果たせなかった約束
夏休みを終えると、推薦入試が始まった。受験という言葉が重荷に思いながらも、受験だから自分を保てていたのだということも薄々気付いていた。今が高校三年でよかった、と思う。彼が志望校を変えたことも、私の家を出て行ったことも、あっと言う間に広まった。
学校も晴実たちと一緒に帰ることがほとんどだ。
彼と顔を合わせる機会もなくなり、同居人と同じ学校の生徒の差を思い知らされた。
私は手元にある教科書から視線を窓の外に向ける。もう授業が終わり、多くの生徒が帰宅の途につき、クラス内にいるのは数えるほどだった。
「最近、木原君ってどこか冷たい感じがしない?」
「え? いつもどおり優しいじゃない」
不意に聞こえてきた会話に無関心を装いながら、教科書のページをめくる。
「そうなんだけど、なんか以前とは違うというかさ」
「受験が大変なんだと思うよ」
「まあ、そうだよね。三年になって急に志望校を変更していたからね」
否応なしに飛び込んでくる会話をから意識を逸らすために出しっぱなしにしていたシャーペンを指先で転がす。
「そろそろ帰ろうか」
物音が聞こえ、話し声も止む。彼女たちから戸締りを頼まれ、教室内に一人になる。
私は木原君の話が聞こえなくなったことに、ほっと胸をなでおろした。
肌寒さを感じ、コートを上から羽織る。これからまた一気に気温が下がるんだろう。そう思った時、教室の扉が開く。扉のところには見慣れた二人の少女がたっていた。
「ごめんね。遅くなっちゃって」
晴実は軽い足取りで私のところまでやってきた。その後ろを百合がついてくる。二人とも先生に分からないところを聞きたいらしく遅くなると言っていたのだ。
「いいよ。気にしないで」
私は読んでいた教科書を鞄に片付けようと閉じたとき、晴実の影が私の教科書にかかる。彼女は机の隅に手をかけると、身を乗り出してきた。
「卒業旅行の話だけど、由佳はどれがいいか決めた?」
「考えたけど、決められないかな」
晴実は目を細めると、私の前の席に座る。膝の上に置いた鞄からクリアファイルに入ったものを取り出す。旅行に関係するものが幾つか入っているのだ。その中で旅行の情報誌を取り出すと、私の机に広げる。
先生に見つかったらかなり怒られそうな気がするが、彼女はあまりそうしたことは気にしない。百合が私の席に到着する。彼女は私の隣の野木君の席から椅子だけを引っ張り出すと、私の机の寄せた。
「確かにまずは受験があるからね」
百合は少し困ったように微笑んだ。
「早めに予約していたほうが安いんだもん。春は日帰りで行って来年の夏休みとかでもいいんだけど。でも、両方でも楽しそうかな」
晴実らしい言葉に思わず笑みを漏らす。
受験が終わった後、旅行に行こうと言い出したのは晴実だった。アルバイトなどもしていないし、そんなにお金はないということでそんなにお金がかからないプランを立てたいようだ。
まず考えたのが車だ。でも、私達は当然免許は持っていない。百合の提案で一馬さんに送ってもらったらどうかという話があがっていたのだ。車は百合のお父さんが貸してくれるらしい。
もう一つは私のお姉ちゃんに送ってもらう話だ。そうなった時には私の家の車を出せばいい。私のお姉ちゃんはもともと旅行が好きな人で、晴実とも仲が良い。百合とは直接かかわる機会はないが、百合にかなり興味を持っているのは言動からすぐにわかる。姉と両親には事前承諾を得ており、前もって言ってくれれば問題ないと言っていた。
夏に行けばいいのではないかと言っても、晴実は春に拘りがあるのか、絶対に行くと言い張っている。
「由佳の誕生日もあるんだから、盛大にしないとね」
「誕生日は私の家にきたら? 受験の後ならケーキや好きなものを作ってあげるけど」
「じゃあ、チーズケーキがいいな」
「晴実の誕生日じゃないんだから。作るのは由佳の好きなケーキだって」
そんな漫才みたいな会話を繰り広げる二人に思わず笑みを漏らす。さっきまで凝り固まっていた気持ちがほぐれていくのを感じていた。
「もう帰るんだよね?」
私の問いかけに、百合と晴実が顔を合わせる。
「そのことなんだけど、折角待っていてもらって悪いけど、もう少し遅くなりそうなんだ。だから先に帰っていていいよ。ごめんね。今度、何かをおごるから」
晴実が私の前で両手を合わせる。
もう時刻は五時近くになっていた。待っておくと言うと二人に余計な気を使わせてしまうことになるかもしれないと思い、素直に帰ることにした。
「分かった。気にしないで」
「旅行のこと、考えておいてね。これ貸すから時間のあるときにでもみておいてね」
