優しい嘘
リビングの扉を開け、玄関を覗き込む。だが、私は頭で何かを考えるより先に飛び出してしまっていた。なぜ、彼がここにいるのか分からなかったのだ。
木原君のスカイブルーのシャツは肩の辺りを中心に、ジーンズも裾の辺りを中心に色が変わっていた。
「どうしたの?」
彼は水滴のついた前髪を右手でかきあげると、私を見た。そして、目を細める。
「忘れ物に気付いから、取りに帰ろうと思ったんだ」
「そんなに大事なものだったの? 少ししたら止んだと思うよ」
彼は曖昧な笑みを浮かべる。
「田崎さんは大丈夫?」
私は彼の輪郭がぼやけているのに気付く。
「何もないの。あくびをしただけだから」
彼はほっとしたのか胸をなでおろしているようだった。
「部屋の窓は締めておいたよ」
「ありがとう」
そう言ってから、私は血の気が引くのが分かった。私は木原君の部屋を見ただけで、リビングに戻ってきてしまっていたのだ。他の場所は一切見ていない。風呂場はともかく、一番怖いのが姉の部屋だった。
「ごめん、ちょっと二階に行くね」
私は思わず階段をかけあがる。そして、姉の部屋の扉を空けた。空けた瞬間、冷たい風が私の額に触れる。私は一片の風の心地よさを感じるまもなく、その場に固まってしまっていた。
姉の部屋には無数の水滴が居座っていた。
「どうかしたの?」
背後から声が聞こえてきて、振り返るとぬれた髪の毛を拭う木原君の姿があった。だが、彼の視線が私の奥で止まる。彼の視線を追うように見ると、廊下の窓も開きっぱなしになっており、雨が入り込んでいた。
窓辺のへりもこの様子では雨に浸っているだろう。ちょうど雨の降る方向と一致していためか、その状況は姉の部屋よりも酷い。
彼は奥に行くと、水たまりを大股で飛び越え、窓を閉める。
「雑巾はある?」
「待っていて」
私は姉の部屋に入ると、開きっぱなしになっていた窓を閉める。
それから私は階段をおり、洗面所から雑巾を二枚持ってくると木原君に渡した。一枚は姉の部屋の床をふくために使った。
掃除を簡単に終わらせた彼は笑顔を浮かべていた。
「突然の雨だったから、仕方ないよ」
私はその言葉に、苦い笑みを浮かべる。
なぜ私が木原君の部屋だけ戸締りをしたのか、気付かないのは彼の良いところなんだろう。
雨はさっきよりも強くなり、視界が霞んでいる。
「木原君は忘れ物はいいの? 急なものだったんだよね」
こんな雨の中取りに帰るのであれば、よほど彼にとって必要なものではないかと思ったのだ。こんなことにつき合わせている場合ではないかもしれない。
「それは大丈夫」
彼は色の変わったままの洋服をじっと見る。
「着替えてくるよ」
そういうと、自分の部屋に消えていった。
私は雑巾を手に風呂場に戻ると、汚れのついた雑巾をさっと洗う。そして、雑巾がけに雑巾をかけて、リビングに戻る。
木原君はそのまま家に戻るんだろうか。
分からなかったが、私は彼のコーヒーを準備しておくことにした。セットしたコーヒーが芳ばしさを放ちだしたとき、リビングの扉が開き、木原君が入ってきた。
彼の洋服は白のシャツと、同じようなタイプなのか濃い紺のジーンズにかわっている。少し色あせていることから、さっきのものよりも古いのだろう。
「コーヒーでものむ? 今のままじゃ戻れないよね」
彼は苦笑いを浮かべ、窓の外を眺めていた。
「そうするよ。一気にふり出したね」
雨は先ほどより激しくなり、わずかに残っていた光も洗い流してしまった。雨音が室内に響き、小さな話し声だと飲み込まれてしまいそうだ。だが、なぜか彼の言葉だけは耳元にマイクが備わっているようにしっかりと聞こえる。
私はコーヒーを注ぐと、彼の前に置く。
彼は「ありがとう」と言うと笑みを浮かべたが、心配そうに私を見る。
恐らく木原君の部屋で見た住宅情報誌が気になっている心境が顔に出てしまっているんだろう。
下手に隠すなら、いっそ聞いたほうがすっきりするはずだ。
「変なこと聞いていい?」
彼は不思議そうに首を傾げる。
「いい家は見つかったの?」
「家?」
彼は虚をつかれたような顔で私を見る。とぼけているようには見えなかった。
