少しでも近付きたくて
「悪い」
家を出た木原君の第一声だった。
今日は快晴で、辺りは明るい光が降り注ぐ。
私は首を横に振る。非があるのは私だった。自分のことしか考えていなかったから。
「私こそ、気が利かなくてごめんね」
今日、やっと普通に話せた言葉。思いのほか、すっと喉から出てきたことに胸をなでおろす。
「そんなことないよ」
彼の言葉を素直に受け入れる。それだけで心のおくがほっと温かくなるような気がした。
「でも、木原君って朝弱くないよね」
「人の家だと思うと緊張してしまって、早く起きたんだ」
そう困ったように言う木原君に少しだけ笑ってしまった。昨日、遅くまで起きていたのに、いつ眠ったんだろう。
「朝起きたら君のお父さんは家にいなかったみたいだけど、朝早いの?」
「たまに仕事が忙しいときは早めに家を出ることがあるの。女ばかりで疲れた?」
「少し」
木原君は苦笑いを浮かべていた。
「でも私の家はお父さんもあんな感じだから、いてもいなくてもあまり変わらないかも」
だが、彼と並んで歩く度胸はなく、人が一人通れるほどの距離を開けて歩いていた。もっと距離を詰めたいという願望がなかったわけではない。でも、今はこれが精一杯の勇気だった。恋人としてはありえないけど、友達としてならもしかしたらと期待しそうになる。
「そんな感じはするかも。明るい家庭でいいな」
「そうかな?」
「そう思うよ」
それは両親の仲がいいいからだと思う。だが、木原君の両親もそんな感じだった。二人とも木原君のことを本当に心配しているのだと分かったからだ。
「方向音痴って本当なの?」
昔のイメージの木原君からは想像ができない言葉だったが、今はできてしまうのがおかしい。
「本当。苦手なものばかりで嫌になるよ」
「でも、勉強とか運動ができるから羨ましいよ」
一年の頃は美術もあって、彼の絵はかなり上手だと聞いた。誰とでも卒なく話し、クラスの中心にもなれる感じだった。女の子から人気があっても、周りから疎まれている感じじゃない。それは男女の性別の差かもしれないけど、女の子の場合には怖い人もたまにいる。
「勉強はやれば誰でもできるから。運動は走るのは早いからそう感じるだけで、そんなには得意じゃないよ」
サッカーやバレーが上手なことも知っている。だから、謙遜だと思うけど、彼が頬を赤く染めていたこともあり、追求しないことにした。
「もし俺で良かったらいつでも教えるから。遠慮なく聞いて」
「ありがとう」
勉強はそこまで好きじゃない。成績もそんなによくはない。いつも親に成績表を見せるのが嫌になってしまうレベルだった。でも、木原君と一緒ならそんな時間も過ごしていいかもしれない。この高鳴る鼓動が少しでもマシになればという話だけど。今のままじゃ一緒に過ごすことも息苦しくてたまらないから。
「君は空とか星が好きなんだってね」
思わず木原君を見た」
「お姉さんに聞いたから」
昨日、二人はよく話をしていて、その中に私のこともでてきたんだろうか。木原君は優しいから、私と話をあわせるためにお姉ちゃんに私のことを聞いてくれたのかもしれない。
私は彼の優しさが嬉しくて、目を細める。
「好きかな。何もないときとかボーっと空を見たりするのがすき」
「そういうのってなんかいいね」
褒められたのは私ではなくて、その趣味なのに、それでも心の中がじんわりと暖かくなってくる。それは彼の言葉だから。
私はさっきの彼の言葉に勇気をもらい、言葉を投げかける。
「木原君の趣味って何?」
「趣味? これってものはないけど、本を読むのは好きかな」
スポーツが好きなわけかと思っていたらそんなわけでもないみたいだった。意外とインドア派なのかもしれない。読書というのは私にはちょっと縁遠い言葉だ。さすがに幅広く読んでというのは無理なので、ピンポイントで聞くことにした。
「好きな作家とかは?」
木原君の口から出てきた名前は歴史の教科書に載っているタイプの有名作家。名前だけは知っていた。意外と言えば意外だが、そうだと言われればそうだと思えなくもない。
