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メモリーオブペイン

三つ目の記憶 ー探し人ー

作者: 狐囃子 星治

 「お父様は許してくれるかな」

 先の見通せない霧に包まれた、どこか分からない場所をメルルについて歩いていた少女は、不安げな顔でうつむいた。

 「大丈夫さ」

 メルルは微笑み、優しく手を握った。

 「君のお父さんは必ず許してくれる」

 「でも、わたしは悪い子だから会って下さらないかもしれないわ」

 「その時は今の君のように、私が引っ張ってでも会わせるさ」

 メルルの励ましの言葉のたびに、少女は体を縛っていた枷が外れ、体が軽くなっていったような気がした。

 少女は勇気を出すように握り返す手に少しだけ力を込め、

 「……ねえ、お姉さん。わがままかもしれないけど、お願いがあるの」

 「なんだい」

 「私、お友達が欲しいの。それで、その……、いえ、やっぱりなんでも――」

 「いいよ」

 少女は驚き目を丸くしてメルルを見た。

 「君が望むなら友達になるよ。もっとも忙しいから会いに行くのは少し難しいかもしれないけどね」

 少女は目の前に立つ初めての友人に飛びついた。

 メルルは優しい手つきでその頭を撫で、

 「それじゃ、まずは家に帰らないとね」

 