「新しい家を探しているのかなって。部屋に住宅情報誌があったから、出て行くのかなって」
「あれは、ただ買っただけでそんなつもりじゃなかったんだけど。親と相談するために買っただけだったんだ」
木原君は腕でまだぬれている髪の毛を拭っていた。雨が彼の頬を伝う。
「タオル持ってくるね」
私は彼にタオルを出すのを忘れていたことに気づく。慌ててリビングを飛び出すと、脱衣所に行く。そこで一番新しいと思われるタオルを選び、リビングに戻ると木原君に渡した。
彼は笑顔でお礼を言うと、それで髪の毛を軽く拭いていた。だが、その彼の手が止まる。それは彼の携帯がなっていたからだ。
彼は電話を取る。
「ごめん。今、田崎さんの家。どうしてって言われても。そうなったというか」
受話器から声が漏れる。電話をかけてきたのは木原君のお母さんのようだった。だが、忘れ物を取りに帰ってきた割には歯切れが悪い。
「雨が小降りになったら戻るよ。分かった」
彼はそういうと、電話を切る。そして、携帯をテーブルの上に置いた。
「雨がやんでから取りに帰ってきたらよかったのに」
彼は黙ってしまい、真剣な顔をしている。何か悪い事を言ってしまっただろうか。
「それは嘘だったんだ。気を悪くしたらごめん」
「嘘って」
何でそんな嘘をつく必要があるんだろう。彼は私の家に入ってくるのにも、出入りが自由なのに。
「本当は、さっき電話で様子がおかしかったから心配になって戻ってきたんだ」
「心配してくれたの?」
彼は頬を赤らめうなずく。
さっきショックを受けていたのは、木原君が家を出て行くかもしれないと思ったからだった。
ごまかせばよかったのかもしれないが、彼が本当のことを言ってくれたから、私も本当の事を言いたくなる。
「さっき言った家の本を見て、木原君が出て行くんじゃないかって思ったらショックだったの。私、男の子の友達が少ないし、折角友達ができそうだって思ったのに、残念だなって思ったの」
さすがに正直にと言っても、好きだと言う気持ちは伏せておいた。そんなことを言っても、余計彼を戸惑わせてしまうだけだと分かっていたためだ。
「あんなのをおいていたら紛らわしいね。適当に見て、放置していたから。まだ正式には決まってないけど、ここには残りたいと考えているよ。それに、俺は君とは友達だから、家を出ても学校で話しかけるよ」
「友達?」
「勘違いをしていたらごめん」
彼はそういうと目を細める。
少し前に百合から聞いた言葉だった。だが、それを彼の口から聞くことで、一気に現実感のある言葉へと変わっていく。
「そうだね」
彼は出て行かないと言ってくれた。万が一、彼が出て行くとしても今までこのことがなかったことになるわけじゃない。
先ほどまで窓辺を叩いていた雨が一気に弱くなる。黒い空の合間を縫うように光がゆっくりと地上に降り注ぐ。
「雨、上がったね。今のうちに家に戻ったほうがいいかも」
「さっき梨絵さんからメールが届いたんだけど、今日の夜は一人?」
「そうだよ」
「でも、君の両親は姉妹で留守番をしていると思っているみたいだったけど」
「よくあることなの。お姉ちゃんは親がいなくなると羽を伸ばしたくなるみたいなの。要領が良いんだよね。だから、お父さんとお母さんには内緒にしてね」
「夜、大丈夫?」
「大丈夫だよ。別に一人しかいませんと宣伝しているわけでもないもの。今まで良くあったんだ」
正直な気持ちを伝えたが、彼は心配そうな顔をしている。
「そっか。俺が干渉することじゃないよね。でも、ごはんは?」
母親が作ってくれたカレーがあるといおうとしたが、彼はすぐに言葉を続けた。
「よかったら俺の家で食べる? 帰りは送るよ」
木原君の家に行きたいという好奇心には勝てず、私は頷いていた。カレーは明日の朝と昼を多めに食べてしまえばなくなるだろう。
「少しだけお邪魔しようかな」
「俺の親も喜ぶよ。田崎さんに会いたがっていたから」
「そうなの?」
木原君は私の言葉にうなずく。
ほとんど面識がなかったのに、社交辞令かもしれないが、そう言ってもらってすごく嬉しかったのだ。