すれ違う関係
三学期になると、三年が学校に出てこなくなるからか、心なしか校舎が閑散としていた。
「ごめんね」
晴実は申し訳なさそうにそう口にする。
「また明日ね」
私は笑顔で晴実に別れを告げた。
今日、木原君は先生に用事があるらしく、遅くなるので早く帰っていいと言われたが待っておくことになったのだ。晴実は一緒に待っていてくれると残っていたが、先程親からの電話で呼び出されていたのだ。百合は一馬さんと会うらしく、一足早く帰っている。
一人きりになった教室で頬杖をつき窓の外を見る。
木原君はお母さんが亡くなってからも取り乱したりすることはなかった。当たり前のような時間が流れることが、逆に気を使ってしまい、木原君とどこかに遊びに行きたいと口に出すことさえ言えないでいた。
でも、きっと大学に入れば。そういう気持ちがどこかにあったんだと思う。
私はトイレに行くために席を立つ。
もうすぐバレンタインだ。私は彼にチョコをあげるかどうかも決めかねていた。
百合にそれを言えば、そこまで気にする必要はないと言っていたけれど。
教室の外に出たとき、冷たい空気が私の体に触れる。隣のクラスから光と、声が漏れていた。いつもなら気にせず通り過ぎるが、聞こえてきた会話がそうさせてくれなかった。
「今年、木原君って誰かからチョコを受け取るのかな」
話をしていたのは弘田昌美と、原由布子の二人だった。弘田昌美は頻繁に先生に怒られているというイメージが強く、存在が派手な感じの子だった。原由布子はいわばその目立つ彼女のとりまきのような子。先ほど口を開いたのは原さんのほうだった。
「昨年みたいに全部断るんじゃないの? 彼女はいないみたいだし」
「木原君と田崎さんがつきあっているって噂、どう思う?」
「親公認の仲だから一緒に暮らしているって話? ありえないんじゃないの? だって、木原君に田崎さんじゃつりあわないもの」
「だよねえ。男に少し人気があるって言ってもね。万が一つきあっているとしたら、言うこと聞いてくれそうだからじゃないの? 男に人気があるのもそういう理由だろうし」
二人はそんな言葉を交わすと笑っていた。
木原君と暮らしだしてから、私に関するそんな話を聞くことは珍しいことではなくなっていた。表立って文句を言えないからか、人のいないところであれこれ言われているのは知っていた。だが、そういう会話を聞いてしまうと、さすがにショックもある。
「いいなりか」
誰にも聞こえないほどの声の大きさでそう呟く。現実にそういうタイプなのかは自分でも分からないが、そう見られるのかもしれない。
「田崎さんに渡してもらえばチョコレートを受け取ってもらえるのかな」
「木原君が気を遣ってということはあるかもね。あの子に頼むと、断れなさそうだから渡してくれそう」
二人はあれこれと勝手な話を繰り広げている。それ以上二人の話を聞くのが嫌になり、教室に戻ることにした。荷物を片付けて図書館にでも行こうと思ったからだ。少なくともそこなら見通しがよく、私がいることも分かるので、いまのような陰口を叩かれることもなくなる。
席に座り、ため息を吐く。頃合を見計らい、机の上に置いていたテキストをまとめ、鞄に片付けようとしたとき、教室の扉が開いた。木原君が戻ってきたのだ。
「遅くなってごめん。帰ろうか」
彼の言葉に頷き、教室内の施錠を確認し、廊下に出る。先ほどまで話をしていた二人はもう帰ったのか、木原君の教室の電気はすっかり落ちていた。
こうして待っているのもそういうことなんだろうか。
ただ私は一緒に帰りたいだけなのに。
彼がそんなことを思っているわけがないと分かっていても、私には気がかりなことがあった。
「木原君」
私が呼びとめると彼は振り返る。
「どうかした?」
「何でもない」
木原君は何で私を好きになってくれたんだろう。私はその理由を知らないのだ。そして、私はどこかで気にしていた。
私と彼の付き合いを知っている人は好意的に捉えてくれた。彼にとってこの一年は大変で変化の多い年だった。彼の心が弱っている時にそういうつもりはなくても、その隙間に入り込んでしまったんじゃないかと。
それも恋愛の作戦といえばそうなのかもしれない。でも、私が木原君を純粋に好きになったように、彼にも同じ気持ちでいてほしいと望んでいたのだ。
彼女たちの言葉に傷ついたのも、学校で付き合いを隠してしまったのも、そういう後ろめたい気持ちがなかったといえば嘘になる。
だからせめてその理由を知りたいと思うことは幾度となくあった。でも、聞く勇気がなかったし、優しいとか、彼女たちの言っていた言葉を肯定するようなことを言われたら、泣いてしまいそうな気がして、言い出せなかった。
翌日、昇降口であの二人に出くわした。
二人は顔を見合わせると、互いにうなずき合っていた。そういうときに聞くのはいつも原由布子の役割だった。
「いつも仲が良いけど、二人ってつきあっているの?」
その彼女たちの言葉に重なるように、昨日の言葉が響いてくる。唇を噛んだ。
「つきあってないよ。ね?」
私は同意を求めて彼を見た。
彼は少し顔を強張らせていたが、頷いていた
。
「だよね。やっぱりそう思った。まさか木原君が田崎さんとつきあうわけがないってさ。あ、別に田崎さんのことを悪く言っているわけじゃないんだ。田崎さんには田崎さんに会う人がいると思うよ。でさ、田崎さんに相談があるんだけど」
