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約束  作者: 沢村茜
第一章
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いつもと違う放課後

 教師の声だけが響く教室内に、それをのみ込む大きなチャイムの音が響き渡る。

 負けじと響いた今日の日直の声で、クラス中から引きずるような音が響き、チャイムの音を打ち消していた。一斉に頭を下げると、再び先ほどの音が反復される。担任は戸締りを忘れないように、と言うと、あっという間に教室から出て行った。

 教室は一気に呼び戻されたように騒がしくなる。これからクラスメイトもそれぞれ帰宅の途に着く。静まり返った校舎が騒がしくなる時間だった。


 家や部活動へ急ぐクラスメイトを尻目に窓の外に目を向ける。学校はおわったが、まだ私の放課後は始まっていなかった。それはこの場からある人を見送るのが日課となっていたからだ。彼の姿を確認してから放課後が始まる。


 いつもより体をのりだして奥を見れば、茶色の鉄製の外壁を張り巡らせた門が視界にはいる。この席は学校からでる生徒を眺められる特等席でもあったのだ。

 期待に胸を高鳴らせ、思わず笑みを浮かべていた。そして、いつも見る姿を心待ちにしていた。


 そのとき、机に影がかかる。顔をあげるとそこには胸の辺りまである髪の毛を三つ編みにした目元のはっきりとした女の子が立っていた。親友の野村晴実だった。彼女は目を細めてこちらを見ている。彼女の睫毛は綺麗なカーブを描き、天井を向いていた。その羨ましい睫毛は生まれつきのものらしい。


「じゃあね。先に帰っていてもいいよ。一応、帰る前にメールするから」

「分かった。じゃあね」


 言葉を交わすと、彼女はいたずらっぽく笑い教室を出て行く。

 彼女は先生に呼ばれているので職員室に行かないといけないとのことだった。私に迷惑をかけてはいけないと、先に帰っていいと言ってくれたのだ。

 教室から、生徒の数に比例するようにざわめきが少しずつ小さくなってくる。すでに半分ほどの生徒がいなくなっている。

 いつもなら満足し、家路につく時間だったが、今日は用事でもあったのかいつもよりも遅い。

 校庭に目を向けると、まばゆさの残る光が瞼に触れる。刻一刻と刻む時間に身を任せ、彼が出てくるのをひたすら待ち続けていた。


 その瞬間は突然やってくる。

 私の視界に彼が現れたのだ。思わず声をあげそうになる。

 目の前を横切っていくのは長身のすらっとはしているが弱々しさを感じさせない男の人だった。彼の髪の毛は辺りを照らす太陽の光によってより薄く見えた。顔ははっきりと見ることができないが、同じような瞳をしていることは知っていた。

 高鳴る鼓動を感じながら、唇を噛む。

 それが私の待っていた彼だった。


 彼は二年の木原雅哉と言った。整った顔立ちと、スタイルのよさも助けてか、女の子から人気のあった。彼の周りをつきまとっている熱心なファンもいるほどだ。

 一方の私は彼と同じクラスになったこともないどころか、話をしたこともない。話す勇気もない。それどころか彼の近くをうろつくことさもできない。そんな小心者の私が彼に対してできるのはこの場所から彼を見送ることだけ。きっと彼は私の存在さえも知らない。

 彼と話をしてみたいという願望はあった。だが、勇気がなかったのだ。


 彼の視野に私がおさまると考えるだけでも、緊張で頭がおかしくなってしまいそうだったから。

 もっと、自分に自信があればよかったのかもしれない。彼に笑顔で話しかけることのできる自信。そう、彼女みたいに。

 私は具体的にある一人の少女を思い描いていた。いつも彼女のようになりたいと思っていた。


 同時に私の視界に髪の毛の長い少女が飛び込んでくる。

 彼女は艶のある黒髪をなびかせ、私が姿を追っていた人への最短距離で近づいていく。その距離が拳一つ分になったとき、淡々と歩いていた彼の足が止まった。彼が見たのはその後ろから追ってきていた少女。二人は周囲の視線を気にしたそぶりもなく、言葉を交わしている。

 その少女の顔ははっきりとは見えないが、誰かは分かる。北田百合といい、学校随一の美少女だった。そして、彼女は女の子では木原君の数少ない友人のうちの一人でもあった。一緒にいるのを良く見かけるが、恋人同士ではないらしい。彼女が彼の彼女であれば誰もが納得しただろう。


 彼は誰から告白されても、心を動かされない。この前のバレンタインも多くの子がチョコを受け取ってもらえなかったと聞く。

 彼に思い人がいるかどうか本当のことは分からない。だからみんな好きなように想像をし、それぞれの思いのままに噂を流していた。中には北田百合に対する嫉妬に満ちたものも少なからずあった。だが、彼女はそんな噂にひるむことなく、彼の傍にいた。


