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夜咲く花は死を招く chapter2

Chapter 2


7


 市長の屋敷に向かうと言ったものの、それは楽な話ではなかった。市長の屋敷は街の北のはずれにあった。しかし、事件の現場は西はずれの方角だったため、三人は屋敷に着くまでずいぶん時間が掛かってしまったのだ。「私も行く」と言ったものの、人通りのない街を歩くのは、レトや駐屯兵士が一緒でも心細いものだった。メルルはレトのマントのすそをぎゅっと握ったまま歩いていた。レトはそのことに気づいているはずだったが、邪険に振り払うこともせずにメルルの好きにさせていた。

 「さすがに歩き疲れましたね。探偵さんは大丈夫ですか?」

 メルルは声だけは明るく話しかけた。

 「僕は大丈夫です。戦争中は森の中を一晩中行軍していたこともありましたから」

 「戦争中って、あんた、少し前に『討伐戦争』に従軍していたって言ってたな」

 背後を歩いていた兵士が声をあげた。メルルも聞きたいと思っていた話だ。

 「たくさんの魔族と戦っていたんですか?」

 「ええ。戦っていました、多くの魔族たちと」

 「どこの戦線にいたんだ? 俺たちはここの守りのため、戦場には出なかったんだ。実際に戦っていた者に会うなんて初めてだ」

 「……どこの戦線、と言われれば、中部戦線、と呼ぶことになるんでしょうか」

 少し上を見るようにしてレトは答えた。

 「すみません、正確にはわかりません。あの戦争でどこそこ戦線なんて表現を聞いたことがなかったので」


――『アルタイル討伐戦争』。

 そう称されるこの戦争は、2年前に起こった魔国マイグランとの戦いだった。正確にはアルタイルという、魔王を支える『四侯』と呼ばれる中心人物のひとりが起こしたものである。どういうわけか、残りの三侯も魔王もこの戦いには加わらなかったので、アルタイル個人とギデオンフェル王国との戦い、という図式になっていた。多くの犠牲を出したこの戦争は、アルタイルを討伐して終わった、と言われている。しかし、四侯の一角を崩したとはいえ、魔王も残りの三侯も健在で、今度は彼らが攻め込んでくるのではないか……。王国にはそんな緊張した空気が漂っていた。


 「なにか手柄を立てたのかい?」兵士はまだ興味があるようだった。

 レトは振り返ると、笑顔で「まさか」とだけ答えた。それで、この話は終わりになった。

 それからは、三人は無言のまま歩き続け、ようやく市長の屋敷に着いたころには、月もだいぶ傾いていた。

 「やっと着きましたね」さすがにメルルから疲れた声が漏れる。

 「お疲れさまでした」レトはねぎらいの言葉を掛けた。その声には疲れが感じられない。森の行軍で慣れているというのは嘘ではないようだ。

 屋敷の門は固く閉ざされていたが、三人が近づくと、重々しいきしり音を立てながら開いた。どうやら屋敷の誰かが門の内側で待っていたようだ。

 「レト様ですね?」門の陰から現れたのは、黒い服に身を包んだ年老いた執事だった。彼はいんぎんに頭を下げると道をあけ、三人を招いた。

 「市長は?」レトは執事に尋ねた。

 「今はお休みになっておられます。ですが、もしあなた様が参られましたら、すぐに起こされるよういいつかっております」

 「そうですか、こちらにヴィック兵長が訪ねてらしたんですね」

 「いいえ。こちらにはホース部隊長様が参られました」

 「……そうですか」

 レトは門に入る前にあたりを見回した。市長の屋敷の周囲は、市長のものと負けず劣らず大きな塀で囲まれていた。このあたりは裕福な商人や貴族の住む区画だった。ここも、まるで何も知らないように静寂に包まれている。ひと気もないようだ。レトは門をくぐった。

 メルルは少し放心したように、レトの肩越しから見える市長の屋敷を見上げた。大きい。今、自分たちが住居兼店舗にしているところとは大違いだ。今、向かっている玄関の扉だけで、お店のてっぺんを超えていそうだ。

 その玄関は先ほどの執事が扉を開けて三人を招じ入れた。すると、屋敷の中では高価な寝間着を着た大柄な男が立っていた。

 「旦那様」執事が声をあげた。

 旦那様と呼ばれた男は大きな手をゆっくりとあげた。

 「少しは休もうと思ったのだが、まったく眠れなくてな。そんなに待たされるとも思えんかったので、ここまで降りてきたところだ。申し遅れた。私が市長のホストレイクだ」

 「メリヴェール王立探偵事務所のレト・カーペンターです」

 レトはお辞儀をした。メルルも慌てて頭を下げた。

 「どうぞ、こちらへ」

 市長に促されて、レトとメルルは応接室へ入っていった。兵士はその場に留まった。

 すると、「君も入りたまえ」市長は兵士にも声を掛けた。兵士は敬礼すると後に続いた。

 市長は三人に椅子を勧めると、さっさと自分の椅子に身を沈めた。さすがに兵士は椅子を断り、扉のそばで立っていた。

 「さてと、私の依頼は行方不明者の捜索だったんだが。その前に別の事件に関わった上に、さらにとんでもないことを口にしたそうじゃないか」

 「この街にリザードマンが潜んでいます。人の姿に擬態して、です」

 市長はふううと大きなため息をついて目を閉じた。

 「これまでの不可解な行方不明事件のいくつかは、このリザードマンの仕業かもしれません」

 「今回の一件で、街の者は皆そう思うだろうな……」

 市長の口調に、メルルは何か異質なものを感じた。困った事態が起きた。そう思っているのは間違いない。しかし、その「困った」には、メルルがこれまで思っているものとは何か違う感情が含まれているようだ。

 「君はこれをどうするつもりかね? 公表するかね?」

 「僕は探偵で、事件を解決するために動くだけです。この件を公表するなどのことは僕の職務範囲にはございません」

 メルルはレトに顔を向けた。

 「探偵さんは、このことを街の人に知らせないつもり?」

 「今のは役割の話をしたまでです」

 「でも、市長さんはどうしたらいいか困ってらっしゃるんですよ。助けて差し上げないんですか?」

 「市長は、僕の答えが聞きたくて質問されたわけではないですよ」

 「ええ? 探偵さん。何を言っているんですか?」

 メルルが食い下がると、横から市長が声をあげた。

 「レト君……と呼んでいいかな。レト君、そちらのお嬢さんは?」

 「今回、被害に遭われたカーラ・ボルフさんの身内のかたです」

 「メルルと申します」

 「この子を同行させたのは?」

 「ひとりにさせると危険が及ぶかもしれませんので、駐屯兵のかたと彼女の護衛を行なっていました。また、市長へ事件を報告する際に、補足していただけるかもしれませんので」

 細かい説明を避けるためだろう。レトはそう答えた。

 「そうかね……」

 市長は指を組みながらつぶやいた。

 「お嬢さんはどう思うかね? 今回のことを」

 メルルは噛みしめるようにゆっくりと話した。

 「正直、どこか、まだ信じられない気持ちがあります。でも、先生が殺されたのは事実です。先生の魔法の力でしたら、当たり前の相手に後れを取るなんてなかったと思うんです。その先生を簡単に殺すことができるって、誰でもできる話じゃありません。それで、探偵さんのリザードマンの仕業という説明に納得しています」

