迷子の心
三年になった。私が彼と暮らすようになり一年が経過しようとしていた。
クラス替えで木原君と晴実と百合は同じクラスで、私は野木君と同じクラスだった。
一馬さんは今年の四月から一人暮らしをはじめたらしい。でも、まだ木原君と一緒に暮らす話は私の耳には届かなかった。
木原君との会話は一時に比べると、ずいぶん減った。私がどことなく避けてしまっていたのだ。それでも話しかけると、笑顔で応えてくれる。好きなのに、話したいのに話したくない。矛盾した心を持つ自身が嫌になる。同時に付き合っているって何だろうと考える機会も増えた。
新しい教室に入ると、適当な席に座る。頬杖をつき、ホームルームの開始を待っていると目の前でショートカットの子がかがみこむ。涼しげな目元をした子で、じっと私を見ると、目を細める。
「田崎さんだよね」
「そうですけど」
見たこともない、可愛いというよりは綺麗な感じの人だった。
「私は篠崎希実っていうの。ずっと田崎さんと友達になりたかったんだ」
篠崎希実。その名前に頭より先に心臓が反応していた。
私はすぐに言葉を返せない。チョコレートの人がまさかこんなに身近にいて、私のことを知っているとは思いもしなかったからだ。
私の複雑な気持ちに気付いていないのか、彼女は笑顔で話を続ける。
「遠くから見ても可愛いなと思っていたけど、やっぱりすっごく可愛いよね。由佳って呼んでいい? 私のことは希実でいいから」
私は彼女の言葉に頷く。
彼女に警戒心はあったが、親しげに話しかけてくれる彼女と話す機会は自ずと増えて行った。
四月も下旬になってくると、大方グループのようなものが出来上がる。私は希実とほとんどの時間を過ごすことになった。木原君とのことが気になりながらも、話しやすい子ではあったのだ。
「東京の大学を受けるの?」
「そうそう。私立はこっちを受けろといわれているんだけどね」
彼女は私に自分の志望校を聞かせていた。彼女の志望校は地元の大学ではなく、東京の大学。そのことにほっとする。少なくとも大学に行けば彼女の存在が木原君との距離が離れるからだ。
「まあ、一人暮らしをすると生活費もかかるし、仕方ないんだけどね。でも、木原君も同じ大学を受けるかもしれないってね。この前、聞いてびっくりしちゃった」
彼女は私をみて、そう笑顔で口にする。
私の心臓がどくりと鳴る。
「大学?」
「本当、偶然だよね。北田さんや野木君も地元の大学にするらしいから、同じ中学の人は私達二人だけかな」
どうして「彼女」の私の前に、希実がそのことを知っているんだろう。
「希実って中学のときからずっと木原君のことを好きだったもんね。大学まで一緒だとチャンスじゃない?」
その声で顔をあげる。そこにいたのは佐藤さんという彼女と親しい友達だった。私達の席の前を通りかかったところのようだ。
「そんなことないよ。そのことは昔のことなんだから忘れてよ」
希実は頬を膨らます。だが、怒ったような言葉とは裏腹に今でも好きだと分かるほど、彼女の顔が赤くなっていた。
「あれだけ好きだって言っていたのに。今更照れなくていいんじゃないの?」
「だから、もういいんだって」
彼女の顔が赤くなれば赤くなるほど、周りの友人は彼女をからかう。彼女は最後に私に「気にしないで」と言っていた。
その日の放課後、私は木原君と帰りながらも、ずっと彼が言ってくれるのを待っていた。申し訳なさそうに志望校を変えた、と。
でも、彼の口から利かされるのは、いつものように他愛ない話だ。
部屋の前に来たとき、やっと言葉を振り絞る。
今言わなければ、彼にはずっと聞けないような気がしたのだ。
「大学、志望校を変えたの?」
彼の顔色が一瞬で変わる。
「ずっと言わないといけないと思っていたんだけど。悪い」
私は彼の部屋でその理由を聞いた。母親のお見舞いに来たときに、一馬さんの父親に出会ったらしい。そのとき、彼のつてで、大学の准教授をしているという男性に話を聞く機会があった。そして、何度か話を聞き、その大学に行きたいと思うようになっていたと。
彼の両親は彼の望みなら、と反対はしなかったらしい。
「そっか。がんばってね」
私は喉の奥から声を絞り出す。私はそれだけを伝えると、自分の部屋に戻った。その間、彼の顔を見なかった。だって、喜んでいないのに気付かれてしまうから。
私だって木原君の夢を叶えてほしい。彼がどれ程努力をしていたか知っているのだ。でも、それは彼が自発的に言ってくれるという前提があるからこそだった。その時、私は悟ったのだ。私の好きと木原君の好きの大きさは決して同じではなかったのだ、と。木原君にとって私は何でも言える存在ではなく、先に中学の同級生に志望校の変更を伝えるくらいの関係。同時に、そう考えて彼の夢を応援できない自分の心が疎ましくて堪らなかった。
私は寝不足の目をこすると、窓の外を眺めた。昨日、あれからほとんど眠れなかったのだ。でも、木原君と違う一日を送る勇気はなく、いつものように顔を合わせ、学校まで一緒に来た。
「長崎先輩、桃子先輩がいるのに向こうで女を作ったんだって」
「え? だって一ヶ月くらいしか経ってないよね」
他愛ない野次馬な話が私の耳に届く。
例年だと夏休みくらいから、卒業した先輩の後日談がよく耳に入ってくるようになる。そのほとんどが進学先の大学についての話と、恋愛の話だった。高校から有名だった恋人同士が破局して、だめになったという話も山ほど聞く。でも、たまに早い間にそういう話が入ってくる。
どうもその新しい恋人が同じ高校で、桃子先輩の友人だったということで話が盛り上がりを見せているようだ。
私と木原君は離れたらどうなってしまうんだろう。私は家でも顔を合わせているのに。それがゼロになる。
「なんだか、勝手なことを言っているね。人によるとは思うけど。うまく行っている人もいるし」
「そうだよね。私、トイレに行ってくる」
そういうと席を立つ。別にトイレには行きたくはなかったが、この場所にい続けたくなかったのだ。
私は廊下の窓辺にたたずむ人の姿を見つける。幸い、彼の周りには誰もいない。
「いい天気だね」
彼は私を見ると呆れたように笑う。
「何かあった?」
「何でもない」
彼は他愛ない話を私に聞かせてくれた。でも、その話に木原君の名前が出てこなかったのは、やっぱり顔に出ていたんだろう。
彼と近くの大学に行くという方法を考えなかったわけじゃない。でも、気軽に決めた志望校はいつしか私の本命になっていた。それに彼に合わせて志望校を変えることは何か違うのではないかとも思っていた。
だから、私は何度も言い聞かせていた。彼は頑張っているのだから、と。それでも別のところから違う気持ちが湧いてきて、私の虚栄心を洗い流してしまう。
そもそも私と彼はつきあっているんだろうか、彼はそんなことを望んでいるんだろうかと、私の心の中はいろいろな気持ちで満たされ、自分で自分の気持ちが分からなくなっていた。




