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ハッピーエンドは認めない

作者: 虚虎 冬


 空は蒼く、高く、その色を以て自分を嘲笑っている様だった。


「嗚呼、可哀そうに。囚われている内に魔王の側へ堕ちるとは」


 可哀そうなどと思ってもいない癖に。自分リツィアのことを案じていた者などいなかった癖に。

 まるで自分たちが正義かの様に、彼らは囁く。彼らは睨む。人間(・・)でありながら魔王に情を寄せた愚かな娘を断罪することで、彼らはようやく溜飲が下がるのだ。


「我らは決して悪に屈さぬ!」


 まるで自分がヒーローの様に、国の王は目をギラギラと輝かせて叫んだ。その叫びと共に、軋んだ悲鳴を上げながらギロチンが下りてくる。

 自分の首元へ差し掛かるその刃を眺め、空を見上げ、リツィアは笑った。


「――幸せな結末(ハッピーエンド)ね……!」


 悪が潰えた。悪に魅了された愚かな娘も死んだ。

 めでたし、めでたし。


 * * *


 リツィアが拾われたのは、昼も地面に光が通らぬ鬱蒼とした森の中だった。

 もうずっと昔の話だ。リツィアがまだ、その名を貰っていない、遠い記憶の話。


 リツィアと呼ばれる前の彼女は、およそ森で生き抜こうとしているとは思えぬ格好をして彷徨っていた。胸元の引きちぎられたネックレスは、価値の無い鎖がぶら下がるだけとなり、ドレスの裾にあしらわれていた刺繍は、糸が金糸だったものだから全て引き抜かれた。それでも彼女の格好は「貴族」だった。

 食糧など無い。もはや土塗れのドレスは、何度も木の枝に引っ掛けてボロボロになっていた。


 彼女は迷子になった訳でも、賊に襲われて途中で投げ出された訳でもない。

 捨てられたのだ。実の親に、婚約者に、王に。

 こっぴどく捨てられたのだ。国の騎士に、民に!


 婚約者の隣で歪に笑う女を、彼女は恨んだ。憎んだ。全てその女の策略だった。彼女がその時、国を追い出され森で途方に暮れていた原因はその女にある。

 しかしもうずっと昔の話だ。どうだっていい。むしろ感謝をしても良い。その女がいなければ、リツィアはリツィアになれなかったのだから。


 途中で力尽きて倒れ、土を指先で削りながら「ころしてやる」と呪詛を吐いた彼女に手を差し伸べたのは、一人の青年だった。


「そんなところで何をしている?」


 必死に顔を上げると、そこにはひと(・・)がいた。彼女が恨んで恨んで仕方のない、人。

 ()は彼女に対し嫌悪感を露わにした顔しか見せないはずだ。この顔を見た途端に石を投げつけてくるはずだ。それなのに、彼は彼女の顔を見ても何の感情も見せなかった。

 いや――あえて言うならば、その時彼が見せた気持ちは、懐かしさだろうか。


 彼の瞳は深い蒼。グレーの髪に見え隠れして、じっとこちらを見つめていた。

 その蒼を彼女は今まで一度も見たことがなかったし、その彼の表情を見て安心した。人であればあの国の人間のはずなのに、彼は国の人間ではないようだった。

 そうでなければ、国の外の森で出会うはずがない。魔物の跋扈するこの森で。


「お前の名前は?」

「……名乗る、名前など、ありません」


 彼女に名を与えた親は、国は、彼女を捨てた。そんな名前にもはや用はない。

 そう答えた彼女に、彼は懐かしさを滲ませた笑みを深めて、新しい名前をくれた。


「今日からお前はリツィアだ」


 リツィア。

 リツィアという名をくれた青年は、彼女を連れて家に帰った。その家はもちろん国の中ではなかったし、それどころか「魔王城」と呼ばれているものだった。


 リツィアを拾った青年は、魔王だった。


 道理で彼に連れていかれる間、一度も魔物に襲われなかった訳である。リツィアは魔王の元で働きだした。捨てられたとはいえ、一応貴族の元に生まれた者であるから、魔法を扱う才能があった。自分を拾ってくれた恩に報いるべく、リツィアは必死に魔法の腕を磨いた。