 「怖くはないかね」

 「……怖い?」メルルは首をかしげた。

 言われてみれば、カーラが死んでから今まで、悲しいとか、悔しいとか、さまざまな感情に襲われたが、怖い、という感情は湧いてこなかった。

 「今、いろいろな思いがあります。でも、怖いとか、あまり思っていないです」

 「お嬢さんはしっかりしてるみたいだねぇ」

 市長はセリフとはうらはらに、あまり感心していなさそうな、少しあきれたような口調だ。

 「街の人々がみんな、お嬢さんのようにしっかりしていれば良いのだが。おそらく、この話が広まれば、街は大混乱になるだろう。そうなると、まったく関係のないところで、余計な被害が生じるかもしれん」

 「どんな被害です?」メルルは尋ねた。

 「考えてもみたまえ。街にいる誰かが化け物なのだ。ええと、部隊長は何て説明していたかな……。そうだ、『アークリザード』だったか。見た目では、そいつが誰に化けているのか、まったくわからんのだろう? 街の人々は猜疑心に襲われる。『私のそばにいるこの者は果たして人間であろうか?』と」

 市長はそこで言葉を区切ると、舌で口の周りを湿らせた。

 「猜疑心が猜疑心を生み、やがて、疑わしい者が、疑わしいという理由だけで、街の人々に殺されるかもしれない。結局、それが本当に人間であったとしても」

 そこで、メルルは先ほど市長から感じた重苦しい空気の正体に気づいた。みんな簡単に「大混乱」と口にしていたが、具体的にどんな混乱が起きるか、メルルは考えてもみなかったのだ。市長の事態に対する考え方も思いも、自分のものとはまったく別物なのだと理解した。

 「暴動や、無差別の殺戮が起こるとまでは思っておらん。しかし、街がまったく機能しなくなる恐れは……ある」

 市長は、ふいに身体を前に傾けると、レトの顔をじっと見つめた。

 「レト君。この件は内密に調査してもらえんかね? 少なくとも、人に擬態するリザードマンがうろつき回っているなど、周りに勘づかれんようにな」

 「注意します」

 「お嬢さんも、この件が片付くまでは口外しないでほしい。人々に危険が迫っていると知らせるべきなのは、十分に承知しておる。しかし、そのことで生じる危険のほうが、もっと大きいのだよ」

 メルルは声が出なかった。そこで、ゆっくりとうなずいてみせた。

 「駐屯兵にもかん口令が敷かれることになる。そこの君も従ってくれたまえ」

 扉脇で控えていた兵士は、サッと敬礼した。

 「了解いたしました」

 「部隊長とは、すでにそういうお話しをされていたんですね」

 レトの問いに、市長は深くうなずいた。

 「そうだ。だから今のところ、カーラさんの事件は、誰ともわからん暴漢に襲われて亡くなったもの、と発表されるだろう。このお嬢さん以外で、リザードマンの話を聞いている者はいるかね?」

 「駐屯兵のかた以外では、現場近くの町医者さんですね。カーラさんの死因を確認していただいています。ただ、ヴィック兵長からすでに口止めをお願いされているそうです。あと、西はずれの教会におられるファレル神父。直接、事件の詳細は知らされていませんが、状況からある程度気づいてらっしゃるかもしれません」

 「神父であれば、口をつぐんでくれるだろう」市長は再び椅子の背に身をうずめた。

 「神父も秘密を守るのが仕事だ」

 「ですが、いつまでも秘密にするわけにはいかないのでは?」

 レトの問いかけに、市長は苦い表情を浮かべた。

 「もちろん、いつまでも秘密にはできん。レト君には、できるだけ早い解決をお願いすることになる」

 言い換えれば、レトが解決できなければ、いつまでも秘密にするつもりなのだろう。

 メルルは不安になってレトのほうを向いたが、レトの静かな表情からは何も読み取れなかった。

 「街が平穏に戻れるよう、力を尽くします」

 「よろしく頼むよ」

 市長はようやく安堵の声をあげた。

 「ところで市長。さっそく教えていただきたい話があります。今回、私たちにご依頼いただくきっかけになった行方不明事件の詳細なのですが、どちらでお尋ねさせていただいたらよろしいでしょうか?」

 「ああ、もともとの事件の話かね。それなら、正門。つまりは南門になるがね。そこの詰所にいる、サム・バークという兵士を訪ねてくれたまえ。その件は彼から詳しい話が聞ける。誰か使いをやって、話をしてもらえるよう通しておこう」

 「お願いします」

 「やれやれ、君と話ができて、ようやく私も眠ることができそうだ」

 市長は自分で肩をもみながら言った。どうやら、ほっとしたようだった。

 「こんな夜中にお邪魔して申し訳ありませんでした」

 レトは椅子から立ち上がって、頭を下げた。メルルも続いて椅子から立ち上がった。

 「いや、来てくれて助かった。君は自分の職務に専念してくれたまえ。捜査に必要なことがあれば、駐屯本部のナサニエル・ホース部隊長に申し出てくれ。先ほど、彼がここに報告に来ていたのだが、その際に君の手助けをするよう話してある。彼も協力は惜しまんと約束してくれた」

 「心強いお話です。感謝いたします」

 ふたりはそのまま扉に向かい、市長に頭を下げると応接間から出ていった。兵士も敬礼し、後に続く。市長は出ていく三人の後ろ姿に手を振ると、大きな口を開いてあくびをした。


8


――「魔法使いの弟子になりたいって言うんなら、ひとつ誓いを立ててもらわないといけないわね」

――「どんな誓いです?」

――「それはね……」


 朝日が昇ったとき、メルルは教会の礼拝者用の長椅子に半身だけ寝かせて眠っていた。日の光が窓から差し込み、彼女の顔を照らした。メルルは目を覚まし、身体を起こすと目をこすった。半ば寝ぼけまなこであたりを見回しながら先ほどまで見ていた夢のことを思い出していた。カーラに弟子入り志願をしたときの夢だ。そうだ、あのとき先生は……。

 昨夜から教会に詰めていた兵士たちは、メルルのように長椅子で寝そべっているか、あるいは座ったままの姿勢で眠っていた。どうやら、あれから教会へは交代要員が来なかったらしい。

 メルルはさらにこうべをめぐらし、レトの姿を探した。レトは彼女を教会まで送り届けた後、自分も教会で休むと言って、少し離れた長椅子に座って目を閉じた。その席に目をやると、レトはすでに目を覚ましていて、休んでいたときと同じ姿勢で名簿を読んでいるところだった。窓から差し込む朝日が、柔らかくレトを包んでいた。ページをめくりながら名簿を見つめているレトの横顔は、集中した真剣さが感じられた。その凛とした姿に、メルルは一瞬、目を奪われた。

 「レトさん、おはようございます」メルルはどぎまぎしながら、どうにか声を掛けた。

 レトはメルルに顔を向けると、

 「おはようございます」と返した。

 メルルは立ち上がると、レトの隣に腰を下ろした。

 「お貸しした名簿ですね。何かわかりそうですか?」

 レトはメルルにも見えるように名簿の向きを変えた。

 「今のところは何とも。ところで、カーラさんが昨日納品に行っていたのは、この三人です。あなたがご存知のかたですか?」

 メルルはレトが指で示した名前をよく見ようと名簿の端をつまんだ。

 「……チックさん。……サーストン先生。……マリカさん。ええ、皆さん常連のお客さまです」

 「どんな人たちですか?」

 「チックさんは中央大通りにある、仕立屋のご主人です。腰痛に悩まされていて、痛みを和らげるお薬を処方しています。サーストン先生は、この街に魔法学院の分校があるんですが、そこの教授をされています。何か持病で悩まされている、ということはないそうですが、魔法の媒介になるものを、うちの先生が調合しておられました。マリカさんは、私たちのお店の大家さんです。喘息気味だとかで、発作を抑える薬をお願いされていました」

