゴーゴリーと呼ばれた男は静かに答えた。背は女より頭ふたつは高く、がっしりした体格だ。

 「そうかい。街中で魔物を見掛けるなんて思わなかったけど、あいつら、意外と冷静に戦っていたようじゃない? まるで、あの化け物がずっとこの街をうろついているのを知っていたみたいに」

 女は腰に手を当てて、なにやら楽しげにつぶやく。

 「何か儲け話につながりそうって気がするわよね、今のは。で、こういうのってさ、このことに詳しそうな人と話をするのが一番よね」

 「お嬢、どうなさるつもりで?」

 「市長、ホストレイク様にお会いしようって話さ。これには市長が噛んでいる」

 「その根拠は何で?」

 ゴーゴリーは尋ねた。

 「考えてもみな。駐屯兵があいつらをまったく不審者として扱っていない。どこか素性の知れない冒険者じゃないってことさ。駐屯兵にあいつらのことを言い含めることができるのって、部隊長か、またはその上の市長かってことになるよね。リザードマンが街で暴れているなんてこと、市長が知らないままで駐屯兵が動くなんてないんじゃない? だから、市長には話を聞く必要があるのさ」

 女の言葉に、ゴーゴリーは深くうなずいた。「なるほど、さすがお嬢」

 「……それはそれとして、さっきから、あたしを『お嬢』って呼ぶんじゃない!」

 女はきれいな回し蹴りをゴーゴリーの腹に叩き込んだ。

 男は「く」の字になりながら、うめくように「申し訳ありません、お嬢」と言った。


15


 「さて、改めて詳しい話を聞かせてもらうぜ、探偵。その前にちょっと待ってろ。もうすぐ、部隊長がお見えになる」

 駐屯詰所に到着し、レトとメルルは兵長に連れられて、ある一室へと通された。大きな長方形のテーブルを中心に6脚ほどの椅子が囲んでいた。どうやら少人数の会議や打ち合わせに使う部屋のようだった。兵長に促され、レトとメルルは並んで椅子に腰かけた。兵長のすっかり嫌気がさしたような顔つきに、メルルは恐縮して縮こまった。

 間もなく部屋の扉が開くと、ひとりの男が入ってきた。その男は老年に差し掛かっているようだが、体つきはがっしりとして若々しい印象だった。顔もしわが少なく、太い眉が特徴的だった。ケルン駐屯兵団、ナサニエル・ホース部隊長が現れたのである。

