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約束  作者: 沢村茜
第七章
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溢れ出た気持ち

 私は手元の携帯を見た。誰からの連絡を待っているわけじゃない。

 ただ、木原君の態度が変わったのだ。

 私に対しては相変わらず優しい。だが、彼から一馬さんの名前が出てくる機会が減った。


 喧嘩をしたのだろうか。

 そう思っても、踏み込む勇気がなかったのだ。


 その時、ベランダで物音が聞こえる。


 カーテンを開け、身を乗り出すと木原君がベランダに立ち、空を見上げるのに気付いた。


 それだけなら良かったのかもしれない。でも、木原君の背中がなぜかいつもより小さく見えたのだ。


 私は窓を開けるとサンダルを履き、ベランダに行く。


「夜なのに涼しくならないね」


 私の言葉に木原君は苦笑いを浮かべた。


「なかなかね」


 余計なおせっかいかもしれないという気持ちが何度も心の中に湧いてきて、言おうとした言葉を飲み込んでしまう。それを何度も繰り返した時、木原君の部屋から携帯の着信音が聞こえた。


 彼はぴくりとも動こうとしない。


 彼は空を仰ぐ。その目にうっすらと涙が浮かんでいるのに気付いた。泣いているというよりは感情が昂ぶり、それが出てきているような気がしたのだ。何かを心に秘め、思い悩んでいる表情のように見えた。


「最近、よく電話がかかってきているね。どうかしたの?」

「たいしたことじゃないよ」


 彼はそういうと溜め息を吐く。


「私にできることなら協力するよ。木原君が悲しそうにしていると心配なんだもん」


 私の口から素直な気持ちが毀れる。


 私に協力できることはほんの無力なことでしかないことも分かっていたが、今の現状は私の心を苦しめるには十分なものだった。


「部屋で話をしない?」


 私はベランダを通じて彼の部屋に入った。


 彼の部屋は荷物が増えることもなく、引っ越したままの外観を保ち続けていた。不要なものは実家に適宜送っていたので、その状態を保てたのかもしれない。


「君だったら、俺の本当の母親に会う?」


 彼の言う母親は彼の母親のお姉さん。そして、幼い頃に一馬さんのお父さんと逃げるようにして結婚をした人だった。それで関係が絶たれたのだと思っていた。


「向こうがいきなり、母さんに電話をしてきたらしい。いや、そのことは知っていたんだよ」


 彼の母親と一馬さんの父親は今、地元に戻っているのは私も知っていた。彼女が病気であまり長くないこと。木原君の両親が転勤先は昔住んでいた家の近くで、今は昔の家に住んでいるらしいこと。木原君の今のお母さんが今、彼女の面倒を見ていることを聞いた。


 木原君の母親の両親は娘が義理の弟と結婚をすると言い出して、すぐに亡くなったらしい。だから、身内は彼女だけしかいないのだ。


「会わせてくれって言っているってさ」

「会いたくない、の?」


 彼は鋭い眼差しをむけることはなかった。その代わり、息を吐く。


「会いたくないよ。あの人はああやって自分を選んだのだから。一馬の母さんや、俺の母さんの幸せを奪っていって、祖父母だってじいちゃんは心労で倒れて、ばあちゃんは食が細くなって、徐々に体が弱っていった」


 彼の口調がいつもより強くなっていた。


「一馬だって、よかったら母親に会えばって何度も言うんだよ。後悔しないようにってさ。俺は会わなくても後悔しない。一馬なんてあの人のわがままで苦労してきたのに、バカだよ」


 でも、彼はそういう人だから。優しくて、ほかの人のことを必死に考えているんだろう。きっと今は弟みたいな彼のことを必死で考えて電話をしてきたのだろう。


 彼は息を吐くと、天を仰いだ。


「分かっているんだ。俺がどうすべきことかってくらい。そうしないといけないってことくらい。でも、心の整理がつかない」


 そのときの彼の笑顔が私の胸に突き刺さる。それは今まで遠くから見てきた木原君の笑顔だったからだ。


 そのとき、以前彼のお母さんが言っていた彼が笑う姿を久々に見たと言っていた意味が分かったのだ。彼は優等生として振舞い続けてきて、その笑顔を見せ続けていたのだ、と。あまりに当たり前に私の前で笑うようになってくれらから、彼がそうやって笑うことさえも忘れていた。


 そのことに気づいていたのは木原君の両親はもちろん、一馬さんと野木君だったのだろう。


 ずっと見ていたはずなのに、肝心なことには気付けないままだった。


「今週で補習が終わるから、来週戻ろうと思う」


 彼は優等生としての決断を下そうとしているのだろう。


 家族を置いて別の人を選んだはずなのに、なぜ今更彼を苦しめようとするのだろう。


 今、何をいえば、何をしたら、彼の苦しみを少しでも取り払えるのか。


 その答えが私にはわからない。私の目から涙が毀れてくる。泣かないようにと目をこすっても、流れてくる涙の量がどっと増えたのだ。


「ごめんね。私、木原君にかける言葉が見付からなかった。木原君は私のことを元気付けてくれたのに」


「そんなことないよ。話を聞いてくれてありがとう」


 木原君が慌てたような声でそう言う。ようなと思ってしまうのは、私の視界が霞んで彼の顔がはっきり見えないからだ。


 泣いたら彼がそういうことくらい分かっていたはずなのに。


 何でわたしはこうなんだろう。


「今の私は話を聞いてあげることしかできない。でも、話だけならいつでも何時間でも聞くから、愚痴でもいいから何でも言ってほしいの」


 このままだとダメだ。もっと強くなりたいし、彼から頼られる人になりたいと心から思った。


「ありがとう。タオルもらってこようか」


「ティッシュでいい」


 私は彼からティッシュを貰うと涙を拭き取った。


「何か泣いてごめんね」


「そんなことないよ。嬉しかった」


 その時の木原君の笑顔はここ最近私に見せてくれたものだった。


 私は彼が笑顔でいてくれるために、もっと頑張ろうと決めたのだ。



 私はそれから今まで以上に木原君のことばかり考えていた。どうやったら彼が笑ってくれるのか。顔にも出ていたんだと思う。


 補習の最終日に、私の教室に百合が突然やってきて、こう告げた。


「来週から、補習が休みになるから私のおばあちゃんの家に遊びに来ない?」


 私も晴実も意味が分からずに、百合を見つめていた。


「私のおばあちゃんの家は木原君の両親が住んでいる家から二十分くらいのところにあるの。だから、いつでも会えるわ。私の家に行くと言って反対されなかったらだけど。一馬さんから聞いたの」


 彼女は一馬さんに聞き、祖母にそのことを聞いてくれたんだろうか。


「迷惑じゃないかな」


「いいのよ。お祖母ちゃんに友達も一緒にくるかもと言っていたら喜んでいたから。木原君も由佳がいてくれると心強いと思うよ」


 彼女は笑顔でそう伝えてくれた。


「ありがとう」


 晴実も行きたがったこともあり、三人で行くことになった。


 百合の実家ということで、親の許可はすぐに下りた。ついでに木原君の家の近くだと教えておくと、両親にもついでに挨拶をしておくようにと言われた。


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