 二人の歩く森の道に立ち込めていた霧は次第に晴れ、青く澄んだ空が姿を見せ始めていた。


 * * * * *


 どんなに栄えている国でも、いや栄えている国だからこそ少しでも裏に足を踏み入れれば、醜悪な臭いと悪意、そして絶望が蔓延っている。

 誰も助けてはくれない、誰も見ようとしない。

 人々は彼らのことを吐き捨てるように“マモノ”と呼んだ。

 かつて世界に牙を剝き、今なお各地で悪さをしている魔物とは違い、彼らは生まれや運が悪かっただけの哀れな者たちなのに。

 完成した社会の中から零れ落ちてしまい、戻ることができなかっただけであるのに。

 「はじめまして、メルルと言うものです。……グスタフさんですね」

 黒猫を連れた少女は自分の店から遠く離れたスラムの中で、ボロボロの衣服に身を包んだ汚い痩せた男にお辞儀をした。

 「……さあな、それよりアンタは何ものだ。この辺のやつでそんな綺麗な服着てるやつはいねぇし、だが非合法の薬を求めて来た貴族にも見えねぇ」

 「ただの古物屋を営んでいるものですよ」

 「はっ、こんなところまで買い物とはご苦労なこったな」

 グスタフは立ち上がって道端に唾を吐いてから表の広い道に出て歩き出した。

 メルルが付いてきているせいで周囲の住人たちから奇異の視線を向けられ、落ち着かなかった。

 この町で生き残りたければ目立たないことが一番だと彼は知っている。

 気の狂った狂人や、目立つことを嫌う裏の商人たちに絡まれれば、命なんかなんの意味もなく簡単に失うこととなる。

 「どこに行くのですか」

 グスタフは答えずガラクタを売っている店の前をいくつか通り過ぎた。

 そして目ざとくメルルの視線が自分から他に移った一瞬を利用して、一気に人ごみの中に紛れ込んだ。

 念のためにいつも人を撒く時の倍の時間と距離をかけて、後を付けている人間が誰もいないことを三度確認してから家に向かった。

 見えてきた四角く組まれた板にボロ布をかぶせただけの家につくと、その前に立っていた人物を見て全身から汗が噴き出した。

 「よう、元気にしてるか」

 下手な貴族よりも上等な生地の衣装に身を包み、屈強な護衛を付けてタバコをふかしていた男はグスタフを見ると、知己にするような気さくな態度で片手を上げた。

 こんな場所で生活をしていれば見間違うはずもない。

 男はこの国で最大規模の違法取引や犯罪行為を行っているマフィアの一員、それも二番目に力を持っているアンダーボスだ。

 「ど、どうしてこのような場所に。わ、わわたしはあ、あなた達の商売を邪魔するようなことは決して、断じてやっていないと神に誓います。本当です」

 「だから命だけは――」そう言おうとした瞬間に男の後ろから姿を現した、黒猫を肩に乗せたメルルを見て口からは声にならない空気が漏れた。

 「ねえさん、この男で間違いないですか」

 「そうそう、ありがとうね。わざわざ手伝ってもらって」

 「お安い御用ですよ。ねえさんの御恩に比べたらこの程度は子供の使いより軽いことです」

 深く頭を下げた男はそう言って「ねえさんの迷惑になる」と護衛達とその場を離れていった。

 「あんた……いったい何者なんだ」

 「おや、聞いていませんでしたか。では改めて、私は古物屋の店主をしているメルルというものです」

 「嘘だ、ただの古物屋があの人に、こんなガキの仕事をやらせられるわけがない」

 グスタフの目の前にいる少女の評価は、初めに会った時とまったく違うものになっていた。

 命が惜しければ下手に手を出したり反抗はしない方が良い。

 「細かい話は抜きにしましょう」

 少女はそう言って我が物顔で掘立小屋に先に入り、グスタフも後に続いた。

 グスタフが緊張に体を強張らせて、どう出るのかとメルルから視線を外さずにいる間、当人は部屋の中に散乱するガラクタの山や転がっている衣服を見回していた。

 「これらはどこで」

 「……全部ひろってきたもんだ」

 「全部ですか」

 グスタフが「そうだ」と答えるとメルルは何かを考え始めた様子だった。

 ガラクタの中に何か重要な物でも紛れ込んでいるのかと、グスタフは額に脂汗を浮かべながらその様子を見守った。

 「さてどうしたものか、私が用のあるのは“貧者”ではないんですよね」

 「そ、それならさっさと帰ってくれると助かる」

 「それはできません。……少し予定より時間が過ぎてしまいそうですが、このさい仕方ないですね」

 メルルは一人で決めるとグスタフの方を向いた。

 恐怖で幻覚でも見ているのか、肩に乗っている猫は半分メルルと一体化しているように見えた。

 そして猫の目が怪しく光ったかと思うと、世界が割れたガラスのように崩れ始めた。

 

