悪役令嬢は何も覚えていない ~記憶を消してから、裁判に出ました~
目を開けると、頭の上に鐘があった。
青みがかった銅の、両手で抱えられるほどの鐘。天井の梁から太い鎖で吊られ、ちょうどエレオノールの真上で、ぴたりと静止している。
石造りの広間だ。正面の高い席に、白い髭の老人が座っている。左右の長椅子には、着飾った男女がぎっしりと並ぶ。誰もがこちらを見ていた。
自分がなぜここに立っているのか、分からない。
それどころか、自分の名前すら、すぐには出てこなかった。舌の奥に、薬湯のような苦みが薄く残っている。何を飲んだのかも、思い出せない。
「エレオノール・ド・グランメール」
老人が呼んだ。ああ、それがわたくしの名なのね、と彼女は思う。思っただけで、何の感慨も湧いてこない。他人の名を聞かされているのと、少しも変わらなかった。
「そなたは真実の鐘の下に立っておる。鐘は、その下で語られた偽りにだけ鳴る。問いには、はいか、いいえで答えよ。答えられぬなら、答えられぬと申せ。問われて黙れば、鳴ったものとみなす。心して答えよ」
「……はい」
「春の夜会の晩、そなたはソルニエ子爵家の令嬢イヴェットの杯に、毒を盛ったか」
毒。春の夜会。イヴェット。
どの言葉も、水面に落ちた小石のように沈んでいくだけで、何ひとつ浮かび上がってはこない。
「覚えておりません」
鐘は、鳴らなかった。
広間に、どよめきが走る。
「……もう一度問う。毒を盛ったか」
「覚えておりません。春の夜会というのが、いつのことかも存じません。申し訳ございませんけれど、イヴェット様というのがどなたなのかも」
鐘は、黙ったままだ。
右手の長椅子で、金髪の青年が立ち上がった。仕立てのよい上着に、王家の紋章。
「院長! この女は、忘れ薬でも飲んできたに決まっている!」
「殿下。忘れることは、偽ることではございませぬ。鐘が聞くのは、口から出た言葉だけでございます」
老人は、そこでひとつ息をついた。
「それに、忘れ薬で消えた記憶は、二度と戻りませぬ。裁きひとつのために己を丸ごと捨てる者など、おりますまい」
二度と戻らない。エレオノールはその言葉を、他人の噂話でも聞くように聞き流す。
殿下、と呼ばれた青年は、こちらを睨みつけた。その隣で、栗色の巻き毛の娘が、ハンカチを口元に当てている。大きな、濡れたような黒い瞳。
院長と呼ばれた老人は、長いこと髭を撫でていた。
「法に従えば、鐘の下に立つのは被告ただ一人。そして、同じ件で立たせるのは一度限り。被告が答えられぬときにかぎり、証人を鐘の下に立たせることができる」
老人は、こちらを見た。哀れむような、それでいて少し面白がっているような目だった。
「7日後、証人を立てる。それまで、被告は屋敷に下がってよろしい」
◇
屋敷というのは、王都の北にある、ばかばかしいほど大きな館のことだった。
馬車を降りると、使用人たちが2列に並んで頭を下げる。誰もが、目を合わせないようにしている。
玄関の広間で、背の高い初老の男が待っていた。顔立ちが、どことなく、馬車の窓に映った自分に似ている。
「お父様、ですの?」
男は、ほんのわずかに眉を動かした。
「そうだ」
「わたくし、何も覚えておりませんの。どういう娘でしたか、教えていただけます?」
「言わん」
それだけ言って、父は背を向けた。
知らん、ではなく、言わん。それきり、何を訊いても、父は首を横に振るばかりだった。
◇
「お嬢様は、お優しい方でした」
自室だという部屋で、侍女のジャンヌはそう言った。
そばかすの散った、エレオノールと同じくらいの年頃の娘。髪を梳く手つきは慣れているのに、指先がかすかに震えている。
