熱を帯びた日
私はベッドから起きると、体を伸ばす。休日なのに平日より早く起きてしまった。落ち着かずにとりあえずごはんの準備をすることにした。お味噌汁と、ごはんと、卵焼きと簡単な野菜炒め。それが我が家の朝食だった。これくらいなら私でも作れる。
木原君が下りてくるのを待っていたが、すっかり味噌汁も冷めてしまい、私はダイニングテーブルにうつぶせになる。
いつくらいに起きてくるんだろう。
だが、彼は昨夜も遅くまで起きていた。だから、起こすのは気が引け、おきるのを待っておくことにした。
八時には起きてくるだろうと思ったが、全く起きてこずに、お腹が鳴りだした。
木原君と一緒に食べたかったので、九時、十時と時計が時間を刻むのをただ眺めているだけになっていた。
途中、私は空腹に耐えかねて、飴玉を二粒食べた。
だが、時計の針が十一時を指した時、私はさすがにリビングを出て行く事にした。寝坊といっても遅すぎるような気がするし、今日も家に行くといっていたから、さすがに起こすべきだと思ったのだ。
私は階段をあがり、木原君の部屋に行く。部屋の前まで行くと、何度も深呼吸をする。一言目はおはようと言おう。二言目にはごはんの話でもしたらいいのかな。あとは家にかえる話とか。彼とする会話のことを少しだけ考え、拳を作り、気持ちを固めると扉をノックする。
だが、返事はなかった。疲れがたまって、寝ているのかもしれない。木原君の寝顔はどんな顔なのだろうという考えが頭を過ぎる。
心配だからと言い訳をし、逸る気持ちを抑えて扉を開けた。
最初に目に入ったのは机。でも、机のところに彼の姿はない。視線をずらしていくと入り口の右サイドにあるベッドが目に入る。
そこに布団をかぶり眠っている木原君を見つける。木原君の顔は布団から出ていたがその顔を見て嫌な予感がした。彼の頬が赤く染まっている気がしたからだ。私は足音を忍ばせ、眠っている彼を起こさないように近寄る。
彼の額に手を当てた。彼の額は私の想像どおり、熱を帯びていた。
そのときは顔が赤くなっている彼のことが心配で、あまり緊張らしい緊張はしていなかったと思う。ただ、今何をすべきなのか。そうしたことを必死で考えていた。こんなときに限って誰もいない。
とりあえず熱を出したら冷やすはず。冷やすなら氷枕を使うのが良いだろう。リビングに行くと冷蔵庫の中にあった氷枕を引っ張り出してきた。あとは彼の体温を測るための体温計を救急箱から取り出し、脱衣所にあるタオルを手に、彼の部屋に戻る。
私は寝ている木原君の傍で持ってきたものが思いの外役に立たないと気付く。氷枕は頭の下に敷くものだが、寝ている彼の頭を強引に動かすのは気が引ける。体温計で勝手に熱を測るのはもってのほかだ。
苦しそうな木原君を見て、視界が滲んできたため、思わず頬を抓る。
とりあえず彼の熱を下げないといけない。
私は彼の部屋を飛び出し、階段を降りると、何か熱を冷ますものがないか探すことにした。救急箱をあけると、額に保冷剤を貼るタイプのものを見付け、木原君の部屋にもどり、額に貼ってみた。だが、彼の苦しそうな表情が楽になることはなかった。
病院に行った方がいいかもしれないとは思いながらも、私はどうしたら良いか分からない。何でこんな時に誰もいないんだろう。
呻き声をあげている彼を見ていられずに、目を逸らす。その時、私は木原君の机の上にあるものを見つけた。そこには参考書が置かれてある。いけないとは思いながらもその表紙を確認した。学校で使っているものではなく、大学の過去問を集中的に収めている本だった。
その下にあるノートには計算式が書かれていた。昨日、窓を閉めたときにはこんなものはなかった。だから、昨夜彼が引っ張り出したのだろう。昨日も、こんな状態なのに勉強をしていたのかもしれない。
私はずっと彼を頭の良い人だと思っていた。だが、それだけではない。彼はこうやって努力をして、頭の良い人になったんだろう。簡単に彼に頭が良いと言ってしまった事が恥ずかしかった。
