優しい気持ち
ホームルームが終わると、ざわめきと共に教室内の人の数が減っていく。私は立つ元気がなく、椅子に座り込んでいた。
名前を呼ばれて顔をあげると、髪をおろした晴実が私の顔を覗き込む。
「図書館、行かないの?」
「少し用事があるから」
「私も残っていようか?」
「大丈夫。すぐに行くから」
晴実にこれ以上迷惑はかけたくなかった。彼女は私の様子が可笑しいと感じていたようだが、何かを具体的に聞くようなことはしない。そして、私の頭を軽く撫でると、「何かあったら相談に乗るから」と言い残し、教室から出て行った。
私と晴実が最後まで残っていたようで、教室内が私一人だけになる。
重い心を動かし、木原君にメールを送ることにした。百合から優しい言葉をかけられても、まだ彼の前で笑う自信がなかったのだ。そんな自分のことがまた嫌になる。
携帯を取り出し、本文を打ち、あとは送るだけとなったとき、教室の扉が開く音が聞こえた。体を震わせ、扉を確認すると、そこには長身の少女の姿があった。
彼女は扉を閉めると、私のところまでやってくる。
「やっぱりまだ落ち込んでいるんだ」
顔が赤くなるのが分かり、頷いていた。
「あなた達って本当に似ているよね。木原君も考えごとをしていたのか今日一日、ずっとボーっとしていたわよ。いつも授業は真面目に受けるのにね。ノートもとってなかったみたい」
「何で木原君が?」
百合は困ったような笑みを浮かべていた。
「あなたも相当鈍いわね。木原君のことはともかく、野木君があなたと話をしたいと言っていたの。話をきいてあげてくれない?」
「だって私は」
百合は話をすることから逃げるために言い訳をしようとした私の言葉に自分の言葉を重ねていた。
「あなたが木原君を心配しているのと同じように、彼もあなたのことを心配しているのよ。あなただって木原君のことを意識しているなら、彼がどんな気持ちでいるのか分かるわよね」
語尾を上げることのしなかった言葉には彼女の意思がこめられているような気がした。
彼は私に好きだというつもりはなかったのだ。落ち込んでいる私を慰めようとして出てきた言葉だというのは分かる。もし、自分が告白した人が、告白した事でショックを与えていたとしたら。
私はそこまで考えてやっと状況を理解した。
本当に私はダメだと思う。
私が頷くと、彼女はホッとしたような笑顔を浮かべる。
「少し時間はかかると思うけど、待っていてね」
私がどんなに酷いことをしていたのか、彼女の言葉で身を持って知った。
彼女はお礼を言うと、教室を出て行く。私は昼休みに続いて、彼女はそういう人なのだと思い知らされる。
それからは再び扉が開くのを待っていた。謝らないといけない。私は彼に対して。木原君以上に。
彼女よりも頭一つ分程高い人が、扉を開ける。彼は私と目が合うと、すぐに顔を逸らしてしまった。
なにかいわないといけない。私もそう考えるが、言葉が出てこない。
彼は唇を強く結ぶと、教室の扉を閉め、私のところまで来た。昨日のあの目で私を見つめていた。鋭さのある、それでいて澄んでいて人を魅了する瞳だ。艶やかな黒髪をかきあげると、苦い表情を浮かべる。
「昨日は悪かった。あの距離だとやっぱり聞こえてしまうよな」
彼の声は昨日のようにはきはきとしたものではなく、小さかった。それは恐らく廊下に声が届かないための配慮だろう。
彼が謝ることになったのは私のせいだった。好きだと言ってくれた相手に謝らせるなんて最悪だった。人に気持ちを伝えるのは、緊張するものだとおぼろげでも分かっていたはずなのに、それ以上のことをさせてしまっていた。
「私こそ、ごめんなさい。返事とかしないといけないと思っていたんだけど」
逃げていたんだって思う。自分が傷付きたくなかったから。
「昨日も言ったけど、返事はいいよ。分かっているから。雅哉には俺から言っておくから気にしなくていいよ。あんな場面をあいつに見せてしまったせめてもの罪滅ぼしかな。君は雅哉のことが好きなんだろうから、このままだとまずいだろう」
「別に好きなわけではありません。ただ、憧れているだけです」
「俺には同じ意味に聞こえるけど。まあ、そんなことはどうでもいいか」
彼はそういうと、穏やかな笑みを浮かべる。冷たい印象を与えるのに、笑うと優しい感じになるのに気付く。そんな笑顔をしていた人を知っている。性別は違うけど、優しい人。二人とも木原君のことが大好きなんだ。
「本当にごめんなさい。私は自分のことしか考えてなくて、あなたのことを傷つけてしまったかもしれないから」
「もともと分かっていたことだし、傷付いてもいないんだけど。俺も悪かったと思っているよ」
私は首を横に振る。彼は絶対に私を責めようとしないが、一番悪かったのが誰かなんて考える必要もないほど明らかだった。
「じゃあ、その代わりに一つだけ頼んでいい?」
「私にできることなら」
責められるかもしれないと思いながら、そう返事をする。責められても仕方ないと思っていた。だが、聞こえてきたのは私の想像を上回る言葉だった。
「雅哉が何か悩んでいるみたいだったら、話を聞いてあげてほしいんだ。一緒に住んでいるならそういうことも分かると思う」
私は驚いて彼を見る。
「それが頼みごと?」
「物足りない?」
「そうじゃなくて、頼みごとというから自分のことを言うのかと思っていました」
「別に君に何かを強要しようだなんて思わないよ。そんなことをしても誰も幸せにならないし」
彼のいうことは非の打ち所のないくらい正論だった。