「使用人にも、分け隔てなく声をかけてくださって。わたくしが熱を出したときなど、夜通しそばにいてくださいました」
「そう」
エレオノールは鏡の中の自分を眺めた。
黒に近い濃い髪。尖った顎。薄い唇の端が、何もしていなくても少し吊り上がっている。
優しい女の顔には、どう見ても見えなかった。
「ジャンヌ」
「はい」
「さっきから、櫛の歯が3度、同じところに引っかかっているわ」
「も、申し訳ございません!」
「謝らなくていいの。ただ、不思議に思っただけ。優しい主人の髪を梳くのに、どうしてそんなに怖がっているのかしら、って」
ジャンヌの手が、止まった。
鏡の中で、侍女の顔がみるみる赤くなっていく。
「……お疲れでございましょう。今夜は、もうお休みくださいまし」
逃げるように出ていく背中を、エレオノールは黙って見送った。
嘘だ、と思う。
記憶はなくても、それくらいは分かる。人は嘘をつくとき、相手の目を見すぎるか、まったく見ないかのどちらかになる。ジャンヌは、まったく見なかった。
それにしても、なぜ侍女がわざわざ主人を「優しい」と偽るのだろう。
寝台に横たわって、エレオノールはそのことを考え続けた。
◇
翌日、王太子ラウルが来た。
鐘の広間で立ち上がった、あの金髪の青年だ。聞けば、わたくしの婚約者なのだという。応接間の長椅子に腰を下ろすなり、彼はエレオノールの手を取った。
「エレオノール。本当に、何も覚えていないのか」
「はい」
「そうか。……ならば、私が教えよう」
ラウルは、ひどく真剣な顔をしていた。
「きみは私を、深く愛していた。愛するあまり、私がイヴェット嬢と言葉を交わすだけで、嫉妬に身を焦がしていたんだ。あの夜のことも、その延長だった」
「まあ」
「責めはしない。きみは病んでいたのだ。だから、自分から陛下の御前に出て、罪を認めてはどうだろう。北の修道院で心静かに暮らすなら、それ以上の罰は誰も望まない。私が取りなす」
握られた手が、熱い。
エレオノールは、その手を黙って見下ろす。
ラウルが帰ったあと、彼女は自分の右手がドレスの裾をきつく握りしめているのに気づいた。
いつからそうしていたのか、覚えがない。握った布で、手のひらを何度も拭っていたらしい。絹に、皺がくっきりと残っている。
頭は忘れても、手は覚えている。
深く愛していた男に握られた手を、女は裾で拭うものだろうか。
◇
その翌日には、イヴェット・ド・ソルニエが来た。
鐘の広間でハンカチを口に当てていた、栗色の巻き毛の娘。部屋に入ってくるなり、彼女は両腕を広げてエレオノールに抱きついた。
「エレオノール様! ああ、よかった、お元気そうで」
甘い香水の匂い。柔らかな腕。
エレオノールの背筋が、すうっと冷えた。
自分でも驚くほどの速さで、体が相手を拒んでいた。押しのけはしない。けれど、抱き返す腕が、どうしても上がらない。
「わたくしたち、親友でしたのよ」
イヴェットは体を離し、エレオノールの両手を取って微笑んだ。
「あの夜のことは、きっと何かの間違いですわ。わたくし、少しも恨んでなどおりません。覚えていらっしゃらないなら、それで構いませんの。これからまた、一から仲良くいたしましょう?」
「ありがとうございます」
エレオノールは、間近でイヴェットの顔を見た。
黒いと思っていた瞳は、近くで見ると、そうではなかった。縁に、淡い榛色がほんのひと筋残っている。黒いのは真ん中の瞳孔で、それが榛色をほとんど呑み込むほどに開いているのだ。濡れたように光って、確かに美しい。
向かい合って座るとき、イヴェットは「少しまぶしくて」と笑って、窓を背にする椅子を選んだ。
