不思議な人
彼の家は私の家から歩いて十五分ほど離れていた。私は彼の家がこんなに近かったことを初めて知った。
洋風の、海外の家を思わせるようなお洒落なつくりで、借家とはいえ、こういう家に住んでいることが新鮮だった。
彼は門の前で足を止め、私を見た。
「ここで待っていてくれる? 親に言ってくるよ」
私が返事をすると、彼は家の中に入ってしまった。
この辺りはちょうど隣の校区になる。百合や野木君は木原君と同じ中学校だったはずだ。彼女達もこの辺りに住んでいるのかもしれない。だが、それだけではない。もう少し早く会えていたら、百合や晴実みたいに彼ともっと仲良くなっていたのかもしれないと思うと、残念だった。
でも、時間はそこまで関係ないのだろう。その気があればいくらでも仲良くなれる。私の姉なんか分かりにくいからというもっともな理由で、木原君に自分のことを名前で呼ばせている。私だって由佳と呼ばれてみたいが、実際に呼ばれたら、舞い上がっておかしくなってしまいそうな気がしないでもない。
「君って」
突然聞こえてきた声に顔をあげる。そこに立っていたのは背丈の高く、華奢だが、あまり弱々しさを感じさせない人だった。その人の第一印象は綺麗な男の人だった。
黒髪に、どこか穏やか印象を与えるブラウンの瞳をしていた。年齢は私よりもずっと年上のような気がしたが、ふけているという印象はない。大人であろう彼にこんな言葉を使うのがおかしいかもしれないが、彼は大人びていた。男性はすっきりとした目元をただ見開き、私のことを見つめていた。
彼は大きな日焼けした手を顎に軽く当てると、何かを納得したのか、小さな声でうなずいていた。
「君が田崎さん?」
すっと彼の口から私の名前がつむぎだされる。その言葉はあまりに自然で、ボーっとしていると聞き逃してしまいそうだった。
どうして私のことを知っているんだろう。私は彼のことを知らないと思う。
だが、そこで首をかしげる。
本当に知らない?
心の奥にそれが本当に引っかかる。どこかで彼を見たことがある気がしたのだ。だが、その記憶を探ろうとしても、そのありかを見つけることができない。
「そうです。田崎由佳です」
彼は優しく微笑む。その笑顔が優しかったからなのか、辺りにふんわりとした空気が漂うのが分かった。見ているだけで笑顔になってしまうような雰囲気を持った人だった。
「じゃあ、邪魔をしたら悪いから今度にしようかな。またね、由佳ちゃん」
見ず知らずの、すごく綺麗な男の人に名前で呼ばれ、戸惑っていたが、彼はそんな私にもう一度微笑んだだけで背を向けてしまった。そして、その姿が次第に遠ざかっていく。
「何だったんだろう」
彼から名前で呼ばれたことと、もう一つ。心の中に蘇った言いようのない感情。懐かしくて、悲しくて、それでいて心の大事な部分を包み込んでくれるのではないかと思うほどのあたたかい記憶、だ。
そのとき、甲高い音が響く。そして、私を呼ぶ落ち着いた声が聞こえてきた。その声の主はすぐに私の足元まで到着する。
「散らかっているけどいい?」
彼は苦笑いを浮かべていた。私を連れてきたことでお母さんに何か言われたのかもしれない。
「ごめんね」
引越しでいろいろ大変な時期なのに彼の家を見たいという理由だけでそこに行き、申し訳なくなってきた。
「別に怒られたわけじゃないよ。驚いていたんだ。俺が電話しなかったのがいけなかった」
彼に誘われるように家の中にはいる。玄関には靴がたくさん置いてあるが、目の前の靴箱の中は空になっていた。私が通されたのはその玄関のすぐ近くにある客間だった。絵やら、花瓶やら多くのものが飾ってあった。この家の洋風の概観には非常に似合っていた。
ソファに座ると、扉が開いた。そして、木原君のお母さんが中に入ってきた。彼女は私と目が合うと優しく微笑む。
「散らかっていて本当にごめんなさいね」