 レトは自分のあごに手を掛けた。

 「サーストン教授は何の専攻を?」

 「『応用魔法学』だったと思います。すでに存在する魔法に、別の呪文や術式を加えて、新しい魔法を生み出す学問だそうです」

 「魔法学院の分校はどちらにあります?」

 「私たちのお店から南に下った先にあります。歩いて10分ほどですね」とメルルは答えると、「サーストン教授が何か?」と質問した。

 「『月呼草』は魔法の薬や媒介に使われる植物です。仕立屋の主人や、下宿屋のおかみに、そんな知識があるとは考えにくいです。優先的には、やはりサーストン教授から話を聞くのが一番でしょう」言われてみれば、その通りだ。

 「では、私、先にお届け予定の用事を急いですませてきます。そのあとで、教授のところまでお連れいたします」

 「そこまでしていただく必要はありません。ここから先は僕ひとりで行くことができます」

 レトが立ち上がると、メルルも急いで立ち上がった。

 「探偵さん」

 「何です」レトはメルルの顔を見つめた。静かな表情だった。一瞬、その静けさの中に冷たいものを感じてたじろぎながらも、メルルは声をあげた。

 「私、ご一緒したいんです。お邪魔はいたしません。一緒に犯人を探し出したいんです!」

 「あなたは、今日、カーラさんの葬儀があるでしょう? いつまでも僕にくっついてていいんですか?」

 メルルはうつむいた。たしかに、カーラは今日、火葬しなければならない。そうしないと、悪霊に取りつかれ屍霊化グールかするか、カーラ自身が悪霊化してしまう。この世界は死者と別れを惜しむ時間はあまりない。

 「でも、先生をあんな姿にした者を、そのままにできません! 昨夜言いましたけど、私だってやれます!」

 「かたき討ちを、ですか?」

 レトの口調にメルルはハッとして顔をあげた。声にどことなく怒りを感じたのだ。

 「僕がするのは、事件の解決であって、かたき討ちではありません。憎しみに囚われて、犯人を追うんじゃないんです」

 メルルは再びうつむいた。

 「……手伝わせてください」

 「まだ言いますか」

 「先生を殺した魔族が憎いと思います。でも、本当に、そのままにしておけない気持ちなんです。私、故郷ではずっと、何かしなきゃと思いながら過ごしていました。漠然としてますけど、何とも言えない焦るような気持ち。自分の周りのこと、この世界のことを何も知らないまま、それを当たり前って受け入れて生きていくだけの毎日。それでも、気がつくと時間は進んでいるんです。姉が嫁いでいき、次は私だ、なんて言われて……。でも、私、姉のように年頃になれば嫁ぐものって、そんな自覚が持てなくて。それが悩みと言えるものなのかもわからないまま、家の手伝いを続けていて。そんなときです。私の村に先生が現れたのは。先生は村で起きた、はやり病を治す薬を届けてくれたんです。はやり病が治まるまで村にいてくれたときに、先生は自分が魔法ギルドに所属していない、なんの後ろ盾も持たないで活動している魔法使いだって聞いたんです。自分の意志で、まっすぐに生きるために」

 メルルはキッとレトを見上げた。

 「私、そのとき思ったんです。先生のように、自分の意志で、自分で決めて生きていこうって。そのために、知らなきゃいけないことを勉強していきたいって。それで、私、先生にお願いして、魔法使いの弟子にしていただいたんです。田舎者で、素質があるかもわからない私を、先生は受け入れてくれました。ただし、ひとつ条件を出されて」

 メルルはそこで息を吸い込んだ。

「『自分のやりたい気持ちに責任を持つこと』って」

 レトは目を大きく見開いた。

 「何でもやりたいことをやっていいわけじゃない。途中で嫌になったからとか、ちょっと問題にぶつかったからって、それで簡単に放り出すぐらいなら何もやらないほうがましだって。それに、自分の意志を貫くことって、他人にぶつかっていくことだって。嫌な思いをすることなんて当たり前にある。だから、強い意志と責任感があってはじめてできることなんだって。先生はそれを誓うことができるのなら弟子になるのを許すって言ってくれたんです。私は迷いませんでした」

 メルルは、そこでカーラを横たえている台に顔を向けた。

 「私は、先生を殺した魔物を捕まえたい。次に狙われるかもしれない街の人々を守ってあげたい。私はこの気持ちに責任を持ちたいんです」

 しばらくの間、レトはメルルの横顔を静かに見つめていた。やがて、ゆっくりとため息をつくと、自分の頭を右手でくしゃくしゃとかき回した。

 「今日、あなたはするべきことがあるはずです」

 「探偵さん!」

 「だから、それらを全部終わらせたら、私を手伝ってくれますか?」

 今度はメルルが大きく目を見開いた。

 「今日、僕が調査したことは、差し支えない範囲であなたにも教えましょう。あなたは僕に、この街のことをいろいろと教えていただいたり、案内をしたりお願いします。ただ、危険に遭う可能性のあることは、手伝わせるわけにいきません。そのことは承知してください」