「……本当に、何も? 春の夜会のことも、何ひとつ?」
「ええ。何ひとつ」
その瞬間、イヴェットの肩から、ふっと力が抜けるのが見えた。
ほんの一瞬だった。すぐにまた、気遣わしげな笑みが戻ってくる。
けれど、見間違いではない。
安堵だ。
毒を盛られた被害者が、毒を盛った女の記憶が戻らないと聞いて、ほっとしている。
◇
その晩、エレオノールは自室の窓辺で、3人の嘘を並べてみた。
ジャンヌによれば、わたくしは優しい女。
ラウルによれば、わたくしは彼を愛していた女。
イヴェットによれば、わたくしは彼女の親友。
3人とも嘘をついている。それは間違いない。けれど、嘘の向きがそれぞれ違うのだ。
ラウルの嘘は、分かりやすい。わたくしに罪を認めさせたい。だから「嫉妬に狂った女」という筋書きを、空っぽの頭に流し込みに来た。罪を認めて修道院に入れば、婚約は消えてなくなる。殿下にとっては、ずいぶん都合のいい話だ。
イヴェットの嘘は、もう少し込み入っている。わたくしのそばにいたい。そばにいて、記憶が本当に戻っていないかを確かめたい。つまり、戻られては困る何かがある。
分からないのは、ジャンヌだった。
あの娘の嘘は、誰の得にもならない。わたくしを罪に落とすわけでも、罪から救うわけでもない。ただ、わたくしを「優しい女」にしたがっている。
それから、もう一人。
父は、嘘をつかなかった。ただ「言わん」と言っただけだ。
嘘をつく者が3人訪ねてきて、嘘をつかない者が一人、黙っている。
なぜ黙るのだろう。
娘が罪人になろうとしているのに。
それとも、娘は罪人にならないと、知っているのだろうか。
◇
次の朝、エレオノールはジャンヌに頼んだ。
「春の夜会で、わたくしが着ていたドレスを見せてちょうだい」
ジャンヌの顔色が変わった。
「……あの晩のものは、もう、処分を」
「処分したの? 毒を盛ったかもしれないと疑われている女の、その晩のドレスを? 裁きの前に?」
「そ、それは」
「怒っているのではないのよ。ただ、自分が何を着ていたのかくらいは、知っておきたいの。それとも、処分したというのも嘘?」
ジャンヌはしばらく唇を噛んでいたが、やがて衣装部屋の奥から、1着のドレスを抱えて戻ってきた。
深い葡萄色の絹。胸元に黒い繻子の縁取り。
エレオノールは、それを手に取った。
次の瞬間、右手が勝手に動いた。
スカートのひだを左手で持ち上げ、右手の指が、腰の継ぎ目の内側へすべり込む。そこに、外からは見えない小さな隠しがあった。考えるより先に、指が知っていた。
指先に、硬いものが触れる。
取り出してみると、親指ほどの小さなガラス瓶だった。中は空で、栓がしてある。
背後で、ジャンヌが息を呑んだ。
エレオノールは栓を抜き、鼻を近づけた。
苦い。土と、枯れた根の匂い。鐘の下で目を開けたとき、舌に残っていた苦みとは、また別のものだ。
「これは、なに?」
「……吐根、でございます」
ジャンヌの声は、蚊の鳴くようだった。
「吐き薬です。悪いものを食べたとき、薬師が出す……お嬢様が、夜会の前に、町の薬屋で求めていらっしゃるのを、わたくし、存じておりました」
「吐き薬」
「はい。飲めば、ひどく吐きます。でも、それだけでございます。死にはいたしません」
エレオノールは、空の瓶を光にかざした。
「ジャンヌ。あなた、この瓶のことを知っていて、ドレスを隠していたのね」
「……はい」
「それで、わたくしを優しい女だと言ったの」
ジャンヌは床に膝をついた。
