気付いたこと
「でも、きつかったり、熱っぽいと思ったら熱を測ったりしない?」
「あまりそんな習慣はないから、だるかったら睡眠不足かなって思ってた」
習慣なんて、そんな問題でもない。間の抜けたことを言う彼のことが余計に心配になってきた。
「今度からきつかったら無理しないで言ってね。倒れたりしたら大変なんだから。すごく心配なんだから」
彼は口を開け、面食らったような顔をしている。そんなことを言われるとは思ってもみなかったのだろう。そして、少しだけ笑っていた。
私には彼がどうしてそのタイミングで笑ったのか分からなかった。
私と目が合った彼は「ごめん」というと咳払いをする。
「北田にも、昔似たようなことを言われたなって思って」
「北田さん?」
彼女は随分、木原君のことを知っているみたいだった。北田さんなら彼のこんな変化に気づいたのかもしれない。私が彼女の代わりになれるとは思わない。それでもほんの僅かでいい。彼の力になりたかった。
「たいしたことはできないかもしれないけど、一緒に住んでいるのだから、少しくらいは役に立つと思うから、だから何でも言ってね」
「今度からそうする」
そう言った彼の言葉が優しく、切なくなってきた。どうしてもっと早く気づいてあげられなかったんだろう。自分のふがいなさが情けない。
そのとき、彼が額にはっていたものに気付いたのか、ゆっくり剥がす。その脇には彼の頭の下に敷きたくて、敷けなかった氷枕が転がっていた。彼はそれにも気付いたようだ。
「ずっと看病してくれていたの?」
「看病ってものじゃないよ。ただ、この部屋にいただけだから」
良く考えると、プライバシーを無視して、勝手に部屋に居座って、迷惑なことをしたのかもしれない。
「ありがとう。そういえば家に電話をしないと」
「お母さんに電話をしておいたよ。起きたらまたかけるって言っておいたから、木原君から電話して。勝手なことをしてごめん」
木原君の枕元にある時計をみると、時刻は五時を過ぎていた。結局、六時間以上、ここに居座っていたことになる。ご飯を食べるのも忘れていた。だが、木原君の状態を確認してからは、お腹が空いているとは感じなかった。そうしたことを考える余裕がなかったといったほうが正しいのかもしれない。
「ありがとう。迷惑かけてごめん」
「迷惑なんかじゃないよ。一緒に暮らしているんだから、これくらい当たり前だよ」
木原君は驚いたような顔をしていたが、目を細めて笑っていた。
気取ったかっこいい笑い方ではないが、子供みたいなあどけなさを残している、彼のそんな笑い方が好きだと思った。木原君らしい笑い方のような気がしたから。
彼はベッドに手を伸ばし、腕に力を込めていた。木原君が立ち上がろうとしていた。 でも、まだ熱があったのか、足元がたどたどしい。
「何か必要なものがあれば持ってくるよ」
「飲み物をもってきてもらっていい?」
「分かった。熱を測っておいて」
私は木原君に体温計を渡し、リビングに行く。冷えているミネラルウォーターの入ったペットボトルとコップを持って、部屋に戻る。
彼は大人しくベッドに座って待っていた。私はガラスのコップに水を注ぎ、彼に手渡す。彼は「ありがとう」と言うと、水をすぐに飲んでしまっていた。
その時、電子音が部屋に響く。彼が取り出した体温計の値を見ると、三十八度五分をゆうに過ぎていた。
「意外と熱あったんだ」
彼は意外そうな顔をした。かなりの高熱なのにそんな意外そうな顔。そんな問題じゃないんだって分かっているんだろうか。
それに。
私は机の上を見る。こんな状態になっても勉強をするほど、何か目標があるのだろうか。ここの大学に行きたいと強く思うほどの。
私がその目標を妨害することはできない。それでも今日だけは無理をしないでいてほしかった。
「今日は絶対にゆっくり休んでね」
「分かった」
私はそう約束すると、彼の部屋を後にした。
私の周りの子は高校一年の後半辺りから志望校を大まかに固めている。それは晴実もだ。きっと、木原君もそうだったのだろう。私には行きたい学科とか、やりたいことは何もなかった。
ただ、漠然と大学には行く気で、姉の通っている大学の理学部辺りに行こうかなと思っていた。そう決めても学力も届かないという半端な状態だ。
「将来の夢、か」
私は自分の言葉に力なく頷いていた。
翌朝、彼の熱はすっかり下がっていた。私を含め、私の家族は学校を休んではどうかと言っていたが、木原君は大丈夫だからと学校に行こうとしていた。
木原君はお母さんに無理したことに対して怒られていたようだった。彼は家を出てから、苦笑いを浮かべながらその時の話を聞かせてくれた。
顔色は随分戻ったようだが、まだ若干疲れが見え隠れする。
「いろいろありがとう。折角の休みなのに悪かった」
休みなんかよりも木原君のほうが大切だ。だが、そんなことを素直に言えば困らせてしまうだけだということも分かっている。
私は首を横に振る。
「気にしないで。そういえばね、木原君の部屋にいるときにあの本を読んだんだ」
「どうだった?」
私は本を読んだ感想を素直に伝えようとした。だが、すぐにはうまい言葉が出てこない。それでも必死に考え、自分の感想を出そうとする。その間、彼は私を急かしたりせずに黙って待っていてくれた。
「優しい気持ちになれる本だった。文学的なこととか全く分からないけど。私、本とか全然読まないの」
「らしいね。君のお姉さんから聞いた」
「そうだったんだ」
一人で見栄をはってばかみたいだ。私はそう思うと、自ずと笑う。見栄を張る必要なんてなかったんだって気づいた。
「何か、面白い本があったら教えて」
これからは今までしなかったことに少しずつ取り組んでみたいと思ったから。
「どんな本がいい?」
「考えておく」
私は歩いている足を止めた。
隣を歩いていた木原君の足もとまっていた。
「いつもあんなに勉強しているの?」
「まあね。君の家に迷惑をかけてまでここに残っているし、現役で大学行きたいし。もうすぐ中間テストだし」
「羨ましいな。私には何もやりたいこととかないから」
「別に気にしなくていいと思うよ。人それぞれだと思うし、やりたいことが見つかったときにがんばればいいんじゃないかな」
私は彼の言葉に顔を上げる。
彼は間を置いて言葉を続ける。
「でも、今頑張っておいたほうが選択肢は増えていいとは思うよ。いざというときにね」
私は彼の考えを聞き、あっけにとられていた。みんな、勉強をしても将来に役に立たないという。わたしも正直、そう思っていた。授業中もその時間が過ぎ去ってくれるのを待っているだけの日々だった。
私が見ていたのは今の時間で、彼が見つめていたのはその少し先の未来という時間だと気付いたのだ。
「木原君が暇なときでいいから、勉強を教えてくれないかな」
本当は一人で頑張ってというのが理想的なんだって分かっていた。だが、今の私の成績を冷静に考えると、そういうレベルでもなかった。勉強をやろうにも分からないことが多すぎてすぐに詰まってしまう。
「いいよ。俺に分かることならいつでも教える」
彼は私の言葉に笑顔で答えていた。
私が彼を好きになったのは最近だけど、目で追うようになった最初のきっかけはやっぱり彼がかっこよかったからだ。それは彼を好きな人の多くがそうだと思う。
だが、彼は中身まで備わった人だった。外見が良ければ中身を知って幻滅する場合もあると思う。でも、彼に関してはそんなことはなかった。私に限っては彼を知れば知るほど彼のことが好きになっていた。一緒にいるだけで新しい世界に足を踏み入れ、前を見ることが出来る。そんな気がしていた。