 途中から、メルルは、うん、うん、と強くうなずいてレトの話を聞いていた。

 「わかりました。じゃあ今から、私は探偵さんの相棒ですねっ」

 そこへバサバサッと羽ばたく音と共に、一羽のカラスがメルルの頭に舞い降りて、彼女の頭をつつき始めた。

 「え? 何? 痛い、痛い!」

 カラスはメルルの振り払おうとする手を悠々と避けると、今度はレトの肩に移った。

 「相棒は自分だって言ってるんですよ」

 レトの言葉に、メルルは驚いた声をあげた。

 「本当に相棒なんですか?」

 レトは目だけをカラスのほうに動かした。

 「特に何かをしてくれているわけじゃありませんが、ね。僕から離れないんです」

 カラスはメルルに向かって威嚇するように、「カァッ」と鋭く鳴いた。メルルは苦笑いの表情を浮かべた。

 「カラスさん、仲良くしましょ? 相棒として……」

 拒絶の意味か、カラスはぷいと横を向いた。メルルは少しムカッときた。

 「このカラスさん、名前はあるんですか?」

 「……彼女の名前はアルキオネです」

 「彼女って、この子、メスですか?」

 「そうですよ」

 カラスのオス・メスってどこで見分けるんだろう? メルルは苦笑いのまま首を傾げた。

 そこへ、奥の扉からファレル神父が姿を現した。神父は、眠っている兵士たちに目を向けた後、メルルたちに視線を移した。

 「おはようございます」

 「おはようございます、神父様」

 メルルは頭を下げた。レトは小さくうなずくように会釈した。

 「あまり休んでないようですね。まぁ、無理もないが」神父も頭を下げながら言った。それから、「お別れは済みましたか?」と続けた。

 「ええ」

 本当はまったく済んではいないが、メルルはゆっくりうなずいた。

 「棺桶には燃えるものであれば、思い出の品を故人と一緒に送ることができます。よかったらご用意ください」

 神父は優しい声で言った。

 「火葬は午後に行ないますから。取りに行く時間はありますよ」

 メルルはにっこりと笑顔になった。

 「ありがとうございます。先生の部屋に寄ってみます」

 「では、僕はこれで」

 レトはもう一度頭を下げると、出口の扉に歩き出した。

 「探偵さん」

 メルルはレトに声を掛けた。

 「レト、と呼んでもらっていいです」

 レトの答えに、メルルは嬉しくなった。仲間と認めてもらえたような気持ちになったからだ。

 「……ええと、じゃあレトさん。調査が終わったら、私の店に寄ってください。夕方までには戻っていますので」

 レトは無言でうなずくと、扉を開けた。すると、そこに兵長の姿があった。

 「ヴィック兵長!」

 メルルの声に、周りの兵士たちが慌てたように起き上がった。

 「少しは休めたかい、探偵」

 兵長はレトに声を掛けた。レトは「ええ」と短く答えた。

 「そうか。これから調査を始めるのか」

 うなずくレトに、兵長は「部隊長の命令で、あんたに協力することになった。何か指示があれば、俺に言ってくれ」と、胸に手を当てて言った。

 「ご配慮、ありがとうございます。さっそくですが、お願いしたいことがあります」

 「さっそく、何だ?」

 「昨夜、巡回していた兵士に、あの時間帯で見掛けた人物の特徴を聞いていただきたいんです。これまで怪しいと思わずにすれ違っていた可能性がありますから。もし、相手が顔なじみだったとしても、その氏名も記録してください」

 「その中にリザードマンが含まれていると」

 「可能性の話です。確かめない手はありません」

 「まぁ、そうだな。兵士たちからの話は、俺がまとめておこう」

 「よろしくお願いします」

 レトは頭を下げると、教会を出ていった。その背中に、兵長が声を掛けた。

 「おい、あんたはどこへ行くんだ?」

 レトは兵長に振り返り、右手を挙げて答えた。

 「可能性の一つを探りに、です」

 その手には、メルルが渡した名簿があった。


9


 その日のメルルは、大忙しの一日になった。

 まず、店先にカーラの死去と今後仕事を受けられない旨を伝える張り紙を用意した。それから、今日回る予定だった注文先すべてに品物を届けると、大家のマリカにカーラが亡くなったことを告げ、すぐに退去することも伝えた。マリカは大柄のよく肥えた中年女性で、いつも笑顔を絶やさない気のいい婦人だった。しかし、さすがにメルルの話には顔色を変えた。

 「それで、カーラさんは今日、火葬されるのかい?」

 「ええ、今日の午後に」

 「お身内のかたはこの近所にはいないんだよね? お知らせしなきゃいけない人は知ってるのかい?」

 「……先生からは、故郷が魔族に襲われて、ご両親と兄弟みんな亡くなったって聞いています。あの討伐戦争のころだそうです」

 「……ああ、あのころに」

 マリカはいかにも沈痛の表情を浮かべた。彼女も、あの戦争で息子を亡くしていた。息子は兵士だったのだ。

 「じゃあ、お見送りするのはあんただけかい? 私も一緒させておくれよ。私もカーラさんには助けてもらってたから」

 「ありがとうございます。先生も喜んで旅立たれるでしょう」

 メルルは礼を言うと、

 「あと、すぐ出ていくと言いましたが、まだ行先を決めていないので……」

 「なんだ、そんなこと、気にせんでおくれよ。今月の家賃はもう貰っているし、場合が場合だから、住み続けながら新しい職探しをしてもらっていいんだよ」

 メルルは重ねて礼を言い、大家のもとを後にした。

 店に戻ると、張り紙を見た数人の常連客から、今後はメルルが引き継いで薬を作ってもらえないのか尋ねてきた。できることなら彼女もそうしたいが、自分はまだまだ薬の知識が乏しく、第一、資格を持っていない。王国から薬剤師の資格認定を得られないと、こうした仕事はできないのだ。メルルはひたすらお詫びの言葉を口にしながら、頭を下げるしかなかった。常連客たちは残念そうな顔で立ち去った。

 そうしたやりとりが一息つくと、もう昼ごろになっていた。メルルは急いでカーラの部屋に飛び込むと、カーラがかつて着ていたお気に入りの服や、愛用していたペンなどを探し出して、自分の袋に入れた。思ったほど時間が掛からなかった。カーラは自分のものをそれほど持っていなかったのだ。それでも、机の引き出しからは使い古しの小さな魔法の杖を見つけていた。メルルは少し考えていたが、それは自分のポケットに入れた。

 カーラの店から教会までは歩いて30分は掛かる距離だ。メルルは少し小走りで教会への道を急いだ。

 教会へ着くと、扉の前にいた兵士が無言で教会の脇を指さした。カーラの遺体はすでに運び出されていたのだ。急いで回ると、そこは小さな広場になっていて、奥に遺体を焼くための火葬炉が鎮座していた。大きな石造りの火葬炉は、あちこちに焦げや煤が見える。その火葬炉の前には、神父、大家のマリカ、そして事情を聞きつけて駆けつけた常連客の姿があった。彼らは台の上に載った棺を囲むようにして立っている。

 「ああ、メルルちゃんが来たよ」常連客のひとりがメルルを見つけて声をあげた。

 「すみません。遅くなりました」

 メルルは袋を抱えて囲みの輪の中に入ると、棺の前に立った。棺はまだ蓋が閉じられる前で、中には白い花に包まれたカーラの姿があった。

 「一緒にお送りするものは用意しましたか?」

 神父が声を掛けると、メルルはうなずいて袋の中に手を入れた。カーラの思い出の品を取り出すと、カーラの足元に並べて置いた。自然に、メルルの視線はカーラの顔に注がれる。カーラは穏やかな表情で目を閉じており、誇張でなく眠っているようだった。

 神父は手にしていた祈祷書を開くと、祈りの言葉を捧げ始めた。それに合わせて、参列者は棺に向かって黙とうした。メルルも目を閉じて、神父の声に耳を傾けた。目を閉じると、カーラの顔が浮かんでくる。優しいが、少しそっけないところもあったカーラ。魔法の基礎はある程度教えてくれたが、実際に使う魔法はあまり教えてくれなかった。それは、「自分で学ぶべきものだから」という理由で。メルルはカーラが持っている魔道の書から、半ば独学で呪文や術式を学んできた。カーラがしてくれたのは助言程度のものだ。それでも、メルルにとってカーラは「先生」だった。魔法だけを学びたいと思って弟子入りしたわけではない。生き方や、ものごとに対する考え方なども、メルルは学び取りたかったからだ。カーラは自分の目指すすべてだった。

 気がつけば、メルルは両手をぎゅっと握りしめ、閉じた目からは涙があふれて地面にしたたり落ちていた。口は固く食いしばるように閉じている。もし今、口を開いたら、何かわけのわからない言葉を叫びだしそうなのだ。その様子に気づいたマリカが、メルルの両肩にそっと自分の手を置いた。メルルは涙をぬぐった。


10


 カーラの葬儀を終え、メルルが店に戻ったときは日もだいぶ傾いていた。夕焼けの日が、店先を朱色に染めている。そこには、肩にカラスを乗せたレトが立っていた。

 「探偵さん、待っていらっしゃったんですか?」

 「そんなには」レトは何でもなさそうに、そっけなく答えた。

 メルルはだいぶ疲れを感じていたが、レトの顔を見たとたんになぜか力が湧いてきた。

 「で、何かわかりました?」

 「中で話しましょうか」

 レトは戸口に顔を向けた。

 「そうですね。すぐに開けます」

 メルルは店の扉に飛びつくと、急いで扉を開けた。

 「さぁ、どうぞ!」

 ふたりが店に入ると、メルルはすぐに台所へ入り、カント茶を淹れるために湯を沸かし始めた。レトのいる部屋に向かって、「どうぞ好きなところにお掛けください」と大きな声をあげた。