「申し訳ございません。お嬢様は、お優しくなどございませんでした。ひどい方でした。茶が熱すぎると言ってはカップを下げさせ、髪の分け目が曲がっていると言っては結い直させ、気に入らない客には、玄関先で帰れとおっしゃいました」
「まあ」
「でも、お嬢様が何もかもお忘れになったと聞いて、わたくし、思ったのです。いまなら、お優しい方になっていただけるかもしれない、と」
エレオノールは、こらえきれずに笑い出した。
なんて正直な嘘だろう。主人を救うためでも、陥れるためでもない。ただ、明日からの自分の暮らしを、少しでも楽にしたかっただけ。
3人の嘘のうちで、いちばん可愛げがある。
「立ちなさい、ジャンヌ」
「お嬢様……」
「怒らないわ。だって、覚えていないもの。あなたが何度髪を結い直させられたのかも、知らないことにしておく」
ジャンヌが、泣き笑いのような顔で立ち上がった。
エレオノールは、手の中の瓶を見つめた。
つまり、わたくしは、やったのだ。
イヴェットの杯に、何かを入れた。たぶん、これを。
その日の午後、エレオノールは衣装部屋のドレスを片端から確かめた。どのドレスにも、腰の継ぎ目の同じ場所に、同じ大きさの隠しがついている。
わたくしは、どうやら、隠しごとの多い女だったらしい。
◇
それから裁きの前の日まで、エレオノールは屋敷の図書室にこもった。
吐根のことを調べ、それから、ジャンヌに言われて、もうひとつの名前を調べた。
ベラドンナ。
「裁きでは、イヴェット様はベラドンナの毒で死にかけたことになっております」
ジャンヌは、そう教えてくれた。
「お医者のブノワ様がそうおっしゃったのです。瞳が大きく開いていたから、と。杯に残っていた葡萄酒からも、同じものが出たそうで」
「でも、わたくしが持っていたのは吐き薬よ」
「はい」
「なら、ベラドンナは誰が入れたのかしら」
ジャンヌは答えなかった。答えを知っているとは思えない。
エレオノールは、古い薬草の本を開いた。
ベラドンナ。葉と根と実に毒がある。中れば喉が渇き、熱が出て、ひどい譫言を口走る。瞳が開き、光をまぶしがる。
そして、その下に、もう一行。
――古くより、貴婦人がこの汁を薄めて目に差し、瞳を大きく美しく見せる習いあり。
エレオノールは、本を閉じた。
黒いと思っていた瞳。縁にひと筋だけ残っていた榛色。まぶしいからと、窓を背にして座った娘。
◇
裁きの前の晩、エレオノールは父の書斎の扉を叩いた。
「お父様」
「なんだ」
「明日、わたくし、たぶん勝ちますわ」
父は書類から顔を上げなかった。
「それから、たぶん、わたくしはひどい娘でした」
「そうだ」
即答だった。
エレオノールは、思わず笑ってしまう。この家でいちばん正直な人間は、どうやらこの父らしい。
書斎を出ると、その足でジャンヌの部屋へ寄った。頼みごとが、ひとつだけある。
◇
7日後。
鐘の広間は、最初の日よりもさらに混み合っていた。王都中の暇な貴族が、一人残らず詰めかけたのではないかと思えるほどだ。
正面に院長。右手に、ラウル王太子とイヴェット。左手に、エレオノールと父。
エレオノールの濃紺のドレスの隠しには、今朝のうちに移しておいた吐根の空き瓶が入っている。負けたときに出す、最後の札だ。入れたのは吐き薬で、人を殺せる毒ではない。それを示せば、人殺しの罪だけは逃れられるかもしれない。
鐘は、あの日と同じように、梁の下で静まり返っている。
「本日は、証人を鐘の下に立てる」
院長が告げた。
「告発の側より、証人を」
最初に立ったのは、若い従僕だった。
「春の夜会で、イヴェット様の杯のおそばに、エレオノール様が立っておられるのを見ました。お手を、杯の上でひらりと」
鐘は鳴らない。