苦笑いを浮かべると、それを鞄に入れることにした。
二人はもう一度私に謝ると、慌てて教室を出て行く。
誰もいなくなった教室で、ほっと息を吐く。そして、すぐ隣にある窓の鍵を開けると、窓を横に引く。窓から入ってきた冷たい風が私の髪の毛をまくし立てていく。目の前のグラウンドではサッカー部が練習をしている。
こんな時間もあと高校生活で数えるほどなのだと思うと、今の何も対象物もなく観察することさえ、愛しい時間に思えてくるのが不思議だった。
窓を絞めようとしたとき、窓に人の姿が映っていた。振り返ると、いつの間にか教室内にいた野木君と目が合う。
「まだ残っていたんだ」
「いろいろとね。もう帰るなら、一緒に帰ろうか」
「そうだね」
彼の言葉にうなずき、窓を閉める。
私たちは教室の戸締りをすると、帰宅の途につく。鍵は先に彼が取ってしまい、私は先に教室を出る。廊下はがらんとして、冷たさだけが漂っている。すぐに野木君が出てきた。彼が鍵を閉めるのを確認し、私たちは教室を離れることにした。
野木君と最近、よく話をするからか、木原君が私の家を出て行ったのは私達がつきあっているからだという噂もあった。すぐに立ち消えになったが、よからぬ噂に彼を巻き込んでしまったことが申し訳なかった。
窓から入ってくる頼りない光に導かれ、私達は階段を降りる。
「北田たちが心配していたよ」
私は頷き、一段下る。
「心配させないようにしているのにね」
私は彼の言葉に苦笑いを浮かべる。
踊り場に到達する。そのときなんとなしに近くにある窓ガラスを見ると、自分の顔を確認できた。自分の顔をこうやってみたのも久しぶりだ。あまり昔と変わらないが、少しだけ頬の辺りが痩せたかもしれない。
「あれから雅哉とほとんど話をしていないんだよな」
「家を出て行っちゃったし、きっかけもないしね」
私が話しかければ話をしてくれるかもしれないが、今更合わせる顔もなかった。それに彼が私と話をしたくないと思っている可能性だってある。
「鍵は返しておくから、靴でも履いていろよ」
私は彼の言葉にうなずき、自分の靴を履きかえる。いつの間にか古くなったローファーを見て、息を吐いた。
野木君が戻ってくるのを待ち、一緒に昇降口の外に出る。
冷たい風が流れてきた。私はマフラーを結び直す。もうすぐクリスマスだ。
「旅行先、決まった?」
「うんん。まだ。私に決めろって言われちゃった」
野木君は私の言葉に笑っていた。いつの間にか彼の髪の毛も風のせいで毛先が不ぞろいになっている。
「楽しい旅行になるといいな」
「でも、夏のほうがいい気がするんだよね。晴実は引越しもあるのに」
「春にしておきたいことがあるんじゃない」
「旅行を?」
彼は首を横に振る。
辺りはもう暗い色が包み込みつつある。その暗闇が人の声だけを飲み込んでしまったように、辺りは静まり返り、私達の足音と、風の音だけが響いていた。
「君は」
野木君がそう言って私を見た。だが、彼の言葉の続きがいくら待っても聞こえてくることはなかった。不思議に思い彼を見ると、彼の視線は私ではなく背後に向いていたのだ。振り返り、彼が言葉を失った理由に気づく。
木にまぎれるように私の視界に先に入ってきたのは男の人と、女の人。私は女の子そっちのけで、困惑した顔を浮かべる男性を見つめていた。
「私、先輩のことがずっと好きだったんです。だから受験が終わってからでいいからつきあってほしいんです」
少女の震える声を聞きながらも彼は困った表情のままだ。断るつもりなんだろう。そう感じ取ってしまったことに罪悪感を覚える。
「ごめん。君とは付き合えない」
「大学に行くまででも、一日だけでもいいんです」
「ごめん」
彼は首を横に振る。
彼は軽く頭を下げると、その場を後にした。木原君は振り返ることもしない。女の子は木原君の後姿を目で追っているのか、動こうとも、言葉をかけようともしなかった。
私は野木君に促され、校舎の外に出る。
五分ほど歩いたとき、野木君が足を止めた。彼は息を吐くと、天を仰いでいた。
「あいつはまだ君のことを思っていると思うよ」
そんなことないと否定した私の言葉を彼は笑う。
「十年も友達でいると、いろいろ見えてくるんだよ。もっとも君はもっと分かりやすいけどね」
「私は」
彼の言葉は暗に私の心が木原君にあると伝えていた。だが、私は否定しようとする。
そんな私の言葉を彼の言葉が打ち消した。
「野村に夏前に言われたんだ。本当に好きなら、力になってやってくれってさ。別の人を好きになれれば、君が笑ってくれるかもしれないからって。今日も気分転換に俺に一緒に帰ってやれって言っていた。 自分のことは気にしないでいいからって」