 「お構いなく」レトの声が聞こえてきたが、「私が飲みたいんです!」とメルルは返した。

 ティーカップをお盆に載せ、店の部屋に入ると、レトは窓際の椅子に腰かけて窓からの景色を眺めていた。窓からはここの通りがよく見える。夕暮れの中で、家路を急ぐ男や、今日の宿を探しているらしい冒険者の姿が見えた。

 「探偵さん……レトさんもどうぞ」

 レトはティーカップを差し出されると、素直に受け取った。

 「ありがとうございます」

 「それで、なにかわかりましたか?」メルルはレトの近くに椅子を持ってきて、そこに腰を下ろしながら尋ねた。

 「具体的なことは何も」

 メルルは少し失望した。

 「でも約束は約束です。差し支えない範囲でお話ししましょう」

 レトはカップに少し口をつけながら言った。

 「まずは、魔法学院分校へ行き、サーストン教授に会いました。『月呼草』の話をしたのは自分だと、あっさり答えてくれましたよ。ただし、教授も人から聞いた話で、直接見たわけではないとのことです。では、誰から聞いた話かと聞くと、あの現場の小屋を使用している、肉屋のボッブスからだとお答えになりました。肉屋のボッブス。ご存知ですか?」

 「いいえ、初めて聞く名前です」

 「ボッブスが『月呼草』のことを知っているのか、教授に聞いてみました。すると、正確には彼は知らないはずだとのことでした。ボッブスは、肉を買いに来た教授に、小屋の裏で摘んだという花を見せ、この花が何という植物か知っているかと尋ねていたからです。ある夜、小屋の裏に明かりが見えたので、近寄ってみると、光る花が咲いている。何か特別なものかもしれないと、そのとき摘んでおいたという話なのです」

 メルルはカップの中を見つめたまま無言で聞いていた。

 「教授は花の形を見て、おおよそ『月呼草』だと思ったそうです。しかし、それはもうかなりひからびて、本当に『月呼草』だとは確信できなかった。本物かどうかは満月の夜に見に行くほかない。ただ、直接確かめに行くのは都合が悪くて、代わりにカーラさんに確認してもらうよう頼んだそうです」

 「どう都合が悪かったんですか?」

 「教授はラッシュビルの魔法学院に赴任することが決まっていて、明日にもここを立たなければならなかったそうです。その準備に追われていて、昨夜も分校で私物の整理をしていたそうです」

 「おひとりでですか?」

 レトはうなずいた。

 「おひとりだった、と教授は答えられました。さらに、それを証言できる者はいないとも」

 「明日にもここを離れる人が、先生に調査を頼んだんですか?」

 レトはメルルの顔を見つめた。この子は思っているより「考える」ことができる。

 「教授は街に『月呼草』が生えているなんて、半信半疑だったんですよ。街を出る準備に忙しいさなかで、不確かな話に簡単に飛びつくことができない。しかし、街中で『月呼草』が生えるのであれば、それは新発見だし、興味はある。そこで、カーラさんに依頼し、ボッブスの見たものが本当に『月呼草』かどうか、確かめてもらうことにしたそうです。彼女にとっても貴重な研究材料を、身近で手に入れられる機会になるはずだからと」

 「半分、先生に手柄を譲るつもりだったんですね」

 「ですから、カーラさんがそこで命を落とされたと知って、教授は非常に驚いていらっしゃいました。都合がつけば、自分が採りに行っていた。危なかったんだ、と震えていましたよ」

 レトはそこで言葉を切ると、カップに口をつけた。カーラが殺されたのは狙われてではなく、偶然その場に居合わせたからだったのか。メルルはやり切れない気持ちになった。

 「レトさんは、ボッブスという肉屋さんにも会いに行ったんですよね?」

 「ええ、会いました。肉屋は現場の小屋から少し離れたところにあります。ボッブスはそこをひとりで切り盛りしていました。僕が訪ねると、事件のことは知っていて、駐屯兵にもいろいろ聞かれたとこぼしてましたよ」

 「何か聞き出せたんですか?」

 「何もかもあいまいです。まず、小屋の裏で花を見つけたのがいつだったか思い出せない。昨夜は居酒屋で飲んでいたが、いつ店を出たとか、そのあとどうしていたとか、それもまったく覚えていませんでした」

 居酒屋で酔っ払っていたというのなら無理もない話だ。

 「はっきりしているのは、教授に花を見せた理由です。彼は元冒険者で、かつての仲間が『月呼草』と思われる草を、旅の途中で摘んでいたことを覚えていたそうです。たまたまあの花を見つけたとき、魔法に関わる人物なら、この植物が何なのか聞けるだろうと、摘んでおいたということです」

 だとすれば、ますますカーラは偶然殺されたことになる。これまでの話にカーラをおびき寄せる策略があったように思えない。ボッブスはカーラのことを知らないはずだった。もし、ボッブスがカーラを狙うリザードマンだとすれば、わざわざサーストン教授に花を見せるという回りくどい方法はとらないはずだ。

 メルルは顔をあげると、レトを見つめた。レトは静かにメルルを見つめている。その表情には何かほかに隠していることがあるのかわからなかった。

 「そういえば、今朝、ヴィックさんにお願いごとしてましたよね?」メルルはレトが兵長に頼みごとをしていたことを思い出した。

 「そっちは手掛かりなしでした。何人もすれ違ってはいるけれど、覚えている人物や印象に残ったできごとなどはない、だそうです」

 「捜査は進んでいるのかわかりませんねぇ」

 「そうですね。だから、あともうひと仕事してきます」

 「何です、それ?」

 「内緒です」

 「今度はご一緒できます?」

 「これは遠慮してください」レトはぴしゃりと言った。

 「あなたは探偵じゃありません。あなたと直接関係のない話には関わらせることはできません」

 レトは立ち上がって、カップをメルルに手渡した。

 「どうも、ごちそうさまでした。それでは」

 レトは店を出て行った。そのとき、肩に乗ったカラスがちらりとこちらを見たようだった。メルルは次第に暗くなる部屋にひとり残された。

 窓からそっと外を見ると、レトはまっすぐ南北を貫く大通りに向かっているようだ。

 「南門に向かってるんだ」メルルは直感で思った。昨夜市長との会話で、南門の衛士から行方不明事件について話を聞くことを、メルルは覚えていた。さっきの会話に南門の話は出てこなかった。メルルと関係のない話はしてくれないようだから確証はない。しかし、メルルは先ほどレトが『あなたと直接関係のない話には関わらせることはできません』と言ったことで、その可能性は高いだろうと思った。だったら確認する方法がある。先回りして南門に行けばよいのだ。

 メルルはそっと外へ出ると、まっすぐ細い路地に入って走り出した。南門に向かうのなら、この道が近道で、レトより先に着けるはずだ。路地は建物の陰になって、だいぶ暗くなっていた。人通りがまばらになり、いかにも寂し気な雰囲気だ。もし、物陰にリザードマンが潜んでいて、いきなり襲われでもしたら……。メルルは速度を上げて路地を駆け抜け、大通りへの道をまっすぐ斜めに突っ切った。これで、道に不案内なレトより先に南門へ着くことができる。大通りの人込みの中へ飛び込んだメルルは、ようやくそこで立ち止まってはぁはぁと息をついた。息が少し落ち着くと、南門を目指して歩き始めた。