2人目は、医師のブノワ。
「イヴェット様はひどく苦しまれ、瞳が大きく開いておりました。わたくしはベラドンナの中毒と見立て、杯の残りからも、同じものを見つけております」
鐘は鳴らない。
3人目に、イヴェットが鐘の下へ進み出た。
白いドレスに、青ざめた頬。黒く見える瞳は、今日もまた濡れたように大きい。
「わたくしは見ました。エレオノール様が、わたくしの杯に何かを入れるところを」
鐘は、鳴らなかった。
広間に、重いざわめきが広がっていく。
ラウルが、勝ち誇ったようにこちらを見る。
院長が、静かに言った。
「被告。覚えておらぬことは、無実の証にはならぬ。証人の言葉に偽りがなければ、罪はそれで定まる。……そなたから、証人に問うことはあるか」
「ございますわ」
エレオノールは立ち上がった。
「まず、わたくしの側から一人、立てさせていただけます? ジャンヌ」
広間の後ろのほうで、侍女がびくりと肩を跳ねさせた。
ジャンヌは青い顔で、鐘の下に立った。
「ジャンヌ。わたくしは、どんな女でした?」
ジャンヌは、ちらりとエレオノールを見た。昨夜の頼みごとを、確かめるように。エレオノールは、小さく頷いてみせる。
「お、お優しい方で……」
鐘が鳴った。
澄んだ、思いのほか高い音だった。広間の天井に跳ね返り、長く尾を引いて消えていく。
一拍の沈黙のあと、どっと笑いが起きた。
「……ひどい方でした」
鐘は鳴らない。
笑いが、さらに大きくなった。
「ありがとう、ジャンヌ。下がっていいわ」
エレオノールは院長に向き直った。
「鐘がちゃんと鳴ることを、皆さまに確かめていただきたかったんですの。わたくし、これでも被告ですから」
院長の髭が、かすかに揺れた。笑いをこらえたらしい。
「次に、殿下。お願いできますかしら」
ラウルの顔がこわばった。
「私が? なぜ私が」
「殿下は告発の後ろ盾でいらっしゃいますもの。それに先日、わたくしの屋敷で、わたくしについて大切なことを教えてくださいましたわ。皆さまにも、聞いていただきたいの」
院長が頷いた。許しが出た以上、王太子でも断れない。断れば、鐘が鳴ったのと同じことになる。ラウルは、渋々鐘の下へ進んだ。
「殿下。わたくしは、殿下を深く愛しておりました?」
ラウルの喉が動いた。
「……ああ」
鐘が鳴った。
今度の笑いは、さっきよりずっと遠慮がなかった。
ラウルの顔が、耳の先まで赤くなる。
「では、愛するあまり嫉妬に狂ったというお話も、少し考え直していただかなくてはなりませんわね」
「そ、それとこれとは」
「ええ、別のお話ですわ。下がってくださって結構よ」
エレオノールは、医師のほうを向いた。
「ブノワ先生。もう一度、こちらへ」
老いた医師が、戸惑いながら鐘の下に戻ってきた。
「先生。ベラドンナに中ると、人は吐きますの?」
ブノワは、少し考えてから答えた。
「……吐くことは、まずございませぬ。喉が渇き、熱が出て、譫言を口走ります」
鐘は鳴らない。
「イヴェット様は、あの夜、どうなさいました?」
「ひどく、お吐きになりました。それはもう、ひどく」
「熱は?」
「……さほどは」
「譫言は?」
「……ございませんでした」
広間が、しんとした。
「では先生は、なぜベラドンナとお見立てに?」
「それは、瞳が大きく開いておりましたので。それに、杯の残りから」
「ありがとうございます、先生」
エレオノールは、右手の長椅子に目を向けた。
「イヴェット様。もう一度、鐘の下へいらしてくださいます?」
イヴェットの肩が、目に見えて震えた。
ラウルが何か言いかけたが、院長が手で制した。