 それのおかげで、魔王の他の側近から認められたことは僥倖か。「人間の癖に」と言われることはなくなった。


 魔物は人間が嫌いだ。ただ嫌いなのではない。憎んでいる。

 それが「人間は魔物を殺すから」「人間は魔王を殺すから」とは何たる皮肉か。国は魔物を、人間を無差別に殺す悪と断定しているのに、魔物が人間を傷つけるのはいつだって後から(・・・)だった。

 自分の家族を、仲間を、愛する王を殺すから。だから復讐をしているだけだと。


 前の魔王も、人間に無惨に殺されたのだという。

 リツィアは青年を決して殺させないと誓った。そして、側近の一人であるドラゴンから血を貰った。


 ドラゴンの血を飲んだ時、まるで体中が溶ける様な苦痛を受けても、リツィアは決して弱音を吐かなかった。そうしなければ青年と寿命を等しくすることはできない。既に青年も永遠の命を持つ存在だったから。


 * * *


「リツィア、……お前は、幸せか?」


 眉間に皺を寄せながら、苦しそうに尋ねてきた青年に対して、リツィアは迷うことなく肯いた。青年の傍にいられるだけで、リツィアの幸せがある。それが感謝の思いか、それとも純粋に想いのためかはリツィアにも分からない。しかし、青年がいるおかげで心が温かくなることは確かだった。


「魔王様の御傍にいられるだけで、本当に、幸せです」


 そう答えたときに、青年の様子をしっかりと見ておけば良かったのだろうか。リツィアには分からない。ただ、「そうか」とだけ返した青年の後姿は、いつもより覇気がないように思えた。


 彼が自分の部屋を出ていく時に、閉められた扉の音の重さ。その後に続く金属の擦れる音。それが表すものが何であるか、リツィアにはしばらく分からなかった。

 どうして青年があんなことを聞いてきたのか、何故ガチャリと重苦しい音が響いてから彼の足音が遠ざかっていたのか、分かったのは部屋を出ようとしたときだった。


「……開かない?」


 何度押しても、引いても、ジャラジャラと鎖の鳴る音ばかりが響いて、リツィアが扉を開けることは叶わない。魔法を撃っても同じ結果だった。魔王城の扉に魔法など効かない。

 それでは窓は、と駆けよると、窓にも鉄格子が嵌まっていた。こんなものは昨日までなかったのに。いや、さっきまでなかったはずなのに。

 そう思ったリツィアの視界に、窓の向こうで悲しそうな顔をしているドラゴンが映った。


「なぁリツィアよ、俺はこんなのは嫌だった。どうせなら仲間と共に死にたい。主を追えないなんて考えただけで死にそうだ。……だが男としては、多少分かるのさ」

「なにを、」


 ――何を言っているのだ、このドラゴンは。


「自分の姿をいつも探してくれて、見つけると嬉しそうに笑う。自分のために洗濯も料理もしてくれる、努力も苦労も惜しまない……そこまで尽くされて、惚れねえやつはいねえよなあ……」