せめて自宅に泊まっていたら、もっとうまく対応できたのかもしれない。
「木原君の両親に知らせなきゃ」
彼が来ると思い、待っている可能性もある。私はリビングに戻ると、家の電話帳をめくり、木原君の電話番号を見つけた。
私は深呼吸をすると、電話をかける。すぐに、木原君のお母さんの声が聞こえてきた。早口にならないように、一言ずつを噛みしめるように、言葉を発する。
「熱出したの?」
「はい。気づかなくてごめんなさい」
「いいのよ。やっぱり昨日引き止めたほうがよかったわね。なんとなく体がきつそうにしていたから」
木原君のお母さんと彼が別れ際に言葉を交わしていたことを思い出していた。
彼のお母さんはほんの少しの変化に気付いていた。そして、私は木原君を見ていたはずなのに、彼の優しさに舞い上がっていて気づけなかった。雨に濡れたのも良くなかったのかもしれない。
「今から迎えに行くわ」
「でも、眠っているから動かさないほうがいいかなって。起きたらまた電話をしますから。それに引越しの準備もあるとおもうので」
「でも、迷惑をかけてしまうからやっぱり迎えにいくわ。由佳さんにうつしてしまったら、もうしわけないもの」
「私は体が強いし大丈夫ですよ。何かあったらすぐに電話をしますから」
そういったのはわがままだったのかもしれない。多分、彼も実家に帰ったほうが、ゆっくりと過ごせるんだと思う。それでも少しでも彼の傍にいて、罪滅ぼしをしたかった。
私は彼女を説得し、電話を切っていた。
木原君の部屋に戻る。どうしたら熱が下がってくれるんだろう。熱を出した記憶がほとんどない私には未知の世界だった。
「ごめんね」
私はそう言葉を告げる。
彼の顔をじっと見ているのも悪い気がし、一度部屋に戻って、何か読み物でも探すことにした。そのとき、目に飛び込んできたのが図書館で借りてほとんど読んでない本。彼との話題づくりという人に聞かれたら呆れそうな理由で借りたのに、数ページで挫折し、いろんな理由をつけて結局読んでいなかった。
その本を持って、木原君の部屋に戻る。床に座ってその本を読むことにした。あのときはものすごく難しい本だと思っていたが、ある程度読み始めると、今までばらばらに感じていた物語が一つに繋がっていく。それからはページが進むのが早くなった。
木原君の様子を確認しながらであったが、その世界に引き込まれていたのかもしれない。読み終わった後に不思議な気持ちになった。繊細で、優しくて、読んだ後に涙が出てきてしまう。上手く言えないが、彼がこの本を好きな理由が少しだけ分かったような気がした。同時に、彼がこの本を読みながら、どんなことを考えていたのかが知りたかった。
「木原君」
私は身を乗り出して、彼の頬に触れる。その頬は朝よりはましになったが、まだ赤味を帯びていた。私が代わってあげられたらいいのに。
そのとき、私の頬に何かが当たるのが分かった。私を見つめていたのは、今まで何度も数知れず私を魅了してきた澄んだ瞳だ。
一瞬、意味が分からなかった。だが、意味を理解したとたん、彼に触れていた手を引っ込め、のけぞっていた。同時に私の頬に触れていた彼の手も離れていた。仰け反ってから我に返る。ものすごくもったいないことをしていたのに気付いてしまう。
「ごめん」
彼は我に返ったようにそう告げる。
「気にしないで。驚いただけだから。木原君は体、大丈夫?」
「うん。いつの間にか寝てしまったみたいで。最近、寝不足だったからかな」
彼はゆっくりと体を起そうとした。
私は慌ててそれを止める。
「そうじゃなくて、熱あったんだよ。寝ていないとだめだよ」
「熱? そうなんだ。気づかなかった。なんか体がだるいとは思ったけど、あまり寝ていないからかと思っていた」
木原君の両親が彼に一人暮らしをさせるのを迷っていた理由が分かる気がする。そんな感じで、気づかないうちに倒れていたりしそうだった。