 兵長が立ち上がって敬礼すると、レトも立ち上がり敬礼をした。メルルは立ち上がってみたものの、もじもじとただ頭を下げるしかできなかった。

 部隊長はゆっくりと手をあげてうなずいた。「諸君、掛けたまえ」

 部隊長が腰かけてから、三人は静かに腰を下ろした。

 「さて、説明してもらおうか。西通り10番地で何が起こった?」部隊長の声は、低くはあるがあたりによく通る声だった。

 「ご説明いたします」

 レトは立ち上がると、リザードマンが現れるまでの経緯と、戦闘の様子を詳しく説明した。説明を聞いている間、部隊長は終始無言で腕を組んで目を閉じていた。

 「で、それが、リザードマンが落としたという袋か」

 話が終わると、部隊長は目を開いてテーブルの上を顎で指した。

 四人が座っている大きな木のテーブルには、古ぼけた麻袋がリザードマンに口を縛られた状態のままで置かれていた。かたわらには、ペンと記録用紙の束が置いてある。

 「ええ、まだ中を改めてはいませんが。ただ、たぶん『月呼草』の種しか入っていないはずです」

 レトは腰を下ろしながら答えた。

 「確かめるんだよな?」兵長の声には少し期待感がにじみ出ていた。結局、これだけしかリザードマンに関わるものが手に入れられなかったからだ。

 「その通りです」レトはそう言うと、麻袋を縛っている紐をほどき始めた。すると、レトの手の動きが止まった。じっと紐の結び目に視線を注いでいる。

 「どうかしたんですか」メルルが心配そうに尋ねると、レトは「いや」と口の中で答え、作業を再開した。

 やがて、紐が外され、袋の口が開いた。メルルは中をのぞきこもうと首を伸ばした。

 袋の中身は予想通り『月呼草』の種しか入っていなかった。それらは白い綿毛に包まれていて、少しの空気の流れでもスッと飛んでしまいそうなほど軽かった。

 「種しかないですねぇ」メルルは残念そうな声をあげた。

 「手掛かりなしか」兵長も落胆したようだった。

 「まったく手掛かりなし、というわけでもないようです」

 レトは落ち着いた声で言った。部隊長の太い眉がぴくりと動いた。

 「何かね?」

 「この袋はもともと別のものが入っていたんです。何だと思います?」

レトは兵長のほうを向いた。

 「俺にゃ、わかんねぇよ」兵長は、はやばやと降参した。

 「待ってください。この袋、中からいい香りがします」気づいたようにメルルが声をあげた。

 「『月呼草』のにおいじゃねぇのかい?」兵長はすでに興味なさげだった。

 「『月呼草』の香りじゃありません。……これは、レモングラスの香りですね?」

 「レモングラスだぁ?」兵長は不思議そうな声をあげた。

 「リザードマンは、こ洒落た料理でもたしなむってか」

 「そうじゃないですね。これは元々レモングラスが入っていた袋を、『月呼草』の種入れに流用したんです。では、このレモングラス入りの袋はどこから手に入れたんでしょう?」

 「……ゲフ・バークさんからですね」メルルが答えた。サム・バークから、ゲフ・バークはレモングラスが特産のカージナル市から商売に来ていると聞いていたからだ。

 「そ、そんな袋、どこにでも手に入るだろう」

 「こちらをご覧ください」レトは袋のうら側を指さした。

 「カージナル市の紋章が入っています。これは市が認可した商品だけを入れる袋なんです。さらに、紋章の下には認可を受けた業者の名前が入っています」

 「……ゲフ・バーク。南門衛士、サム・バークの遠縁で、最近行方不明になったという男だな」

 兵長は袋の印字に顔を近づけてつぶやいた。

 「なるほど、これにはケルンの販売認可の刻印が入っていない。つまり、これは流通していない袋なんだな」

 「ゲフ・バークさんは、ここケルンのあとにレイモンド市へも商談に行くって話でした。この袋に入っていたはずのレモングラスは、レイモンド市に持っていくためのものだったんでしょうね」メルルが補足するように付け加えた。

 「おそらく、ゲフ・バークさんはすでにリザードマンの餌食になっていると思います。リザードマンはゲフ・バークさんをさらった痕跡を残すまいと、持ち物すべてを奪い取ったが、役に立ちそうなものは手元に残したのでしょう」レトは説明した。