「な、にを言って、るの。ジャディバー。ジャディバー! ここを開けなさい、さもなくばドラゴンの丸焼きにするわよ!」


 遠くから声が聞こえる。聞きなれぬ声が聞こえる。

 それは決して歓迎すべき音ではなかった。鬨の声。剣を打ち合う音。燃える音。

 最中で悲鳴が聞こえる。ゴブリンたちの悲しげな声が、ピクシーの恨めし気な声が、それらが肉の潰れる音と共に途絶えていく。次の瞬間に響く不快な声。

 ――ひと(・・)の声。


「惚れたやつを負け戦に参加させたかぁねえのさ。分かれよリツィア。お前はまだ人間(・・)に戻れる。そうすれば死ななくて済む」

「ふざけたことを言わないで爬虫類! はやく、私を、ここから出して!」


 拳で窓を割った。硝子の破片が手を傷つけようと、血が流れようと構わない。リツィアは何度も鉄の棒を叩く。


「ジャディバー、はやく格子を外しなさい! はやくっ……!」

「――主から最期の伝言だリツィア。『人として幸せに生きろ』……死ぬんじゃ、ねえぞ」


 そう言い遺した青年あるじが死ぬつもりならどうすればいいのだ。

 死ぬなと言ったドラゴンが死地へ向かうのをどうやって止める?


 否、止められない。止める術をリツィアは持たない。

 結局、リツィアは死の旅を共にすることは許されない人間だったのだ。だからここに閉じ込められた。


「なんで……っ! どうして!!」


 ドラゴンの咆哮が聞こえる。忌まわしい人間の悲鳴が聞こえる。

 それだけならば、いっそ清々しい。これが国への襲撃だったのならば喜ばしいのに。


 仰々しい光の魔法陣が輝いたかと思えば、次の瞬間龍の咆哮は途絶えた。


「ジャディバー……」


 行かないで。リツィアの口がはくはくと動く。もう声も出なかった。既に逝った仲間は何人いる。他の側近はどれだけ生き残っている?



 主は、青年はどうしたのだ。



 リツィアがその答えを知ったのは、扉が乱暴に開けられてからだった。


「本当に女が捉えられているだと!?」

「魔王めが、人間の女に手を出しているとは。まさに悪よ」


 ――どの口がそれを言うの。


 こちらを品定めするかのような不躾な視線に、わずかに盛り上がった局所。

 青年はこんな視線を向けたことなど一度もなかった。青年は人間(・・)を蔑むことなど一度もなかった。

 あんなに、人間を憎んでいる目をしていたのに。


 * * *


 リツィアは国に保護された(・・・・・)

 魔王の手により国から攫われた可哀そうな貴族の娘。リツィアの役柄はどうやら英雄譚の一幕らしい。魔王を討ったという華々しい記録は、人間なかまを救い出したことにより一層輝かしいものとなる。


 白いドレスを着せられ、侍女に甲斐甲斐しく世話をされて、リツィアはそれでも笑顔を浮かべることはない。

 それはずっと昔、この国に奪われたものだったから。今更国から優しそうに手を差し伸べられて、何を喜べと言うのだろう? 綺麗な服を着れることに? 美しい宝石を身に着けられることに?

 ずっと共にいたかった、青年はもうこの世にいないのに。


「――ねぇ、不思議に思わないの」


 平坦なリツィアの声を聞いても、侍女はまるで嬉しそうに微笑むばかりだ。「何をですか?」と尋ねるその声色は、何色のドレスをお召しになりますかと訊いてきたときと何も変わらない。

 心はいつまでも暗く澱んだまま、リツィアは思わず笑ってしまった。


 ――どうして不思議に思わないの?


 リツィアが大切に保護された理由は、人間を魔王から救ったという大義名分のためだけではない。彼女の魔力、魔法の才能が、喉から手が出るほど欲しかったからだ。リツィアは何度も乞われたものだ。

 魔法を教えてくれ。魔力を分けてくれ。お前を助けてやったのだからと。


 リツィアの持つ豊富な魔力は、それだけでかつて彼女が貴族であったことの証となる。

 リツィアは貴族だった。リツィアは若い可哀そうな娘だった。


 ならば、どうして彼女の親がいないのか。年若いリツィアが攫われたのがいつであろうと、年齢から考えると貴族の親が存命でおかしくはない。もし死んでいたとして、きっと記録に残っている。記憶に残っている。そのはずなのに、リツィアがいたという証は何もない。