 「何度も置いてきぼりにされてたまるかってんですっ!」

 メルルは力強く言った。


11


 南門は街の正門でもある。そのため、ほかの門より大きく、装飾も豪勢になっている。門は正面と内側それぞれに詰所があり、衛士が交代で詰めていた。夜になれば、正門以外の門は閉められる。しかし、正門も夜が更けると鋼鉄の格子が下ろされて、門からの出入りはできなくなる。それでも街に出入りしたい場合には、詰所で衛士から身体検査などを受け、身元に問題がないことを証明すれば通行することはできた。厚い城壁を挟んでいるが、ふたつの詰所は中でつながっているのだ。

 メルルはとある建物の陰から、その詰所をのぞき見ながら、どうやってあそこへ入ったものか思案を巡らせていた。出たとこ勝負で飛び出したはいいが、そこから先はまったく考えていなかったのだ。


 『不可視魔法インビジブルを使用する』――ダメだ。呪文を知らない。使えるのは火属性の魔法と、回復系の魔法。そもそも不可視魔法は伝説の魔法で、実在するのかさえ疑わしいものだ。知っているわけがない。


 『中で待たせてもらう』――レトがやって来たら絶対追い出される。これも却下。


 『こっそり忍び込む』――衛士が詰所の入り口に立って、あたりを警戒している。当然だ。殺人事件が起きたばかりなのだ。門を守る者が不審人物の警戒をしなくてどうする。メルルが忍び込む隙などありそうにない。これもダメ。


 方法が見つからないことに焦りを募らせている間に、ついにレトが通りから姿を現した。予想が当たり、本当は小躍りしたいところだが、今はそれどころじゃない。

 メルルは最後の手段、とレトの背後にスッと並ぶと、さも従者のように、レトの後ろをくっついていった。レトの肩にいるカラスがくるっと後ろを振り返ったときにはドキリとしたが、カラスは興味のない様子ですぐ正面を向いたので、メルルは静かに胸を撫でおろした。

 レトはメルルが後ろについていることを気づかないまま、詰所の前に立った。衛士がふたりを見つめる。

 「本日、サム・バークさんに面会をお願いしていた、メリヴェール王立探偵事務所のレト・カーペンターです。この時間であれば都合がつくと聞いて参りました」

 衛士はうなずいて、詰所の入り口を指さした。「話は聞いている」

 「失礼します」レトは頭を下げ、中へ入っていった。その後ろを付き人のようにメルルが続く。衛士に向かって一礼すると、衛士も黙ったまま、小さく会釈した。

 詰所の中はランプの明かりに照らされていた。向こう側へ行く道を塞ぐように鉄製の扉が閉まっており、そのわきにはテーブルと椅子が並んでいた。その椅子には初老の男が腰かけていた。男は座ったまま、空いている椅子を示しながら、「どうぞお掛けください。私がサム・バークです」と名乗った。促されるままレトが椅子に座ると、メルルは無言で首を横に振り、レトから見えない位置で控えるように立った。サム・バークは不審にも思わなかったようで、メルルに一べつもくれなかった。

 「今日の勤務は終わったんでね、時間は気にせず何でも聞いてくれ」

 サム・バークはテーブルの上で両手を組んだ。組んだ手の指に自分のあごを載せる。

 「ありがとうございます。では、まず、行方不明になったという知人のかたのお話を聞かせてください」

 レトの質問にサム・バークはうなずいた。

 「いなくなったのは、ゲフ・バーク。同じバーク家だが、私とは遠縁でね。ここで会うまではお互い存在も知らなかった間柄だ。ゲフはもともと、ここの衛士でね。いわば元同僚だ。ただ、実家の家業を継いで、商人になるって辞めたんだよ。実家は山ひとつ向こうにあるカージナル市だ。特産品ではレモングラスが有名な街さ。ここケルンは歴史ある交易の街だ。長年この街で働いていた彼は、ここのつてがあれば、新しい仕事にも役立つと考えたらしい。カージナルで仕入れて、ケルンで売るって商売さ。実際、うまくいっていたと思う。ずいぶん羽振りも良かったしね。だから、彼が消えた時、おかしいと思った。自ら失踪する理由がないからだ」

 「失踪当時の状況を教えてください」レトは話の先を促した。

 「しばらくぶりにゲフが街にやってきたのは、十日前のことだ。街に入る前に、彼は詰所に立ち寄って、私たちに挨拶してきた。そのとき、商談をひとつまとめるのに来た、三日ほどの滞在予定だと話していたんだ。そして、そのあとはレイモンド市に向かうつもりだとも言っていた。しかし、レイモンド市へは二年前の戦争で、ケルン市をつなぐ橋が落ちてしまって行き来が難しくなっていた。復旧工事は始まってはいるが、まだ再建できていないから、遠回りするしかない。彼が安全に行くことのできる道を尋ねたので、この街を出るときにここへ寄ったら、それまでに地図を用意して渡すと答えたんだ。実際、あの界隈は、たまに魔族だの魔物だのが現れるってんで、駅馬車もしばらく運行を見合わせている状態だ。人間ひとりが徒歩で行くには、安全な道がわかる地図は必要なものだった。彼は礼を言い、必ず立ち寄ると約束して街に入っていったんだ」

 「街にいる間、ゲフさんはここに顔を出さなかったんですね?」

 「まぁね。そのときは忙しくて、ここに寄る間はなかったんだろうぐらいしか思わなかった。まぁ、用事が終わってから、こっちに寄っても構わないからな。……だが、予定していた三日が過ぎても、彼はここに来なかった」

 「そこで捜索願を出したんですね?」

 「いや、まずは彼が常宿にしている宿を訪ねてみることにした。ひょっとしたら、商談がまとまらなくて、まだ街から出られないだけかもしれないからだ。だが、宿を訪ねると、彼は予定通り、昨日の朝に宿を引き払っていたんだ。宿の主人によれば、商談がうまくいって上機嫌で旅立った、だそうだ。だがレイモンド行きの地図はまだこちらの手元にある。念のため、同僚の衛士たちに聞いてみたが、ゲフが門を通ったのを見た者はいなかった。ゲフはみんなにとっても元同僚だから、誰が門に立っていても、必ず挨拶したはずだ。こちらも見慣れている彼の姿を見過ごすなんてのは考えにくい。もちろん、街の門はここだけじゃないから、よその門を通って街を出ることは可能だが、彼がわざわざそうするとは考えられなかった。それでようやく、彼の捜索を願い出ることにしたんだ」

 「ゲフ・バークさんの商談相手とは誰だったんですか?」

 「ホーエンム卿だ」

 「ホーエンム卿……」

 「あの方はこの街きっての美食家で、ゲフが仕入れる食材の上客だったんだ。むろん、ホーエンム卿も商売人だ。個人的に食べるだけでなく、自分の商会が販売する商品として、各地の珍味や高級食材を扱っておられる。ゲフもホーエンム卿を知っていればこそ、実家の家業が引き継げられると考えたんだろうな。今回、売り込んだ商品が何かは知らないが、たぶんホーエンム卿には気に入ってもらえたんだと思う」