少し前に見た木原君のお母さんはやっぱり目を奪われてしまうくらい綺麗な人だった。そして、何より若い。私の母親と同世代とは思えないくらいだ。
彼女は「ゆっくりしてね」と告げると、木原君の脇に行き、言葉を交わす。そして、彼女は出て行ってしまった。しばらく経ち、玄関の閉まる音が聞こえてきた。
「買い物に行くってさ。だから遠慮しなくて大丈夫だよ」
木原君の家に二人きりとは、今までは考えられない状況だった。そんな奇跡のような出来事に緊張をしないでいるのは難しく、余計に背筋を伸ばし、膝の上に置いた拳に力を込めてしまっていた。だが、これではかしこまっているのがばればれで、いけないと考え直す。
私は何か話題を振る事にした。
「木原君のお母さんってすごく綺麗な人だね」
木原君は首を傾げて難しい顔をしていた。自分の親を綺麗だという人はあまりいないのかもしれない。
「君はお母さんと似ているよね」
それはほめ言葉と受け取っていいのか分からなかった。木原君のお母さん並にきれいなお母さんだったら素直にありがとうと言えたかもしれない。でも、私のお母さんは普通で、年よりは若く見えるといった程度だった。もちろん、それよりも格段に木原君のお母さんのほうが若く見える。
「私って童顔なんだよね。この年で中学生に間違えられるんだから」
「そんなことないよ。高校生に見える」
褒められているのかは分からないが、笑顔の木原君にとって悪い意味で言ったんじゃないだろうとは分かった。
私はリビングの中を見渡す。木原君がずっと住んできた家。彼はどういう子供時代をすごしていたんだろう。
だが、そんなことは聞けない。
「引越しは大変?」
「引越し先は前にすんでいたところだから、そこまではないかも。そこは結構広いから荷物もほとんど捨てずに持っていくみたい」
「そうなんだ」
どこなんだろう。知りたいけど、聞けない。彼から友達と言われても、彼に踏み込むのはまだできなかった。
木原君のお母さんは帰ってくるとケーキを出してくれた。偶然にも私の好きなチョコレートケーキだった。
夜ごはんは木原君のお母さんが作ってくれた。グラタンや、から揚げなどその種類も豊富だった。木原君はいつもより品数が多いのだと教えてくれた。私が来たことで張り切っているみたいだ、と。
夜ご飯を食べ終わった後、木原君のお父さんが帰ってきて、簡単な言葉を交わした。見た目も似ているけど、それ以上にいい意味でまじめそうな雰囲気が木原君に似ている気がした。
「今日、田崎さんの家に泊まっていい? 一人では危ないし」
「いいって、木原君の家なんだからそんなこと聞かなくて泊まっていいよ。でも、いいの?」
両親と過ごせる時間はそんなに多くないのに。
「別にいいよ。念のため。いないよりは役に立つと思うから。勝手なことをしてごめん」
木原君は少し困ったような顔をしていた。
彼はその旨を両親に伝えていた。
「今日は田崎さんの家に泊まって、明日戻ってくるから」
「分かったけど、雅哉は大丈夫なの?」
木原君のお母さんが心配そうに彼を見ていた。
「大丈夫」
彼は笑顔を浮かべていたが、彼女の不安は拭い去れていないようだ。
家に帰る頃にはすっかり雨が上がっていただが、足場が悪いからと木原君のお母さんが家まで車で送ってくれることになった。
私が深々と頭を下げると、彼女は気にしなくていいと言ってくれた。
家の中は誰もおらず、しんと静まり返っていた。
「シャワー借りるね」
私は頷いた。彼はそのまま階段をあがり、部屋に戻る。
私はカレーに火を通すついでに、リビングで時間を費やす事にした。
少しして木原君らしき人影が廊下を歩いていくのが見えた。
二人きりだけど、いつもの私達の関係を考えると、そんなに気にすることもないような気がする。
彼はシャワーを浴びた後、リビングに顔を出す。そして、何かあったら呼んでと言い残すと、自分の部屋に戻っていった。