 「それでは、深淵の記憶へ出かけましょう」


 * * * * *


 グスタフは目を覚ますと見たことのない豪華な部屋にいた。

 広い空間には見るからに高そうな彫刻や絵が飾られ、中央に置かれているテーブルは自分が生活している小屋の倍はある。

 テーブルの上には涎が止まらなくなるような豪華な料理の品々が並べられており、二人の人間が椅子に座って談笑をしながら食事を楽しんでいた。

 一人は可愛らしい女の子で、アクセサリの類は身に着けていなかったが、着ている純白の衣装はグスタフの記憶にないもので作られているようだった。

 もう一人はなぜか真っ黒な影で、声も何を言っているのか聞き取ることはできなかった。

 「おい、あんたたち、ここはどこなんだ」

 グスタフは何とか気持ちを落ち着けながら上ずった声で尋ねたが、二人は聞こえていないようだった。

 恐る恐る少女の方へ手を伸ばすと、何の感触も感じることなく体を通り抜けてしまった。

 「なんだよこれ、悪い夢なら覚めてくれ」

 理解できないことへの恐怖で顔が引きつり、テーブルから後ずさりして離れた。

 すると突然、周囲の景色が真っ黒に染まり、

 「そう怖がらないでください」

 この異様な場所で目が覚める直前に聞いたメルルの声がどこからか響いてきた。

 「おい、あんたの仕業なのか。いったい何のつもりなんだよ。ここはいったいどこなんだ」

 「まあ落ち着いてくださいよ、いっぺんに質問されても答えにくいです」

 声は少しだけ沈黙した。

 「ここはある人の記憶の中です。私の会いたい方はこの記憶のどこかにいるはずなので、あなたに協力してほしいのです」

 「何言ってんだよ、なんで俺なんだよ」

 「あなたが一番強い繋がりを持っているからですよ。きっと覚えていないでしょうが、あなたのよく知っている方です」

 誰のことを言っているのか、グスタフとこの記憶とにどのような関係があるのかメルルは答えなかった。

 しかし終わらないと帰れそうにないと理解したグスタフはしぶしぶ協力することにした。

 「まずは手当たり次第に記憶の場面を映します。その中で見覚えのあるものがあったら言ってください」

 言葉が終わるか終わらないかの瞬間に闇の世界が目まぐるしく変化ていき、記憶にない部屋で止まった。

 仕事部屋のようで無数の紙が乗った机には先ほどの影が座っていた。

 ひっきりなしに扉を出入りする高そうな衣服に身を包んだ者たちと何かを話をしつつ、紙にサインを書いたり秘書に何かを言いつけて渡したりと忙しそうにしている。

 「ここに見覚えは」

 「……いや、まったくないな。そもそも俺はこんな場所に用のある人間じゃないぞ」

 「そうですか」

 淡白な返事のあと、また場面が変わった。

 今度は何かのパーティを行っているところだった。

 どこかの城の庭で開かれているらしく、視線を上げると遥か高く伸びる石造りの塔や圧倒されるほど大きな建物がそびえて居た。

 参加している人間の中にはさきほど仕事部屋で見た顔もいくつかあったが、ほとんどは知らない者たちであり、やはりどれも記憶になかった。

 「ここもダメですか」

 再び場面が変わった。

 どこかの部屋。

 どこかの街。

 どこかの森。

 どこかの小屋。

 どこかの――。

 ことごとく、どれもグスタフには見覚えのないものだった。

 「ここも知らないな」

 どこかの湖に浮かぶ船に座ってグスタフは答えた。

 波のない湖面に浮かぶ小さな船の中には釣り竿だけがあり、グスタフの他には誰も乗ってはいなかった。

 「弱りましたねぇ、……ちょっと待っていてください」

 メルルの声はそう言って消えた後、しばらく待っても戻らなかった。

 暇になったグスタフは、手持無沙汰から何気なく置かれている釣り竿に手を伸ばした。

 「あ、これ持てるじゃねえか」

 意外なことに手は竿を通り抜けることなく掴むことができた。

 グスタフはこれ幸いと竿を振って針を湖に浮かべてみた。

 釣りが出来る場所などないスラムで生活していたにもかかわらず、竿を引くものがあった瞬間に自然と体が動いて、見事に獲物を釣り上げてしまった。

 「え、今の音。何かあったのかい」

 それまで沈黙していた世界に、驚いた様子のメルルの声が響いた。

 船に乗ったのは自分の腕の長さほどもある大物で、グスタフは思わず興奮し、

 「見ろよこれ、俺が釣ったんだぜ。初めてなのに、もしかして才能があるんじゃねえか」

 思わぬところで発見した才能に喜んでいると、声は「釣った……釣った……」と言葉を吟味するように何度も繰り返した。

 「……うん、ここでちょっと息抜きするのもいいだろう。そのまま釣りを続けてくれていいよ。私がそのうちに進めておくから」

 「本当か、こりゃあいい」

 グスタフは意気揚々と再び竿を湖に向けた。

 面白いように魚がかかり、体が自然と船へと引き上げた。

 中には本来は湖にはいないような魚や、ガラクタが釣れることもあったが、そんなことは釣り上げる楽しみと比べたら、どうでも良いことだった。

 「お、こいつは大物だな」

 引き方でそれがどんな獲物なのか、少しばかり分かるようになってきたところで、竿がこれまでにないほど強く引っ張られた。

 それまでに釣り上げたどんな獲物よりも抵抗が激しく腕の力がみるみる弱まっていく、グスタフは意地でそれを耐えきり船のすぐ近くまで獲物を近づけた。

 「俺の勝ちだぜ」

 そう言い渾身の力をかけて引っ張り上げると、白い何かが船に上がり、その瞬間に重さでひっくり返ってしまった。

 「た、助け――」

 バシャバシャと必死に水をかくも、引っ張られるように底へ底へと体は沈んでいった。

 意識がなくなる寸前に足を見ると、釣り上げた白い何かが絡みついていた。

 

 目を覚ましたのは湖の岸のようだった。

 不思議と体は濡れていなかったが、きっとここが記憶の中であることと関係があるのだろう。

 体を起こすと足に白い何かが絡みついたままだった。

 「これは……」

 外してみると、それはどこかで見た気がする汚い衣装のようだった。

 元は綺麗な白い色をしていたのだろうが、今はすっかり土と湖の濁った水を吸って汚れていた。

 「おい、これどこかで見なかったか」

 グスタフは空に向かって声を上げたが、返事は帰ってこなかった。

 「おい、いるんだろ。返事をしろよ」

 沈黙する世界に、背筋に冷たいものが走ったような気がした。

 おそらくメルルは目が覚めたことに気が付いていないのだろうと考えたグスタフは、汚れた衣装を持ちながら僅かに引っかかる思いを頼りに湖から離れ、どこかで見たことのある近くの小屋に入った。