イヴェットが、ゆっくりと鐘の下に立つ。白い指が、ドレスの胸元を握りしめている。
エレオノールは、彼女の顔を覗き込んだ。
「いまも、瞳が大きくていらっしゃいますわね。とても、おきれい」
「……ありがとう、ございます」
「その瞳は、目薬ですの?」
イヴェットの唇が、薄く開いたまま止まった。
広間じゅうの視線が、彼女の瞳に集まる。黙れば、鐘が鳴ったものとみなされる。
「……はい」
鐘は鳴らない。
「ベラドンナの?」
「……はい」
鐘は、鳴らなかった。
ざわめきが、さざ波のように広がっていく。ブノワが、はっとしたように口元を押さえた。
「どなたのお薬ですの?」
「わたくしの、ものです」
エレオノールは、ひと呼吸だけ置いた。
「では、あの夜の杯に残っていたベラドンナは、どなたのものですの?」
イヴェットは、答えなかった。
沈黙が、1秒、2秒と伸びていく。院長が、静かに口を開きかけた。
「――エ、エレオノール様の」
鐘が鳴った。
これまででいちばん大きな、割れるような音だった。
広間が、爆ぜる。悲鳴とも怒号ともつかない声が、四方から湧き上がる。
「存じません! わたくし、存じません!」
鐘が、また鳴った。
イヴェットは両手で耳を塞いだ。それでも音は止まない。自分の耳を塞いだところで、広間じゅうの耳までは塞げない。
「わ、わたくしの……」
とうとう、その言葉がこぼれ落ちた。
「わたくしの、目薬です。あの方が杯に何か落とすのは、見ておりました。でも、まさか、と思って、そのまま飲んで……吐いて、吐いて、殿下の前で、あんな、みっともない……だから、あとで、残りの杯に……」
鐘は、鳴らなかった。
ラウルが立ち上がった。
「待て! それでもこの女が何かを入れたことに変わりはない! イヴェットは見たんだ! エレオノール、お前は何を入れた!」
「さあ」
エレオノールは小首を傾げた。
「覚えておりませんわ」
「ふざけるな! 院長、この女をもう一度鐘の下に!」
「なりませぬ」
院長の声が、広間を打った。
「同じ件で、被告を鐘の下に立たせるのは一度限り。それが法でございます、殿下」
ラウルの口が、ぱくぱくと動いた。
エレオノールは、ドレスの隠しの上から、そっと小瓶に触れた。最後の札は、どうやら出さずに済みそうだ。
「わたくしが何を入れたにせよ」
彼女は穏やかに言った。
「人を殺せるものを入れたとおっしゃった方の言葉に、たったいま鐘が鳴りましたのよ。殿下」
院長が、髭の奥で咳払いをした。
「被告が杯に何かを入れたことは、証人の言葉のとおりであろう。されど、それが何であったかを見た者はおらぬ。入れた当人は、覚えておらぬ」
髭が、また揺れた。
「告発は、ベラドンナで命を狙ったというものであった。そのベラドンナが偽りと知れた以上、告発は成り立たぬ」
木槌が、打ち下ろされた。
「イヴェット・ド・ソルニエを、偽りの告発と、証拠の拵えの廉で拘束する。エレオノール・ド・グランメールへの告発は、これを退ける」
衛兵が、泣きじゃくるイヴェットの両脇に立った。
ラウルは、立ったまま動けずにいる。
「ああ、それから殿下」
エレオノールは、右手を軽く持ち上げてみせた。
「婚約のお話、わたくしのほうからお断りしてもよろしくて? 殿下に手を握られるたび、わたくし、裾で拭っておりましたの。覚えてはおりませんけれど、手のほうが、よく覚えておりましたわ」
3度目の笑いは、もう誰も抑えようとしなかった。
◇
その夜、エレオノールは父の書斎にいた。
父は相変わらず書類から顔を上げない。けれど、手元の葡萄酒を2つの杯に注いだのは、父のほうだった。
「お父様」
「なんだ」