 兵長は天を仰ぎ見た。メルルもつられて天井を見上げた。長い年月でしみだらけになった木の天井だった。

 「どうやら、ここでの行方不明事件には、かなりの確率でリザードマンがからんでいると見るべきだな。で、探偵。街の中の誰がリザードマンかわかりそうか?」

 「今は特定できる状況じゃありません」

 レトは静かに答えた。

 「じゃあ、どうする気かね?」

 そこで部隊長が話を挟んだ。

 レトは部隊長へ身体の向きを変えた。

 「実はお願いがあるのです。明日の昼までに、教会に集めていただきたい人たちがいるのです」

 レトはテーブルのペンに手を伸ばすと、記録用紙に何やら書き込みを始めた。メルルはそっと隣からのぞいて見る。

 「この人たちです」

 レトは書き付けた紙を兵長に手渡した。兵長は受け取った書き付けに目を通した。

 「おい、まさか、この中に」

 「いるかもしれない、と考えています」

 メルルは兵長の手からそっと紙を取って、書いてある名前を読んだ。

 「ホストレイク市長のお名前も入っていますよ」メルルは驚いたように言った。

 「この方も疑わしいのですか?」

 「例外を作らないためだけです」

 「おい、根拠は?」兵長がうろたえたような声を出した。

 部隊長は冷静だった。

 「何か絞り込む手掛かりでもあったのかね?」

 「メルルさん、君は僕とリザードマンが戦っていた時のことを覚えているかい?」

 「大体は」メルルはうなずいた。

 「リザードマンが最初の一撃を加えた後、僕たちの姿を見たあいつは何て言った?」

 メルルは思い出そうと頬に人差し指を当てた。

 「うーんと、たしか、こう言ってました。『近くに人間の匂いがするかと思えば……』」

 「……その後だ」

 「……その後、ええっと、『探偵か。こんなところで張ってやがったか』」

 言いながらメルルは気づいた。

 「あのリザードマンはレトさんを『探偵』と呼びました。レトさんが探偵だってことを知っているんです!」

 「探偵のことを知っている?」兵長が驚きの表情を見せた。「そんな、まさか」

 「僕はこの街には初めてやってきた者です。僕が探偵であることは、ごく一部の者しか知りません。それはカーラさんの殺害現場に集まっていた者。書き付けの最後に入れた、『西通り10番地の住民』はそれに該当します。そのほかは一部の衛士、市長、市長の執事。その他の方がた。書き付けにあるのは皆、僕が探偵であることを知っている者たちです」

 レトはひと息つけると、

 「そして、この中の人だけが、あのときの僕に対して『探偵か。こんなところで張ってやがったか』なんてことが言えるんです」

 兵長は沈黙して腕を組んだ。やがて、重々しく口を開いた。

 「書き付けの中にはタック、ギドー、ベックの名前もあった。たしかに、リザードマンが現れたあのとき、駆けつけた俺たちの中にあいつらはいなかった」

 兵長はメルルから書き付けを取り戻すと、その端を指で弾いた。

 「しかし、だ。俺の部下たちも疑えって言うのか」

 「先ほども申しましたように、例外を作らないためです」

 「しかし、ホーエンム卿と神父の名前が見当たらないぞ」兵長はまだ不満そうだった。

 「あの方がたは、その例外になるじゃないか」

 「あの晩、ホーエンム卿は神父を招いて晩餐会を開いていました。それから、自分の馬車で神父を教会まで送っているときに、騒ぎを聞きつけてあそこまで近づいて来たとのことでした。しかし、実際はどうなのか、屋敷を出てから事件現場まで、馬車を走らせた場合に掛かる時間を調べました。まずは、晩餐会の同席者や執事の方がたから聞き取りをして、ホーエンム卿が屋敷を出た時間を確認しました。そこから事件現場まで掛かる時間を測った結果、ホーエンム卿がカーラさんを殺すのは時間的に不可能だとわかりました。それは馬車で同席していた神父も同様です。お互いがお互いの無実である証人になっているんです。先ほどの書き付けは考えつく範囲で、除外できるものは除外するように心がけてはいます。それでも、これだけの人数になってしまっています。申し訳ないとは思うんですが、実のところ、誰がリザードマンなのか、手掛かりはそれだけしかないんです」

 レトは、ホーエンム卿がリザードマンである可能性もすでに追及していたのである。メルルは思っている以上にレトが捜査を進めていることを知った。

 「で、疑わしいものみんな集めて、その衆目環視のなか、正体を暴いてやろうって魂胆か」

 「それでうまくいけばいいんですが」レトの沈んだ声に兵長は気づいた。

 「何だ、自信ないのか?」

 「自信ありと言えば、嘘になります。あくまで強い可能性で考えている段階なのです。確信が持てないでは、そちらも協力しがたい話だと思いますが」

 「それでも、やるんだな。これを」兵長は書き付けを指さした。

 「ええ。しかも、これには安全に配慮する必要があります。それも併せてご協力をお願いしたいんです」

 兵長はやれやれといった表情になった。

 「だいたい分かった。いいだろう」ほとんど会話に加わらなかった部隊長が口を開いた。

 「部隊長殿、よろしいので?」兵長は不安そうな声を出した。

 「リザードマンがこれまでにレト君と顔を合わせていた中にいる、ということは間違いないだろう。そこからどう絞り込むかが問題だが、レト君には何か策があるらしい。一方、我々はリザードマン探しに有効な策を考えついていない。さすがに、無策のままでいるわけにいかないしな。ならば、乗ってみようじゃないか、その策に。どうかね?」