 リツィアは、若い娘だ。魔力を持つ少女だ。

 何年も、何十年も、何百年それ以上も前に時を止めた少女だ。


 永遠の存在なんて、魔王しかいないはずだった。人間の姿をして時を止めた存在は、魔王しかいない。リツィアがただの可哀そうな娘のはずはない。

 それに誰も気づかない。国中の誰もが。


 * * *


 さりげなく腰に伸ばされた腕をするりと交わすと、リツィアはにっこりと笑った。

 行き場を失った腕を彷徨わせ、目の前の男は視線を迷わせる。リツィアが出る夜会ではいつものことだった。「名もなき令嬢」を誰もが己のものにしようと躍起になっている。


 リツィアはリツィアと名乗らない。

 自分を捨てた国からの名は要らない。青年が呼んでくれないリツィアという響きに何の意味もない。だとすれば、もうリツィアに名前など要らなかった。


 自分をかつて捨てた国。そのときと何ら変わらぬ顔をしている国の人々。

 彼らが生きていて、魔王が死んでいるこの世界。もうリツィアに命など要らなかったのだ。


「要らぬおせっかいだわ」


 魔物と共に生きるのが可哀想だとか、死なせてしまうのが嫌だとか。

 国の者が勝手にくれる同情も、青年が押し付けた優しさも、リツィアには不要のものだった。


 ――大事なものはもう何もない。


「名もなき令嬢、そんなことを言わないでくれ。私は貴女を助けたいのだ。どうか手を取ってくれないか」


 リツィアの呟いた言葉に何を勘違いしたのか、目の前の男が言い募る。その男にどこからか少年が駆け寄ってきて男を引っ張り連れ去ろうとする。「兄上、もうやめてください」「止めるな。この女を手に入れれば……!」押し問答をしている二人を、周囲の貴族たちが嗤って見ている。

 そんなこと、リツィアにはどうでも良かった。


 大勢の視線がある今、リツィアがしようとすることはたった一つだった。


 彼女は仰々しく腕を広げ、わざとらしい詠唱を唱え、紅い炎を放った。

 丁度誰もいない空間で熱が弾け、数人が小さな悲鳴を上げた。きっと大事なドレスに穴が空いたことだろう。苦労の影が全く見えぬ顔に小さな火傷の痕を残すだろう。しかし誰も死なない。彼女が撃った魔法は本当に弱いものだったから。


「万歳」


 彼女の喉から、絞り出すような言葉が響いた。


「魔王様、万歳……っ」


 彼女はさらに腕を広げる。掌からは黒い炎が噴き出した。魔王に仕える者しか扱うことのできない、呪いの炎が。


「貴方様が死してなお……遺志を継ぐ私が! 魔王様の仇である人間どもを滅ぼしてくれましょう! 人間どもに安寧など訪れないのです!」


 ――さあ、早く自分を殺すがいい。


 この黒い炎が、術者から逃れて暴れまわるその前に。人間が死ぬその前に。

 これから魔王の元へ向かうリツィアに、人間の供など不要なのだ。だから誰も殺さない。誰も連れてはいかない。リツィアは一人、魔王と仲間たちの元に帰る。


 リツィアの狂ったような甲高い笑い声の最中、会場の人々は逃げ惑い、ある者は動転して窓から飛び降りた。離れていく人の中で、剣を携え駆け寄ってくる兵士たちと、

 逃げも近寄りもせずに、じっとこちらを見つめる青い瞳が見えた。


 * * *


 薄暗い牢屋。かろうじて手元が見えるのは、はるか頭上にある小さな窓から陽の光が差し込んでいるからだ。曇りの日には光が床まで届かないし、夜に至っては闇一色だった。

 しかしリツィアにとってはその方がありがたかった。自分の人間としての本能が、手錠を見るたび蘇ってしまうと知っていたから。生にしがみついてしまいそうになることを知っていたから。


