悪魔と花嫁
若き修道士を乗せた馬車が、その村に到着したのは五月初めの夕方だった。
農業で成り立っている田舎の村は、決して裕福とは言えなかった。
村長も村人たちも長い貧困から抜け出したいと思っていたが、その方法を考えはしなかった。ある日突然、存在すら知らなかった大富豪の親戚の遺産が転がり込んでくるように、いつか幸運が降ってきて裕福になるに違いないと本気で思っていた。
修道士の名はジュリアーノと言った。
神学校を卒業したばかりで、都から百マイルほどの町に助任司祭としての赴任が決まり、向かう途中だった。
本来なら今日中には目的地に着くはずだったが、手前の町で馬車に乗り遅れてしまい、この村に用があるという荷馬車に乗せてもらってここまで来たのだ。
「それは運が悪いことで」
宿屋の主人は言った。
「この世の中で運が悪いなどということはありません。全て神の思し召し」
「まあ、そうかもしれませんね。そのおかげで明日、この村に来る王様の行列を見ることができまさぁ」
「王様の行列」
ジュリアーノは宿に来る途中の村の様子を思い浮かべた。
祭りの季節でもないのに、大通り沿いの木々にリボンが張られ、家々の戸口には花が飾られ、華やいだ様子だった。
宿屋の主人が誇らしげな顔をした。
「実はこの村の娘が、王様に見初められお城へ上がるのです。それで明日、お城からのお迎えがやってくるのですよ。まあ、王様直々に来られることはないでしょうがね」
「なるほど、お城へ上がられる、それはおめでたいことですね」
主人は自分のことのように得意満面だった。
「ええ、ええ。こんな小さな村の娘によくぞ目をつけて下さったと、皆は大喜びで、明日は村を上げての大祝賀会です。お急ぎでなければ、明日の祝賀を見てから出かけたらいかがでしょう」
道理で行き交う人々の機嫌がよかったのか、ジュリアーノは理解した。
村の娘が後宮に入り王に気に入られたなら、この村もその恩恵を受けられると村人たちは思っているのだろう。税金が安くなるかもしれないし、新しい畑や森林を貰えるかもしれない。いわんや娘が王子を生んだら。
しかし、とジュリアーノは首をひねった。
以前聞いた王の評判はあまりよくないものだった。
ジュリアーノは世情に疎いほうであったが、神学校にも世間の噂話に精通した人間はいる。そういった連中と付き合わないようにしていても、食堂で話していることは自然と耳に入ってくるものだ。
彼らの言によると、別名「天外王」とも呼ばれる王は、周辺諸国との戦いで領土を広げた功績はあるが、その人間性には疑問を感じるところが多いらしい。
独断専横、意に添わぬ者には冷酷無比、長年仕えた家来であっても一度王の機嫌を損ねたら二度と王の顔を拝めない、抵抗する敵であれば女子供も容赦しない。欲しいものは全て手に入れる、国でも物でも女性でも。
まさに天の外にいる存在だと言われていたのだ。
王のその性質は、恋愛においても見られた。
正式な王妃も、子供もいるが、齢四十過ぎた今でも若い娘への興味は変わらず、お城の女中や庭師の娘は当たり前、美少女の噂を聞くと次々と後宮に入れては、気紛れに愛し、気紛れに追放した。
ある時は、些細なことで王の機嫌を損ねた後宮の娘が、自慢の髪をバッサリ切り落とされ着の身着のまま都から追放された。またある時は、後宮暮らしの贅沢であっという間に太ってしまった娘を、怒った王がその肉を切り落とし殺した。
そこまで極端でなくても、王の、後宮の娘たちに対する扱いは感心できるものではなかった。
王の気持ちが遠ざかり後宮から出された娘たちは、王の命令で家臣の妻となることもあるのだが、それは良いほうで、多くはほんのわずかな退職金のみで実家に帰された。そういった娘たちは、再婚もままならず、近隣の好奇の目から逃れ修道院に入ることも少なくない。
つまりは、王に召されるということは幸福な家庭を持つ人生を諦めることだと言われていたのだ。
王に未だ跡取りの王子が生まれていないのは、王のそういった非道の報いだと言う声もあった。
