願いごとの行方
翌朝、彼は駅に行くと、黒のブルゾンにジーンズという格好で迎えてくれた。一馬さんに会うのは久しぶりだった。彼はそんな時間の空白を感じさせないほど、優しい笑顔を浮かべていた。
「今日一日時間ある? 少し遠出をしたいんだけど」
「どこに行くんですか?」
時間は大丈夫だが、問題はお金だ。ある程度は持ってきているが、場所によっては足りない恐れもある。
一馬さんは目の前に切符を差し出す。そこに記されていたのは私の祖母の住んでいた、木原君の実家のある駅だ。
嫌な予感を抱えながら彼に問いかける。
「何しに行くんですか?」
「昔話をしに行くだけだよ」
「話なら、私の家でしましょうよ」
彼は自信に満ちた笑みで私の顔を覗き込む。
「由佳ちゃんって、昨年の夏に俺の母親にあれこれ喋ったらしいね」
その言葉に返す言葉もない。うまくいったから良かったとはいえ、最悪百合と一馬さんの関係も壊れていた可能性だってある。
「分かりました。行きます」
私たちは改札口をくぐると、その足でちょうど入ってきた電車に乗る。電車の中は早い時間であるからか、席もまばらにしか埋まっておらず閑散としていた。そのことにほっとし、電車の扉が蒸気音と共にしまる。
一番手前の四人で座ることのできるタイプの席に座ることにした。一馬さんは私の斜め向い側に腰を下ろす。
「さっきの続きだけどさ。感謝しているから。本当に」
「そんなこと早く言ってくださいよ」
私は頬を膨らませ、彼を睨んだ。
「だからせめてもの恩返しがしたかったんだ」
彼はそう笑顔で返す。彼にそんな笑顔を浮かべられるとやっぱり弱い。彼は私と木原君がどうなってほしいと思っているんだろうか。
電車が揺れ、動き出す。
「一馬さんは私と木原君がよりを戻して欲しいとでも思っていますか?」
「まあね。あいつも君のことも好きだから」
「私が他の人を好きになったら怒りますか?」
彼はゆっくりと首を横に振る。
「別に怒らないよ。それで由佳ちゃんが幸せならね」
一馬さんはそう言うと、笑っていた。彼もわかっているのだ。私の幸せに彼が欠かせなくなっていることを。私はそっと唇を噛みしめた。
駅を出ると、人気がなく閑散としていた。
私は歩き出した一馬さんの後を追う。だが、その道のりを途中まで歩んだ時、私は彼がどこに行こうとしているのか気付いてしまった。それが確信に変わったのは、再び彼の足が止まった時だ。そこはもちろん木原君の家の前だ。
「木原君の両親に会えとか言わないですよね?」
彼は銀色の私に鍵を見せた。
「今日は出かけてもらっているから大丈夫だよ」
私は胸を撫で下ろす。
一馬さんは鍵を開け、木原君の家の中に入る。私もその後に続いた。家の中もあれから一年以上経つのにほとんど変わらない。彼は階段をあがっていく。私もその後をついていく。階段をあがり終えたところで、彼に問いかける。
「どこに行くんですか?」
「雅哉の部屋」
「人の部屋に勝手に入っていいの?」
「親の許可を得ているから大丈夫」
一馬さんはそう言うと、三番目の部屋を開けた。そこは部屋というよりは荷物置き場といったほうが正しいかもしれない。学習机や本棚、ベッドなどが置いてあり、今でも使える状態にはなっているが、その脇にはダンボールなどが積み重ねてあったのだ。中には送付状がついたままになっているものもあった。
木原君の部屋に入ったのは初めてだった。ここで彼は幼い日々を過ごしていたんだと思うと、恥ずかしいような、懐かしいような気持ちが芽生えてくる。
「昨日、敦から電話がかかってきてさ。いろいろ頼まれたんだ」
「野木君から?」
私は彼と野木君に面識があったことに驚いていた。
一馬さんは頷いた。
彼は箱からまるめられた画用紙を取り出した。その端は少しよれている。それを広げ、私に渡す。それは線と点で描かれた女の子と男の子の絵だった。髪の毛の長さや背格好から子供の姿だと分かる。
「これって何?」
「母の日に雅哉が描いた絵」
「母の日?」
幼稚園のとき、お母さんの絵を描いた記憶がある。でも、そこに描かれた女性は母親には見えなかった。むしろ、男の子と同じ背丈のようにみえる。
「奈々さん?」