 リツィアと壁を繋ぐ大振りの鎖は、ただの(・・・)鎖だ。魔法を封じ込める力も持たず、それへの耐性もない。それは影として見える鉄柵も同じことで、リツィアが少し魔法を行使するだけでこの場は建物ごと崩壊する。

 果たして人間どもが愚鈍に過ぎるのか。もしそうだとしたら、青年やドラゴンが負けるはずもない。


 しかし今更それを疑問に思っても、リツィアにとってメリットなど何もなかった。魔王軍は負け、リツィアはここに捉えられている。

 だとしたら、リツィアがすべきことは死ぬことだけ。


 ――約束さえ、なければ。


 あるとき青年が言った、「自分から死なないで欲しい」という言葉がなければ、とっくにリツィアは魔法で己の身を焼いたのに。

 青年が死んでも、彼とのわずかな約束を破る気にはなれない。破りたくはない。


 早く殺せと、リツィアはただ呪った。

 こうやって少しでも生きる時間を延ばされることが惜しい。仲間の元に向かうのが遅れることが悔しい。



 コツコツと、足音が聞こえた。

 自然と強張る体に、リツィアは失笑する。人間とこれ以上会いたくないのに、これ以上この世に留まりたくないのに、それすらさせてはもらえない。


「――あの」


 コツ、自分の目の前で止まった足音に、少年らしき声。わざわざ魔女に話に来たとは、なんという奇人か。

 顔を上げると、そこにはどこかで見たような少年。青い目が随分ハッキリ見えると思ったら、少年が持っているカンテラの灯りのせいだった。


「貴女の、名前は」


 随分と黙り込み、何も用がないなら帰れと考えていた瞬間、つっかえながら問われた言葉に耳を疑った。自分の名前を聞いてどうするのか。もしや呪いの類で殺すために必要なのか。――だとすれば、それは功をなさない。

 リツィア。そしてもう一つの名前も揃わなければ、煩わしいことに彼女を表す式とならない。もう人間(・・)から与えられた名など記憶の彼方で、その名前を知る者はこの世のどこにもいないから。


「名乗る名前など、もうないわ」


 唇を吊り上げ、擦れた声で返す。もう、リツィアと呼んでほしい人はいなくなった。

 彼女にすげなく返されても、少年はあまり気にした様子ではなかった。


「貴女は……」


 何度か口を開き、噤み、意を決したように少年はリツィアをまっすぐに見つめた。

 その青い瞳を見て思い出す。見たことがあるのは、捕らえられる直前だ。丁度自分に寄ってきていた男を止めようとしていた少年。自分が連行される間、じっとこちらを見つめていた。