 「わかりました。では、手配を進めてまいります」

 兵長は敬礼すると、部屋を出て行った。部隊長は黙ってうなずくと、静かに兵長を見送った。そして、兵長の姿が見えなくなると、レトたちのほうを向いた。

 「さて、今夜もだいぶ更けてきた。レト君は、今夜の宿は決まっているのかね?」

 「いいえ、実は取り損ねました」

 「そうかね。なら、今夜は仮眠室で休みたまえ。そこのお嬢さんもここに泊まりなさい」

 「え、でも」メルルは戸惑った。

 「リザードマンの次の行動は読めん。もしかすると、目撃者である君たちを狙うこともあり得る」

 メルルはどきりとした。レトにも指摘されてはいたが、こうしてほかの人物にも同じ指摘をされると、自分の危ない立場が現実味を帯びてくる。

 「……あの、私が泊まる部屋って……」

 「ああ、安心したまえ。この駐屯詰所は女性兵士も宿直するところだ。女性用の仮眠室も備えてある」

 「そうですか。では、お言葉に甘えさせていただきます」メルルはほっとしたように胸をなでおろした。

 部隊長は満足そうにうなずくと、ゆっくりと立ち上がった。レトたちが立ち上がろうとすると、部隊長は鷹揚に手で制した。

 「部屋の案内をするものをここに呼んでおこう。しばらく、ここで待ってくれたまえ」

 部隊長は扉の取っ手に手を掛けたが、すぐに開けようとせずにレトたちを振り返った。

 「ルチウス王太子殿下肝いりの新組織。なかなか面白そうじゃないか。私は期待させていただくよ」

 メルルはなぜか、穏やかな笑みを浮かべている部隊長に、ぞくりとしたものを感じた。部隊長の鋭い目が笑っていないように見えたからである。


16


 翌朝、レトとメルルはカーラの店に戻っていた。メルルが着替えをしたかったこともあるが、一晩無人にした店の様子が気になったからだ。メルルが店に戻りたいと申し出たとき、兵長は渋い顔をした。そこへレトが護衛すると申し出ると、「探偵がついてくれるなら……」と許しが得られたのだった。

 レトは店に入る前に、メルルに念のため、出かける前と変わった点はないか確認させた。メルルが異常のないことを確認すると、レトが先に店に入り、さらに奥の部屋も確かめた。店には誰も侵入した形跡はなかった。そこで、ようやくふたりはほっと息をついた。

 「そこでお休みください。お茶をご用意します」メルルが台所に入りながら言うと、

 「ありがとう」とレトも応じた。

 気がつけばずいぶんくだけた調子で話しをしている。メルルはそれがうれしくなった。

 「何か食べるもの、要ります?」やかんに火を掛けながら、メルルは尋ねた。

 「……言われてみれば、昨日の昼から何も食べていない」

 レトの疲れたような声が聞こえてきた。

 「じゃあスープを用意しますね。私、料理が得意ってわけじゃないんですけど、このスープだけは先生に褒められているんです」

 メルルは張り切ったような声で返すと、鍋にも火を掛け始めた。スープは野菜を切ったものをとうもろこしの粉で煮込んだ、甘みのあるものだ。身体も温まるし、疲れもとれる。

 スープのほかにパンも添えることにした。

 メルルが盆にお茶と料理を載せて部屋に入ると、レトは窓際に椅子を持ってきて、外をうかがいながら座っていた。メルルはレトのそばにあるテーブルに盆を置いた。

 「お食事、ここに置いておきますね」

 「ありがとう」

 レトは礼を言うと、テーブルの上に手を伸ばした。メルルはそれを見届けると台所に戻り、自分の分を持ってきて同じテーブルの上に置いた。メルルがスープを口にしようとしながらレトのほうを見ると、レトは静かにパンを口に運んでいる。しかし、その様子はぎこちなく、まるで食事に専念していない。一方で、カラスは盛んにスープの皿をつついて、満足げに食事をしている。