 中には一頭の鞍を付けた馬が繋がれており、そいつはグスタフに甘えるように顔を寄せてきた。

 「警戒心のないやつだな。しかしどこかで見たことがある気がするんだよな」

 馬はグスタフが離れようとすると服を加えて引っ張ってきた。

 「何だよ、俺は餌なんか持ってねえぞ」

 遠くに行こうとするたびに同じように服を噛まれ、運よく近くにあった藁を適当に足元に撒いてみたが馬は興味を示さなかった。

 まっすぐと見つめ返す瞳を見ているうちにグスタフの頭に一つの思いが浮かんできた。

 「もしかして乗れってことか」

 馬は「そうだ」とでもいうように小さくいなないた。

 「俺は馬に乗ったことなんか、……いや待て、いつだったか、どこかの森の中でケガをしたときに乗ったことがあったかもしれない。でも――何でだ。お前は分かるか」

 こんどは何も返事を返さなかったが、その目が何かを訴えていることだけはグスタフにも感じ取れた。

 「仕方ねぇ、乗らねえと離れられねえみたいだしな、頼むから大人しくしてくれよ」

 グスタフは手綱を柱から外し鞍に跨ってみた。

 不思議なことに、釣りの時と同じように体は自然と動いて何の苦も無く乗ることができた。

 「いったいどうなって、ておいっ」

 自分の体が自分のものでないような違和感をかすかに感じ困惑していたところ、いきなり馬がいななき猛スピードで駆け出した。

 普通ならありえないほどの速さの中、グスタフは振り落とされまいと必死になって馬にしがみ付いた。

 周囲の景色は様々な光の線となって過ぎていき、ようやく止まったのは、やはり頭に引っ掛かりのある大きな建物の庭だった。

 建物を見上げていると、突然馬が煙のように消え失せ、グスタフは柔らかい地面に叩きつけられた。

 「何なんだよもう」

 愚痴を言いながら入り口らしき門まで来ると青い顔をした秘書が飛び出してきた。

 『いったい何が、早く中へ』

 秘書はまるでグスタフに話しているようだったが、直後に影が体を通り抜けて秘書について中に入って行った。

 その腕にはグッタリとした少女が抱かれており、扉がきしみながら閉まる音で我に帰ったグスタフは急いで後を追った。

 影は非常に慌てた様子で大声で何かを秘書と話し、秘書は『わかりました』と途中で影と別れて建物のどこかに向かった

 ようやく影が足を止めたのは大きなベッドのある部屋の中だった。

 少女の体をそっとベッドに横たえ、影は自分の服で水に濡れたその顔を拭いた。

 すぐに部屋には秘書と、パーティ会場で見た男と杖を持った女性が入ってきた。

 男の指示で影は少女の服を脱がし、女は不思議な言葉を言いながら少女の胸に手を当てた。

 それから目まぐるしい速さで、二人はグスタフの知らない処置を一晩中少女にほどこし続けた。

 『――もう命に別状はありません』

 男は酷く疲れた様子で影に言った。

 安心した様子の影に男は深刻な顔でさらに続けた。

 「しかし、目を覚ます補償はありません。もっともあの状態から生きていること自体が奇跡なのですが」

 影は呆然とその場に立ち尽くした後、放心した様子で部屋を出ていった。

 「おい、お前何か言うことはねえのかよ」

 グスタフは影に文句を言いながらあとを付いて行った。

 影は歩みを止めることなく建物を出て、庭を通り過ぎて、街を抜けて、それでも止まることなく歩き続けた。

 やがてグスタフが釣りをしていた湖のほとりに座ると頭を抱えて、それっきり動かなくなった。

 「お前はそれでいいのかよ、逃げんじゃねえよ」

 我慢できなくなったグスタフは無駄だと分かっていても影を突き飛ばそうと手を伸ばした。

 その手は通り抜けることなく影は砂浜に転がった。

 「……え、おい、……何の冗談だよ――」

 影はグスタフと同じ顔をしていた。

 影が持ったままでいた少女の服はいくらかきれいだが、グスタフが湖で拾ったものと同じだった。

 「あ、ああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 その時、頭にすさまじい痛みが広がり、グスタフはその場に頭を抱えて倒れこんだ。