「ならあと一つおまけで。あいつのことが好きなら簡単に諦めるなよ。どうせ君のことだから、自分と彼がつりあうわけがないとか本気で思ってそうだから。君はしつこく憧れているだけだというだろうけど、それなら自分で気持ちを自覚したときにはそうしてほしい」
彼は一度も笑顔を崩さなかった。私を責めたりする影の表情を見せることもなかった。
晴実がどうして彼のことが好きかわかった気がする。彼には包容力というか、そういう優しさやあたたかさがあった。それでいて、親友の木原君のことをすごく大事に思っている。人として魅力的で、好きか嫌いかと言われたら今回のことで彼のことが好きになったのは本当だった。でも、恋愛感情を持っているかといわれたら違っていると思う。
「じゃ、約束」
彼はやっぱり笑顔を浮かべていた。
そんな彼に全くときめかなかったと言ったらうそになる。でも、木原君に対する気持ちとは何かが違っていた。
木原君の言った言葉に傷ついたり、動揺したりする気持ちは、今まで他の誰に対しても感じたことがない。それは私が木原君のことを好きだという証明のような気がした。
「あいつは門のところにいるはずだから」
「一緒に帰るんですか?」
「昨日も今日も一緒に登校したんだろう。何をそんなにびびってんだよ」
「だって、木原君と話すのは緊張するから」
「だから、君にとって雅哉は『特別』なんだろう?」
私はすっと心の中に入ってきた彼の言葉にうなずく。
特別という言葉がすごくしっくりきていた。
「君も、いきなりは無理だろうけど、少しずつ変わっていけばいいんじゃない。まずは引きつらずに話すことだからそれ以前の問題だろうけど」
「誰から聞いたんですか?」
「雅哉と野村。雅哉の場合は違う言い方だけど、多分そういう意味だったと思う」
百合も晴実と野木君が親しいと言っていたから、何らかのきっかけでそういう話をしていたんだろう。だから驚くべきことではなかった。
「がんばります」
私は不安に想いながら、彼の言葉にうなずいていた。
彼とは昇降口のところで別れる。今日は裏口から帰るらしい。
私は正門に向かう。いつも通り抜ける門の姿を確認したとき、その門に並ぶように立っている影に気付いた。いつもと同じように心臓の鼓動が早くなっていく。それでもできるだけ緊張しないように、呼吸を整え、彼との距離を狭めていく。
「今、帰り? さっきもメールを送ったけど、敦から呼ばれているから、先に帰っていいよ」
そのとき、彼の携帯が鳴る。彼は私に断りを入れると、携帯を取り出しメールを確認していた。その彼の顔がわずかに赤くなっていた。
「どうかしたの?」
「なんでもない。帰ろうか。敦は用事ができたんだってさ」
野木君は私のために木原君を呼んでくれたんだろう。
彼との約束を果たすには、私には役者不足かもしれない。正直、私が木原君の役に立てるとは思わない。それでも、野木君の言ってくれたように今日より、明日、明日より明後日で時間が進むうちに少しずつなら変われるなら、彼の力になれる日が来るかもしれない。
木原君は歩みを止めると、私を見つめる。
「昨日からいろいろごめん。君に無神経なことをいった気がしたから」
「いいよ。私もごめんね。いろいろと」
彼は私の言葉に首を横に振る。
私は頑張ると決めたから、精一杯の笑顔を浮かべた。
翌朝、私は何度も鏡をチェックしていた。身だしなみを完璧にチェックして、部屋の外に出る。そのとき、木原君と出くわした。
「おはよう」
きちんと笑えていたか分からない。でも、できるだけ笑っていられたらいいという願いを込めて。
木原君は驚いたように私を見ていたけど、すぐに目を細める。
少しだけ頬を赤らめて、可愛い感じがする。
「おはよう」
「由佳、熱でもあるの? 顔が真っ赤だけど」
木原君とリビングに入ると、コーヒーを飲んでいた姉がそう声をかけてきた。
わざとなのか、本気で心配してくれているのか表情からは読めない。
「何でもないよ」
私は出来るだけ淡白に返事をする。
でも、私にはまだ気になる事がある。晴実のことだ。
言う必要はないのかもしれない。でも、やっぱり彼女には自分から伝えたかったのだ。
教室に入ると晴実が机の上で何かメモを取っていた。彼女は私と目が合うと手招きしていた。素直に彼女のところまで行く。早めに登校したからか、今教室内にいるのは私と晴実だけだ。
彼女は英語の勉強をしていたようだ。ペンをとめ、私の瞳をじっと見る。
「昨日、野木君から由佳に告白して失恋したって聞いたの。断ったのは私のことがあったから?」
ゼロじゃない。でも、晴実のことがなくても断っていたと思う。
「木原君のことがあるからだと思う。私は木原君のことが好きなの」
口にして、顔が赤くなるのが分かった。昨日認めたばかりの気持ちだ。
「そっか。私、野木君が由佳のことを好きなのは知っていたんだ。だから別にそのことでは驚かないし、由佳が野木君のことを好きになったら、つきあってもかまわないと思っていたの。だから隠しておきたかったのにね」
晴実は肩をすくめる。
「でも、野木君のことを好きになったときは私には遠慮しないでね」
そう言うと、晴実は笑顔を浮かべている。その笑顔は昨日の野木君を思い起こさせる。彼女も彼のことが本当に好きなんだろう。
「私、野木君の好きな人が由佳でよかったって思っているんだ」
「どうして?」
「私を好きになってくれれば一番いいけど、由佳なら分かるもの。こういうところが好きなんだろうなって。何でこんな人をと思うような好みの悪い人じゃなくてよかったと、ほっとしたんだ。変な話だけどね。言いにくいこともあるかもしれないけど、悩み事があったら相談してね。出来るだけ相談に乗るよ」
私は優しい言葉をくれた親友に「ありがとう」と告げた。