憧れの存在
翌日の放課後、教室に人がいなくなるのを待ち、晴実に木原君と一緒に住むことになったと伝えた。
もっとも、彼女は朝から何があったか聞きたそうにしていたが、周りの視線が気になったのか具体的に何か聞いてくることはなかった。
電話をしてこなかったのも、私に配慮しての事だろう。
だが、昨日起こった大方の内容を語った後、今は口をぽかんとあけ、私を見ている。
「一緒って同居するってこと?」
晴実も父親のことを知っているからか、「由佳のお父さんらしいね」と言うと苦笑いを浮かべていた。
「でもチャンスだよね」
「チャンスというか、恥ずかしいというか」
「一緒に話せるかもしれないし、携帯の番号とかは教えてもらったんだよね。チャンスじゃない」
私はうなずくと、机の上においていた携帯を指でなぞる。彼から昨日教えてもらい、番号とアドレスが暗記できるほど何度も確認していた。我ながら恥ずかしいくらいある。
「いつ引っ越してくるの?」
「次の日曜日だって」
「そんなに急に?」
「早めがいいだろうってことでそうなったの。だめな場合は引っ越し先を探すか、転校するからって」
それは昨日、親たちを含めた話し合いで決まったことだった。母親が言った提案混みでだ。
「うまく行くといいよね。木原君が由佳の家に住むのかあ」
晴実は頬杖をつき、窓の外をなんとなしに眺めていた。
「でも、一緒の家に住んでいるのを木原くんを好きな子にばれたら面倒そうだよね。木原君はすごく人気があるし」
「だよね」
彼には彼女がいるという話は聞いたことがない。一応は彼も否定していた。だが、その端正な顔立ちから半端なく女の子にもてていたのだ。中には私のように彼が好きでも表面に出さない子も少なからずいるだろう。だから私達が思っている以上に女の子に人気がある気がした。
どこかで気にしても仕方ないという開き直りに近い気持ちがあったのも確かだった。
教室の扉が開く音が聞こえる。思わず教室の前方にある扉に目を向けると、二人の女の子がたっていた。
二人とも名前は知らないが、顔は知っている。一人は髪の毛を後方で結っていて、もう一人は肩の付近まで髪の毛を伸ばしていた。身長は小柄で私と同じくらいだろうか。
髪の毛を結んだ子が私を睨む。
「あなたってさ木原くんと付き合っているの?」
淡々と、でもどこか不快感を込めたような声。彼女は木原くんを好きなのだろうと声から察しがつく。
誰かから言われるかもしれないと予期していた言葉をまさか放課後になってから聴くとは思わなかった。今日、興味本位な視線を送ってくる人はいたが、気にしないように、視線を合わせないように一日を過ごした。そして無事に一日を終えたと思っていたからだ。
射抜くような視線に身じろぎする。
「付き合ってはいないよ」
「どうして一緒に帰ったの?」
彼女たちは昨日の理由を聞きたいんだと理解した。友達でも一緒に帰ることはあるとは思う。私と彼が前から親しかったら、そんな言葉を向けられることはなかったのかもしれない。だが、昨日まで彼と話をしたことさえなく、友達でもない。そう思われるのも当然だ。
だが、バカ正直に、お父さん同士が知り合いで一緒に住むことになったからなんて言ったら、間違いなく彼女達の視線が余計に鋭くなるだろう。
「それは」
とりあえず、そんな視線から逃れたくて、そう言葉を発した。だが、続きを言えなかったからか視線がよけいに鋭くなっていくのを感じる。
絶対に言えない。私だったら、彼が他の子と一緒に住むなんて考えるだけでも嫌だから。それは他の子も一緒だと分かったからだ。
「あんたなんて相手にされるわけないのに勘違いしないでよ。たいして可愛くもないのに」
その言葉が、昨日浴びせられた言葉と重なり、唇を噛む。昨日の声の正体が誰なのか気づいた。
「ちょっとあなたたちいい加減に」
晴実は立ち上がると、二人を睨んでいた。彼女達は晴実の態度に身じろぎしていた。
私と違い、男女問わずに友人の多い彼女を敵に回したくないと思ったのかもしれない。
「いいよ。本当のことだから」
私はそう晴実を諌めた。争いごとを起こしたくないという一心からだった。
他の人がそう思う気持ちは分からなくもない。
私は自分の顔が好きじゃない。母親譲りの童顔も、小柄な身長も。
彼女みたいだったらそんなことも言われなかったのかもしれない。そう、いつも木原くんの傍にいる北田百合さんみたいに。
「身の程をわきまえることって大切なんだから」
二人の笑い声が響く。
晴実の椅子がガタンとなる音が聞こえた。だが、その彼女達の笑い声を遮ったのは聞きなれた親友のものではなかった。
「誰の話?」
その鋭い声に、二人は笑うことを忘れ、自分達の背後を凝視していた。
さっきまで二人しか見えなかった教室の扉のところに、もう一人立っているのに気づく。彼女は長い髪の毛を携え、ドアのところにもたれかかり、こちらを見ている。北田百合だった。
「あなたには関係ない」
でも、そう言った二人の言葉には、先ほどのような鋭さはない。誰かに救いを求めるような弱々しいものへと変わる。
百合は二人を順番に睨む。彼女の彼女の整った顔立ちはより冷たい印象を与えていた。