王妃は娘を二人生んだが、跡取り息子を生んでいない。ある愛妾が男子を産んだときは王は大喜びだったが、数ヶ月で早世したため愛妾を死刑にした。その後も女児を生んだ妾もいるが、男子は生まれていないのだ。
事情をよく知らない地方の豪族には、娘を後宮に入れ跡取りを生ませたいと願っている者もいるようだが、城下の町では、美しい娘を持った親たちは、娘が王の目に留まらないようにしていると噂されていた。
ジュリアーノは、それらの話がもし本当であるなら、王は神の教えに背いていることになり、なぜ教会は悔悛を勧めないのかと疑問に思っていた。
さて、この村の娘が後宮に入ることになったいきさつだが、村の者たちから聞くところによると、半年ほど前、お城付きの絵師が旅の途中にこの村へ立ち寄ったという。
その絵師は、この村のアマンダという娘を見かけ、その美しさに驚嘆した。
当時十五歳になったばかりの娘の、ブロンドの豊かな巻き毛も、透き通る象牙の肌も、王冠のサファイヤより青い瞳、手を触れるのも躊躇われるアンズの唇も、まだ少女らしさが残るつま先まで全て王の気に入るところに違いないと肖像画を描いたのだ。
その後、絵師が持ち帰った肖像画を見た王が、この娘を手に入れずにはいられない気持ちになって、娘を後宮に、と村に使いをよこしたのはほんのひと月前のこと。
娘の父親は喜んだが、母親は暗い顔をした。
父親とて、後宮に入った娘らがどうなったか知らない訳ではない。だが、全てが全て、不幸になるとは限らない。このような田舎村の娘が都のお城暮らしができるようになるのは名誉なことだ、と妻と娘に言った。そもそも断れる話ではないのだ。断れば村がどうなるかわからない。また、断ったところで力ずくで王に奪われるのは明らかなのである。
そうして父親が承諾の返事をすると、早速使者が来て、迎えの馬車が明日の午前に到着することを伝えた。
村人たちは王の所行を知ってか知らずか、口々に祝福を述べた。
ジュリアーノが訪ねた教会の神父も言った。
「この小さい村で今まで細々と暮らしてきましたが、アマンダのおかげで、村人たちも安心して暮らせるようになります」
現に先週、村には大量の小麦と酒が届いた。娘の家には、支度のドレスはもちろんのこと、両親にも上質の絹織物と金貨の袋が届けられた。
「王様はこの教会へも多額のご寄付をしてくださいました。あの銀の燭台もそうです」と神父は台上に輝くそれを誇らしげな目で見た。
「悪い噂も囁かれているようですが、実に王様は信心深い御方です」
なるほど、神を信じる心があるのなら、王もさほど悪い人物ではないのだろう、とジュリアーノは考えた。
若いジュリアーノは、その娘に会ってみたくなった。
「さすが、貴方はお若い」
と、父親ほどの年齢の神父は言った。
「美しい娘に興味を持つのは男なら仕方のないこと。しかし私たちは神に仕える身、世俗とは無縁でなければなりません。まあ、私がとやかく言うまでもなくわかりましょう。しかし」
神父は続けた。
「娘の後宮入りが決まってから、男子と遠ざけよとの仰せでして。老人でも生まれたばかりの赤ん坊でも、男に生まれた者は全て、神職に就く私でさえも会ってはならぬと」
ジュリアーノは娘に会うことを簡単に諦めた。王から嫌疑をかけられるのは本意でないし、危険を冒してまで会いたいわけではなかった。
「運が良ければ、明日、拝顔できるかもしれませぬ」
神父はニヤリと笑った。
ジュリアーノは、村の神父が思うような若い男とは違っていた。
地方の名士で敬虔なカトリックである父親を持つジュリアーノは、少年時代に立派な修道士の元で学んだ。そうしていつしか自分も神に仕える身となって世の中の悪人を改悛させ、悩める人々を救済することが自分の使命だと思うようになった。
娘に会いたいと思ったのは、それほどまでに王や絵師の心を動かすとはどんなに優れた心根の娘なのか、聖母のような女性なのではないかと興味を抱いたからである。
翌朝、村は大変な騒ぎだった。
