緊張の連続
私がケーキを食べ終わると、晴実は作戦会議と称して私を部屋まで連れていく。
「部屋も隣なんだね」
「もう一つの隣はお母さんの部屋だからね。その辺りは仕方ないと思うよ」
残った一つの空き部屋は一階だ。おばあちゃんが住む予定だったんじゃないかと思う部屋で、今は物置と化している。
考えれば考えるほど、今の状態が嘘みたいな気がしている。ちなみにベランダはつながっており、いつでも行き来できる。
ベランダに出て夜風を当たるのも好きだったが、これからはベランダにもなかなか出られなくなりそうだ。
「まずは話せるようにならないとね。仲良くなるより先にさ」
「少しならできるよ」
本当に少しだけだけど。あまりはなしをすると、心臓がおかしくなってしまいそうだからだ。
「由佳がどうなっているかは想像出来るよ。本人に聞いたけど、彼女もいないらしいし、気長にがんばればいいよ」
「そんなことを聞いたの?」
「朝、ちょっとね」
そう明るい笑顔を浮かべていた。晴実にもお姉ちゃんにも同じことを言うということはそうなんだろう。それに彼女なんかいたりしたら、女の子の家に住むなんて絶対に許しが降りないだろうと思う。私が木原君の彼女なら全力で反対する。自分の家ならともかく、何かがあってからでは遅い。
そのとき、聞きなれない音楽が響いているのに気づいた。音源は彼女の鞄だった。
晴実も同じタイミングで気付いたのか、鞄のところに行くと携帯を取り出していた。だが、メールを開いたらしい、彼女の顔が赤く染まるのに気づいた。そして動きも止まっている。
「晴実?」
「あ、あのなんでもないの」
そんな親友の見慣れない反応から、大よそどんな人からメールが届いたのか気づいてしまっていた。好きか断言することはできないが、それなりに大切に思っている相手から届いたのだろう。
「誰からのメール?」
「いえ、あの」
いつも彼女は動揺を表にだすことをしない。今日の彼女は私の知っている晴実とは別人のように見える。
そんな姿を見てしまうと、気にならないわけがない。私が彼女を問い詰めるための決意を固めたときだった。
部屋の扉が叩かれる。晴実は私の表情から何かを感じ取っていたのか、ほっとしたような表情を浮かべていた。だが、ここで終わったと思ってもらっては困る。私は彼女に聞く気満々だった。とりあえず手短に話を終わらせようとして、ドアを開ける。だが、その直後、その場に固まってしまっていた。
「邪魔してごめん。これを野村さんに渡して欲しいんだけど」
彼はそういうと、ノートを差し出す。表紙に文房具の名前がアルファベットで印刷された青のシンプルな大学ノートに数学と綺麗な文字で描かれていた。そこには木原君と同じクラスと、野木敦と見慣れない名前が書かれている。
「野木君?」
そのとき、目の前にあったノートが視界から消える。晴実がいつの間にかそれを手中に収めていた。
「分かったから。渡しておくから」
そう口にした晴実の顔が真っ赤になっていた。
でも、私には状況が飲み込めなかった。
まず、野木君って誰なんだろう。少なくとも木原君と同じクラスの人だということは分かる。そして、晴実が好意を持っているのか、意識をしている相手だということだ。
「ありがとう。じゃあ、明日ね」
彼はそう声をかけると、部屋を出て行く。
晴実はノートを受け取り鞄の中に忍ばせていた。
「私、帰らないと」
そういう晴実の手を背後から握っていた。彼女の細い指先が私の指に引っかかる。
「野木君ってもしかして晴実の好きな人なの?」
「違う」
彼女は振り返ると、口をすぼめ、どこかいじけたような仕草をしていた。肩を落とす。
「私だけ隠し事をするのはフェアじゃないよね。昔のだよ。昔の」
今の彼女の反応を見ていると、「昔の好きな人」に思えない。
「どんな人?」
晴実はなかなか口を割ろうとしない。唇を結び、首を横に振る。いつも大人びていて私にいろいろアドバイスをしてくれる彼女のそんな姿が逆に新鮮だった。同じ年だと実感できるからだ。
「木原君の友達なんだよね」
「木原君のバカ」
晴実はそううめくように言うと、その場に座り込んだ。
「大昔に告白して振られたの。ただそれだけなんだよ」
「でも、今でもすきなんだ」
「好きだよ。でも、失恋しちゃったから、終わったの」
私の言葉を否定することはなかった。彼女は一瞬だけ寂しそうに笑った。そのときの悲し気な表情がが胸に刺さる。
晴実を振るなんて贅沢な人だと思う。晴実は美人で、男からも人気があった。運動が苦手な私からすると、彼女のように運動神経が抜群だと羨ましくてたまらない。成績も中の上くらいでそこまで悪くはないと思う。誰とでも親しく話すし、友達も多い。料理なんかも普通にこなせるし、非の打ち所もないタイプだと思う。
「今日、その人と会うんだ。だからノートを預かったの。宿題をするのを忘れていたんだって」
「デート?」
「違うよ。ただ、買い物につきあうだけだよ」
彼女は全力で否定していた。そこまで否定しなくてもいいと思うけど、好きだからこそ、否定してしまうのかもしれない。
聞くと待ち合わせ時刻まで一時間を切っていた。彼女をこれ以上、好奇心を満たすために引き止めるわけにもいかず、玄関まで送ることにした。
彼女は履いてきたスニーカーに足を通す。そして、振り返ると笑顔を浮かべる。
「じゃあ、明日ね。私のことはどうでもいいんだから、由佳こそ木原君と仲良くなれるように頑張りなさいよ。私とは違って見込みもあるんだし」
