最終章:巴波川の月
慶長元年(一五九六年)
戦国の世は終わろうとしていた。
豊臣秀吉が天下を治め、諸国の戦は嘘のように静まり返っている。
かつて幾万もの兵が行き交った下野の道にも、今は商人たちの荷車が行き交うばかりであった。
その日の夕暮れ。
巴波川のほとりに建つ皆川広照の屋敷を、一人の客が訪れていた。
佐野房綱である。
かつて天徳寺宝衍と呼ばれた男。
門前で待っていた広照が苦笑する。
「珍しいな」
「何がだ」
「お前の方から来るとは思わなかった」
房綱は鼻を鳴らした。
「近くまで来たついでだ」
「相変わらず素直ではない」
二人は顔を見合わせて笑った。
若い頃なら考えられない光景だった。
かつては互いの首を狙った男たちである。
しかし今は違った。
歳月が人を変える。乱世は終わったのだ。
奥の座敷では、すでに結城晴朝が酒を飲んでいた。
「遅いぞ」
晴朝が笑う。
「主役は最後に現れるものだ」
房綱が答えた。
「誰が主役だ」
「お前だろう」
広照が酒を注ぎ、三人は顔を見合わせた。
そして同時に吹き出した。
しばらく笑いが止まらなかった。
戦国を生き抜いた男たちとは思えぬほど、穏やかな時間が流れていく。
夜が更ける。
酒も進む。
話題は自然と昔話になった。
「宿河原を覚えているか」
晴朝が言った。
房綱の表情が少しだけ曇る。
広照も黙った。
「忘れられるものか」
房綱が静かに言う。
「宗綱が死んだ日だ」
沈黙が落ちる。
部屋の外からは虫の声が聞こえる。
広照は盃を置いた。
「済まなかった」
房綱が顔を上げる。
「今さらか」
「今さらだ」
広照は自嘲気味に笑った。
「もっと早く言うべきだったのかもしれん」
房綱はしばらく黙っていた。やがて酒をぐっと飲み干した。
「……分からん」
「何がだ」
「お前を許したのか、許していないのか、自分でも分からんのだ」
広照は苦笑する。
「それでいい」
房綱も小さく笑った。
「そうだな」
二人にしか分からない答えだった。
晴朝は黙って酒を飲んでいた。
それで十分だった。
やがて月が昇った。
三人は縁側へ出た。
巴波川の水面が月光を映している。
静かな流れだった。
まるで、あの激しい戦乱の時代など知らぬかのように。
晴朝が呟く。
「不思議なものだな」
「何がだ」
房綱が尋ねる。
「若い頃は、この二人が並んで酒を飲む姿など想像もしなかった」
広照が笑った。
「俺もだ」
「私もだ」
三人はしばらく川を眺めた。
風が吹き、稲の香りが運ばれてくる。
豊かな土地だった。
彼らが守ろうとした土地、奪い合った土地、そして、共に生き残った土地。
「我らは勝ったのだろうか」
房綱の呟きに、晴朝が笑った。
「勝ったさ」
広照も盃を掲げる。
「生き残った」
三人はしばらく月を見上げた。
それ以上の答えは、誰にも要らなかった。
月が高く昇る。
三人の影が縁側に長く伸びていた。
狐、狼、そして二人を繋いだ男。
彼らが若き日に交わした刃も憎しみも、今は遠い過去の幻のようである。
だが、あの戦乱の日々があったからこそ、今夜のこの静けさがある。
房綱は月を見上げた。
ふと、亡き兄・昌綱と宗綱の顔が浮かぶ。
広照もまた、戦場で失った多くの家臣たちを思い出していた。
晴朝は静かに微笑んでいる。
誰も言葉にしなかった。だが、心は同じだった。
――生きていてよかった。
巴波川は流れる。
昨日も、今日も、そして明日も。
乱世を越えた男たちの誇りを、その水面に映しながら。
(完)