「……貴女は、ここで、幸せではありませんでしたか?」

「ふ、」


 少年の問いに、思わず笑みがこぼれた。

 どれだけ傲慢なのだろう。人間(・・)なら助けられてありがたく嬉しく感謝するのは当然とでも思っているのか。幸せはこの国にあるとでも幻想を抱いているのか。


 余所者(・・・)のリツィアが少し過ごす間だけでも、迫害され影で涙を流す者を何度も何度も見た。

 泥を被せられドレスを破かれ、髪を切られる者を何度も。剣で斬り付けられ、頭を踏み躙られる者を何度も。

 結局永い時が過ぎようと、この国の本質など何も変わってはいない。そこが桃源郷たりえることなど絶対に有り得ない。


「随分と面白い質問をなさるのね」


 リツィアが皮肉気に答えると、少年は僅かに身動ぎした。


「幸せに見えたのかしら」


 そう彼女が尋ねると、少年は静かにゆっくりと首を振った。横に、何度か。

 見えませんでしたと、絶望したかのように、瞳を暗く燻らせて彼は答えた。その瞳をリツィアは見たことがある。土をかきむしった手を優しく取った、かつての青年の瞳だ。

 あの蒼は、絶望を混ぜた青だったのだろうか。



 少年はその後、黙って立ち去った。それきり会わないだろうと思っていたが、彼は数日おきにやってきた。ときに、カンテラだけでなく、乾パンを入れた籠も下げて。


 彼はかならず、名を問うてから他の質問をした。彼は決して自分のことを語ろうとはしなかった。

 やはり、呪うためにこちらへ来ている呪術師の類だろう。どれだけ言葉を交わそうと、リツィアの心が解けることなどないのに。



「――幸せでしたか」

「……え?」


 その日、少年が問うた言葉は思いもしないものだった。


「魔王の元にいて。幸せ、でしたか」


 彼女が聞き逃したと思ったか、少年は再び同じ問いを口にした。そんなこと、質問せずとも分かり切っていることだろうに。人間(・・)は皆、魔王の元にいて幸福を覚えることなどないと。

 それが、リツィアの本心とどれだけ離れていようと、答えの分かり切った問いなどしてこないと思っていた。


「魔王の元で、どんな風に暮らしていたんですか?」


 そんな風に、泣きそうな顔で聞いてくるなど有り得ないと思っていた。


「――洗濯を」


 答える義理などない。今までの質問だって、ほとんど無視してきた。好きな食べ物は無いと答えたし、趣味も答える義理は無いと答えた。

 それでも、何故かポロリと言葉が零れ落ちる。


「洗濯をした。料理をした。魔王様の部屋の掃除をしたの」

「……はい」

「それまで、したことはなかった。何度も失敗した。仲間には凄い馬鹿にされた。でも、魔王様はいつまでも待ってくれた」

「……そうですか」

「初めて上手にできたとき、誰よりも魔王様は喜んでくれた。魔法を覚えたときも、嬉しそうに仲間に伝えてくれた。仲間も、私が勝てるようになったら同等の仲間として見てくれた」


 綺麗なドレスなんてなかった。刺繍をするための糸なんてなかった。煌びやかな社交会なんて、一度も開かれなかった。


「魔王様はいつでも傍に私を置いてくれた。頼ってくれた。笑ってくれた」

「……」

「みんな、私を笑わせてくれた」


 豪華な貴族の生活なんてなくて、自分の食糧は自分で狩ってこなければならなくて、それでも。


「あそこにずっと。みんなと一緒にいたかった」


 くしゃりと顔を歪ませた少年は、そうですか、と何の面白みも無い相槌を最後に打った。

 立ち上がり、深くお辞儀をした少年は、肩を落としてトボトボと歩いていく。何故か、その背中に一つ言葉をかけてやりたくなった。

 人間など、誰ももう見たくない。けれど、死ぬ前に一度、皆のことを思い出させてくれた彼に、何も言わないことは気が引けたのかもしれない。それとも、何かを感じたのかもしれない。