 珍味……。メルルは思い出した。ホーエンム卿は最近手に入れた珍味を味合わせようとファレル神父を屋敷に招いていた。おそらく、それはゲフ・バークから手に入れたものに違いない。

 「ホーエンム卿にはお知らせしましたか? ゲフ・バークさんが行方不明になったことを」

 「問い合わせ程度には。急な予定変更や、急病でどこかに担ぎ込まれているかもしれないので、そういった話を聞いていないかと」

 「具体的に行方不明だと話さなかったのですね?」

 「直接会って話したわけじゃない。お忙しいかたなので、執事に言伝をお願いして聞いたんだ」

 「で、ホーエンム卿からは何と?」

 「まったく知らないようだった。行方不明だと聞いてホーエンム卿はとても驚かれていたそうだ。報告した執事が教えてくれたよ」

 「ほかには話が聞けませんでしたか?」

 「ほかに……?」

 サム・バークはあごに手を掛けて、少し思案する様子を見せた。

 「そういや、あの執事から変なことを言われたっけ」

 「変なこと?」

 「この街に、珍しい花の咲くような場所に心当たりはないか、てさ」

 「……花の名前は何かお聞きしましたか?」

 レトの声が急に重々しくなった。

 「何て言ってたかなぁ……。ええと、『月』が付く名前の花だよ」

 「『月呼草』!」思わずメルルが叫んだ。叫んでから、あっ、と口を押さえたがもう遅い。

 くるりと振り返ったレトの顔は、メルルでもわかるくらい険しい表情だった。

 「いつからここに居るんですか?」

 「……ええっと、最初から」

 さっきまでは何が何でもレトについていこうと思っていたのに、今はそのレトから逃げ出したい気持ちだ。

 レトは睨むようにメルルを見つめていたが、再びサム・バークに視線を戻して尋ねた。

 「『月呼草』って言ってたんですか?」

 「ああ、そうだ。そこのお嬢さんに言われて思い出したよ。たしかに『月呼草』だ」

 「執事は、どうしてそんな話を?」

 「ゲフが話していたそうだ。貴重な花が、街中で自生しているらしい。それを採集して、栽培できるようになれば、商売になると」

 「ゲフ・バークさんがそんな話をしていた」

 「ああ。だから、その自生している場所に行けば、ゲフを探す手掛かりも見つかるかもしれないってな」

 レトはゲフ・バークの人相や身体の特徴を尋ねた。

 身長は1メルテ60ソント、探偵さんより少し低いぐらい。がっちり体型のいかつい印象。顔はモミアゲがあごにかかりそうなぐらいゴワゴワに生えている。四角い鼻、全体に角ばった顔。おそらく街の人込みの中でも見分けられやすい目立った顔立ちだという。サム・バークは手短に特徴を説明した。

 レトは、「お話いただき、ありがとうございました」と頭を下げて席を立った。再びメルルを振り返ったその表情は、恐ろしいほどに感情が見えなかった。

 「君もここを出るよ」

 メルルは黙ってうなずいた。逆らえる雰囲気がなかった。

 ふたりは夕闇が、夜の闇へ移ろうとする街の中へ戻っていった。門を行き交う人々もまだ多く、この街は今日最後の賑わいを見せていた。

 レトは黙ったまま、大通りを歩いていく。メルルも黙って後ろをついて歩いた。すぐに怒鳴られるだろうと思っていたが、レトは何も言おうとしない。それが、かえって不気味だ。だからと言って、こちらから何か話しかけられるものでもない。メルルはちらりちらりと、レトの後頭部を見ながら、とぼとぼと歩き続けた。

 やがてふたりは大きな十字路に差し掛かった。まっすぐ行けば、カーラとメルルの魔法薬屋へ通じる。レトはそこを東へ向きを変えた。そちらは宿場町に通じている。

 「君の手助けしたい気持ちはありがたく受け取っておきます」

 レトはメルルのほうに顔を向けずに話し出した。メルルは立ち止まった。

 「でも、これは危険を伴う仕事です。道案内は頼みましたが、捜査の機密に触れることは許されない。カーラさんを殺した魔物は必ず見つけ出します。そのときは君にきちんと報告します。約束します。ですから……」

 そこでレトはメルルに顔を向けた。

 「もう、首を突っ込まないでください」

 メルルの目から涙があふれだした。

 レトはそんなメルルを置いて、宿場町の通りへ立ち去って行った。

 メルルはただ立ち尽くしていた。


12


 レトは次第に暗くなる通りを、今夜泊まる宿を探すつもりでゆっくり歩いていた。旅の商人や冒険者たちであふれるこの通りは、レトと同じ目的の者たちでいっぱいだった。ときどきぶつかりそうな人たちを避けながら、レトの頭の中は、いつの間にか宿を探すことではなく、メルルのことに変わっていた。

……あの子は、僕の後をつけてはいなかった。門の詰所の直前までは大通りにあの子の姿はたしかに見えなかったからだ。つまり、あの子は後をつけたのではなくて、先回りしたということになる。僕は行先を教えなかった。昨夜から今までの会話で、僕が南門の詰所に行くと当たりをつけたのか。勘のいい子だ。

 レトは立ち止まると、後ろを振り返った。通りを行き交う人々の中に、メルルの姿はない。レトはふうとため息をつくと、今度は肩に留まっているカラスに目を向けた。

 「君は気づいていたんだろう? あの子が僕のすぐあとから詰所に忍び込んだのを」

 カラスはちらっとレトを見たが、すぐにそっぽを向いた。

 「あの子をつついたりしていたから、嫌っていたのかと思っていたのに」

 カラスは何も答えない。

 「たしかに手伝ってほしい、とは言ったよ。でもね、捜査の補助的な話であって、捜査の中心に入って事件を追うことまでは認めていないよ。危険だし」

 急にカラスは、レトの耳元で「カァッ」と大きく鳴いた。

 「……あの子は、多少は魔法が使えるようだったけど、リザードマンと戦ったことのない、戦闘の素人だよ。捜査の最中に容疑者が正体を明かして襲ってきたら、実際に戦えるかどうか」

 再びカラスは「カァッ」と鳴く。

 「……今回の僕は、一貫性がなかった。失敗したよ。認める」

 カラスはそこで興味をなくしたかのように再びそっぽを向いた。

 「『自分のやりたい気持ちに責任を持つこと』、か」

 レトは誰に言うともなくつぶやいた。

 「あのひと言で調子が狂ってしまった」

 カラスはもう何も反応しない。

 レトは空を仰いだ。夜のとばりは、もうすぐそばまで来ている。月はまだ出ていないようだ。


 月?


 『月呼草』。

 

 そうだ、今回はあの植物が事件のそこかしこで顔をのぞかせる。

 レトはそこで昨夜咲いた『月呼草』のことが気になった。花を咲かせた『月呼草』は、このあとどうなる?