私は本はあまり読まないが、姉は本が好きでよく読んでいた。私より姉のほうが木原君と気が合うのかもしれない。昨日の二人を思い出し、天を仰ぐ。私の視界には青く澄んだ空が映る。私も本を読めば、彼ともっと親しくなれるかもしれないという淡い期待を抱いていた。
ぎっしりと並ぶ見慣れないものに思わず苦笑いを浮かべていた。さっきから手を伸ばそうとはしているが、そのたびに手を引っ込めていた。何か触れてはいけないものが目の前に並んでいるのではないかという錯覚を覚えてしまうほどだ。
そんなことを繰り返しているうちに今朝聞いたばかりの名前を見つける。木原君が好きだと言っていた作家の本だ。今度は勇気を出して、本をつかむ。そして、ページをめくると中身を軽く確認していた。だが、想像していた以上に敷き詰められた文字に軽い眩暈がした。その上、本文が二段になっており、量も想像していたものの倍近くはあった。
試しに適当なページを開き、読んでみた。情景が浮かぶような文章といえば聞こえがいいが、長く、頭を使う。この文面で最後まで読むことなどできるのだろうか。
だが、日本語で書いてあるので読めないことはない。とりあえずやってみて理解できなかったらこのことをナシにしてしまえばいいのだ。本を抱え、カウンターまで行く。カードにクラスや氏名などを記入し、簡単に貸し出しを済ませた。このまま教室まで戻り、中身をもう一度確認しようと思ったときだった。
出て行こうと扉を見た私の姿が固まる。そこには木原君が立っていたのだ。彼は私を見て、微笑むと、その視線を私の抱えている本に向けた。見つかってしまった。悪いことをしているわけでもないのに、嫌な汗が背中を伝う。
「本を読むんだね」
意外そうな顔をされ、とりあえずうなずいていく。だが、あまりこれ以上追求されたくなかったので、急ぐと言い残しその場を足早に去ることにした。立ち去ろうとしたとき、木原君の背後に人影を見つける。どちららが先に見たのかは分からないが、その人と目が合っていた。
彼は縁なしの眼鏡をかけていて、驚いたように目を見開いて私を見ていた。だが、見たことのない人だった。だが、目が合ってしまった手前、顔をそむけることもできずに、頭を下げて、その場を足早に立ち去ることにした。
図書館を出たところにある階段まで来ると息を吐く。
さっきの人がどうして驚いた表情を浮べていたのか気になったが、私にはそれ以上に引っかかることがある。本を借りている現場を木原君もに見つかってしまったことだ。本の話を振られたら、どうしよう。本を読んで仲良くなりたいとは思っていたが、こそっと読んで内容を理解できたら話をもちかけようと思っていたのに。
彼は逆に気を使ってその話を振ってくるかもしれない。そう考えると頭がくらくらした。壁に手をつき、目を強くつぶる。タイミングが悪すぎる。だが、すんだことをあれこれ気にしても、時間を巻き戻すこともできない。とりあえず本の中身を確認する必要がある。意外とすらすら読めて、そんな心配も不要になるかもしれない。
視線を感じ、振り返ると見知らぬ生徒に目を思いきり逸らされた。私はもう余計なことを気にせずに、教室に戻ることにした。
教室に戻った私を待っていたのは晴実の第一声だった。彼女は私の持っている本を見て、苦笑いを浮べる。
「由佳が本をね」
晴実は当然私が本を苦手なのを知っている。彼女は読書が好きというわけではないが、私に比べると本のことは詳しい。
「おかしいかな?」
「いいと思うよ。でも、最初からそんな本を借りて思い切ったね。もっと短い本か現代文学を選べばよかったのに。そういう本って歴史的な背景もてんこ盛りだからね」
その話を聞いて、せめて晴実に相談したら良かったと後悔するが、すでに遅い。
「頑張って読んでみるよ。国語の勉強をしている気分だけど」
晴実は笑顔で頷いてくれた。本を読むことに集中することにした。だが、そんな決意もすぐにそがれてしまうこととなる。その本は想像以上に難しい話だった。私は本とにらめっこをしていたが、読んでもページが進まないのだ。晴実からはざっと読めばというアドバイスもされたが、そんなことをできるわけもなく一字一句も落とさないようにしっかりと読んでいた。全く読書が進まず、三ページも読まないうちに、次の授業の開始を告げるチャイムが鳴った。