今日の百合と晴実のことを思い出し、胸が痛んだ。晴実の気持ちがまだ彼にあることを知っていたからだ。
「正直言うと、俺を見てくれる可能性があるなら、それでもいいって思っていた。でも、ここ何ヶ月君たちを見ていたら分かったよ。俺じゃだめなんだってさ。そんな期待するだけも無駄なんだって」
彼に好きだといわれたのも一度だけで、それ以来それっぽい態度を取ることはなかった。だからもう私のことなんて忘れたのだと思っていた。
「どうしてそんなことを言うの?」
彼の落ち着いた声は、心の弱い部分を刺激する。つい甘えたくなる。
「それは君だって分かっているんじゃない。君が雅哉をずっと目で追っているのと同じ理由だと思うよ」
彼はそう寂しそうに笑っていた。
忘れたいのに忘れられないから。
どうしてこんなに弱くて情けない私を好きでいてくれるんだろう。私はみんなに甘えて、助けられて迷惑をかけてばかりだったのに。今でも過剰に人に心配をさせているのに。
「私は木原君のことなんてなんとも思ってない」
「じゃあ、試しに俺と付き合う?」
私は彼を見た。
彼は真っ直ぐ私を見据えていた。
その言葉に私の心が震える。だが、その疼きはすぐに収まっていた。彼のことは好きだと思う。でも、それは木原君を好きな気持ちとは明らかに違う。
「ごめん」
熱くなった目頭から涙が落ちないように注意を払い、何とか声を絞り出す。
「初めて会ったときさ、君のことなんてバカな子なんだろうって思った」
「コンタクトの話?」
「そ。授業に遅刻してまで、見知らぬ奴のものを必死に探して。その後、遅刻の罰で用具の後片付けをさせられると分かっていたはずなのに」
「困っていたから。コンタクトは高いし。別に体育に遅刻しても怒られるだけですむけど、壊れたら困るから。もっとも探していたときは体育のことさえすっかり忘れていた」
そんなの誰が考えても分かるほど、簡単なことだった。
「君は自分が満足するなら遅刻しようがお構いなしだし。北田のこともまあよくやるなとは思ったよ。他にも君の噂はいろいろ聞いたことある。やっぱり君はバカだし、それにおせっかいだと思うよ」
バカと言われて、身もふたもなくなってくる。
「でも、そういう君だから好きになったんだと思うよ。だから、そんなに自嘲的にならなくて、自分の素直な気持ちを受け入れて、雅哉に伝えたいいと思う。不安ならそういえばいいし、行かないでほしいならそういえばいい」
「でも、そんなことを言ったら困らせてしまうから。木原君が悲しい顔をするから。そんな顔してほしくない。嫌われたくない」
私の口から本音が毀れ出る。
「君がどんなにわがままを言っても、困ることはあっても君を嫌うことはないよ。君の正直な気持ちを分からないままでいるほうが辛いんじゃないかと思う。ここ半年間、雅哉を見ていてずっときつかった。あいつは君といる時は本当に幸せそうだったよ」
毀れ出た彼の本心に、私は彼と交わしながらも果たせなかった約束を思い出していた。
それから私達はほとんど会話をせずに家まで帰る。彼は遠回りなのに私の家の前まで送ってくれた。
「私に自分の気持ちを自覚させるためにわざとそういうことを言ったの?」
私の言葉に彼は「さあな」というと曖昧な笑みを浮かべていた。
家の前で彼を見送り、家に入る。家の中には誰もいなかった。ひっそりと静まり返った階段をのぼり、二階に行く。だが、いつもなら目をあわせようとしない隣の部屋の扉を確認し、ノブにかけていた手を離す。
半年振りに冷たいノブに手をかけると、その冷たさが手の熱を奪っていく。それでも気持ちを引き締め、殺風景な部屋に入る。木原君の使っていた頃の部屋を思い出し、目頭が熱くなる。
過去を悔やむ気持ちはある。でも、今更私に何ができると言うんだろう。彼の手を離すことを選んだ私に。
私は床に座り、木原君と一緒に勉強をしたテーブルに触れる。
「木原君」
私は今はもう使われていない机に顔を伏せていた。
暗闇の中に電話の音が響く。顔をあげると、あたりは真っ暗になっていた。いつの間にか眠ってしまっていようだ。
音を頼りに鞄から携帯を取り出すと、光に照らされた名前を確認する。彼の名前をこうしてみるのも久しぶりだった。
電話を取ると一馬さんは早速話を切り出してくる。
「急だけど、明日ちょっとだけ出かけない?」
「え? でも」
「たまには俺のわがままにつきあって」
彼にそういわれると断りにくかった。
彼は明日の八時に駅でというと電話を切ってしまった。




