紫の人
この屋敷には書庫とよばれる場所がある。
本の数は、以前私がいた塔より少なく、置いてあるのは専門的なものなので、一般的な小説やもちろん童話なんかは置いていなかった。
それでも、ないよりかはいいのでここに来てからは暇を見つけては、足繁く通っていた。
あまり使用されていないであろうその部屋は明かりをつけても薄暗い。それに、埃っぽいような気もする。
本を日焼けさせない為、窓はひとつ。その為、じめじめとした空気も仕方のないことだ。
はじめてここに来た時は部屋の有り様に思わず顔を顰め、必要最低限と言われていた魔力を使って空気を入れ替えてしまったほどだ。
そんな事を思い出しながら、今日はどの本にしようかと辺りを見回すと窓の近くに真っ赤な背表紙の本を見つけた。
あんな目立つものあっただろうか。
はて、と首を傾げながらも本をとる為の梯子をみる。
梯子は木製で古びており、所々傷みが生じている。
…私がのぼったら折れないだろうか。
少し心配になったが、本を取ってくれと頼める人はいない。かといって、一度気になってしまった本を諦める気にもなれない。
ひとつ溜息を吐き、意を決して梯子に手をかける。
みしりっ、と嫌な音をたてたが折れはしなかった。一段、また一段と昇っていくが折れる様子はない。
お目当の本を手に取り、ほっとした瞬間ばきりっと梯子が音をたて、体が傾く。
思わず、目をぎゅっと瞑る…が、予想していた衝撃はやってこない。
おそるおそる、目を開くと誰かの腕の中にいた。
見上げると、紫の瞳が私を見下ろしていた。
その男は、私をゆっくり下ろし、赤い背表紙の本を私に押し付けるように渡すと浅く礼をし、部屋を出て行ってしまった。
一瞬のことに驚き私は動くことができなかった。
男が部屋を出て行った時に、謝罪を述べることができなかったと気付く。
助けてもらったのに、礼もなしなんて無礼な令嬢だと思われてしまったかもしれない。
渡された本を見ると、隣国のパラディン王国の本らしい。
開くと、パラディン語で書かれた文字。
12年間学んできただけあって、簡単に読めるし話せる。
珍しい本を手に入れたと喜ぶのも束の間、ナンシーが騒がしく書庫に入ってきた。
「アシュリー様っ、供もつけず出歩くのはあれ程おやめ下さいとっ」
「ナンシー…ごめんなさい、」
自分の家の中で供をつけるというのは、嫌でナンシーの言いつけをいつも無視してしまう。
「アシュリー様、今後は私に一声おかけください!よろしいですね」
こう迫られてしまうと私も弱い。素直に頷くとナンシーは満足そうに頷き私の手元を見た。
「それは、パラディン語ですか?」
「ええ、そうよ」
「アシュリー様がお読みに?」
「ええ」
「アシュリー様はとても優秀なお方だと常々思っておりましたが、12歳でパラディン語を理解できるだなんて!」
すごいです、とナンシーが興奮気味に話す。
そこまですごいことなのだろうか。
「パラディン語は、難しい言語だと聞いております、」
確かにこの国の言語とは根本的に違う。
文字を習得するのにも時間がかかったが、話すところまでいくにはもっとかかった。
興奮が冷めない様子のナンシーは流石、アシュリー様、私のお仕えしている方だわ、とぶつぶつと怪しげに呟いている。
ふと、先ほどの紫の人を思い出した。
屋敷に勤めるナンシーなら何か知っているかもしれないと、未だ不気味に笑うナンシーに質問を投げかけてみた。
「ナンシー、この屋敷に紫の瞳をもつ男性を知らない?」
「紫の瞳ですか…?」
私の質問でこちらに戻ってきたナンシーは、はて、と首をかしげる。
「そう、身長は高めで寡黙そうな方よ。心当たりはないかしら?」
うーん、と考える素振りをしたナンシーは眉を下げた。
「料理人に紫の瞳のアルバスという男がおりますが、身長はさほど高くはなく、陽気な感じですから、アシュリー様のお探しの人物ではないと思います」
申し訳ございません、と残念そうに謝るナンシーに慌てて頭を上げさせる。
「大丈夫よ、ナンシー、頭を上げて?」
「お役にたてず…。アシュリー様、その、失礼ですがその方とはどちらで?」
「ここでよ。梯子から落ちるところを助けていただいたの。それなのに、お礼を言えなくて…」
「梯子からっ?!」
ばっとナンシーが振り返ると無残な姿の梯子があった。
「そんな危険なことを…⁈アシュリー様、その方がいなければ今ごろっ…」
ひとりで青くなっているナンシーは放っておいて、再び沈思する。
ナンシーが知らないということは、屋敷の人間ではないのだろうか。では、何故、書庫にいたのだろうか。普段、人はめったにいないというのに。
「聞いておられますかっ?!アシュリー様っ」
さっきまで青かった顔が今は、赤くなっており、忙しい人だなあ、と思わず苦笑いを浮かべた。
「では、約束していただけますね?!」
何の約束だろう。全く聞いていなかったが、こくりと頷くとナンシーはほっとした様にため息をついた。
部屋に戻ることを促され、まだ読み終わっていない本を棚に戻し、しぶしぶ自室に戻った。
部屋に戻っても、チラつくのはあの紫の人のこと。
何故こうまで気になってしまうのだろうか。
後から思い出してみると、本当に不思議だった。
人の気配なんてまるでなかったし、私が落ちそうになった時も物音ひとつたてず、あの人は現れた。それに、あの人がもつ雰囲気も何だか不思議で周りが冷たくなる様なものを持っていた様に思う。
考えれば考えるほど、不思議な人だった。
いくら考えても答えは出ないと割り切り、次会った時にちゃんとお礼を言えばいいとその人のことを考えるのは終わりにした。