精一杯の決断
季節は六月にさしかかろうとしていた。
昇降口で木原君と待ち合わせ、傘をさして学校を出る。
少し歩いただけで雨粒が肌に触れる。
「ここ最近、ずっと雨だね」
私の言葉に木原君は苦笑いを浮かべていた。
一年前、木原君と話をするだけで緊張して、勉強を教えてもらうようになった頃、私は彼とどんな話をしていたんだろう。少なくとも昨年の梅雨を一度も鬱陶しいと思ったことはなかった。ほんの些細な共通点を見付けるだけでも幸せだったんだと思う。
私たちは差し障りのない会話をしながら、家への道を急いでいると、目の前の信号が赤に変わる。
その時、私達の会話がぽつりと途切れた。
信号が青になり、木原君が「行こうか」と告げる。
でも、私達の一度途切れた会話はそれで復活することなく、家までお互いほとんど話をしなかった。
家に入ると、二階まで一緒に行き、各々の部屋に入る。
私は雨に濡れぐっしょりとした前髪をかきあげると、雨の打ち付けられた窓を眺める。だが、必要以上にぼうっとしていたことに気付き、私服に着替えると、手を洗い、飲物を取るためにリビングによる。
そこには、コーヒーを手にチョコレートを食べている姉の姿があった。
私を見ると、赤いマグカップを口に寄せ、息を吐く。
「最近、雅哉君、元気ないよね」
「そうかな」
姉の言葉を交わし、食器棚から白のマグカップを取り出した。まだ強い薫りを放つコーヒーを入れる。
「最近話をしていないけど、喧嘩でもしたの?」
「喧嘩なんかしてないよ。受験生なんだし忙しいんだよ」
それだけを言い残すと、部屋に戻る。
ドアを閉め、深呼吸した。喧嘩ができたらどんなにいいだろう。互いに言い合えているということだからだ。むしろその逆だ。今の私と木原君は、今日の天気や授業中にあったことといった差し障りのないことを話すだけの関係だ。お互いに言葉を選びすぎて、意志疎通ができなくなっていた。
恋人になれば、お互いの本音を語り合って、デートをしたり、たまに喧嘩をするかもしれない。でも、一緒にいるのが幸せで、満たされる。そんな関係を望んでいたのに。今の私達はそんな関係とは程遠い。
私は分かっていたんだと思う。今の私と木原君の関係がもう終わっていることに。でも、彼の彼女でいたいという気持ちがどこかにあって、その決断を下せないでいた。
そんな心の状態が顔にも出ていたんだろう。周りから何かあるたびに、気遣われていると感じることが増えていった。
「最近、顔色悪いね」
私を見て、希実がそう口にする。
「そんなことないよ」
私は曖昧な笑みを浮かべる。木原君のことを考えてしまった時はいつもそうだ。寝つけず、夜中に何度も目が覚めてしまう。
私はテキストをまとめて立ち上がる。次の化学は移動教室になっていた。
教室を出て少し歩いた時、希実が声を漏らす。
「筆箱忘れちゃった。取りに戻るね」
「ついていこうか?」
「大丈夫。すぐに戻ってくるね」
私は窓辺に寄り掛かり、窓の外を見つめる。
雨が降りしきり、私の視界が霞んでいた。この弱々しい気持ちを洗い流してくれたら良いのに。そんな他力願望なことを考える自分自身に笑ってしまう。
笑い声が聞こえ、思わず身を潜めていた。誰といるかは分からないが、その一人が木原君ということくらいは分かる。
「お前さ、この前篠崎と一緒にいるのを見たけど、つきあっているわけ?」
「まさか。偶然会っただけだよ」
「めちゃくちゃ怪しいよな。篠崎と出来ているんじゃないかって噂されているよ」
「そんなことないよ」
いつの間にかそんな話が終わり、世間話に変わっていた。
廊下の角を逆方向に曲がる彼の表情を私は見てしまった。彼はこうやって笑う人だったんだ、と。知っていたのに改めて気付かされる。
私の前で木原君は優等生として笑っていた。あのお母さんに会いに行くと決めた時のように。
それを奪ってしまったのは間違いなく私。
「ごめんね。行こうか」
希実が私の背中をぽんと叩く。
きっと木原君は彼女といる時にはもっと笑顔でいるんだろう。
もやもやとした気持ちが固まるのが分かった。
つきあっているのに、それらしい想い出もないから、きっとすぐに忘れられる。一年と少し前に戻ればいいだけだから。大丈夫。そう何度も言い聞かせていた。
家に帰り、気持ちを落ち着ける。そして、制服を着替えると、彼に買ってもらったマスコットを鞄からはずした。それを抱きしめると机の上に置く。
私は木原君の隣の部屋をノックした。ドアを開けた彼は、私の姿を捉え、笑みを浮かべる。遠くから見ていた時に何度も見た、優等生としての笑顔。
「話があるの」
そういうと、彼は私を部屋に入れてくれた。
余計なことを言わないように、単刀直入に言葉を伝える。
「別れようか。これから受験で互いに忙しいからさ。木原君とつきあってすごく楽しかったけど、もう終わりにしたいと思うの」
そんなことを言いながら、期待をしていたのかもしれない。彼がそんなことを言わないでくれと言ってくれるのを。そう言ってくれたらまたやりなおせそうな気がした。
だが、彼は私から目をそらす。
「分かった」
彼の言葉が心に圧し掛かる。自分から言い出したのに彼の言葉にショックを受けていた。
目から涙が溢れてきそうになる。それを堪えるために唇を噛む。
「家は近いうちに出て行くから」
「いいよ。それは」
そんなことしたら両親も彼の両親も困るだろう。それに彼に別れを告げても、それでも彼とのつながりを心のどこかで求めていた。
だが、彼はその一週間後、家を出て行ってしまった。私には出て行く前日に教えてくれた。私に気遣ったのか、彼自身が居心地が悪かったのかは定かではない。両親も姉も彼を名残惜しそうに見送っていた。
行き先も分からない。ただ、一馬さんの家に行ったんだろうということはなんとなく分かった。木原君がいなくなってから、私の家がこんなに広かったんだということを今更気づかされる。
あの高校二年の四月以前に戻っただけ。これですべて元通りだ。そう望んだのは私のはずだったのになぜか涙が止まらなかった。
だが、もっと別の言葉で彼に気持ちを伝えていれば、何か妥協策が見つかったのかもしれないのに。百合と一馬さんたちみたいに。でも、私にはそうできなかった。
晴実達にそのことを伝えると、彼女たちは何も言わなかった。私たちの会話から木原君の話だけがすっぽりと消えた。自己防衛をするように、彼には私よりも相応しい人がいると何度も自分に言い聞かせる。
そして、学校ですれ違っても私達はいつの間にか目もあわせなくなっていた。