「わたくしが記憶を消す前、何か言い残しませんでした?」
ペンが止まった。
長い沈黙のあと、父は、ようやく顔を上げた。
「2つだけ言った」
「お聞かせくださいまし」
「春の夜会のドレスは、捨てさせないでくださいまし」
父の口から出ると、ひどく似合わない言葉遣いだった。一言一句、そのまま覚えているらしい。
エレオノールは、隠しの小瓶に指を触れた。
「もう一つは?」
「誰が何を言いに来ても、お父様は黙っていてくださいまし。嘘をつく者は、放っておいても向こうから寄ってまいります。わたくしには、それで足りますわ」
エレオノールは、しばらく杯の中の赤を見つめていた。
つまり、こういうことだ。
鐘の下に立つのは、被告ただ一人。被告が答えられるかぎり、訴えた側は一度も鐘の下に立たない。被害を訴える者を嘘つき扱いしてはならない、という古い決まりだ。
あの晩、わたくしが鐘の下で問われれば、答えは「はい」しかなかった。問いは「毒を盛ったか」で、吐き薬も毒のうちだ。はいか、いいえしか許されない鐘の下に、吐き薬でしたと言い添える隙はない。イヴェットの拵えたベラドンナは、誰にも疑われないまま、わたくしの罪に積み上げられていただろう。
だから、わたくしは忘れた。
答えられない被告になって、イヴェットを鐘の下に引きずり出すために。
何もかも書き置いておけば、わたくしは迷わずに済んだはずだ。それをしなかったのは、書いたものは盗み見られ、知っている顔は見抜かれるからだろう。イヴェットは、わたくしの顔を確かめに来た。あのとき、わたくしが何かひとつでも知っていたら、あの娘は今朝、目薬を差さずに広間へ来たに違いない。
空っぽの女だったから、嘘をつく者は安心して寄ってきた。
そして、空っぽになった自分が、7日のあいだに勝手に正しい問いを見つけ出すと、何の疑いもなく信じて。
戻らないと分かっている自分を、丸ごと賭け金にして。
「……お父様は、止めなかったのですね」
「止めて聞く娘ではなかった」
「ええ」
エレオノールは、笑った。
「それは、なんとなく分かりますわ」
父は、黙って自分の杯を持ち上げた。こちらに向けたのか、もういない娘に向けたのかは、言わない。
エレオノールも、自分の杯を上げる。
◇
部屋に戻ると、暖炉に火が入っていた。
ジャンヌが寝台を整えながら、おずおずと振り返る。
「お嬢様。明日の朝のお茶は、熱めと、ぬるめと、どちらにいたしましょう」
「どちらが好みだったの? 前のわたくしは」
「……熱すぎるとおっしゃって、カップを下げさせるのがお好みでした」
「そう」
エレオノールは、隠しから小瓶を取り出した。
空のガラス瓶が、暖炉の火を映して赤く光る。
愛してもいない婚約者にまとわりつく女が気に入らず、その杯に吐き薬を落として、殿下の前で恥をかかせようとした。恥をかかされた女が毒をでっち上げると、自分の記憶をすっかり捨てて、相手を鐘の下に立たせた。そうして、すべてを忘れた自分に、あとを丸ごと任せたのだ。
「わたくし、ずいぶん性格の悪い女でしたのね」
「……はい」
ジャンヌが、正直に頷いた。
エレオノールは、瓶を暖炉に投げ込んだ。ガラスの割れる小さな音がして、炎がひときわ高く揺れる。
「気に入りましたわ」
「お嬢様?」
「お茶は熱めになさい。下げさせるかどうかは、飲んでから決めるわ」
ジャンヌは目を丸くして、それから、諦めたように深々と頭を下げた。
「……やっぱり、お嬢様はお嬢様でございます」
「あら。覚えておりませんわ」
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