 「いやだ、思い出すな、やめろ、やめろやめろやめろやめろやめろおおおおおおおおおおおおおおおお」

 “カン”と固いものが何かを叩くような音が周囲に響いた。

 顔を上げると砂浜にメルルが立ち、影は跡形もなく消えていた。

 「はじめまして、グスタフ・ペンドラゴンさん」

 メルルは目の前に倒れこみ、涙に濡れた顔でこちらを見上げる目的の人物に微笑んだ。

 「お嬢さんの件は大変でしたね。あなたの趣味である釣りこっそりと付いていったお嬢さんに気が付いたあなたは、渋々一緒に船に乗ることを許した。しかし釣りに夢中になりすぎたあまり、お嬢さんが何かの拍子で落ちてしまったことに気が付かず、分かったときにはだいぶ時間が過ぎてしまっていた」

 「……やめてくれ」

 力ないグスタフの言葉を無視してメルルは続けた。

 「急いで引き上げ、屋敷に戻ったあなたはパーティの後で屋敷に泊めていた友人の医者と魔女に助けを求めた。二人はとても優秀だったようですね。死の淵にいたお嬢さんの命を救ったのですから。……でも意識が戻ることはなかった」

 「お願いだ……やめてくれ」

 「あなたは娘を見ていなかった自分を責めた。何日も、何日も、……そして壊れてしまった。全てを閉ざしたあなたは自分が何者だったかも忘れ、街のスラムで“ただのグスタフ”として生活した」

 もはやメルルの言葉を止める気力はグスタフに残っていなかった。

 「いったい、いつまで逃げているつもりですか」

 「……無理なんだ、俺には耐えられない。俺は強い人間じゃないんだ」

 「いいえ、あなたは強い人ですよ。今までに何人もの民を助けてきた領主なのですから。そして、あなたは帰らなければならない。……帰ってお嬢さんに謝らなければいけないんですよ、グスタフさん」

 メルルの言葉はグスタフが一度も聞いたことのない、とても強い口調だった。

 「確かにお嬢さんがいつ目を覚ますのかは分からない。でも目を覚ました時にあなたが居なければ、彼女は今のあなたよりも苦しい思いをすることになる」

 「……だが」

 「だがじゃない、家に帰るんだよグスタフ。それが今の君が愛する娘のために唯一できる償いだ」

 僅かに怒気を含んだ、確信に満ちた声は湖面を揺らして世界にこだました。

 一筋の風が流れが湖面を揺らし、それまで沈黙していた湖畔の木々が騒めきだした。

 グスタフは目を閉じて俯き、それから勢いよく立ち上がった。

 「……わかった、それが俺の贖罪ならもう逃げはしない。命尽きるまで娘が目を覚ますのを待とう」

 その瞳には、今までになかった決意と誇りが宿っているのを見とめたメルルは杖で地面を叩いた。

 

 「目覚めの時間です」


 * * * * *


 グスタフが目覚めるとメルルの姿はどこにも無くなっていた。

 少しだけ呆けて部屋を見回していると、落ちている元々は白かったはずの衣服に目が留まった。

 それを手に取ると何か、とても大切なことがあったはずだと焦燥感が心に湧きだした。

 しかし何をするべきなのか思い出せず、頭を悩ませていると外が急に騒がしくなった。

 「なんだ、うるさいな。いま大切なこと考えているんだから静かにしてくれ」

 険しい顔をして外に顔を出すと、どこかで見覚えのある老人と高そうな衣装に身を包んだ少女が何かを聞いて回っている姿が目に飛び込んできた。

 「――あ、ああ。……そうだ、そうだったな」

 グスタフが外に出ると、その姿に気が付いた少女が満面の笑みで近寄ってきた。


 「お父様、わたしお友達ができたんです」


 嬉しそうに話す懐かしい声に領主の涙は止まらなかった。


 * * * * *


 「それで、金はちゃんと二人分貰ったのか」


 「はははは」


 「笑って誤魔化すってこ事は、さては娘の分しかもらってないな」


 「いや、貰ってるのは父親の分だけ」


 「ほう、つまり先に見た娘はタダにしやがったのか」


 「そりゃ道案内だけだからね、それに」

 

 「なんだ」


 「せっかくできた友達からお金は取りたくないだろ」


 「それは公私混同って言うんだ」


 空から地上を見下ろしていた少女の額に猫は鋭いパンチを繰り出した。

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