見込みという言葉がやけに悲しかった。それは晴実の恋が実らないことだと言っている気がしたからだ。そして、もう一つ。私の恋心が彼に届くわけもないことを知っていたからだ。でも、友達の好意を踏みにじりたくなくて、うなずいていた。
彼女はもう一度声をかけると、金色に光る鉄製のノブに手を伸ばした。そして白い光が直線状に玄関を横断していく。その光がある太さまで太くなると、灰色の影が横切っていく。そして、先ほど太くなっていったスピードの半分ほどの時間で、その光が細くなっていった。その光の線が完全に途切れ、目立っていた砂埃も見えなくなる。
「見込み、か」
複雑な気持ちを与える言葉を暗誦していた。だが、その場に立ち尽くすのも気が引け、部屋に戻ることにした。だが、振り返ったとき、その場に固まっていた。
そこには茶色の髪の毛をした男性の姿があったからだ。彼の手には学校の近くにある本屋のブックカバーがかけられた本が置いてある。大きさから文庫本だろう。
いつから立っていたんだろう。だが、正直にそのことを聞くことができずに、彼を見つめていた。他に適当な言葉を選べればよかったが、言葉が喉に引っかかり、出てこない。
私も彼も話をしない沈黙の時間が流れていた。時間であらわすと数秒の短い時間だったと思うが、緊張からかやけに長い時間のように感じる。そこまで意識をしていたのも私だけだとも分かっている。
「野村さんはもう帰ったんだ。そろそろ行かないといけないか」
だが、私は木原君と話すというだけでいっぱいいっぱいだった。もう心臓が持ちそうもなく、その場を離れる事に決めた。
「そうだね。私は部屋に戻るね」
それだけ言い残し、足早に二階に戻ることにした。彼の視線から逃れられ、一息ついた瞬間、今度は別のことで心臓がいつもより早いリズムを刻んでいた。私の隣の部屋が開いていたからだ。
木原君の部屋がどうなっているのか見たい。
行儀が悪いと思っても、誘惑にはかてなかった。どんな部屋だと分かっているのに、覗き見たくなるなんてある意味重症だ。
私は通りすがりを装い少しだけと言い聞かせてちらっと見る。
机の上にはパソコンやら本やら学校のテキストなんかも置いてあり、女の子の部屋とはどこか違う。一言で言えば味気ない部屋。木原君の本当の部屋ってどんな感じなんだろう。あまり飾るイメージはないので、今の部屋は私のイメージとは違わない。
「田崎さん?」
後ろから声をかけられ、思わず肩を震わせ振り返る。そこには不思議そうな顔をした木原君の姿があった。
「何か用だった?」
私はその場に固まってしまった。
部屋を見たかったなんて言われたら、変な人だと思うし、下手すると気持ちに気付かれる可能性もある。
「勝手にのぞいてごめんなさい」
「いいよ。別に。ドアを開けっ放しにしていたの俺だし」
木原君は笑顔でそう答えたが、唐突に会話が途切れる。
「じゃあね」
やっぱり話すなんて無理だ。
私は自分の部屋に戻ると、緊張がほぐれ、息を吐いた。
夜ご飯は木原君が加わったためか、いつもより豪華だった。いつもは四品くらいのメニューが今日は七品くらいある。
「由佳、お皿並べて」
私は母親に呼ばれ、流し台のところまで行く。
姉と木原君は何かを親しげに話をしていたので、気遣ったんだろう。
何を話しているのか気になったが、二人の会話は私のところに届かない。
お皿を並べ終わると、姉は自分のコップとり、椅子が一つしかない席に置いた。その席は木原君が座ると思っていた席なのに。だが、彼女は私の戸惑いを気にした様子もなく、そこに座ると置いてあった缶ビールに手を伸ばしていた。
残った席は向かい合った席が四つ。お父さんとお母さんは外食に行く時も隣に座るので、私とお母さんが隣に座るということは考えられない。ということは私と木原君が隣に座ることになる。
そんなんじゃご飯なんて食べた気がしない。
姉がにやっと私を見て笑う。
分かったうえでやっているんだ。
「私がそこに座るよ」
姉はビールを飲み始め、「自分の席に座りなさい」と私の背中を押す。
「木原君は由佳の隣に座ってね」
私に抵抗する隙も与えずに、私と木原君の席が決まった。
お父さんやお母さんもやってきて食事が始まる。
話をしているときさえも心臓が自分のものでなくなったみたいにドキドキしてきてしまうのに、隣でごはんを食べるなどありえない。
両親と姉は和やかにごはんを食べていたが、私の気持ちだけは違っていた。変なことをしでかして、彼に変な女とか、下品な女とか思われたくなったのだ。それなりに食欲旺盛だが、そのときばかりはお箸を滑らせてごはんをこぼしたりしてしまうんじゃないかと考えると、ご飯を食べるのでさえも憂鬱で胃が痛くなってきた。
木原君を横目で見ると、彼は背筋を伸ばし、綺麗な仕草で食べていく。時折、両親に話しかけられれば、食べているものを食べきり、笑顔で応じていた。
余裕がなく小さくなっている私とはまさに正反対だ。それが私と彼の気持ちの大きさの差のように感じられた。
「今日は少食なのね。体でも悪いの?」
母は不思議そうに首を傾げていた。理由を知っている姉はにやにやと笑っていた。食べ終わったと告げる頃には心臓が疲弊しきってしまい、身体がだるさを覚える。最後の方には自分のことで精一杯で、木原君がどんな顔をしていたなど確認ができなくなっていた。