朝早くから花火が上がり、誰もが祝宴の準備で忙しそうに働いていた。
家々からは美味しそうな匂いが溢れ、村中塵一つないよう掃き清められた。
村長は、村の入り口の外に見張り役の村人を立たせ、迎えの行列が見えたら知らせるよう指示した。
娘の家は、中央広場の手前の小道を入った処にある。
広場から反対側の丘を登った村長の家に、どうしたら使者を迎え入れることができるか、村長はそればかりを考えていた。
皆が待ちわび、昼も近くなった頃、やがて合図の角笛の音が聞こえた。
中央広場でそれを聞いた村長は、飛び上がって、村の入り口へ急いだ。
村の入り口には既に数人が集まっていた。その中には村の神父もいた。彼は誰よりも先に、多額の寄付へのお礼を述べる仕事があった。
間もなく到着した迎えの行列は、皆が想像していたより簡素だった。
先頭に警護の槍を持った二人、続いて襟に勲章をつけた使者一人とその従者たち、その後ろに金の金具で縁取られた屋根付きの馬車と警護の二人、それだけである。
村人たちは都会の人間と違って落胆の表情を隠す礼儀を持ち合わせていなかったが、王の使者が気づくことはなかった。彼らは村人など見ていなかったからである。
「ようこそ、この村へいらっしゃいました。本日は誠にお日柄もよく」
村の入り口に出迎えた村長の挨拶を、使者が馬上から遮った。
「我らはアマンダ嬢をお迎えに上がっただけ。アマンダ様の屋敷に案内されよ」
村長は、おどおどしながら、道案内をした。辺りにいた村人は、使者の列の後についていった。
大人も子供もおそらく村の者全員が、通りや広場に出てきていた。
娘の家の前にも村人が集まっていたが、使者の姿を認めると道を広くあけた。
ジュリアーノも、旅行用の服ではなく黒い正装で身を整え、村人の後方から見物していた。
「こちらです」
村長が指差すと、使者はひらりと馬から下りて、粗末な家の扉の前に立った。
「我らが王の代理として、お迎えに上がりました。どうか扉を開かれますよう」
使者の声は大きく、固唾をのんで見守る村人たちの頭上に響き渡った。
静かに扉が開かれた。
中から、村人が今まで見たことのないなめらかな絹の、一面に薔薇の刺繍が施されたドレスをまとった娘が父親に手を引かれ現れた。
「おお」
村人の間から、感嘆の声があがった。
身頃と同じくらい布を使っているかのような襟や袖口のフリル、裾にちりばめられた無数の真珠に、女たちはため息をついた。
ジュリアーノは、娘の表情を見ようと首を伸ばしたが、娘の顔は顎の下まである白いレースで覆われ、よく見えなかった。
使者は、父親から娘の手を引き継ぐと、ガラス細工の人形を扱うように迎えの馬車に乗せた。
ドレスの裾から覗いた虹色の靴に、女たちは再びため息をついた。
そうして使者が再び馬に乗ろうとすると、村長が進み出た。
「ご使者様もお疲れでしょう。ささやかですがもてなしの場を設えております」
使者は村長に一瞥をくれると、馬にまたがった。
「無用。王は一刻も早くアマンダ様にお会いしたがっている。我らは先を急ぐゆえ」
そうして馬車の列は動き出した。
村人たちは、考えがあるでもなく、ただ列の後をぞろぞろとついていった。
先頭の警護兵の馬が中央広場付近まで来た時、突然空に黒雲が立ちこめた。
誰ともなく空を見上げた。
「さっきまであんなに晴れていたのに」
村人が呟くと同時に、雷鳴のような音が響き渡った。
近くに雷でも落ちたかと、人々は辺りを見回した。
と、一人の村人が、馬車を指差した。
「あれはなんだ」
皆が一斉に見ると、馬車の黄金の屋根に、不気味な黒い靄があった。
その靄はだんだんと形を整え、あぐらをかいて座っているひとがたを表した。
人ではない。全身が真っ黒な、頭部は山羊に似た、背中からは大きな黒い翼を生やした、見るからにぞっとするこの生き物である。いや、生き物なのだろうか。
山羊の頭は言った。
「我はこの世界を支配するものなり。この娘、我が貰っていく」
御者は驚いて席から転げ落ちた。