 ――きっと、彼は青年に似ている。魔王という名に相応しくない、あの弱くて強い青年に。


「――リツィア」


 ゆらり、振り返った少年は立ち止まる。


「リツィア。私の名前」

「……りつぃあ、さん」


 少年は目を見開き、青い瞳を輝かせた。また一つお辞儀をして、静かにその場から立ち去った。

 リツィアは何も見えぬ天井を見つめる。この闇を見つめるのも、もう最後である気がした。


 * * *


 空は蒼く、高く、その色を以て自分を嘲笑っている様だった。青年の瞳を思わせるその色。懐かしい色。今の自分には手が届かぬだろうと、馬鹿にされているような。

 しかしいかに空に嘲笑されようと、リツィアには構わない話だ。

 ――むしろ、天に仲間が待っていると思えば、何と嬉しいことか。


「嗚呼、可哀そうに。囚われている内に魔王の側へ堕ちるとは」


 可哀そうなどと思ってもいない癖に。自分のことを案じていた者などいなかった癖に。

 まるで自分たちが正義かの様に、彼らは囁く。彼らは睨む。人間(・・)でありながら魔王に情を寄せた愚かな娘を断罪することで、彼らはようやく溜飲が下がるのだ。


 助けてやった(・・・)のに、感謝もしない。笑顔も見せない。名前を言うこともなく、魔法を教えることもない。

 挙句の果てに、魔王に傾倒し人間を害した娘一人が、憎くてたまらないのだろう。小娘一人が、英雄譚の額縁とならず、むしろ国王に泥を塗ったのだから。


「我らは決して悪に屈さぬ!」


 まるで自分がヒーローの様に、国王は目をギラギラと輝かせて叫んだ。その叫びと共に、軋んだ悲鳴を上げながらギロチンが下りてくる。

 自分の首元へ差し掛かるその刃を眺め、空を見上げ、リツィアは笑った。

 ――待っていてください、魔王様。みんな。


「――幸せな結末(ハッピーエンド)ね……!」


 悪が潰えた。悪に魅了された愚かな娘も死んだ。

 めでたし、めでたし。








 息を切らせ舞台に飛び込んできた少年は、青い瞳を暗く暗く翳らせていく。


 ――……そんな、ハッピーエンドなど認めない。


 火山の火口で、小さな飛ぶことすらできぬ龍が悲し気な遠吠えを上げた。


 ――この瞬間、ハッピーエンドを人々が迎えたとしても。


 海の底で、人魚たちが弔いの歌を囀った。


 ――きっと、来る。人間どもの終焉(バッドエンド)が。



「リツィアが死んだ」


 国中で喜ばれる裏切り者の死は、国の外へも伝わっていく。


「リツィアが死んだ?」


 それを、ある者は悲しそうに、ある者は当然といったように、またある者はとても嬉しそうに、反芻する。

 青年の想いが叶わなかったことを嘆き。少女の献身を納得し。その献身を歓迎して。


 外の者たちが、人間の国を襲わない理由はとうに無かった。



 * * *



 鬱蒼とした森の中、倒れていたのは一人の少女だった。

 青年は足を止めた。そのボロボロな姿に、小さな溜息をついた。


 結局一度国が滅びようと、人間は変わらないのかもしれない。自分が人間である――人間であった(・・・)ことは無視して、青年は諦観を交えてその様に思う。


「そんなところで何を?」


 顔を上げた少女は、ころすと呟いていた口を噤んで、呆然とこちらを見つめた。


「貴女の名前は」

「……名乗る、名など……ありません」


 瞬間、青年の頭にカンテラの灯りと広がる闇が浮かんだ。あの時、たどたどしく尋ねた自分を嗤って彼女も似たように答えたのだ。

 名乗る名前などない、と。その彼女が最後に教えてくれた名前は、彼にとって喜びと、後悔に満ちた宝物になっている。大事にしまいこんだその名前を、側近のドラゴンにさえ言ったことはない。


「リツィア」


 その時零れたのは、あまりに少女が彼女と似ていたからか。青年の声は擦れていて、少女には聞こえていないようだった。


 懐かしさに笑みが浮かぶ。そして自然と、この少女を家に連れていこうと思った。

 昔見た彼女の献身ぶりに、前の魔王が羨ましくなったのかもしれない。それとも、どんなに憎くて鏡すら見たくなくとも、人間の仲間が欲しかったのかもしれない。


 青年は少女に手を差し出した。


「今日から、貴女は――」


読んでくださり、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 世界観も出てくる主要キャラも皆大好きです。短編で終わらせてしまうのか!?!?なんて思ったりもしたんですけど変に引き伸ばすと余韻が死に絶えそうなのでやっぱりこれで正解だったのかな、と思いまし…
[一言] ……無限ループって怖くね? 幸せに生きろっていわれても、好きな人殺されて、殺した奴らにドヤ顔されて幸せになれるわけないですよねぇ。 人間も魔物も主人公も魔王様も、みんなのエゴが絶望的に噛み…
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