 だが、私にとっては彼が誰とつきあおうが関係なかった。どう転んでも彼の好きな人が私にならないことを知っていたからだ。願望を抱くと、夢を見れなくなる。だから、私は夢を見ることをやめ、彼のことを見守ることに徹していた。


 学校の卒業と共に、彼に別れを告げ、新しい道へと旅立つ。そのことを疑ったことはなかった。そうこの瞬間までは。

 

 鞄の中からうなるような音が聞こえ、現実に引き戻される。その音の正体はすぐに分かる。

 鞄からそれを取り出すと、耳に当てる。


「もしもし?」

 見逃せない番組を見ていたのに、邪魔されたような気分で、ぶっきらぼうに返事をしていた。

「何、変な声出しているのよ」

 そう呆れたような声が響く。声の主は四歳年上の姉だった。

「なんでもないよ」


 想像以上に声に気持ちがでていたことに気づき、顔が赤くなるのを感じながらも否定していた。

 彼女は電話口で笑う。


「まあ、いっか。今日、お父さんのお友達が来るから早く帰ってきなさいって」

「わかった」


 窓の外に目を向けた。まだ彼を見送る時間が残っていることを思い出したからだ。

 窓の向こうでは彼は足を止め、辺りを見渡している。先ほどそばにいた綺麗な子ももうそこにはいない。そんな彼の手に電話が握られていた。同じタイミングで電話をしていたことに気づき、心の中がほんのりとあたたかくなるのが分かった。

 どんな些細なことでも、憧れの人との共通点は嬉しいものだから。


「今すぐ帰れる?」

 受話器の向こうから返事をせかす声が響く。

「帰るよ」


 立ち上がると、左手で荷造りの済んだ鞄を持ち上げた。今からだと彼を近くで見られるかもしれない。緊張するけど、彼の視界に私が収まることはない。だから、気にすることもないと分かっていたからだ。

 席を立ち、出口に向かう私に姉の声が聞こえてきた。


「由佳にはもう一つ頼みたいことがあるの」

「何?」


 そのとき、私が向かおうとしていた扉に一人の少女が立ちふさがる。晴実だ。彼女の口から私の名前が漏れた。

 私は彼女に手を振る。電話中だから、ちょっと待ってという意味を込めた合図だった。

 そんな状況を知らない私の耳に姉の声が響く。


「同じ学校の子を家に連れてきて欲しいの。その息子さんが同じ学校なんだって」

「学年が違ったら補習とかあるから連れてこれるか分からないけど。とりあえずクラスと名前を教えてよ」


 二年ならともかく一年や三年ならほとんど分からない。相手は私のことを知っているのだろうか。一人ずつ聞いて回るとなると、かなり面倒なことになりそうだった。相手の電話番号なども分かっていたらいいんだけど。

 足に影がかかる。晴実が目を輝かせ、私のところまで駆け寄ってきたのだ。彼女は息を吸うと、私にリアクションをする隙も与えず、言葉をつむぐ。


「木原君が由佳に用があるんだって」

「木原雅哉だったかな。学年は同じらしいけど、知っている?」


 ほぼ同時に違う声で同じ名前が聞こえ、頭が真っ白になる。電話口から、姉の声が聞こえ、なんとか返事をしていた。


「分かった。一緒に帰るね」

 私はそう言うと、電話を切った。

「教室の外まで連れてきたよ」


 その言葉に促されるように教室の扉を見ると、その開いている扉からいつも私を魅了する姿があった。何かを考える隙もなく、条件反射のように胸が高鳴る。彼が私を見ていたことに気づき、その心拍数が跳ね上がる。

 すぐに彼の視線は私からそれ、教室内を見渡している。だが、私の心臓の鼓動は乱れたままだった。クラスのざわつきが耳に届いていたが、心臓の鼓動がすぐにそれを打ち消してしまう。


 眉をひそめている彼に晴実が駆け寄っていた。

 晴実の長い指先が私に向く。指名にドキッとしながらも、彼から目を離せないでいた。木原君は目を一度見開くと、うなずく。彼の唇が「ありがとう」という言葉を形作るのが分かった。


 それから先は一つの動作がやけにゆっくり見えた。彼の視線は教室内に入ったときのようにキョロキョロすることもなく、真っ直ぐ私のほうを見ていた。その距離はあっという間になくなり私の傍までくると、目を細める。彼の瞳の中には私がいた。そのことを実感し、私の考えていることもかき消してしまいそうなほど、心臓の鼓動が乱れていた。



「初めまして。親に」


 彼が何を言おうとしたのかは姉の話からすぐに分かる。親に私と一緒に帰って来いとかそういったことを言われたのだろう。

 彼を見ているだけで、からからになってしまった喉からなんとか言葉を押し出した。


「はい。聞いています」


 なんとか言葉を伝えたとき、彼の傍にもう一つの影が現れる。彼女の姿を確認し、見慣れた場所に戻ってきたかのようにほっとする。

 彼女はさっきと同じように目を輝かせていた。彼女に何かを言おうとしたが、何を言っていいどころか、何を言おうとしたのかさえ分からなくなっていた。彼女はそんな気持ちに気づいたのか、笑顔で手を振っていた。その仕草に助けられたような気がして、木原君に話しかける。


