憂鬱な日
私は温かい空気を求めて、中庭に出てきていた。日差しを求めて出てきたのに、太陽が雲に隠されているのが、今の私の状況を物語っている気がして、ため息を吐いた。
昨日も昨日でいろいろあったが、今日は今日で嫌な時間だ。
早起きをしようとしたら、目覚ましが止まっていて寝坊をした。昨日のことから何を察したのか、今朝は姉が起こしにきてくれたけど、部屋を出たときに木原君とばったり会い、寝癖のいっぱいある頭を見られてしまった。寝起きでだるかったこともあり、顔もかなりのしかめっ面になっていたと思う。彼は驚いた顔をしていたが、作り笑いを浮かべて挨拶をしていた。
その後、母親に飲物だけでも飲んでいけと言われ、飲もうとしたら手が滑り、木原君の制服にコーヒーを零してしまった。
ぬるくなっていたからやけどをするということはなかったようだが、母親にはこっぴどく怒られ、彼は代えの制服があるから大丈夫と言ってくれたが、着替えてきてもどうもその香りが彼に残っている気がした。
謝っているうちに時間もなくなり、慌てて登校して、教室に入ってから英語一式と数学一式を忘れていることに気付いた。
晴実とはろくに顔を合わせられなかった。彼女も何かを察したのか、無理に話をしようとしなかった。高校に入学して、一番に仲良くなったのが彼女で、いつも何でも話をしてきた。でも、野木君のいったようになかった事にして良いのか、彼女に話すべきなのかも分からなかった。
考えれば考えるほど、自分で自分が嫌になる。
「どうしたの? 暗い顔して」
その声に促されるようにして顔をあげた。
そこには線の細い少女の姿があった。彼女の髪は風によってゆっくりと巻き上げられる。彼女は乱れた髪の毛を整えていた。彼女の髪はすぐに元に戻る。
私が固まっていたからか、彼女が話を切り出した。
「ものすごい暗い顔して歩いているのを見かけたから、どうしたのかな、と思って。迷惑だったらあっちにいくからそう言ってね」
こんな情けない私に声をかけてくれたからか、私の目頭が熱くなっていく。視界が滲み、目から涙があふれてきた。
泣いたらいけないのに、私は一度出てしまった涙を止めることができなかった。
私は泣きながら、さっきまで考えていたことを全て彼女に話していた。
彼女は苦笑いを浮かべながら、白地にピンクの花がプリントされたハンカチを差し出してくれた。
「今朝、彼からほのかにコーヒーの匂いが漂っていたのはそういうわけだったのね」
私は百合の言葉を聞いて、余計に泣きそうになってしまった。自分があまりに情けなかったからだ。
「ごめん。今の冗談」
私がすごい顔をしていたのか、百合は慌てた様子で訂正した。そして、軽く咳払いをする。
「野木くんの話は別に断ればいいでしょう。もちろん付き合いたいなら、別だけど」
「そうなんだけど」
「木原君に知られたことがそんなにショックだった?」
「告白がショックだったんじゃなくて、彼は私のことなんてどうでもいいのかなって今更ながらに気づいたから。それに友達の好きな人だから」
「友達というと野村さんか」
思わず彼女を凝視する。
「誰にも言わないから気にしなくていいよ。でも、きっと彼女はそのことであなたを責めたりはしないと思うよ。野村さんのほうは野木君とも仲がいいみたいだから、そのうち知るんじゃないかな。だから気にしなくていいとも思うのよ。言えないなら黙っていればいいんじゃないかな」
だが、私が何も知らない顔をしていて、他の人からその話を聞いたとしたら彼女はどう思うんだろう。わたしが彼女に黙っていて良いのか迷ったのがそうした理由からだ。
「野村さんはそんな人じゃないと思うけどね。私は木原君を通じてとか、噂でしかしらないけど」
木原君という名前を聞き、今度は別の部分に何かが刺さる。
また顔に出ていたのか、彼女は慌てて付け加えていた。
「大丈夫よ。あなたが考えているよりは彼はあなたのことを気にしているから。他人に無関心な人だからそれを考えると、あなたのことを相当気にかけていると思う。一緒に暮らしていたら、余計に気まずいかもしれないけど。ただあの人は鈍感だから困るのよね」
彼女の口から聞こえてきた言葉に思わず顔をあげる。今までの罪悪感が全て吹飛んでしまっていた。
「どうして一緒に暮らしていることを知っているの?」
そのとき思い出したのが、野木君が木原君から聞いたと言っていた話。昨日、私は告白の件で頭がいっぱいで、木原君に口止めするのを忘れていた。だが、その前に百合に話をしていた可能性もあるけど。
百合は困ったように微笑んだ。
「木原君からね。何も考えていないのだと思うわ。一応口止めはしておいたけど、かまわなかった?」
彼女の言葉にうなずく。
そのとき、鐘の音がゆっくりと響きわたる。今のは昼休みの終わりを告げるチャイムだ。
今から授業が始まる。私は昼休みになると用事があるとだけ晴実に告げ、すぐに教室を飛び出していったので、ごはんも食べていない。そして、すぐに百合にあった。彼女と私のそんな背景が異なっているとは思わなかった。
「北田さんはごはんは?」
「いいのよ。どうせ今日は学校が終わるのが早いし」
彼女と話をしていると近所のお姉さんと話をしているような感じだった。
彼女がしっかりしているのか、私が子供なのかと言われればその双方だろう。
「少し遅刻してから戻ろうか。言い訳は一人より二人のほうがしやすいから」
そういったのは私のためだったんだろう。彼女はこういう人だったのだということを初めて知った。
私は彼女から借りたハンカチを手に、百合をじっと見ていた。
「北田さんは素敵な人ですね」
「そんなことないわよ。よく生意気と言われるし」
「そんなことないですよ。綺麗でしっかりしていてすごいなって思うから」
私の言葉を聞いて、百合は顔を背けてしまった。何か悪いことを言ってしまっただろうか。だが、彼女の色白の肌が次第に赤く染まっていく。
「あなたもいい子だと思うわよ。あの人の顔を見ていたら分かるもの」
あの人というのが木原君のことだとすぐに分かった。穏やかな笑みを浮かべて微笑んでいる。彼女を遠くから見ていたといたときよりも、今のほうが彼女には敵わない気がしていた。私が思っているよりも彼女は上品で優しくて、何より木原君のことを大切に思っているのだと分かった。
気持ちも落ち着き、彼女と一緒に教室に戻ることにした。だが、教室の前で足をとめたとき、あることに気付く。私の教室はまだざわついていたが、隣のクラスからはもう英文を読み上げる声が響いていたのだ。
私が謝ろうとすると、彼女は優しく微笑む。
「悪いと思うなら気にしないで。忘れてくれればいいから」
「ありがとう」
謝れなくなってそんな言葉を口にしていた。彼女は首をわずかにかしげ、笑顔を浮かべる。
完璧すぎるな、と思う。
彼女に見送られ、教室に入る。騒がしかった教室が一気に静かになるが、私の姿を確認したからか、また騒がしくなっていた。
席に戻ると、前に座っていた晴実が振り返る。
「ごはんは食べなくて大丈夫?」
「大丈夫」
私が勝手に教室を飛び出しただけなのに、本当のことを言えない彼女に心配させ、ただ申し訳ない気持ちでいっぱいになってしまっていた。人の優しさに触れれば触れるほど自分がいかにダメな人間なのか教えられたような気がしたのだ。