「おはよう。由佳」
背後から聞こえてきた言葉に、目の前の二人が軽く体を震わせた。私が彼女に挨拶をする前に、「やっぱりいいから」と、二人は適当な言葉を並べ、その場から立ち去る。
振り返ると、百合と晴実がいた。冷めた顔つきをしている百合とは対照的に、晴実はびっくりしたのか、私の少し後方の、あの二人組みが立っていた場所をじっと見ている。
百合は私と木原君を順に見ると、木原君の背中を押す。
「先に教室に行っていて。私、由佳と話がしたいの」
「分かった」
さっきまで不快感をあらわにしていた彼から、そんな表情が消える。
彼は上靴を履くと、私達に声をかけ、階段のほうへ行く。
「外に行こうか。すぐに話は終わるから」
私は入ったばかりの昇降口から引っ張られるようにして外に出ることになった。
百合が話し場所として選んだのは、靴箱から少し離れた家庭科室の前だ。早朝だからか、人の姿はない。
百合は肩を腰にあて、ため息を吐くと、私の顔を覗き込むように見る。
「何かあった? 泣きそうな顔をしているけど」
気にはしないようにしているのに、やっぱり顔に出てきてしまっていたんだ。
「昨日、あの二人が私と木原君のことをあれこれ言っているのを偶然聞いてしまって。私に頼めばチョコを木原君に受け取ってもらえるとかなんとか」
告げ口をしている心境になり、次第に声が小さくなっていく。
「あの人達ってまだそんなことやっているんだ。私も同じことを言われたわ。自分で渡せばと言ったら、中学のときあれこれ言われたな」
「何かあったの?」
晴実は不思議そうに尋ねる。
「可愛いからっていい気になるんじゃないとか? 可愛くないとかいろいろ言われたな」
彼女は腰に当てていた手を離すと、それを右耳の近くまで持っていき、指を回転させた。艶のある髪の毛が右手のひとさし指に巻きついていく。いわれたくない言葉のはずなのに、声が心なしか弾んでいるような気がするのはなぜなんだろうか。
「何かやり返したの?」
晴実は聞いてはいけないものを聞くような口調で問いかける。
「そんな面倒なことしなわよ。ただ、はっきり言いたいことを言っただけ。告白したいなら自分でしたらってね」
彼女は笑顔で答える。
「百合って強いね」
「ああいう人たちは少し言えば何も言ってこなくなるのよ。木原君があからさまに嫌な顔をしていたみたいだし、もう直接的には言ってこないとは思うけど。だから忘れたほうがいいよ」
私は木原君が憮然とした顔をしている理由に今更気づいた。そして、百合の言った直接的という言葉の意味も。影では言い続けそうな気がしたから。
昇降口に向かう生徒の足が駆け足になっているのに気付き、私たちも急いで校舎の中に入ることにした。
バレンタインの日、私は緊張で胸を高鳴らせながら、木原君の部屋をノックした。チョコをあげるべきなのか、否かの判断を下せずに一応チョコレートは買っていた。
だが、返事はない。部屋を覗くと、木原君の姿は机にもない。彼はベッドで突っ伏して眠ってしまっていたのだ。私は脇にある薄手の毛布を彼の体にかけた。
「木原君らしいというかなんというか」
もう夜の十時を過ぎている。今日は早めにダウンをしてしまったんだろう。バレンタインだからとかそうしたことを気にしていないんだろうから。
机の上にでも置いておこうかな。
そう思い、彼の机を見たとき、心臓が嫌な鼓動を刻むのが分かった。
彼の机の上には赤の包装紙に包まれた箱状のものがおいてある。それが何かはすぐにわかる。
彼は昨年誰からも受け取らなかったから、今年もそうだと思っていた。いや、今年もそうだったはずだ。断っていたという話を耳にした。
机の上に多くのチョコがあれば、それで納得をしたはずだった。だが、それは一つだけ。脇にはレースでかざりつけをされたメッセージカードが開いた状態で置いてあった。
そこに彼に対する気持ちが綴られているのかと思ったがそうではなく、篠崎希実という名前と、「よかったら食べてね」とどうとでも取れる文面がかかれていた。
なぜ、彼女からチョコを受け取ったんだろうか。そこにある名前が百合や晴実なら気にならなかったと思う。その受け取った意味も、渡された意味も見当がつくから。知らない名前に嫌な気持ちでいっぱいになる。
私は電気を消し、自分の部屋に戻る。机の上には今日のためにかったチョコレートが置いてある。引き出しをあけ、机の上に置きっぱなしにしていたチョコレートを、クリスマスのセーターの包みの上に重ねて置いた。
バレンタインのあともいつも通りに過ぎていく。彼はチョコレートをもらったことさえも、私には言ってくれなかった。言うようなことではないのかもしれない。でも、今まで彼が私には何でも言ってくれた事が、逆に問いかける勇気を奪ってしまった。
三月に入るとホワイトデーのすぐ後に私の誕生日がある。私は誕生日に彼からプレゼントをもらえるかもしれないと密かに期待していた。その理由は少し前に彼がアクセサリーショップから紙袋を手に出てくるのを見たからだ。でも、私の誕生日におめでとうとは言われたが、彼からのプレゼントが届くことはなかった。
私はお母さんの誕生日が近く、そのプレゼントを買ったのだと言い訳を作り、何度も言い聞かせていた。




