<寄り道小話> 愛称
本編とはあまり関係ありません
今日は姉の婚約者様が屋敷に来る日だった。
婚約者様は現皇太子ということもあり、朝から屋敷は慌ただしかった。
私はというと、一昨日から今日は大人しくしていろと目を釣り上げた姉に言われていた通り大人しく過ごすことにしていた。ただし、書庫で。
書庫なら退屈することもないし、姉と婚約者様が書庫に来るなんてことは万が一にも考えられなかった。
書庫に籠もろうと意気揚々としていたが、困り顔のナンシーに止められる。
「やはり、自室にいらっしゃった方がよろしいのではないでしょうか?読みたい本は私が取って参ります」
「大丈夫よ、それに読みたい本はその場で見つけたいもの」
そう言ってみるもののナンシーは納得がいかないという顔をする。
「お姉様はあまり本を読むのがお好きではないもの。この間もくだらない、と仰っていたわ。だから、書庫に来るはずなんてないわ」
「ですが…」
「お願いよ、ナンシー」
私の珍しいお願いにナンシーは弱い。渋々といった感じだが、ようやく了承を得ることができた。ただし、ナンシーを側に置くことが条件だったが。
さっそく書庫へ向かい、好みの本を探す。
ここにある本はほとんど読みつくしてしまっているが、探せば意外に読んでいない本は出てくる。
「ナンシー、あの本を取ってもらえるかしら?」
お目当の本を指差しナンシーに伝える。
以前の書庫での件以来、兄とナンシーに叱られたことは恐怖として私の中に刻まれている。未来の王妃たるもの同じ過ちは繰り返さないのだ。
ナンシーに手渡された本の表紙をめくる。どうやら、恋愛小説のようだ。
好きなジャンルに胸が踊る、と同時に鋭い声が書庫に響く。
「シシー!こんな所にいたの?メイド長がお怒りよ!」
書庫から焦った様子で入ってきたのは、ナンシーと共にいることを何度か見かけたことのあるメイドだった。使用人がこんな風に感情を露わにしているのは初めて見る。
そのメイドは私の姿に気付くと、表情をなくし礼をする。
「申し訳ありません。お見苦しいところを」
「いえ…それよりも、ナンシー?」
私が後ろにいるナンシーに声をかけるとナンシーはそのメイドに詰め寄った。
「メグッ、私何かしちゃったのかしら⁈」
「シシー、外に行きましょう」
「アシュリー様、申し訳ありません!すぐに戻って参ります!」
半ば涙目になりながら、ナンシーは書庫を出ていった。
急に静かになった書庫で先ほどのメイドの言葉を思い出す。
彼女は確かに、ナンシーをシシーと呼んだ。それは、たぶん確か愛称とよばれるものに違いなかった。特別親しい間柄で呼ぶものだと本で読んだことがある。ということは、あのメイドとナンシーはとても仲が良いのだろう。
屋敷にいる時は、ナンシーはほとんど私の側にいるが、私の勉強中などはあのメイドと仲良くしているのかもしれない。
それに、ナンシーもあのメイドのことをメグ、と呼んでいた。きっとそれも愛称なのだろう。
自分には愛称で呼べるような間柄の人間はいないのであの2人が羨ましく思ってしまう。
考えれば考えるほど、無駄なことを思ってしまうのでそれらを振り払うように目の前の文字を読み始めた。
本を読み始めて、どれくらい経ったのだろうか。その間に物語は中腹まで進んでいた。
同じ姿勢でずっといるのは、疲れてしまうので立ち上がろうとした時、ひそひそ声が外から聞こえた。
「本当にいいのかい?エリィ?ここは来てはいけないところじゃないのかい?」
「構いませんわ。それより見てください、エド様、この宝石綺麗でしょう?」
声の主が分かりドキリとする。書庫に来ることはないだろうが、その隣室の宝物庫に来る可能性までは考えていなかった。
こんな状況が前にもあったような気がして自分に呆れてしまう。
「エリィ、ここは何の部屋だい?」
「そこは、書庫ですわ。今はもう古びていて誰も使っておりませんの」
話題が急にこちらのことになり、心臓が跳ねる。
姉の言葉を聞く限り、こちらには来ることがないようだ。
「スペンサー家の書庫か…少し覗いてもいいかな?」
「きっとエド様が見て楽しめるようなものはありませんわ、それよりもこちらにいらして下さいな」
姉と婚約者様の声が遠のいていく。それに安堵し、外の様子に気を遣いながらも本の続きを読み進めることにした。
ナンシーが申し訳なさそうに戻ってきた頃にはもうすっかり日が暮れていた。
その頃には私は既に二冊目の本を読み終わろうとしていた。
「申し訳ありません、アシュリー様」
「大丈夫よ。何も起きなかったもの」
何も起きなかったというのは嘘ではない、と自分自身で肯定し、ナンシーに笑いかける。
「それはよかったです」
ホットしたように笑うナンシー。
ふと、先ほどのメイドを思い出し質問してみた。
「ナンシー?先ほどのメイドとは仲が良いの?」
一瞬ナンシーは驚いた顔をして、おずおずと上目遣いで答えた。
「は、はい…仲良くしている方ではあります」
何かございましたか、と恐る恐る聞いて来るナンシーに慌てて否定を返す。
「違うのよ、ただ愛称で呼び合う仲のようだったから」
あからさまにホッとするナンシーに何だか言い表せない感情が芽生える。
「それにしても、ここの使用人は私のいる前では無表情なのね」
「そのようなことはありませんわ、アシュリー様」
私はてっきりナンシーが気まずそうな顔をして口ごもるのだと思っていた。
だが、目の前のナンシーは綺麗な笑顔を浮かべてきっぱりと否定してくる。
つまり、見え透いた嘘を私についている。何故そんなことを。
「私が気付かないと思っているの…?」
自分でも怖い驚くほど低い声が出た。
それでもナンシーはきょとんとして首を傾げている。
「アシュリー様は未来の王妃、一介の使用人如きが軽々と話しかけてよいものではありませんでしょう?」
宥められるように言うそれに私の中でナンシーに対する不信感が募った。
それを気付くのが今の私には面倒で納得をしたふりをして話を終わらせた。
部屋に戻り、寝る支度を整えた。
小さな灯りをつけて、ノートを開く。
そこにナンシーの名前の横に矢印を引きシシーと書いた。同じようにエリシア→エリィ。エドモンド→エド。と。
そこまで書いて、あのメイドの名前も書き加えた。マーガレット→メグ。マーガレットの名前はナンシーに聞いた。最初は知る必要なんてない、と突っぱねられたがあまりの私のしつこさに折れたのはあちらだった。
全員の相性を書いて、自分の名前も書いてみる。アシュリーの愛称とはなんだろうか。アッシュとか?あまり思い浮かばず首を傾げた。次に兄の名前を書く。ヴィンセント。
ヴィニーとかヴィンスとかだろうか。
あまり聞き慣れないせいか、自分のも兄のもしっくりこない。
親しい間柄で呼ばれるその名にドキドキしながら、いつか未来の王様の名前に想いを馳せた。