 「どうしました? 何か気になることが?」

 レトは口に運びかけたパンを皿の上に戻した。

 「どうも、この事件には不可解なことがある」

 「不可解なことですか?」

 メルルはスープの入ったスプーンを皿に戻して尋ねた。

 「今回、リザードマンの行動は失敗だらけだ。カーラさんを狙ったとき、周りに目撃者となりうる人影がないか確認しなかった。だから、カーラさんの悲鳴で僕たちはすぐ現場に駆けつけられた。僕たちがそれだけ近くにいたからだ。人知れず『狩り』を行なうのであれば、周辺を警戒するのは当然だろうに。目撃者が出れば、『狩り』が続けられなくなる」

 「今回、たまたまだったんじゃ……」

 「だとすれば、これまでが鮮やかすぎる。事実、僕たちはゲフ・バークさんの生死を直接確認できていない。死体が見つからないからだ。リザードマンは人間ひとりをこの街から消してみせているんだ」

 「全部、食べちゃったんじゃ……」

 レトはじろりとメルルを見る。メルルは姿勢を正して、レトの話を聞くことにした。

 「僕たちが、牛に豚、鳥や魚を食べる際、必ずさばくよね?」

 「骨を取ったり、内臓を取り除いたり、ですか?」

 レトはうなずいた。

 「リザードマンが人間を食べると言っても、頭から丸ごとばりばりと食べるわけじゃない。髪や骨はもちろん、人間のはらわたは臭くて食べられないそうだ」

 「リザードマンから、そんな話を聞いたことがあるんですか?」メルルは驚いたように声をあげた。

 「リザードマンすべてが人喰いじゃないよ。ただ、ほかにも人喰いの魔物はいる。アークリザードの食性については、人喰いの性質を持たないリザードマンから聞いた話だ」

 「レトさんの交友関係って広いんですね」

 「そのリザードマンは友達ではないよ」レトはにべもなく答えた。

 「レトさんはリザードマンの食べ残しが見つからないことも不可解に思ってるんですか?」

 レトはうなずいた。

 「もし、カーラさんへの襲撃が首尾よくいったとき、世間ではこの件をどう見ることになる? 当然行方不明者がひとり増える。まさか、魔物に襲われて食べられているなど誰も想像しないはずだ。『狩り』を続けたいリザードマンにとって理想の状況になる。おそらく、リザードマンはカーラさんを仕留めたら、そのまま隠れ家まで運んで、痕跡ひとつ残さずにカーラさんを消してしまっていただろう。そのためには確実性が高くないといけない。目撃される危険がある場合は、その獲物をあきらめるという選択もしなければならないし、実際そうしていたはずだ。でも、あのリザードマンは目撃こそされなかったものの、その危険が高い状況でカーラさんを襲い、僕たちに悲鳴を聞かれたせいで、カーラさんをあきらめて逃げ出すしかなかった。それで、食べ残しどころか『死体』という犯行の証拠そのものを残してしまったために、『犯人はリザードマン』という、もっともバレてはいけない事実まで明るみにしてしまった」

 レトはそこでお茶に手を伸ばした。

 「下手すぎるんだよ、このリザードマンは。一方で、これまで襲った人々の痕跡は何ひとつ残していない。いわゆる食べ残しさえ見つかっていない。この街から人ひとり消すのは、実はそう簡単なことじゃない。この事件は、カーラさんを殺したものを捕えさえすればいいってものじゃないようだ。実のところ、それがずっと引っかかって、あのときリザードマンを仕留めるのをためらってしまった」

 「手加減したんですか?」メルルは思わず声が大きくなった。

 「手加減なんてできる相手じゃないよ。ただ、あと一歩踏み込むことができなかったんだ」

 メルルはレトの顔をぼうっと見つめた。

 あのとき、メルルは必死で戦っていた。それこそ、ほかに何も考えられないほどに。それなのに、レトはメルルが思いもしないところを考えながら戦っていたのである。

……このひと、いったい何が見えているの? この事件に何か裏でもあるって言うの?

 「この事件は、単なる犯人捜しでは終わらない。出来れば、あのリザードマンは生け捕りにして、いろいろ聞き出す必要がある。そうして、あの事件の背景にあるものも解き明かさなければならないと思うんだ」

 レトは話を締めくくると食事を再開した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