見物の村人たちは、何が起きたのか理解できぬまま、いい知れぬ恐怖感を覚えた。
「無礼者。王に逆らうとは」
使者たちはさすがに騎士、剣を抜いて身構えた。
「馬車から離れよ。さもなくば」
警護兵の一人が槍を突き出した。
と、黒い悪魔は爪の尖った左手を軽く上げると、いかずちがその者の身体を貫き、一瞬にして灰にした。
「ひぃぃ」
馬車を囲んでいた村人たちは、悲鳴を上げてちりぢりに逃げ出した。
「お助けを」
逃げ損ねた者は気を失って倒れ、或いは子供を抱きかかえ地面にふせ聖書の言葉を呟いている。
「おのれ、悪魔」
使者も警護兵も、じりじりと後ずさりした。
その時、ようやく正気を取り戻した男、アマンダの父親が叫んだ。
「娘を助けて下さい、そうだ、神父様、悪魔祓いを、神父様」
半ば悲鳴に近い叫びだった。
神父は傍らにいるはずの村長を振り返った。村長はというと、腰を抜かして震えているばかりである。
神父は神職についてこのかた、悪魔祓いの儀式などやったことがなかった。知識としてある、その程度だ。
相手は一撃で警護兵を灰にしてしまった悪魔である。
神父の両足は震え、立っているのがやっとの状態であった。
しかし神父に涌き上がった功名心が、その恐怖心に打ち勝った。
神父は警護兵の後ろから、おずおずと金の十字架を差し出した。
「か、神よ、父とここここと……精霊のな、な、なに、おいて」
か細く震える声で祈りの言葉を唱え始めた。
悪魔はふふんと鼻で笑うと、また軽く左手を動かした。
突風が巻き起こり、神父の身体は宙を飛んで、広場の木に当たって落ちた。
「己の利益しか考えぬ人間に何ができるものか。お前らがいくら祈ったところで痛くも痒くもないわ」
周りにいた皆は凍り付いたように身動きできなかった。ジュリアーノも同様である。ただ無意識のうちに胸の十字架を握りしめていた。
「愚かな人間よ。この娘はもらっていく」
悪魔が馬車の屋根に爪を立てた。
「待て」
自分の立場を思い出した使者が叫んだ。使者にしてみれば、娘を悪魔に取られ手ぶらで城へ帰るくらいなら、ここで悪魔に挑んで命を落としても同じこと。
「まだ懲りないか」
悪魔が左手を振り上げた。
おお、神よ、とジュリアーノの口から思わず漏れた。
悪魔の手が止まった。
「神よ、あの者を守りたまえ」
ジュリアーノが呟いた。
悪魔が、キッ、とジュリアーノに振り向いた。
「何者だ」
明らかに自分に問うているのだとジュリアーノは感じた。
どうしたものか。
ジュリアーノの胸が高鳴った。
悪魔と対峙するのは、もちろん生まれて初めてのことだった。
まだ助祭に任命されたばかりの自分は悪魔祓いの方法すら知らない。経験を積んだ司祭がすることだ。自分のような神学校を出たての未熟者にできるわけがない。
若いジュリアーノの喉がカラカラになった。
いや、しかし、と思い直した。
これこそ神の思し召しではないのか。本来なら自分は、今日この時この場所にいるはずではなかったのだ。それが今自分はここにいる。これは神が自分に与えた試練ではないのか。ならば自分は、ただ神を信じるだけではないか。そうだ、自分がやらねばならぬ。
十字架を握る手に力が入った。
ジュリアーノは聖書の言葉を呟いて、自分を落ち着かせようとした。
それは思いの外、効果があった。
悪魔の表情が歪んだ。
ジュリアーノは、おそるおそる一歩前へ足を出した。
「天におられるわたしたちの父よ、サタンを追い払いたまえ。娘をサタンからお救いください。天地の創造主、全能の父である神よ」
悪魔が苦しそうに肩を落とした。
ジュリアーノは祈りの言葉を続けながら、一歩、更に一歩進んだ。
気づくと馬車のすぐ側、悪魔が手を伸ばせば届きそうな位置まで近づいていた。
悪魔は喉をかきむしった。
「お前は何者だ、いいや、何者でもいい」
悪魔は息も絶え絶えに言った。
「この娘が祈ったのだ。非道な王の元へ行きたくないと、助けて欲しいと祈ったのだ。我は約束通り、この娘を助けてやるだけだ」
「助けるですって。悪魔が人を救うことはできない」