「それは君と雅哉だよ。あいつの母親が出て行って、すぐに幼稚園の母の日があったんだ。幼稚園の先生は父親の絵を描けばいいと雅哉に行ったのに、雅哉はお母さんがいないからお母さんができるようにお願いしたときの絵を描いたって言っていたよ」
私の脳裏に恥ずかしい記憶が蘇る。
「適当なことを言ってしまって悪かったと思っています」
形としてここに残ってしまっていたことに申し訳ない気持ちでいっぱいになってくる。私は本当にいろいろかき乱してばかりだった。
「そうでもないみたいだよ」
私は意味が分からずに一馬さんを見た。
「雅哉は知らないだろうけど、この絵の話を聞いて、奈々さんがおじさんとの結婚を決意したと聞いたことがある。その話を聞いてショックだったんだって。もちろん、それだけではないと思うけどさ、いいきっかけにはなったんじゃないかな」
「それって私のせいってことなんじゃ」
一馬さんは私の頭を軽く叩く。
「そうやってすぐ君は気にする。今、奈々さんが幸せならそれでよかったんだよ」
一馬さんは腰を落とすと、私と目線を合わせてくれた。子ども扱いされている気がするが、その目はすごく優しい。
「雅哉は君に会って変わったよ。母親のことに限らず泣き虫だったけど、あいつはあまり泣かなくなった。さすがに君との約束は果たせないと小学校に入るくらいには気づいたみたいだけど、ずっとあいつは君に会いたがっていたんだ」
「でも、あんないい加減なことを言ったのに」
「あのときの君は心からそう望んだのだろう?」
私は頷く。
「建前じゃない本心ってすぐに分かるから。その気持ちが嬉しかったんだと思うよ。高校で君に再会しても、一緒に暮らし始めてもなかなか話しかけられなかったみたいだけどね。だから、奈々さんに頼んで、アルバムを君の家におくってもらったんだ」
「あれって一馬さんがそうさせたの?」
「気づくかもしれないかって思ってね。由佳ちゃんが雅哉以上に鈍いことに驚いたけど」
「ごめんなさい」
「謝る必要はないよ。君と別れたと聞いてずっと気になっていたんだ。君がこのままでいいと思うなら、あいつと付き合えとは言わない。でも、一つだけ。何で雅哉と別れようと思ったの? 雅哉のことを好きじゃなくなったってわけじゃなさそうに見える」
やっぱり彼の言葉は不思議だ。すっと心に入り込んでくる。
決定的なのは、彼が私の前で表面的にしか笑わなくなったこと。でも、木原君を避け出した最初の発端は、バレンタインだ。
彼が唯一チョコレートを貰った同じ学校の生徒。
「バレンタインで木原君はチョコレートを貰っていたの。同じ中学で、木原君のことがずっと好きだった子からの」
「篠崎って子からもらったってやつ?」
彼が知っていることに戸惑いながらもうなずいていた。
「君さ晴実ちゃんとどこか人の多いところで雅哉とつきあっているだのそういう話をしてなかった?」
「したことはあるよ。でも学校では」
「学校ではね。でも、その子がその話を盗み聞きしていたらしいんだよね。で、つきあっているってことを黙っていてあげるから、チョコを受け取ってって言われて仕方なく受け取ったってさ。君が付き合っているのを隠したがっていたから、そうするのがいいんじゃないかってね。チョコは梨絵さんにあげたらしいんだけど、知らなかった?」
私は一馬さんの言葉にうなずいていた。
「でも、他にも。お店でアクセサリー買ってたの。三月に。大学のことだって私より希実のほうが先に知っていて」
「アクセサリーってこれ?」
彼は鞄に手を伸ばと、白い袋を取り出していた。あのときより袋にしわが入っていたが、木原君が手にしていたものに似ている気がした。
彼はその封を解いてしまった。そして白い長方形のケースを取り出し、そのケースの中身を私にみせた。彼と昔映画を見に行ったときに見かけたものと同一でないにせよよく似ているネックレスだった。
一馬さんは私に彼は白い封筒に入ったメッセージカードを渡す。封筒からざらっとしたさわり心地のカードを出し、中身を確認して、余計に何もいえなくなってしまっていた。
「雅哉の部屋から勝手に持ってきたけど、君にかったんだから君がしているといいよ」
彼はネックレスを私の手にそっと置く。体をわずかに冷やす金属独特の感触が波紋状に手のひらに広がる。