「行きましょうか」


 彼は不思議そうな顔をして、私の言葉に返事をしていた。

 教室を出る。そこから先は生きた心地がしなかった。彼が私の傍を歩いていて、顔をあげるといつも遠くから見ていた彼がいる。夢を見ているような気分だった。足元はスポンジの上を歩いているようにふわふわし、頭は直射日光を何時間も浴びたようにぼーっとし、まともになにか考えることもできなかった。


 同じタイプの靴箱の並んでいる昇降口まで行くと、彼と別れる。そして、私の靴箱の前まで行くと、右手を心臓に当てた。心臓の鼓動は短距離走を走ったときのように乱れていた。


 何が起こっているんだろう。それが正直な気持ちだった。

 姉から電話がかかってきて、木原くんと一緒に帰るように言われて。

 お父さんの友達の息子さんというのが木原くんのことで。

 答えは分かっているはずなのに混乱してきてしまった。


 そのとき靴箱で人の声がして、我に返る。こんなことを黙々と考えている場合ではないと気付く。彼を待たせていたこともあり、靴を履き替えると昇降口の外まで行く。

 昇降口の外の石段のところには既に木原くんの姿があった。彼はぼーっとした様子でグラウンドを眺めていた。

 一度、足を止め、深呼吸をして、彼の傍まで行く。彼の顔を見る前に、頭を下げた。


「遅くなってごめんなさい」

「そんなこと気にしなくていいよ」


 彼は私を見て、優しく微笑む。その綺麗な笑顔を見ていると、気を抜けば頭が真っ白になってしまいそうになる。私は声にならない声をあげていた。


「大丈夫? やっぱり体調でも悪いんじゃ」


 彼は心配そうに私の顔を覗きこむ。


「そ、そんなことないです」


 彼の整った顔を至近距離に収め、声がいつになく上ずっていた。そして、目をそらす。彼は分かっていないんだと思う。自分の顔がどれくらい私をどきどきさせるのか。


「帰りましょうか」


 春先にしては強さを感じる太陽の光が辺りを照りつける。

 でも、そんなことを感じていたのはつかの間のことだった。私の意識は別のものに向かっていたからだ。それは人の眼差し。その理由はすぐに分かった。私が木原くんと一緒にいるからだ。私もあの子以外の子と彼が一緒にいたら、その理由を知りたくて、じっと見てしまうから。

 木原くんはいつもこんな視線を浴びているんだろうか。


 私が窓辺から見ていた視線もこう感じさせていたのだろうか。そう考えると彼を見ていたことが申し訳なくなってしまった。

 彼は気にするそぶりもなく、淡々と歩いていた。


 彼に遅れまいと歩を進めたとき、鋭い言葉が私の耳を貫いた。


「なに、あの子、たいして可愛くもないのに」


 その言葉に体が熱を帯びる。視線は足先に向かうだけで、前を見ることができなかった。それでも人の視線が痛いほど突き刺さるのだけは感じていた。

 姉に言われて一緒に帰るようになっただけでしかないのに、どうしてそんなことを言われないといけないんだろう。悔しさに似た気持ちを感じ、思わず唇を噛む。


「ごめん。迷惑をかけて」


 突然、聞こえてきた声に顔をあげる。

 並んで歩いていた彼は寂しそうな笑顔を浮かべて私を見ていた。


「迷惑なんてそんなことないです」

 声が聞こえていたのか、もしくは私が顔を合わせなかったから、そう思ったのかもしれない。実際は恥ずかしくて、それでいて悔しくて顔を合わせられなかっただけなのに。


 さっきの視線も、言われたこともどうでもよくなっていた。ただ、彼に嫌な想いをさせたくないという気持ちで、足元を見るのをやめた。私も彼とのいい思い出を作りたいと思ったからだ。こんなことになるのはきっと高校生活で一度だけで、彼にとっては少し後には忘れてしまうくらい些細なことだと思ったからだ。


「気にしないでください」


 顔が引きつっていたかもしれないが、必死に笑顔を浮かべようとはしていた。

 彼の笑顔が穏やかになるのが分かって、胸の奥がほんのりと温かい。何に感動したのか分からないが、目の奥も熱くなってきた。


「自己紹介していなかったね。俺は木原雅哉。クラスは二組」

「田崎由佳です。クラスは三組です」


 そのとき一片の風が辺りに流れる。春を伝えるような温かい風だった。

 私達は顔を合わせて、笑顔になると学校を出た。


 いつもは長く感じてしまう道のりもあっという間に過ぎ去ってしまった。人と一緒だからだろうか。それとも彼と一緒だからだろうか。私にはその答えが分からなかった。


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