掌から零れ落ちたのは
震える指先を戒めるようにきつく握りしめる。
視線が突き刺さるのを感じながらも顔を上げられない。淑女としてあるまじき行為であることは分かっているが本能が怖いと叫んでいる。
昼過ぎに父に呼ばれた時から嫌な予感はしていた。
だが、拒否権などあるはずもなく兄に会うことも許されず、父の部屋に連れていかれ現在に至る。
一言も話さない父と顔を上げない私の間には重い沈黙が流れていた。
「愚かだな」
一言、そう言った。
その一言を聞き、弾かれたように顔を上げた。
そこには何の感情も宿さない冷たい目があった。
愚か、というのは私に向けられた言葉なのだろうか。
何も言えずにいる私にむかって目の前にいる父はまた重い口から言葉を発した。
「何も知らず、知ろうとせず言われるがままに全てを享受してきたお前は愚かだ」
愚か、というのはどうやら私に向けられた言葉のようだ。
変わらず何も言わない私に興味はもうないようで、父は重い腰をあげて部屋から出ようとした。
「待って、くださいっ」
呼び止めに視線だけ寄越される。
慌てて次の言葉を探し、単語と単語を必死につなぎ合わせる。
「私、あの、隣国に行くことになったのでしょうか…」
私の問いかけに父は鼻で笑った。
「役立たずは無用だ」
それだけを言い、今度こそ出て行ってしまった。
その瞬間体から力が抜け、その場に座り込む。
役立たず、と言われてしまった。
あんなにお勉強もお稽古もしてきたのに。王様もいなければ、役にも立たない。遂には、知らない国へと送られる。
思わず笑いがこみ上げる。
無価値、無意味というのはこんなにも惨めなのか。父の言うように私は愚かだった。
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雨が止まない。
父がここに来てからずっと止まない雨と見えない空。
昼も夜も変わることのない空模様につまらなさを感じ、寝るために分厚いカーテンを下ろす。
今日のことを改めて思い出して自分を抱きしめた。あの後、父に言いつけられたのだろう使用人が私を自室に閉じ込め食事も全て部屋に運び込まれた。
部屋の前には屈強な見張りがつき、兄にも会うことができなかった。
せめて、兄に会うことができたならあのいつでも優しく包み込んでくれる胸に飛び込んで縋れたのに。
隣国に行くまでに兄に会えないなんてことはないと思うけれど…
考えれば考えるほど嫌な考えが浮かぶ。
もうやめにしようとベットに向かうと、ノックが聞こえた。
こんな時間になんだろう。見張りの交代の知らせをわざわざするのだろうか。
ショールを一枚羽織り、おそるおそる扉を開けると、そこには兄が立っていた。
声をかける前に兄が部屋へ押し入って来て、寝室へと手を引かれる。
「お兄様⁈いかがなさったのですか?」
ベットに2人で向かい合うように腰かけた。
「寝るところだったのかい?アシュリー」
「はい、ちょうどお兄様のことを考えていました」
「私のことを?」
「今日はお兄様にお会いできなかったので…でも来てくださいました。今日はいい夢が見れそうです」
ふふ、と微笑むと兄もつられて笑う。
「それで、お兄様どうして…」
言葉は高い悲鳴によって遮られた。
そこまで大きなものではなく、一瞬、聞こえたか聞こえなかったか位だったが確かに私の耳には届いた。
「いま、何か…」
振り返ろうとした私を兄が抱きとめた。
強く強く。その胸に抱き込まれた。
「お兄様…?」
何も答えない兄に違和感を覚える。
そして、今度は何かが割れる物音がした。
「お兄様?何が、何が起きているんですか…⁈」
腕から逃れようともがくと更に強く力がこもった。
「お兄様、離してくださいっ!さっきの悲鳴は、お母様の、」
私が叫ぶ間も雨音に交じりながらも次々と鳴る物音。
それなのに兄は動こうとしない。
「お兄様っ、お兄様っ」
「大丈夫」
やっと発した言葉はそれだった。
何が大丈夫だと言うのだろうか、明らかな異常を完璧な兄が見向きもしない。
「大丈夫だから、アシュリー。全て任せてくれればそれでいいんだ」
「いや、いやです、また私だけが何も知らないなんて…っ」
「ごめんね、アシュリー。この日のための今までだったんだ。大丈夫、アシュリー、怖いことなんて何もないんだよ」
幼子に諭すように言い、背をゆっくりと撫でられた。
「だから、泣かないんだよアシュリー」
体を強く抱いていた腕が緩められ、兄の青い瞳と目が合う。
ぼやけた視界で、兄の輪郭もはっきりとしない。
「アシュリー、僕を見て。大丈夫、目が覚めたら全部終わっているから」
突然の眠気に抗う術もなく、そのまま微睡みの世界へ意識を手放した。