「そういうこと言っている自分達こそが身の程をわきまえるべきじゃない? あなた達の声って廊下に丸聞こえで、それもなかなか恥ずかしいよ」
二人の顔がかっと赤くなる。だが、百合は言葉を弱めることはしない。
「だいたい、聞きたいことがあるなら、木原くん本人に聞けば?」
彼女の凛とした言葉が静かな教室に響き渡る。
そんな百合の言葉を髪の毛を結った女の子のほうが、開き直ったのか突然笑った。
「あなただってそのことを本人に聞けないからここに来たんじゃないの。人のこと言えるわけ?」
「私が聞けないって」
彼女はその言葉を鼻で笑う。
「私は彼の家も、携帯の番号も知っているのに、あまり話をしたことのない彼女に聞きに来たって何の冗談? 私のクラスは隣。帰ろうとしたら陰湿な人たちの声が聞こえたから、声をかけただけよ」
その言葉に二人の顔が真っ赤になるのが見て取れた。
「何なら私から木原君に六組の根元さんと平田さんが彼の友達の田崎さんに何か文句をつけていたと教えてあげようか? きっとすぐに来てくれるよ。さっき帰ったばかりだから」
彼女は携帯を取り出すと、キーを操作していた。
「さっきって」
「ああ、あなた達の話を聞かせてあげればよかったかもね。残念なことにあなた達がここに来るより前に出て行ったけど。でも、私、記憶力がめちゃくちゃ良いんだ。あなた達の言葉を状況を踏まえて、一言一句伝えてあげる」」
二人は明らかに顔を引きつらせる。
「言って欲しくないなら今すぐ帰りなさいよ。二度とこんなくだらないことはしないで」
彼女たちは顔を見合わせると、私をもう一度睨み、教室を出て行く。静かな校舎に二人の乱暴な足音が響く。
その場には私と百合と晴実の三人が残された。
百合は溜め息を吐くと、そのままその場を去ろうとした。
私は彼女の姿が教室から消える前に呼び止める。
「北田さん」
百合の髪が風になびき、ゆっくりと舞い上がる。その髪の隙間から、彼女の色白の肌が覗く。
彼女の姿に一瞬目を奪われそうになった。彼女は私と目が合うと怪訝そうな顔をした。だが、不思議と怖いという気持ちはなかった。
「ありがとう」
私は頭を下げる。
「別に。ああいう人たちが大嫌いだからそう言っただけ。あなたを助けたかったわけじゃないわ」
「それでもありがとう」
彼女はそう、とだけ言うと、私たちに背中を見せて歩いていく。
「北田さん、格好良いね。もっとわがままな人だと勝手に思っていたよ」
「そうだね」
私ももっと性格がきつい人なのではないかと勝手に思っていた。人が困っていても、手を貸すイメージもなかった。
「成績もいいし、運動もできるし、何か完璧な人ってイメージだよね。家も金持ちなんだってね」
晴実はお手上げだと言いたいのか、肩をすくめて苦笑いを浮かべている。
私も晴実には全面的に同意だった。
そのとき、私の机の上においていた携帯が震える。発信者を確認した私の胸が高鳴った。
通話ボタンを押すと、携帯を耳に当てる。
昨日番号を教えて、かかってくるのは初めてだった。
「今日時間ある? 良かったら買い物に付き合って欲しい」
「買い物?」
私は声を出して。我に返る。
案の定、晴実は興味深そうに私の顔を覗き込む。彼女は誰から電話がかかってきたか気付いたのだろう。
「荷物を整理する棚を下見しようと思ったんだけど、スペースとか分からなくて。迷惑だとは思ったけど」
木原君と買い物をするなんて信じられずにただ彼の言葉をきくだけになっていた。
そんな私に晴実は「行ってきなよ」と小声で囁く。
「ごめん。忙しかった?」
「そんなことないです。どこに行けばいい?」
私の声が裏返る。晴実は笑いを堪えているようだった。
「今、どこにいる? 教室にいると、北田に聞いたけど」
北田さんの名前が出てきて、どきっとする。あの後彼女にどこかで会ったのだろうか。
「そう。でも門の外で待っているよ。うん。じゃあね」
私は学校から少し離れた場所で待ち合わせをする。
彼と話をしたいが、学校内だと何かと面倒そうだったからだ。
私は晴実と一緒に門のところに行く。
門を出たとき、少し離れた場所に長身の男の人が佇んでいるのに気付いた。彼が立っている場所の近くに桜の木が立っていて、その花びらが一枚ずつ舞っている。その姿がなんだか幻想的に見えた。
幸い、もう下校時間のピークから三十分以上過ぎているので、辺りには人がいなかった。
「由佳、明日話を聞かせてね」
晴実はにやにやした笑みで私から離れていく。
まだ私に気づいていない彼を呼ぶ。
私の声が聞こえたのか、目を細めて微笑んでいた。
彼を見ていると、心臓に悪い。でもきっと慣れるまでの辛抱だとは思う。慣れたら晴実と話すように普通に話すことができると思うから。
「本当にごめん」
木原くんの部屋は長方形に近い。よほど変な形の棚ではなければ入ると思うが、黙っておくことにした。
私たちは私の家の近くにある家具屋に行くことにした。チェーン店のお店だったが休みの日に比べると人気がなく、閑散としていた。私たちは奥にある棚売り場に向かう。彼はシンプルな本棚を買うことに決めたようだった。
「帰ろうか」
「買わなくていいの?」
「今度親と買いに来るよ。家までは送るから」
「ありがとう。でも、近いから大丈夫だよ」
「今度何かお礼するよ」
彼はそういうと、笑顔を浮かべていた。