 「お兄さん、今日の宿は決まったかい?」

 ひょろりとした若い男が、脇から声を掛けてきた。宿屋の客引きらしい。

 「今なら空いてる部屋があるよ」

 レトはあごに手を掛けて考えた。

 『月呼草』が街中で自生することは考えにくい。たしか、あまり日の当たらない、湿度の高い地中で成長する植物だ。そこでしばらく養分を溜めながら、じっと花を咲かせる時期を待つ。地中で育つ、というのは魔物が跋扈する『魔の森』ならではの特徴で、弱い植物は姿をさらしていると、すぐに食べ尽くされてしまう。そこで、花を咲かせる直前まで地中で身を隠す性質を手に入れ、『魔の森』での生存を可能にしてきたのだ。そう、『月呼草』は『ミュルクヴィズの森』の植物なのだ。そんな植物が森から遠く離れた街中で生えている。やはり、誰かが持ち込んで、栽培しなければありえないことだ。誰が持ち込む? 当然、『魔の森』で種子を手に入れることができる者。『魔の森』の住民、リザードマンだ。

 客引きは考え込んでいるレトの肩に手を掛けて「さぁ」と誘った。

 レトはくるっと客引きのほうを向き、

 「悪い、またあとで寄るよ」

 と言うと、まっすぐ宿場町から歩き去った。

 後には、ぼうぜんとした客引きが残された。


13


 レトが向かった先は、カーラが殺された、あの小屋だった。昨夜見張りに立っていた兵士の姿はなく、あたりにひと気はまったく感じられなかった。いつの間にか姿を現した月は、まだそれほど欠けてはいない。しかし、その月には雲が掛かって、あたりは昨夜ほど明るくない。レトは無言のまま、小屋の裏手へ回ると、手から炎を立ち昇らせてあたりを照らした。照らされたのは、昨夜いくつもの『月呼草』が咲いていたところだ。今、そこに花の姿はなかった。ただ、先端に丸いものをつけた、ひょろりとした草が何本か生えている。『月呼草』は、花開くとその夜のうちに受粉を終え散ってしまう。残った実は完熟すると自然に割れて、中から綿毛に包まれた種子が風に乗って、次の土地を目指して旅立つのだ。レトが見つめている穂先が丸いものは、まもなく熟そうとしている『月呼草』の実だった。見つめている間にも緑色の実が赤く色づき始めている。

 「もう実が熟そうとしている」

 レトは『月呼草』の変化の速さに驚いた。そして、納得した。あの過酷な森の環境の中で、この植物はこうして次の世代に命を繋いできたのだ。

 「……だとすると、ここにヤツが来るかもしれない」

 レトはあたりを見渡しながら立ち上がった。『月呼草』がリザードマンの手で栽培されているのであれば、種子の採集は必須事項だろう。そうでもしないと、割れた実から種子がここから飛び去ってしまうからだ。リザードマンはここに戻ってくる。種子を手に入れるために。

 がさり、という音が思ったほど近くで聞こえたので、レトはすばやく炎を消すと、音とは反対側の小屋の陰に身を隠した。小屋の壁に背をつけると、レトは右手側から様子をうかがった。反対側の陰からは小さな影がそっと様子をのぞき見て、それからガサガサと音を立てて『月呼草』の生えているところまで入り込んでくる。影の人物が小声で何かつぶやくと、胸元からポッと小さな炎が立ちのぼり、その明かりが小さな影の顔を照らし出した。

 その顔を見るやレトの中で一気に緊張感が解けて、レトは疲れたようにため息をついた。

 「また君か」

 影の主はメルルだった。

 「あ、レトさん……」

 メルルは、小屋の陰からふいに現れたレトの姿に飛び上がったが、相手がレトだとわかると安心したような声をあげた。

 「言ったはずです。もう首を突っ込まないようにと」レトは冷たく言い放った。

 「事件に顔を突っ込んでいるつもりじゃありません」

 メルルは必死に首を振りながら言った。

 「ただ、気になったんです。『月呼草』は昨夜咲いていましたから、今夜には種を飛ばして枯れてしまうだろうって。その前に種を手に入れたいなって……」

 「ここにリザードマンが現れるとは考えなかったんですか?」

 「だって、ここにはリザードマンの食べ物はもうないんでしょう? レトさんはそれでもリザードマンがここにもう一度現れるって考えているんですか?」

 本当に予想していなかったらしい。

 「『月呼草』が『魔の森』の植物だということは知っているよね?」メルルはうなずく。

 「あの植物にとって、この土地が特に生育に向いているわけでないのもわかるよね?」

 メルルは再びうなずいた。

 「ええ。たぶんもっと湿気が多くて、薄暗いところのほうがいいだろうと思います」

 「だとすれば、ここに生えている『月呼草』は誰かの手で栽培されている可能性が高い。水をやって湿度を保ち、『月呼草』が育つ環境を誰かが整えているんだ。そんなことをするのは、『魔の森』から種子を持ち込むことができる者、つまり、リザードマンと考えるのが自然だろう」

 「何のためにリザードマンが?」

 「おそらく、自家用の薬として使うためだろう。リザードマンはここで長期間にわたって生活している。もし、そこで病気にでもなったとき、医者にかかるわけにいかない」

 「どうしてです?」

 「身体の構造が人間とまるで違う。体質も人間とは別物だし。まず、人間の医師はリザードマンの診断ができない。ただ、過去の例で人間に化けたリザードマンを、医師が診察しても人間だと信じて疑わなかったという話があるので、診察で人間でないことがバレる危険は少ないかもしれない。しかし、それで問題が無くなるわけじゃないんだ。人間用に処方された薬がリザードマンに効くとはかぎらない。むしろ毒になる危険のほうが高い。自分の体調は自分で面倒をみるしかないんだ」

 「リザードマンの健康管理のためですか? あの花があるのって。じゃあ、薬がなくならないように、リザードマンが種の採取に戻ってくるって言うんですね?」

 レトはうなずいた。

 「リザードマンが『月呼草』を、人間を釣るためのエサとして育てていたとは考えにくい。手間がかかるし、いわゆる『狩り』の日が、満月の夜限定になってしまうのもいただけない。エサとして使うにしても、街の人に『月呼草』が欲しいというのがいないと、エサにもならない。でも、最近になって、リザードマンは人間も『月呼草』に高い関心があることを知ったんだ」

 そこで、メルルも気づいたようだった。

 「ゲフ・バークさん。あの人が商売になるって、ホーエンム卿の屋敷で口にしていたんですよね?」

 「そう。ホーエンム卿のところ以外でも、情報収集のためにあちこちで話をしていた可能性もある。そのことを誰かに化けたリザードマンが聞きつけた」

 「リザードマンはゲフさんに近づいて、『月呼草』の情報を教えるからと言って、人目のないところまで誘い込んだ。そして……」

 そこでメルルは口をつぐんだ。恐ろしい結末が見えたからだ。

 「その可能性がある。むろん、別の可能性だって同じぐらいにあるけれど」

 急にレトはメルルが灯す炎を手で打ち払って消した。

 メルルが何かを口にしようとする前にその口を手で塞ぎ、そのままさっきレトが隠れていた小屋の陰まで引っ張っていく。メルルは何が起きたのかわからず、ただ硬直してレトに引きずられていた。

 小屋の陰まで来ると、レトはそっと裏手をのぞいた。メルルもそっとレトの手を口から外すと、無言で裏手をのぞいた。

 小屋の裏手はひと気がまったくなく静かだった。いつの間にか現れた月の光が、あたりを青白く照らしている。小屋の裏手には、左右に大きく広がった林がある。あまり密集していない木々の間から、うごめきながら近づいてくる黒々とした影が見えた。メルルは思わず息を呑んだ。遠目からでもひとの形をしていないことがわかったからだ。

 影はまっすぐ林を抜けると、月明かりの下にその姿を現した。


 巨大な身体に、巨大な手。とがった口もとからのぞく鋭い牙。それは全身を緑のうろこで覆われたリザードマンだった。

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