遠巻きに震えている村人たちには、二人の会話は聞こえない。
「この娘を見たことがあるか。この世の汚れを何も知らぬ純粋可憐な娘を。昨夜、祈りの声に舞い降りてみると、美しい乙女が涙を流しているのだ。我のこの姿を見ても恐れることなく、王の元へ行きたくない、助けて下さいと懇願するのだ。この我にだ。何と不憫なことか。その時、我はこの娘を絶対王に渡すまいと思ったのだ」
「そのようなことを言ってたぶらかす」
悪魔の言葉に耳を貸すな、祈れ、神に祈れ、とジュリアーノは自分に言い聞かせた。
「ならばお前にはこの娘を救えるか」
ジュリアーノは十字架をかざし、更に祈った。
「サタンよ、立ち去れ」
「お前には救えまい。哀れな娘、もはやこれまで」
悪魔は、最後にグアと叫んだ後、黒い固まりとなって空に飛んでいった。
ジュリアーノはなおも祈り続けた。
王の使者の一行は、警護兵を一人欠いたまま、娘を乗せた馬車を連れ何事もなかったように城へ帰っていった。
「何も起こらなかった。誰も何も見なかったのだ。よいな」
使者はそう言っただけだった。
村人たちは口止めされるまでもなく、皆、自分の立場を理解していた。
先程のことは一切忘れること、それが自分の身を守り、村を守ることだ。子供たちにも、悪い夢を見たのだと信じ込ませるのだろう。
王の使者が去った後、村人たちは無言で村の片付けをした。
飾り付けられた花やリボンは端から外され、広場に設けられた祝宴のテーブルも、次々と片付けられていった。先程までの祭り気分はどこへやら、まるで葬儀の後片付けをしているようだった。
ジュリアーノだけが光の中にいた。
誰もジュリアーノの行為を讃える者はいなかったが、それどころか皆ジュリアーノの存在すら忘れているようだったが、ジュリアーノは満足していた。
ジュリアーノは、木の根元で気を失ったままの神父を助け起こした。
ようやく神父のまぶたがぼんやりと開いた。
「大丈夫ですか」
「どこか骨が折れているかもしれない」
痛そうに神父は起き上がった。
ジュリアーノは介添えをした。
「あの汚らわしいものは」
神父は辺りをゆっくり見回した。
「何もなかったのです。娘は何事もなく迎えの馬車に乗ってこの村を出ました。今頃はお城へ向かっているでしょう」
ジュリアーノの言葉に、神父はきょとんとした。
ジュリアーノは再びゆっくりと言った。
「何もなかった、何も見なかった、とご使者様は言われました」
神父は口の中でジュリアーノの言葉を反芻し、すぐに平静な顔になった。
「神よ、感謝します」
神父は胸の前で十字を切った。
自分の知らないところで物事が解決したからといって、それを全て知る必要はない。余計な詮索をしないことが自分のためであるということを、この神父は心得ていた。
ジュリアーノは、神父を教会に運び、宿の主人に医者を頼むと、いとまを告げた。
隣町に向かって歩き出したジュリアーノの顔は晴れ晴れしていた。
悪魔を退治したという自身の英雄的行為に陶酔していたからではない。
悪魔の誘惑に打ち勝ち、自分の役目を立派に果たせたことに満足していたのだ。
神を信じ、神職の道を選んだことは正しかった、神から肯定されたのだとジュリアーノは感じていた。
ジュリアーノは丘を登る途中で村を振り返った。
教会の塔が、木々の上に突き出しているのが見える。
丘から見る村は、穏やかな初夏の光に包まれ、何か事件が起きた後とは思えない。
ジュリアーノはふっと笑った。
娘が悪魔に助けを求めたなんて、馬鹿げた嘘も甚だしい。もし本当にそのようなことを願う娘がいたなら、それこそ神の力で救ってやらねばならないだろう。悪魔より人間が恐ろしいなど、悪魔が娘を哀れに思うなど、そのようなことはあり得ないのだ。
ジュリアーノはこれから進む道に、砂粒ほどの疑いも持っていなかった。
あの娘がこの先どうなるかは、誰にもわからない。
だが、ジュリアーノは神に仕える身として自分がすべきことをしたのだ。娘の身の上が、ジュリアーノに何の関わりがあろう?(了)