存在意義
銀のトレーにグラスと水を持って戻ってきた兄はグラスに水を注ぐと私に手渡してきた。
緊張のあまりカラカラに渇いていたので、一気に水を煽ってしまった。
兄は空になったグラスを私の手から受け取るとその深い青の瞳でじっと見つめてきた。
一瞬、その視線に鼓動が鳴るのを感じた。
数秒、視線が絡み合い沈黙が訪れたがそれを破ったのは兄だった。
「……聞きたいことは?」
はっとして視線をさ迷わせた。
頭の中を整理しておけとは言われたけれど、そんな簡単に治るものでもなく聞きたいことがすぐには口に出てこない。
「えっと、あの、ナンシーは…?」
やっと出てきたのはそれだった。
兄は私の言葉に驚いたように目を見開き次に溜息をついた。
「アシュリー、あれは君を騙していたんだよ?そんな者の心配をするの?」
「でも、ナンシーは私の…」
私の、なんだろう。
ナンシーは常にそばに居てくれた。楽しい話もいっぱいしてくれたし、外の世界のことも強請ると少しだが教えてくれた。
いつも笑顔で優しいナンシーが自分を裏切っただなんて簡単には受け入れられなかった。
「…はあ。逃げてきっと無事だよ。でも彼女はまた君を狙うからその前に何とかしないとね」
「そう、ですか」
ナンシーの無事を知り、ほっと安堵する。
そして、ナンシーの言っていたことを思い出し身体が硬直した。
「あ、の、お兄様、王様がいないって本当ですか…?」
縋るような目を兄に向けていたと思う。
どうか、嘘であって。お願い。と願いながら返事を待つが返ってきたのは残酷なものだった。
「本当だよ」
「…っ、どうして…どうして教えて下さらなかったんですか⁈私が今までずっと王様のためにお勉強もお稽古もしていたのをご存知でしたでしょう?」
兄は答えず、ただ黙って私を見つめている。
私はそんな兄がずるいと思った。
「お母様もお姉様だって、そんなこと…誰も…」
そう言って、気付く。
母も姉も率直には言わなかったが、それらしいことはなんとなく言っていた気がした。それにあの態度はこういうことだったのかと悟る。
母と姉に認めてもらうためには、お妃教育を頑張ればいつかは、なんて考えいた自分に笑いがこみ上げてくる。
無駄だった。全部。何もかも。
「お兄様は私が、哀れに思って優しくして下さっていたのですか…」
「それは違うよ、アシュリー」
頬を包み込む兄の体温も今はただ煩わしいだけだった。
「アシュリー、君は私の唯一だ。この世界でいちばん大切な存在だ。この言葉に偽りはないよ」
「…分からないです、お兄様、分からないわ」
子どもが駄々をこねるようにいやいやと首を振って兄を拒絶するが力強く抱きしめられ身動きがとれなくなる。
「だって、王様がいないなら、私が存在する必要なんてないもの、何のために私、生きていたの?何のために、あんな…っ」
急に毒慣らしのことを思い出し吐き気がこみ上げる。
「アシュリー。アシュリー、大丈夫だから」
兄が落ち着かせるように背中をさすってくれる。
「大丈夫というなら教えてください、お兄様、私はこれから、どうすればいいのですか?何を頼りに生きていけば…?」
兄の腕に縋り答えを請う。
「おねがい、教えて、分からないんです…もう…私は今まで何も知ろうとしてこなかった…少しの疑問も抱かずに…いいえ、心の何処にいつも疑問はたくさんあった。けれど、聞くのが怖くて知らないふりをし続けてきた…」
気付いていた、何となく。
それでも、自分にできたことは与えられたただ王妃教育をこなし、優秀であることだった。
再度、兄の顔を見ようとしたのと同時に部屋の扉が乱暴に開け放たれた。




